ハタネズミ(マスクラット)の外科手術
動物たちの怪我をしたときの処置が、どこまで純粋な本能によるものなのか、そうではないのか。わたしにはわからないし、誰も教えてはくれない。人間の子どもが自分の手の傷に口を当てたり吸いついて患部を消毒するのも、純粋な本能からくるものなのか。それとも誰かがそうしているのを見てのことなのか、あるいはこれまでにも傷を口でぬぐったことがあって、母親が近くにいないときには、いつも無意識にそうしているのか。
多くの動物の母親は、小さな子を口でたくさんなめる。これは愛撫なのか、それとも子を産んだとき母親は、その辺をうろつく鼻の効く動物に襲われないよう、胎膜をきれいに食べ子どもをなめつくすが、その以来の衛生上のやり方なのか。子どもは優しい舌の感触を覚えていて、自分の傷口をなめるのは、そのときの記憶であり真似なのだろうか。記憶と真似ごとの二つは、ごく初期の教育の基本にあるものだ。この説明はもちろん、足の切断には当てはまらないが、外科的処置や治療はここにとどまらない。
わたしがまだ野蛮で、罠を仕掛けることに喜びを感じていた子どもの頃、追いかけて捕まえたいというのと、ちょっとしたこづかい稼ぎとの両方で、トラバサミでマスクラット(ミズハタネズミ亜科)を捕えたことがあった。罠を水の中深く沈ませて、獲物を溺れさせたのだ。これはインディアンの友だちのナッティ・ディングルに教えてもらったことで、わたしは彼の足元にすわって、森のことをたくさん学んだし、また彼は生皮を保存するやり方も知っていた。罠に捕らえられた動物は、からだをよじって自分の歯で足を噛み切ることがよくあり、そうやって逃げて、罠に足先を残していく。これは議論の余地なく、毛皮族ではよくあること。他の人の罠ですでに痛手を負った動物が、わたしの罠のせいで溺れてしまったことを思い出すと、悲しくなる。
よく覚えているのは、自分の罠の近くで大きなマスクラットを狩ろうとしていたときのことだ。わたしはそのマスクラットの奇妙なところに気づいて、足をとめた。罠は川の浅いところに仕掛けられていて、そこはマスクラットが水から上がって草地に入る通り道だった。罠のすぐ上のところに茎を伸ばしたカブがあって、マスクラットの注意を引いた。カブは、その下にある命取りの罠に足を置こうとした彼に、期待をもたさせたようだ。ところがマスクラットは、以前にそこで罠にかかったとでもいうように、罠に足を下ろすのを避けた。先人のとった道をとらずに、罠の背後の別の地点から出てきた。わたしは、そのマスクラットの両前脚が切断されているのを目にして、ゾッとした。おそらく2回にわたって人間の罠に捕らえらたのだ。流れから出ると、彼はクマかサルのように後ろ足で立って草地の中に入っていった。地面につこうにも前脚はないのだから。マスクラットは注意深く罠の脇の茂みを登り、先っぽのない切り株のような前足2本で、カブを引き寄せて、その場で食べた。そして流れの中に戻っていった。夕暮れの中、びっくりして見ていた少年のわたしは、自分の仕掛けた罠のことはすっかり忘れていた。
その話はもう過去のもの、罠をつかったあの夜以来、二度とやらなくなった。そして罠にはまったかわいそうな足を、棒を突っ込んで救うことなしに、罠のそばを通り過ぎることができなくなった。
と、話が脱線してしまったが、動物の外科手術、中でもマスクラットのことを話そうとしていたのだった。このマスクラットも誰かの罠にはまって、数日前に自分の足を噛み切ったところだった。傷口はまだ癒えていなかった。驚いたことに、彼は傷口をネバネバした樹脂のようなもので覆っていたのだ。おそらく地面近くの届くところにある、松の木の皮を削ったかはいだかしたのだろう。彼はそれを傷口とその上の部分を覆うようにこってりと塗り、泥はもちろん、空気や水にも触れないようにしていた。
バンクーバー島に住んで狩りをしている年老いたインディアンの男がわたしに語ったところによれば、彼も罠から逃げようとして足を切断したビーバーを何度も捕まえているとのこと。その中の2匹は、マスクラットと同じように、傷口をヤニで分厚く覆っていたらしい。その同じインディアンの男が、去年の春、落とし穴でクマを捕えた。そのクマの脇腹には、他のクマに襲われたときの大きな裂け目があって、傷口がトウヒの樹脂で厚く覆われていたという。この話はわたしの経験と一致する。何年か前に、わたしはニューブランズウィック州の北部で、大きなクマを撃った。クマは銃弾を受け、弾は足を貫通した。クマは泥で傷口を埋め、流れる血をとめた。そして岸辺にあるドロドロの土を開いた傷口に塗って覆った。ハエを患部に寄せつけないのと、傷が癒えるまで何も触れないようにするためだ。ここで注目に値するのは、マスクラットが泥や土を避けているように見えるのに対して(水で素早く洗い流すなど)、クマは無頓着にヤニでも泥でもつかっていることだ。
わたしが見たり、信頼できる猟師から聞いたことの中には、動物には生まれもった本能以上のものがあることがわかる。鳥に目を向ければ、そういった出来事は少ないものの、より目立った事象もある。鳥の場合、寿命が短いことで、動物以上に本能に頼ることになる。母親から教えを受けることも少なく、環境に合わせて習慣を変えるのも遅い。
これはもちろん、一般的なものいいであって、限りない例外がある。アトリはイギリスからオーストラリアに輸入されると、巣作りのやり方を大きく変え、両親とはまったく違う方法で巣をつくっている。ニューイングランドのゴシキヒワは、自分の巣に置き去られたコウウチョウの卵を覆うため、巣の底を細工する*。人間の居住地のそばにいるライチョウは、森にいる仲間のライチョウと比べて、興奮しやすく敏感だ。町のツバメは、木の洞や生地の森の土手ではなく、人家の煙突や納屋を住処にしている。これらの鳥たちは、いかに素早く本能を修正し、先祖のまったく知らない知恵を学んでいることを示している。とはいっても、動物と比べれば、鳥たちの本能がおおむね鋭いというのは本当だと思う。次にあげる例は、個々の鳥たちの発見や日々の鍛錬が、本能を超えるものであることを強く示している。
*コウウチョウはゴシキヒワの巣に産んだ卵を置いていくことがある(托卵)。ヒナがかえることはあっても、3日以上生き続けることはあまりない。ゴシキヒワの子のように、餌が種だけでは生きられないからだ。コウウチョウは200種以上の他の鳥(ハミングバードなど)の巣に卵を置いていくのが観察されている。特に巣がカップ型の場合に多く見られる。卵を置かれた鳥は、自分の巣から放り出すこともする。(All Aobut Birds、英語版Wikipedia他)