野生動物が死を迎えるとき
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クマ
動物たちはどのように死ぬのだろう。彼らのほとんどは、あのワシが自らの自由の地で死んだように、小さなモリムシクイが愛した泉のそばで最後を迎えたように、静かに、平穏に、生涯を終える。この二つは、特別な例ではなく、森で絶え間なく起きている動物の典型的な死に方である。ただ一つの例外は、詮索好きな人間の目に捉えられたということ。多くの場合、見られることなく、愛する孤独の中で密かに死んでいく。仲間や敵の目から逃れ、木の葉におおわれて。
そのような死のときを、わたしたちが目にすることはない。野生動物は本能的に、できる限り目に触れられない奥地へと逃れるからだ。タカに捉えられたウズラ、ネコやイタチの手にかかったリスのように、例外的にその死を目をすることはある。しかし多くの動物たちは、場所を選んで最後のときを過ごす。眠るように穏やかに静かに身を横たえ、人の目を逃れて死ぬ。
このことを説明する興味深い特徴が動物にはある。それはまた、動物の死に対して、人間が悲劇的とか暴力的と捉えてしまう馬鹿げた理由とも関係する。動物や鳥は、自分たちの仲間の中の奇妙な(普通と違う)存在を嫌うところがある。例外はあるものの、一般に動物や鳥は自分の仲間で不具や奇形、病気の者の存在に耐えられない。そのような者は攻撃して、追い立てる。そのため動物が年をとり弱くなると、自分が変わりつつあることに気づき、仲間から逃れようとする。生涯にわたる身を守る法則に従い、それが死であることも知らず、不快さを逃れて、最後のときを隠れた場所で過ごす。
長いこと、野生動物、飼育動物の両方で死の場面を見てきて、どうしてだろうと思ってきたことだ。ときに、ある夏にわたしが見つけた年老いたクマのように、何も気づかずに死を迎えることもある。そのクマは木の根っこの下で、いつものように冬眠をしていた。しかし雪が溶けて、春の日差しが陽気に降り注いでも、起き上がることがなかった。これは怪我を負ったカモに見られるものと同じ賢さゆえのことかもしれない。カモは敵の目から身を隠せると考えて、水に飛び込み、水中の木の根っこにしがみつくようにして、そこで死ぬ。かすかな未知の本能に呼ばれて、見知らぬ場所へと導かれていくこともある。カリブーの多くが、はるか彼方にある未知の場所におもむき、先祖代々そうしてきたように、カラマツが優しく揺れる枝の下に横になり、どうしてこんなに眠いのか、なんで苔も水ももう欲しくないのかと思うのと同じだ。どこかに逃れたいという、やみくもな衝動に誘われて、一斉に海に向かって飛び立つときのように、鳥たちがもうこれ以上飛べないところまで行くこともある。そして疲れた羽をたたみ、波が押し寄せる岸辺で眠りにつく。
「わたしの出会ったあるクマの話」(『母なる自然』より)
春のある日、わたしは大きな森の中を歩いていて、クマのねぐらを見つけた。そこは二つの岩が身を寄せ合い、その隙間が出入口となっていた。クマは雪が中に入らないよう、入り口を葉っぱや常緑樹の枝で埋めていた。わたしは何年もの間、このようなクマのねぐらを探しつづけていた。そしてあるとき、木こりたちが冬眠中の1頭のクマを追いたてたとき、わたしは3日間かけて、そのクマの跡を野営しながら追った。クマが越冬する場所を見たかったのだ。
追っている間、一度として彼の姿を見なかったし、近づくこともなかった。クマはなかなかの達者な旅人だった。追われていることに気づいていたようで、起伏の激しい山間部をあちらへこちらへとわたしを引き回し、こちらは息を切らして追いかけるはめになった。そうこうするうちに雪が降ってきた。降る雪が足跡を消してくれるだろうと、クマは身を隠すのに適した場所へとまっすぐ向かった。
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この場所こそが、ついにわたしが見つけたクマのねぐらだった。見たところ、クマはねぐらの中にいるようだった。入り口は葉っぱや木の枝で埋めつくされており、クマが中に入ってからおおったものと思われる。わたしは銃をもたずに、注意深く近づき、どうやって起こすのがいいか考えた。その2、3週間前から、この辺のクマたちはみんな、森を歩きまわっていた。
わたしはねぐらの入り口を開けて、太陽の光を入れた。そこにクマのムーウィーン(インディアンのクマの呼び名)は寝ていた。静かに、穏やかに。でも開いた目は太陽の光に反応しなかった。冬の嵐の晩にうたた寝して夢でもみているみたいに、からだを丸めていた。普通ならアメリカコガラが甘い声でパートナーを誘い、「春が来たよ、春が来たよ」と森じゅうに鳴き声を響かせるまでそうしているのだ。その声を聞くと、クマは起き上がり、泉や小川のそばに芽を出している柔らかな草を食べに出ていく。
この年老いたクマは死んでいた。多くの鳥や動物は、老人が愛用の椅子にすわって居眠りするように、自分の選んだ場所で最後を迎える。そのようなとき、森の仲間たちを見ていて気づくのは、自分を呼ぶ最後の声を耳にしたとき、彼らは痛みや不安を見せないことだ。あらゆる恐怖をなくしており、人間さえ恐れない。動物や鳥の死をいくつもそばで見とどけてきたが、「闇からの母」は穏やかに、恐怖や不安を与えることなく彼らの命をとめる。
動物たちはわたしがそばにすわり、からだを撫でることを許してくれた。鳥たちはわたしが差し出した手の上に静かにすわり、不安げな様子を見せずそこで休む。大きく目を見ひらき、不思議そうな眼差しをわたしに向け、元いた枝の上に返してやるまでそうしていた。