Evelyn  Glennie

エヴェリン・グレニー パーカッショニスト

スコットランド出身のソロ・パーカッショニスト。リサイタルの他、オーケストラとの共演や鼓童、ビョークといった多種多様なジャンルの音楽家とのコラボレーションで知られる。8歳で聴覚障害を起こし、12歳でほぼ聴覚を失う。Bio →

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ブルース・ダフィー*インタビュー・シリーズ(2)

●クラシックの変わり種、マイナー楽器の奏者たち●

This project is created by courtesy of Bruce Duffle.

<1994年2月21日、シカゴにて>

 

世界のあらゆるところに存在するたくさんの演奏家たち、その中には有能な人々、真に素晴らしい才能を見せる者、そしてごくまれにずば抜けて優れた演奏家がいます。エヴェリン・グレニーは芸術性の高さとともに演奏の独自性によって、そのごくまれな演奏家に属するトップ・プレイヤーです。

 

彼女はパーカッションという分野において、独自の道を築き、それを発展させ、彼女が登場するまでなかったような特別なものを形成しました。(彼女のこれまでの歩みや演奏スケジュールについてはこちらをご覧ください。www.evelyn.co.uk

 

グレニーは世界中で、ソロでもアンサンブルでも演奏しています。それは1994年2月のことで、ツアーでシカゴにやって来た彼女と40分間話すという幸運を手にしました。話しているのを聞いて、彼女がろう者であると思う人はいないでしょう。わたしは口まわりのヒゲを綺麗に整え、彼女の方に顔を向けて、はっきりと言葉を言うように心がけました。彼女は正確にわたしの口の動きを読み取り、わたしの質問に思慮深くウィットを織り交ぜて答えてくれました。

 

以下はその日の午後に話されたことの一部始終です。

(2008年、ブルース・ダフィー)

 

 

ブルース・ダフィー(以下BD):旅する音楽家であることの喜びと悲しみを教えてください。

 

エヴェリン・グレニー(以下EG):(笑) そうね、自分がおもちゃの笛の奏者だったらなあ、って思うことがあるわね! 実際のところ、すごい量の、半トンくらいの楽器や装備をもって移動しなきゃならないわけ。楽器を選別するのが、もう大変で大変で。たとえば、東京にマリンバを1台、アメリカに1台、そして3台を家(イギリス)に置いていて、それをヨーロッパでは持ち歩くことになる。基本的にすべての楽器を持ち込もうとしていて、それで同じ演奏が可能になるわけ。

 

BD:あなたはピアノ奏者みたいですね、各国にピアノを置いているような。

 

EG:そうね、そんな風だわね。でもね、自分のよく知る楽器で演奏することは、わたしにとってとても重要なの。それが何よりも気持ちよく演奏できる方法。それに多くの楽曲はわたしのために、わたし自身の楽器のために書かれたもので、だから自分の楽器を使う必要があったりもするの! だけどそれがわたしにとっては一番なわけ。

 

BD:マリンバや木琴、その他のパーカッション類は、標準化されていないのでしょうか。

 

EG:すごくたくさんのバリエーションがあるわね、実際。大きさも違えば、感触も違う、使われている素材も違うし、高さだって違う、そんな風ね。その楽器を知るのにちょっとした時間がかかってしまう。自分の楽器を演奏する素晴らしさは、その楽器がどんな風にしゃべるか、よくわかってるってこと。どんな風に調律したいかわかってるし、それはコンサートのとき、とても大事なことなの。たとえば複数の打楽器セットでやる場合、それぞれの楽器を楽曲に合わせて調律しようとするけど、使ったことのない楽器の場合、それはできない相談ね。自分の追い求める音高、あるいは音色や響きといったものが得られない、ということになる。考慮に入れておきたい、微妙なことがたくさんあるわけで。

 

BD:あなたは自分で調律するんでしょうか、それとも他に調律や調整を手伝う人がいるのか。

 

EG:(笑) そうね、確かにパーカッションの調律師はいるし、彼らは楽器のセッティングや楽器の面倒をみてくれる。以前には楽器の調律をやる組織があって、わたしの好みどおりに調律してくれていた。だけど1日の終わりに自分で調律するのが好きなの。自分の楽器に帰って来たって思える。楽器をよく調べて、未知の可能性を見つけようとするわけ。誰かにやってもらって使うだけというのではなくてね。どんな音が可能か、あれこれ試したいの。

 

BD:聴覚に障害があって、どうやって微妙な音色や音高の違いを区別するんでしょう。

 

EG:いい質問ね。このことのために、わたしは自分の楽器をたくさん探索することになったわね。たとえばタムタムが一つあるとして、まずヘッド*を完全に取り外すの。それからそれをまた置いて、すごく緩い状態から調整を始めるの。少しずつ少しずつそれをやっていって、どんな感じか知るのに時間を費やすわけ。そういう経験を積み重ねていく。でも自分が狙っている音がどんなかは、いつもわかってる。鳴り響くような音か、鈍い沈んだ音か、明るい音なのか、短くて鋭い音なのか、なんであれね。そういうちょっとした違い、そしてその微妙さをよく知るために、ドラムを通して自分で体験していくの。楽器とどう付き合うのかとか、倍音やハーモニーは聞こえるのか、と言う人は確かにいるわね。でもわたしは自分でやるのが好きなわけ。

*ヘッド:ドラムの上面(ときに下面にも)張られた打面の膜。

 

BD:たくさんの違う楽器にそうやって慣れ親しむことで、それぞれの特徴を頭に入れておくんでしょうか?

 

EG:そうね、それは確かにね、その通り。とはいえ演奏するホールによって、楽器を調律する必要があったり、スティックを変えたり、ホールの響き方をみて調整もするけど。こういうことは常にやってるわね。だからホールを歩きまわってその場所の特徴がよおくわかるまでは、楽器をどうするか実際のところわからないわけ。

 

たとえばオーケストラと協奏曲をやる場合はとても重要なの。オーケストラのリハーサルに参加するのはとても大事、オーケストラが自分たちのためにやるリハーサルね。そこからわたしは音響的なアイディアを得ることができるし、全体がどう機能するかもわかる。

 

BD:そこであなたは聞いているのか、それとも感じているのか。

 

EG:その両方ね。そのどちらか一方ではないわね。ホールの大きさによるし、わたしがどれくらい演奏家たちの近くにいるかにもよる。いろんなことと関係してくるから、これかあれのどっちかとは言いたくないわね。あなたがしてるのと同じように、わたしも経験しながらやってる。

 

BD:でもその多くは、触って感知することでしょう。

 

EG:そうよ、その通り。それを分析はできないけど。本当に分析はできないの。わかったことに従うわけで、どうやってわかったかについては考えないからね。もしそれを見つけたら、すごいことよ。ホールに合わせる方法がわかるからね。

 

BD:聴衆によっても変わるんでしょうか。

 

EG:そうね、確かに。リハーサルして、それから本番をやる場合の問題になると思う。突如としてホールの音響が変わってしまうわけだから。リハーサルの間にそれを探っておく必要があるし、基本的には他の演奏家たちに聞くわね。こんな風によ。「このホールは人がいっぱい入ったら(半分入ったらとか)、どんな感じ?」ってね。だからそのコンサートにどれくらいの人が来るか知ろうとする。それをヒントにするわけ。だけどこんな風に言われたら、「この席に座ったら、金管楽器がよく聞こえるよ」とか「この席は弦楽器がよく届くね」なんて言われたら、難しいことになる。自分が感じるように演奏してみるしかない。

 

BD:あなたの演奏は聴覚と同様、触覚に訴えるものだから、聴衆にただ耳で聞くだけでなく、それ以上の体験をしてもらおうとするのでしょうか。

 

EG:まあ、そうね。基本的に、わたしはその場、そのときに感じたように演奏する。だから、そうね、わたしはかなり直感的な演奏家だと思うけど、それは何が起きるかわからないままに、歩んでいくっていう意味で、演奏するときには完全な自由を手にしたいからよ。自分のリハーサルでやったことを、舞台で再現することは滅多にないわね。うまくいくこともあるし、ダメな時もあるけど。(両者、笑) でもこれはパフォーマンスを決定づけるもので、ドラマにもなれば、危険な体験にもなり得ることなの。

So, I suppose, I’m a fairly instinctive player, but by that I mean I just literally walk on, not knowing what’s going to happen, and that I just like to have complete freedom over the interpretation.

だけどそれはある意味、演奏に開放感を与えるわけで。もちろん準備はするけど、本番では練習と違う風に演奏したいと思ってる。そうすると何が起きるか、わからずに演奏するってことになるわけ。こういう開かれた演奏を聴衆に対して見せようとしてるわね。よくよくわかっているパフォーマンスを見せるんじゃなくてね。だからわたしは心からの演奏をしてるし、今そこで生まれたみたいに感じてもらえることをしようとしてる。充分に準備して、自分がその前の数週間練習してきたことを見せる、っていうんじゃなくてね。それを説明するのは難しいけど、うまく言えないけど。

 

BD:こういう自由さは、仲間の演奏家に恐怖を与えませんか。

 

EG:(笑) あー、それはわからない! ピアニストと一緒にやる場合なら、1986年からずっとやってるから、互いをよく知ってる。だからそのピアニストが、演奏中にどこかに外れていっても、大丈夫。彼についていくわね。それと同様に、もしわたしが突然、テンポを変えたり、雰囲気とか何かをガラッと変えたとしても、彼はちゃんとついてくるってわかってる。これって楽しみの一つだわね、実際。これが協奏曲となると、難しいことになるわね。50人とか80人の演奏家がそこにいるわけだから。わたしはちょっとばかり思慮深くなるべきでしょうね! (両者、笑)

 

だけどそうは言っても、同じオーケストラで同じ曲を3、4回やる場合は、彼らも違うやり方をやってみるのに賛成してくれるわね。それって素晴らしいことだと思う。一度ルールを作ったら、次はそれを破るだけってね!

 

BD:ははぁ、どこまでルールを破れるんでしょう?

 

EG:(笑) あのね、わたしは楽譜のある音楽の中に、即興をたくさん入れてるのね、こういう自由を持つべきだって思ってるの。どうしてかはわからないけど、それがわたしのやり方なの。基本的に楽譜を見て学ぶけど、楽器の前では消えていく。楽譜を記憶しただけじゃないの、楽譜を見て、それがどんな音楽かがわかるの。ひとたびビジュアル的に記憶したら、楽器のところに行って、演奏に関しての技術的なことは頭から追いやるの。それは音楽そのものをまず大事にしてるから。そして技術的な難所も心の中でうまく収める。こんな風にやれば、自分の考えるすべてのことが、いつも完璧ってことになる。すぐに肯定的な気持ちになって、楽器を手にすると、音や音色、効果について、どんな風に音楽を演奏したいか、どんな風に楽器に喋らせたいか、といった様々なことに、集中するの。

 

BD:そうやって完璧な演奏に達しました?

 

EG:いいえ、まったく、たった一度だけある曲でできたことはあるけどね。何の曲だったか覚えてないけど、ずっとずっと以前のことよ。その曲を演奏し終えたとき、わたしは静けさに包まれた。心の中に完璧な静けさがあったの。普通は曲を終えたら、ステージを歩いていくか、その場にとどまる、するとすごいスピードでわたしの心の中をその曲が駆け巡るの。わかるでしょうけど、たくさんのことが、ミスをしたところも含めて、一瞬のうちに通り抜けていく。

 

わたしは楽譜を間違う、もちろんそういうことが起きないよう精一杯の努力はしてるけどね。でも間違いっていうのは、わたしがやりたいと思ったようにできなかったとか、ある場所でそうしたいと思った効果が出せなかったとか、そういうことなの。それはわたしにとって、ミスになる。そのことを考え出すと、100回くらいまで行くわけ! 聴いている人たちのすべてが、そのミスに気づいたって感じて、もう最悪な気分になるの。夜になってベッドに入って、その曲を思い返して、一つ一つ曲の動きを追っていくでしょ、そのときがわたしにとって分析のときであり、次の演奏のために学ぶ機会なの。

 

BD:過剰なほどに分析する?

 

EG:そうね。こういうことをするから、いつも演奏を解放していたいと思うし、だからもしある曲を100回演奏したとしても、子どものような完璧な自由さで曲に取り組もうとするの。曲の解釈を故意に変えようとすることもある。それによって四角四面の演奏にならないとか、慣れきった演奏にしないとか。レパートリーの中には何回も演奏するものがあるんだけど、もしそれがピアノとの作品だったら、二人で猛烈に解釈を変えようとする。ピアニストとわたしの二人だけだから、それができる。

 

それに対して、協奏曲をやる場合は、指揮者によって自然に解釈は変わるし、オーケストラによっても変わる。それって素晴らしいこと。いつもそこには新しいアイディアとか、可能性が見える。いいと思えるときと、そうじゃないときがあるけど、それこそがその曲をさらに学ぶ機会になるの。

Double Crossings: Evelyn Glennie, Michael A. Levine (composer and producer), 2018

BD:指揮者とぶつかったことは?

 

EG:(笑) そうね、正直に言って、指揮者の人たちとは素晴らしい体験をしてきたと言えると思う。一度だけ難しいことがあったけど、それはその指揮者がその音楽に対して強い考えを持っていたからなの。わたしがそうであるのと同様にね! だからそのときは、互いに押したり引いたりの実験だった。だけど実際のところ、これまでに協演した指揮者たちは、オープンな人たちばかりで、それは彼らがパーカッション協奏曲をやったことがなくて、何もかもが彼らにとって新しかったから。だからわたしは彼らにその音楽を優しく伝える必要があった。彼らにとってよく知らない曲であり、わたしのために書かれたものであることもよくあったからね。で、わたしには作曲家と話す機会があったこと、曲が白紙の状態から立ち上がっていく道筋を見てきたことで、さらなる優位に立てたわけ。

 

BD:あなたの目の前で曲が出来上がっていくときに、作曲家が書く手助けすることはあるんでしょうか。

 

EG:作曲家とその音楽について、どんな曲にするか、実際上のことを最初に話し合うのはやりたいことだと思う。パーカッション奏者にとって、とても重要なことなの。その曲を何回も何回も演奏するかどうかに関わらずね。もしその曲が大量の楽器とか、普通のものではない楽器を必要とするなら、上演するのが難しくなるでしょ。わたしは一つの曲を何度も演奏するのが好きなの。自分のレパートリーに入れたいし、人々にその曲を紹介したいわけ。だからそれを伝えることはとても大事。

 

同時に作曲家は書いているときに、わたしにその一部を送ってきたりもするから、それにわたしはコメントをする。それが機能するか、正しい方向に進んでるか見たりね。作曲家の中には、いっさいコンタクトを取らないで、こもって半年とか1年とか書きたい人もいる。それで作品が出来上がって、その段階になって、わたしがコメントすることもある。だから人によるけど、普通は作曲家と連絡を取り合ってやるし、それがわたしは好き。

 

それから演奏を通じて、曲について学ぶ段階が起きてくる。だから今でも、たとえばジェイムズ・マクミランの『Veni, Veni Emmanuel』(これは1992年のパーカッション協奏曲だけど)でも、演奏するたびに、二人で何か新しいアイディアはないか考えている。たとえばジェイムズに「ねえ、違う楽器でやってみたらどうかな」って言ったりして、彼はその点でとてもオープンなの。もしそれがうまくいきそうだと彼が思えば、やってみるってことね。

 

BD:作曲家があなたのために曲を書いているとき、あなたに可能な楽器のすべて、あなたの技術のすべてを入れ込むことを強いられていると思います?

 

EG:(笑) いいえ、幸いにもそんなことはないわね。基本的にわたしは作曲家たちを、わたしのリハーサル・スタジオに呼ぶから、彼らはすべての楽器を見渡すことができる。重要なことだと思ってる。だけど実際的なことをたくさん彼らとは話すこともする。作曲家の中には限られた楽器だけ使う人もいる、ときに一つだけってこともね。これって素晴らしい、だって作曲家は自分がこうしたいってことを書くべきでしょう。基本的にわたしは作曲家と一緒に楽器に当たっていく。様々なテクニックについて、パーカッションのいろいろな記譜法を伝える。それは現在の状況は、楽器によっては標準的な記譜法があるけど、全部の楽器ではないからなの。そういういろんなことを通過して、作曲家はわたしの演奏スタイルを感じることができて、適切な方法で書くことができる。その時間はとても貴重なの、最初の打ち合わせね。彼らにたくさんのことを伝えることになる。

 

BD:スネアドラムで協奏曲をやるとき、もどかしい思いはしませんか?

 

EG:そう思う?!(笑) シンシナティでやるコンサートでは、二つの曲をやることになってて。最初の曲はイギリスの作曲家、ドミニク・マルドーニーのもので、彼はたくさんの楽器を使ってる。マリンバ、ビブラフォン、ブーバム、タムタム、シンバル、テンプル・ブロック、バスドラム、、、ああ、他に何があったかなあ。それ以外にいくつかアレコレあるの! その曲はとにかくたくさんの楽器がいるわけ。もう一つの曲は、まさにスネアドラム協奏曲で、アイスランドの作曲家、アスケル・マウッソンのもの。わたしの知る限り、唯一のスネアドラムの協奏曲だと思う。フルオーケストラの曲で、それに小さなスネアドラムという組み合わせ。10分程度の曲だけど、わたしのすごく好きな曲と言える。音楽としてすごいと言ってるんじゃないの。そういうものじゃないんだけど、とても効果的に書かれている。スネアドラムが音楽を奏でる楽器としてうまく使われているの。装飾的なテクニックとか、うまい仕掛けがあるってわけじゃない。そういうものじゃないの。率直で明快な曲なんだけど、すごく実直でいい演奏になるの。

 

BD:リズムの練習曲なんでしょうか?

 

EG:いいえ、幸いにもね! (笑) これは重要なポイントで、ここで取り上げるのにいいポイントだわね。パーカッションっていうのは決まりきってて、フレーズのことなど考えないって思われているでしょ。奇妙なことだけど、調律のないパーカッション、音高のないパーカッションの場合、楽譜を見るとフレーズの記号がほとんどないの。それがあるのは調律系のパーカッション。マリンバとかシロフォンとか、でもスネアドラムやティンパニー、マルチ・パーカッションにはない。なんでそうなのか、わたしにはわからないわけ! なんでそんな違いが生まれるのか、わからない。だって演奏者はいつもフレーズのことを考えてるわけだから。最初があって、真ん中があって、終わりがある、いつもね。

Strangely enough, when we find untuned percussion writing, unpitched percussion writing, you very seldom see phrase marks actually in the music.  You’ll find it for tuned percussion — marimba or xylophone — but never really for snare drum or timpani, or a multi set-up.

わたしがスネアドラムとかタンバリンを演奏するときは、いつも歌ってるの。曲がどっちに向かうかわかってるし、フレージングを強調する必要があるの。それは音高とかメロディーではない方法で、色彩のある楽器を鳴らしているわけだから。フレージングをつくるのは難しいけれど、でも演奏の中でそういった違う局面を感じることはとても重要。リズムのことばかり考えてるんじゃなくてね。だからアスケル・マウッソンは協奏曲でたいしたことをやってるって思うわけ。一つのアイディアの提出があって、テーマと言ってもいいわね、あるいはフレーズね、曲が進む中で、それが違う形で帰ってくるのを耳にする。それが曲に意味を与えるの。

セサミ・ストリートにエヴェリンが出演

BD:あなたは先ほど、指揮者の中には、パーカッション協奏曲をやったことない人がいると言ってました。交響曲ばかり聞いてきた聴衆が、突然のようにオーケストラの前面にパーカッションと演奏者であるあなたがいて、それが耳に鳴り響くということに、抵抗感を見せる人たちはいませんか?

 

EG:わたしが演奏してきた聴衆たちの多くは、とてもオープンな心を持っていたと言えるわね。まずコンサートに来る前に、プログラムを読んで知ってるわけで。彼らはそれを見て、何がシーズンに予定されているかわかるし、来るかどうか選ぶことができるでしょ。多くの人は興味をもって来てると思うんだけど。演奏される曲を聞いたことがなくて、視野を広げたいと思って来るのかもしれない。それと打楽器というのは、子どもの頃とかに一度は手にしたことがある、トライアングルとかタンバリンとかね。だからパーカッションは面白そうという感覚をみんなもってるし、それは素晴らしいことね。でもコンサートの最後には、音が面白いと思って欲しくなる。

 

「何を期待していいかわからないけど、行ってどんなものか見てこようじゃないの」っていうような感じね。あるいは聴衆はラジオで聞いたことがあるかもしれないし、テレビで演奏を見たことがあるかもしれない。で、「行って、実際に見てみたいものだわね」みたいに感じるかもしれない。

 

BD:ベートーヴェンの序曲やブラームスの交響曲を聞きたくてやって来るオーケストラの定期会員の人に、プログラムの中でグレニーが演奏するのを聴くに際して、何かアドバイスはある?

 

EG:ただただやって来て、心をオープンにして聴いてほしいわね! わたしの言えることはこれに尽きる。もし気に入ったら、素晴らしい。もし嫌いだったら、それもまた素晴らしい。こういうものを楽しむべきみたいな強制はしたくない。どう受けとめるかは聴く人次第だし、聴いてみるというのが、音楽というものだと思う。

 

パーカッションっていうのは、あるところで爆発がある。非常に速く展開するしね。本当に素晴らしい演奏者たちがいるし、私たちは作曲家にパーカッションのための曲を書きつづけるよう励ましてきたのね。びっくりすることだけど、わたしが学生だった頃、ロンドンの音楽学校の図書館には二つの(パーカッションの)協奏曲しかなかった。いま、わたしの自分のライブラリーには200を超える楽曲があるわけ! つまりパーカッションのための曲が増えてるってこと。いまも増えつづけているしね。

 

BD:作曲家にはどんなアドバイスをします?

 

EG:どうぞお願いだから、できるだけたくさんのパーカッションのコンサートをやってほしい。一つ一つがみんな違うものだからね。パーカッションはとても多様で、いろんな文化の中にある楽器で、器楽の中心だったりもするの。

 

BD:ガムランみたいに?

 

EG:ガムランもそうだし、日本や中国にもある。南米にもパーカッションはあるし、アフリカももちろんね。パーカッションがオーケストラで使われ、拡張されてきたのはヨーロッパだけで、だから素晴らしいパーカーション奏者がたくさんオーケストラにはいる。だけどソロとか室内楽のレパートリーをやる習慣があまりない。だからある意味、世界の音楽に触れて、そこにどんなものがあるか探索して、プレイヤーたちと交流する必要があるの。とても重要なことよ。大学を出ようとしている若い演奏家たちは、新しい技術を蓄えているのだから。彼らときたら、6本のスティックを操れる。わたしは4本で苦労してるっていうのにね。(笑) でも素晴らしいことよね。そういう流れの中に自分がいることは、とてもいい気分よ。

 

BD:あなたが作品を演奏してるとき、どんなときにもう一人必要だ、と言うことになるんでしょう。一人では間に合わないみたいな。

 

EG:たった一度だけあったけど、それはわたしが楽譜をちゃんと見ていなくて起きたことね。本当は二人の奏者のための曲だったんだけど、わたし一人でやっていた。一人用の曲だと思ってたから、もう必死になってやってたの。なんとかやり終えたけど、悪夢としか言いようがなかったわね。(笑) 2、3日経って、友だちの一人がメモ書きを送ってきて、「エヴェリン、あの曲は二人用のものだと思うよ」って。もうそれ聞いて、ひっくり返った。いいえ、ひっくり返ったというより、スコアを破ってやろうかと思ったわね。

 

他にもオルガンとパーカッションのための曲があって、イギリスの作曲家、クリストファー・ブラウンが書いたもので、いったいナニこれは、ってやつで、楽器がもうたくさんなんてもんじゃなかった。一人で死に物狂いになって演奏しようとして、ついに不可能だとわかった。実際上、無理だったわけ。それで他のプレイヤーに助けてもらうことにしたんだけど、その彼がこう言ったの。「エヴェリン、ここは4人の奏者がいないとできないよ」 それくらい猛烈だったの。二人の奏者がいても、駆けまわるような感じだった。基本的にわたしは、楽譜のページめくりに気をつかうようなことはないし、楽器から楽器への移行も平気。とにかく音楽に集中したいのね。だからこれは作曲家へのアドバイスになるかしらね。

 

BD:ちょっと大きな、哲学的な問題について聞かせてください。音楽の目的とはなんでしょう。

 

EG:そうね、いろいろ考えた上じゃないと、ちゃんとした答えは難しいけど、わたしの人生にとって現在の自分ということで言えば、音楽はわたしにとって、一つの言語だと感じてる。音楽を通じてコミュニケートできるといったね。音楽をやるのは、自分自身にとって大きな楽しみがあるのと同様、1000人、2000人といったたくさんの人に対してやることで、楽しみを感じてる。それと音楽における美しさというのは、人と人の間にコミュニケーションをもたらすことだと思う。どんな肌の色であろうと、金持ちでも貧乏でも、黒でも白でも、どこから来たかに関わらず、なんであれ問題なし。パーカッションで特に素晴らしいのは、階級の壁ってものがないこと。

And I think that the beauty of music is the communication between people.  It doesn’t matter what color they are, whether they’re rich or poor, black or white, where they’re from — it doesn’t matter.  The wonderful thing about percussion, especially, is that there are no class barriers.

パーカッションが世界中で演奏されていることは、重要な点ね。そして本当に素晴らしいパーカション奏者の中に、アマチュアの人がいることなの。ある特定の打楽器を演奏するということであったとしても、それが彼らの人生なわけ。たとえばブラジルの音楽を考えてみると、本当にすごい。あるいはスコットランドのドラミングのスタイルを考えてみると、彼らは自分の人生をそこに捧げているわけ。彼らの知ることを経験する機会が持てたら、もうそれは信じがたいこと。その日の終わりには、打楽器を演奏することで、みんなが音楽家になるの。それは同じ言葉をしゃべるっていうことなのね。それって誰にも奪うことのできないものだと思う。

 

BD:何年も前に、環境から曲を作るってことをしていた時期がありましたよね。そこではあらゆるものが楽器になります。あなたにとって、部屋にあるもの、そこらへんの家具、そこらへんの壁、そこらへんの椅子で演奏することは可能でしょうか。

 

EG:(笑) ワォー! 今晩やってみようかな。ベッドに行く前に、自分のホテルの部屋でね。ただし、ものを壊さないようにしなくちゃ。でもそうね、できると思う。ブラジルにいたときに気づいたことがあって、わたしはテーブルにすわって、コーヒーを飲みながら自分のことをやっていたのね、そうしたら誰かがこっちに来たと思ったら、わたしに向かって話しはじめたの! その人が誰なのか、なんなのか知らなかった。それからその人と音楽について話しはじめたの。彼はマッチ箱を持っていて、この小さな箱から信じられない音を生み出したわけ。もうそれはすごいものだった。だから何からでもすごいものは作れるってね。

 

ブラジルではコンサートが終わってから、自分たちの打楽器一式を向こうに追いやった。それで街を歩いてみれば、そこにはリズムがあった。さらなるリズムを探検することだったし、感情的な体験でもあって、これは特別だなと思った。

 

BD:新たな楽器を作ってみようとしたことはあるんでしょうか。

 

EG:ないわね、正直なところ。まだないってことだけど、興味はあるわね。もし作曲家が特殊な音を欲しいと思っているときに、「うーん、ちょっと無理ね」とか「それに応えられる楽器がないわね」と言うのは嫌だと思う。何か作れそうな人を懸命に探すんじゃないかな。旅をしていて面白いことの一つは、世界中に様々な打楽器があって、それに出会えることね。そしてまだ見たことのない楽器が、この先も見ることがないかもしれない楽器がもうたーくさんあるってこと。でも楽器製造者のところにアイディアをたくさん持ち込んで、「こういうの作ったらどう、こんな音の出る楽器はどう?」って言う。あるいは楽器を持ち込んでそれを彼らに渡して、それを持ち帰って、何か面白いものを作ってみてと言ってみる。あれこれアイディアを伝えるんじゃなくてね。だけどハリー・パーチみたいな人がいてね。彼の楽器コレクションはすごくって、そういうのにはとても惹かれるわね。だからこれまでには楽器を作ったことはないけど、やってみる価値はありそうね。

 

BD:あなたのところに新しい楽器を持ち込んでくる人はいないんでしょうか。

 

EG:あるある、ワクワクするわね、本当に。こういうものを作る人たちっていうのは、実際のところパーカッションについてそれほど知っているわけじゃないの。いろんな形、サイズのものを持ってくるし、音もいろいろね。中には叩いた途端に、壊れて粉々になったりもするわけ。もっと頑丈なものもあるし、ときに違う皮や素材を試したりもする。ものすごく華麗な音がするものがあって、叩いてみて驚く。見た目が素晴らしかったりするからね。でも、本当にアートな人たちっていうのがいて、すごいと思うのは、その人たちはちょっとした芸術品を作ってるんだけど、それが楽器でもあるってことに気づいてないの。(笑)

 

BD:こんな美しい、小柄な若い女性が、こんなにたくさんの楽器から計り知れない音を出すことに、聴衆は驚いていないんでしょうか。

 

EG:そうね、わたしがそんなに小さいかどうかわからないけど、こんな風に言われることはあるわね。「ドラムやティンパニー、マリンバを叩くのに、筋力がずいぶんいるでしょう」とね。こう返すわね。「いいえ、筋肉は必要ないんです。柔軟さがいりますけどね」 身体をリラックスさせることが必要。基本的に求められるのは、スクッと立っていることかしら。自分にちょうどいい高さに楽器を保つことは、とても大切。わたしは演奏するときに、靴をほとんど履かないの。その方がバネが効いて、ネコみたいに音を立てずに、楽器から楽器へと飛びまわれる。自分でもわからない。あまり考えたことがないから。基本的に体重を楽器にかけることで、求める音を自分のものにしていくわけ。でも楽器に対して攻撃的にはならない。楽器に襲いかかったりはしない、でも楽器がいい具合に打たれているか知りたいと思う。打たれてるって嫌な言葉かもしれないけど、どういう意味かわかるでしょ。いっしゅ自分を進水させるの、そうしたいと思えば、楽器にダイブするわけ。

自分のスタジオで、いろいろな音を出してみせるエヴェリン。音が生まれる現場。

BD:演奏してるとき、どれくらいがアートで、どれくらいがエンターテイメントなのか。

 

EG:そうね、そういうことは考えたことがないわね。おかしなことだけど、ビデオやテレビで自分の姿を見ると、こう思うわけ、「わぁ、あたしってあんな風? 演奏するときあんな変な格好してるの?」ってね。演奏のときは、自分が感じるままにやってる、それだけ。バチがどれくらいの高さまで上がってるとか、すごい勢いで動いてるとか考えないからね。自分が気持ちいい方法で演奏してる。楽器を正しい位置に置くから、気持ちよく演奏できる。気持ちよく感じられるもの、演奏に適したものを着ている。だから丈の長い、フリルのついた衣服とかは、わたしには適さないわけ。それからシンバルスタンドに袖が引っかかって、あー大変、なんてのも困る。だから実用的なものを着てるし、誠実な演奏をしようとしてるんだと思う。

 

演奏中にわたしがどう感じているかを伝えたいし、だからわたしの演奏は、素早いスナップショットみたいなものかもしれない。もちろんライティングなどを活用して、すべて良く見せたいとは思ってる。わたしのリサイタルではライティングがとても大事だと思ってる。オーケストラは一定のライティングがつづく方が良かったりもするから。でも曲に合わせてライティングを面白く動かすこともする。わたしはそういうの、好きなのね。だから状況によるってことね。その場の状況によって変わってくる。

 

BD:あなたの音楽は、あらゆる人のためのものでしょうか。

 

EG:誰をも楽しませることはできない、そうすることは不可能よ。試すことはできる、、、でも、以前にみんなを楽しませようとすごく頑張ったことがあって、苦境に立たされた。その方法ではうまくいかなかった。わたし自身が音楽的に満足感が得られなかったし、聴衆の中にもそういう人がいたと思う。どうプログラムを組むかを決めるのは、とてもとても難しいの。たくさんの経験とたくさんの実験がいる。それにわたしがしているようなことには、モデルがない、あるいはなかったと思う。フルタイムでソロのパーカッションをやるっていうね。今でもあまりいない、だからこんな風に言えないの。「あーそうね、これはジョー・ブログスが以前にやったやり方ね、そういう風にやりましょう」

 

BD:じゃあ、「これはエヴェリン・グレニーがやったことだから、そういう風にやろう」って、そうは言わない?

 

EG:そうね、人がそうしてるかは知らない。でもアイディアを得たり、わたしのプログラムを分析したり、どうしてああいうプログラムを組んだかって考えてるかもしれない。でもわたしはプログラムをしょっちゅう変えてるし、まずは誰に向かって演奏するかを理解しなくちゃね。たとえば、ハダーズフィールド現代音楽祭で演奏するのを依頼されたとしたら、シュトックハウゼンとか、クセナキス、ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ、ベリオをプログラムに入れることができるってわかる。あそこには特別な聴衆がいるし、特別な音楽祭でもある。

 

いろんな種類の聴衆がやって来るサマーフェスティバルで演奏する場合は、プログラムもいろいろ混ぜ合わせる。現代音楽もあれば、ジャズもあれば、編曲ものもありっていう具合。オーケストラと一緒の場合で、主催者が「テーマはフランスものなんだ」と言えば、あるいはラテンがテーマとかね。その場合はそれに沿ったレパートリーをやるわけ。うまく選択できることもあれば、うまくいかないこともある。やりながら学ぶ、そうやってやる。だけどそれも楽しみの一部なのよね。

 

BD:コンサートには行ったりするんでしょうか。

 

EG:ええ、行くわね。そこまで行けない理由は時間がないから。家にもどったとき、そこでじっとしてたいと思う。でも行きますよ。オーケストラのコンサートに行くのが好きね。室内楽はそれほど好きじゃない。それは把握するのが難しいから。民族音楽のコンサートに行くのは好き。ポップミュージックはもっと体験したいんだけど、できてない。コンサートに行けると思えるのはいいんだけど、それができるのは、奇妙なことだけどツアー中なの。だから夜時間があるときは、ホテルの部屋でじっとしてるんじゃなくて、街で何をやってるか探して、自分に合いそうなものを見に行くわね。もしレパートリーを知っていたら、それは助けになる。それは本当にそうなの。でも興味を惹かれて行くし、それは多くの人がそうしてるのと同じじゃないかな。

 

BD:あなたは聴覚障害の人たちに、音楽を聴かせようという情熱はもってます?

 

EG:そうね、他の聴覚障害の人たちに、それほどたくさんは関わっていないと思う。つまり基本的に、わたしは仕事をもつ一人の音楽家に過ぎないわけで。聴覚障害の子どもたちとはたくさん活動してきたけど、いとも容易くハマってしまうところがある。それでたくさんの組織が参加を希望してきた。彼らは何ていうか、ある種のミラクルを期待してて、それはわたしが楽器を演奏できるなら、聴覚障害の人すべてが同じようにできるはずと思う。それが実態。当然ながら、そういうことは起きないってこと。もし彼らが音楽に興味がなかったら、楽器演奏にも興味がわかないの。

 

BD:それはイツァーク・パールマンがやったんだから、足の不自由な人だれもがバイオリンを弾けるっていうようなことと同じでしょうか。

 

EG:そう、そのとおり。それと同じ。それを人々に理解させることが難しいこともある。ワークショップとかマスタークラスをやるときに、わたしが何をやりたいかっていうと、聴衆が混ざっていることなの、つまり耳の聞こえる子ども、聞こえない子どもの両方がいること。そうすると彼らは互いに互いのことが学べる。でも基本的にやることは変えないの、アプローチとしてこれが一番いいと思ってる。座りたい場所にその子たちは座って、もっと音を感じるために風船を手にしたいと思う、とてもいいこと。靴をはかずに座りたいなら、それもいいこと。楽器のそばに座りたいなら、それもいいこと。リサイタルで、聴覚障害の人たちがいることがあって、彼らはステージの脇に座る。舞台の袖、端のところにね、それがぴったりくれば、よりたくさん感じることができるの。でもそうするか決めるのは彼ら、わたしは基本的に彼らのために演奏するだけ。わたしは演奏する、それだけ。

I find that what I like to do when I am giving workshops or master classes is to have a mixed audience, so to have hearing kids and hearing-impaired kids.  They can learn from each other.  But basically I don’t alter what I do, and I find that this is a better way to approach it. 

コンサートが終わったとき、みんなそれぞれの聴き方をしてるのね。わたしこうは言わない。「いい、あなたたちはマリンバがどんなものか体験したのよ」とか「あなたたちはドラムを体験したのよ」とはね。それはわたしがどんな風にマリンバを、ドラムを体験したかに過ぎなくて、聞いた人は自分なりの受け止め方をするべきなの。聴覚障害の人の中には、高い音は聞こえるけど低い音はあまり聞こえないという人もいれば、その反対もいる。わたしたちはみんなそれぞれ違う聞こえ方をしてる。どう聞くかということを言う立場にわたしはいないの。わたしは聴覚学者ではないわけで、わたしはわたしっていうだけ。わたしはたまたま耳が聞こえなくてたまたま音楽家になった、そしてたまたまパーカッションをやっている、たまたま茶色の髪を持ってる、っていうようにね。

 

BD:あなたの演奏、音楽を私たちに分けてくれて、どうもありがとう。

 

EG:こちらこそ、ありがとう。

 

BD:今日、こうしてわたしと話をしていただいたこと、感謝してます。

 

EG:あら、わたしも楽しかったわ。

 

エヴェリン・グレニー | Evelyn  Glennie

 

世界各地で活躍するソロ・パーカッショニスト。1965年7月生まれ。父親はスコットランドのダンスバンドのアコーディオン奏者だった。成長期にスコットランド北東部の伝統音楽の影響を強く受けて育つ。8歳で聴覚障害を起こし、12歳でほぼ聴覚を失ったが、そうなる前にからだで音を感じる方法を取得した。その後ロンドンの王立音楽アカデミー他で音楽を学ぶ。ソロのパーカッショニストとしてキャリアを成功させた、初めての音楽家として知られる。クラシックのみでなく、バンジョー奏者やジャズ・シンガーと共演したり、多種多様なジャンルの音楽を演奏している。1989年に室内楽の演奏で、2004年にソロの器楽奏者としてグラミー賞を受賞。

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