ウィリアム・J・ロング著『森の中の学校』より 訳:だいこくかずえ

Photo by Johan J.Ingles-Le Nobel(CC BY-ND 2.0)

野生動物が死を迎えるとき

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動物の死、人間の死

ある日あなたは飼っているカナリアが、長年暮らしてきた鳥かごの中で、羽をバタバタさせているのを見る。あなたがちょっと賢ければ、自分との関係よりずっと強力ないずこからの誘い、彼らを呼んでいる声に従って、カゴの扉を開けてやるだろう。こちらへおいでという、昔々の先祖からの呼び声だ。次の日、カナリアは鳥かごの中で死んでいる。その後には、カゴの中の生涯よりさらに野生から外れた、人間による埋葬しか残されていない。

 

「でも」と読者は言うかもしれない。「悲劇や災難に襲われることもあるのでは」と。もし自分の目で確かめるより想像力に頼るなら、そういう疑問もありだろう。しかしそれはあったとしても、人間による厄災と比べればずっと稀だ。そして多くの人間が地震や飢餓で死ぬのではなく、穏やかに自分の寝床で死ぬのであり、野生動物の多くも静かに自分の選んだ場所で死ぬ。人間がそこに踏み込み、自然の秩序に関わらないかぎり、あるいはひなやその母を殺さないかぎり、自然は悲劇とは無縁だ。ヤマウズラはフクロウの手にかかる。ヤマウズラにとってそれは悪いことだ。しかし死ぬのはいつも弱く愚かな者で、仲間に従うことを学ばない者だ。一方、どこかの木のてっぺんでは、フクロウのヒナが2羽、賢い母親によって、おいしい夕飯が運ばれるのを待っている。

 

人間と同様、自然の法則も、計り知れない気づかいと狡猾さで、そこに依存して生きる無力なひなを抱く母鳥を守る。キツネが近くを通り過ぎても、そのようなとき臭いで気づかれることはない。しかし母鳥が餌食になっても、(ここでも我々人間は想像に走るが)人間がかわいそうにと同情するように、ひなたちが飢えで死ぬことはない。ひなたちは夕ごはんをくれと鳴く。近くにその声を抑える母鳥はいない。弱い生きものにとって、静かにすることが森の法則だと告げる母鳥はいない。ひなたちは何度も鳴く。カラスかイタチがこれを聞きつけ、一巻の終わりとなる。先延ばしになることも、飢えを味わうこともない。これが森で起きることだ。

 

たしかに、暴力的な死というものもある。しかし通常、多くは苦痛の少ない、慈悲深いものだ。シカが泉に降りていき、通り道の上からヒョウが見ている。わたしたち人間は恐ろしい死を想像するし、画家はそれを苦しみの色で描写する。実際はおそらく痛みというものはない。ライオンの手にかかったリヴィングストン*は、肩を押しつぶされ、腕の傷は墓場まで持ち込まれるほどだったが、襲われたとき痛みを感じることはなく、自分が傷つけられたことすら気づかなかった。リヴィングストンは、ライオンのような動物による急襲は、ありがたくも無感覚をもたらし、痛みを完璧に殺す、という事実に注意を向けさせた最初の人物である。そこでは同時に、すべての自意識も奪い去られる。そのため襲われた者は、静かに横たわることを受け入れる。逃れようとしたところで、それ以外のことは望めない。これが人間の真実なら、神経や想像力の点で劣る動物は、その10倍はそちらに転ぶ。

*リヴィングストン:デイヴィッド・リヴィングストン。19世紀スコットランドの探検家。ヨーロッパ人として初めて、アフリカ大陸を横断した。1840~1856年のアフリカ滞在につづき、3回に渡ってアフリカを探検し、現地にて死亡。1813~1873年。

 

苦痛のない結末を示す同様の例は、他にもたくさんある。攻撃を受けたり、後退を余儀なくされた兵士は致命傷を負いながら、1時間後に気を失って倒れるまで、そのことに気づかずにいることがある。ネコの手にかかったネズミやヘビに捉えられたヒキガエルを見た人は、襲われた動物が苦痛や死の兆しを感じていないことを知っている。わたしはもっと大きな動物(ウサギやライチョウやシカなど)が襲われたとき、横になってそれを受け入れるのを見て、自然の慈悲深さを不思議に思った。死は厳しいものではなく、むしろ優しく、ぼんやりとした非現実的なものにおおわれている。それがあらゆる現実のもつ意味を隠し、当の生きものは、何が起きているのか不思議に思うだけである。

 

ときに動物は寒さから死ぬことがある。寒さ厳しい朝、フクロウとかカラスとか小さな鳥たちが一羽ずつ、木の枝にかぎ爪を引っ掛けて吊り下がり、凍って死んでいるのを見つけることがある。これもまた慈悲深く、痛みのない命の終わりだ。わたしは冬に森で道に迷ったことがある。日が落ちて森を静寂がつつみ、自分の筋力が働かなくなったとき、こちらへおいでと招き寄せる柔らかな雪がわたしを抱きとめ、わたしは寒さによる心地よい気だるさに襲われた。死期が近づいたときの優しさである。

 

また動物は飢えで死ぬこともある。吹雪や氷雨が餌場の草原をおおいつくしたときだ。食料なしで何日も過ごしたことのある人なら知っているように、それもまたどんな病気よりも慈悲深いものだ。苦しみが来るずっと前に、眠気や倦怠感があらゆる感覚を麻痺させる。ときに火事や洪水に見舞われることはあるが、その場合、動物は自分の脚や翼の力を知っているので、最後の最後まで逃げ切ろうとする。こうやって逃げた者たちは、安全なところまで来ると身を寄せ合い、災害への恨みなど忘れ、ただただ起きたことに驚くだけである。つまり動物は常に生きようとしており、数の増加によって支障や危険が出ないかぎり、自然は寛容なものであり、厳しく振る舞った場合でも、その死は苦しみや恐怖のないものとして、すべての生きものに授けられる。動物にとっての真実とは、人間が病気を耐え難いものにする多くの発明を探し求めたり、死に敵対するまでは、人間の真実でもあった。

 

人間の死について覚えておいてほしいのは、数限りないバリエーションがあり、それは森の法則とは違うということ。ほとんどの野生動物は、そのときが来ると、静かにそこを立ち去る。彼らの死が記録されることはない。それは人間は例外的なことばかりに目を向けるからだ。人間は奇跡を欲しがるが、日没を見逃す。何かが生きものを日々の暮らしから呼び出す。年齢あるいは病気が、これまで感じたことのないやり方で、優しく呼びかける。自分の種の昔からの警告本能に従い、こっそりそこを抜け出して、再び状態がよくなるまで誰にも見つからない場所に向かう。小川は海に向かって流れ歌う。小さな風が小石をゆらし、そこを通る水がチリンチリンと音をたてる。風は松林で低い声で歌う。それは遠い昔の甘く優しい子守歌、この世に生まれて最初に聞くハーモニーだ。影は長くのび、夕闇が深くなる。あなたはうとうとしはじめ、眠りに落ちる。そして最後に思うのは、死んでいくことに気づいていないので、次の朝には明るい光で目をさますだろうということだけだ。

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