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ウィリアム・J・ロング著『おかしなおかしな森の仲間たち』より 訳:だいこくかずえ

鳥たちの食卓

朝ごはん

 

 野外では、鳥や動物たちがおもしろいことを演じている。そう気づいたのは、真っすぐな目で、あるがままの世界を見ていたころのことだ。冬、野鳥に餌をやるという習慣が一般化するずっと前、わたしはぶどうの木の下にテーブルを用意し、パンくずやレーズン、木の実のかけらといった鳥たちが好きそうなものを、思いつくかぎり並べていた。寒さ厳しいときは、たくさんの野鳥が毎朝のように、わたしの用意したテーブルにやって来た。リスたちがテーブルの上を跳ねまわり、いつもなら食べものをたくさん見つければどこかに隠そうとするのに、空腹に耐えきれず、その場で食べだすこともあった。優美で敏捷なコリンウズラの家族は 塀を超えてやって来て、ご馳走を見つけると素敵な声を響かせた。ヤマウズラの雄がどこからともなく現れ、ダンス教師のように見事なターンをしてテーブルに飛びのり、そこにあったレーズンを一口で食べてしまったこともある。

 

 家のドアを音をたてて開けたり、ネコが忍び寄ったりしないかぎり、鳥たちはまったくまわりを恐れる風でなく、「哀れでかわいそうな生きもの」という見方が頭に浮かぶことはない。しっかりと目を開けて見ていれば、そうは思えない。小さな警告を常に発してはいても、鳥たちはさむ空の中で陽気で楽しげに見え、子どものわたしが窓越しにじっと目をやったり、テーブルのすぐそばですわって静かに見ているのを許してくれた。お腹がいっぱいになっても、鳥たちはしばらく留まり、ぶどうや梨の木の上でお日さまを浴びている。家のそばで遊ぶのが好きなのだろうか。鳥たちの中には歌をうたいはじめるものもあり、それは喜びあふれる春のものとは違い、低く柔らかな歌声だ。何羽かが声をあげると、その仲間の鳥たちがやって来るので、餌があることを知らせているように見える。鳥たちは冬には単独行動するので(より広いエリアで餌を探しまわるため)、仲間といっしょにいられるのが嬉しいのだ。この鳥たちの中に、小さな集団をつくる者たちがいた。ご馳走のあと、ペチャクチャおしゃべりをしているのでわかる。母鳥と元ヒナたちが再会しているのではないだろうか。鳥の家族の絆は、人間が考える以上に長くつづくものだとわたしは知っていたから、きっとそうだと思った。

 

 最初に気づいたことは、わたしの招待客たちは、ひどくお腹が減ってでもいないかぎり、争ったりしないことだ。外来種のイエスズメとは違い、彼らが好戦的な態度をとることは滅多になかった。しかしときに、ケチで強欲な者もいて、自分が腹いっぱいになったあと、残りもすべて自分のものと主張する。こういう者がトラブルメーカーになったりする。この子どものころの観察でわかったのは、家の近くでも北の地域の雪の中でも何度も目にしてきたことだが、飢えは野生動物をどう猛にすると思われているが、そうではなく彼らをおとなしく、従順にさせるという事実だ。

 

 もう一つ明らかになったことは、種の同じ鳥がみんな似ているとは限らないということ。からだつき、羽の色、顔のつくりさえ一羽ずつ違う。わたしは多くの鳥を一目で見分けられるようになり、近所のあの人この人を思い出させる、彼らの気まぐれな行動やユーモアをノートに記すようになった。いくつかの鳥をわたしは名前で呼んでおり、それは地域の住民帳に記されているような類いのもので、博物誌に載っているような名前ではなかった。わたしのテーブルにやって来て品よく餌を食べ、あとから来た者に、敵対心を見せまいと席をゆずる鳥もいる。そうかと思えばドサリと舞い降りてきて、そこにいる者たちに気づかうことなく、無作法に餌を食べ散らしていく鳥もいる。食事は楽しみの場でも神聖なものでもなく、さっさと食べて済ますものと思っている節がある。わたしたち人間がマナーと呼んでいる、自然な作法や品位を無視する者たちだ。

コリンウズラの鳴き声
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コリンウズラ:Northern Bobwhite by Andy Morffew(CC)

ヤマウズラ:Gray Partridge by David A Mitchell (CC)

サリージェーンとジェイク

 

 こういった品のいい、あるいは品の悪い鳥たちの中に、さまざまな個性を発見した。いつも用心深くこっそり現れるユキヒメドリの群れが、まだ夢見心地の、あるいは無頓着な仲間の一羽のあとを追ってやって来る。空洞の木をつつくことが好きなウッドベッカーは、ここではコメディの観客となり、木の背後からいつも他の鳥たちを見張っていた。そして遅かれ早かれ、うるさ型の「サリージェーン」を迎え入れることになる。この鳥は、男の子を見れば顔は洗ったのか、服はちゃんとしてるかと非難がましい目で追いつめ、いてもたってもいられない気持ちにさせる女性そっくりだ。

 

 「サリージェーン」がテーブルに着くやいなや、平和は消え去る。自分のひとかけらを口にする前に、どうやって食べるべきかの作法をみんなに言い渡す。あれこれうるさく偉そうにするので、そこにいた鳥たちはぶどうの木の中に逃げていった。彼女から逃れようと、さっさとその場を退いたように見える。すぐに鳥たちはサリージェーンの来訪を予期できるようになった。彼女が実のなる木のそばにやって来ると、スズメやシジュウカラが「ほら、あいつが来た!」とでもいうように、素早くその場を離れる。サリージェーンは、テーブルの上に吊り下げられた肉の脂を探索しにやって来る、ゴジュウカラの仲間の一羽だ。彼女が口うるさくヤンヤン鳴く声を耳にすると、こいつはムナジロゴジュウカラというより、「サリージェーン」だと思うのだった。

 

 学名(Sitta carolinensis=シッタ・カロリネンシス)を無理やり翻訳するなら、「男鳥カルロスの名の上にいすわろうとする女鳥」とでも言おうか。この名は鳥類学者の存在を気づかせるものの、ゴジュウカラの名を闇に葬ってしまう。ゴジュウカラ(五十雀=nut・hatch:木の実+孵化)の方は、幸せをもたらす活力のある名前だ。わたしの知る人間の方の「サリージェーン」は、サクランボ採りの少年を雇えば、採れたら口笛で合図しなければ給料はなし、というような人物だった。

 

 ある朝のこと(雪が深く、鳥たちはいつもと違い、朝ごはんを得ようと必死だった)、見たことのない地味な見映えの鳥がテーブルに現れた。そこにいる他の鳥たちには目もくれず、ドスンとご馳走のところに舞い降り、自分の2倍の大きさの鳥が食べるくらいの量を食い漁った。食べ終えたあともそこに陣取り、食欲が再びでてくるのを待っているかのようだった。以降、この鳥は毎日顔を見せるようになり、いつもガツガツと振る舞った。堂々とテーブルの真ん中に降りたち、最初に目にしたものをかきこんだ。ご馳走はすぐになくなってしまうとでもいうように、あるいは自分が満たされるより先に、他の鳥たちに食べられてしまうとでもいうような食べぶりだった。食べたあとは、テーブルの端にすわり、もうこれ以上食べられないので、恨めしそうに残っているご馳走に目をやり、羽を膨らませ、わびしく尾を垂らしていた。アダムが、神様がつくった動物に名前をつけたように、私は嬉々としてこの鳥に「ジェイク」という名をつけた。感謝祭の食卓に突然現れた、自分と同じくらいの体つきのぐうたら少年にちなんでつけたものだ。 

 

 その日のテーブルには、当時の農村風の、採れたての素材をつかった美味しい料理がたっぷり乗せられた。ジェイクは飢餓に襲われた人のように食べものを詰め込んだ。クランベリーソース付きの七面鳥、アップルソース付きのスペリアリブ、肉入りパイ、クリームを添えたマッシュポテト、バター付きの西洋カボチャ。出されたものが何であれ、大慌てで腹の中にしまいこみ、その目はこれから出てくるものをガツガツと追っていた。ジェイクは一言も喋らなかった。わたしは彼のお腹が膨らんでいくのに見とれていた。そしていよいよプラム・プディングと、レーズンと果物を添えたカボチャとひき肉のパイがトレーに乗せられてやって来た。腹ぺこジェイクはそれを見てショックを受け、テカテカした頰を膨らませ、大粒の涙を皿の上にこぼしはじめた。「プディングは食べられない」「パイも食べられない」 泣きながらそう訴えた。お客への礼儀も忘れ、わたしの家族はジェイクの滑稽さを囃し立てた。かわいそうな子だ! ジェイクはわたしが餌をやったことのあるどんな野生動物よりも、分別に欠けた腹すかしだった。

 

 それはずっと昔、まだわたしが名前も知らずに鳥たちを見ていた頃のこと、そして家族が、本に載っている鳥の名前を教えてくれる前のことだ。わたしは呼び名や鳥の種類ではなく、そこにいる鳥一羽一羽にいつも興味を惹かれていた。

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ゴジュウカラ:nuthatch by Adrian ... (CC)

ユキヒメドリ:junco by Frank D. Lospalluto (CC: non-commercial, =)

盗っ人

 

テーブルにやって来るお客の中に、青と白の美しく華やかな鳥がいて、すぐにカケスだと分かった。冬の間ずっと、このカケスのことが理解できないでいた。カケスはいつも礼儀正しくやって来ると、テーブルにつく前に、梨の木に止まり、挨拶でもするようにトゥルールーと楽しげに声を発した。鮮やかな衣装に立派なトサカのこの鳥を、わたしはすぐに好きになった。彼はご馳走を礼儀正しく食べる最上のお客であることを、わたしに見せつけた。いつも空いた場所に舞い降り、小さな鳥たちがいれば、脇によけて場所をあけた。ご馳走にくちばしを伸ばすときは、「いただいていいでしょうか、みなさん」とでもいう空気をかもし、育ちの良さを見せていた。

 

 ただ、他の鳥たちがこの美しいカケスを軽蔑しているように見えるのが謎だった。この鳥と何一ついっしょにしようとはしなかったのだ。カケスが最上の礼儀正しさを見せているとき、小さなスズメがカケスの頭に飛び乗って、イライラとここから出ていくように急かした。しかしたいていのときは、みんなはさげずみながらも、少し離れたところで餌を食べ、カケスを一人にしておいた。最初この鳥たちは機嫌が悪いのだろうと思っていた。しかし子どもの直感はするどく、まわりの状況をしっかり把握する。カケスが何度かやって来るのを目にしてから、悪いのはカケスの方ではないかと疑うようになった。そう、確かに悪いのはこのカケスの方だった。一見品行方正なこの鳥には、誰にも信用されない、見かけばかりの詐欺師のようなところがあったのだ。でもいったいその何が?

 

 答えはつぎの春にやって来た。わたしがそれを見つけた。何年かのちに森で野生のシカに初めて触れたとき以上に、このことを今も自慢に感じている。家の近くに木が生い茂る小さな谷があり、そこを小川が流れていた。たくさんの鳥が集まり、巣作りをしていることから、「鳥の谷」とわたしは呼んでいた。何に惹かれてそこに来るのかは知らない。おそらく水浴びできる浅い流れのせいだろう。あるいはそこが完璧に人里離れているからかもしれない。近くに農地はあったものの、そして遠くに家が1軒見えてはいたが、そこで人に出会ったことはなかった。子どもが夢中になるのはそんな場所だ。ひとりじめできるから、そして毎日のように何か面白いものが見つかるから。鳥の巣、森をわたる風の声、冬明けのヤマシギ、カワマスの餌に集まるカエル、きゅうりの船を走らせる池、ミンクの足跡、野ウサギの巣、フクロウの木の洞、と面白いことは尽きなかった。

 

 ある朝、わたしは一人でその谷にいた。母鳥がヒナのために餌をとりに、急いで巣を離れた時のこと。そのときあのアオカケスがやって来た。わたしの知るあの品のいいカケスとは別人のようだった。礼儀正しくもなく、優美でもなかった。こっそりと忍び寄ると、隣りの家の庭から何か盗もうとする少年のように、姿を隠し、耳をそばだてていた。どうしてかわからないが、カケスのせいで肩身が狭いとわたしは感じていた。

 

 ネコマネドリの巣のすぐ上で、カケスは止まり、優しい鳴き声をあげた。「探り」ではないかと思った。身を隠すように木の幹にからだを押しつけ、すぐに飛びたてる準備をして非常時に備えていた。そして素早く巣のところに降りて来ると、くちばしを巣の中に入れ、卵を突き刺し頭を上に傾けた。口の端から黄色い液体がしたたり落ちた。カケスはさらに二つ卵を食べると、ハチが巣から巣へと移るように、どこかに消え去った。彼がどこに卵があるか知っていたのは明らかだ。ここで卵をつついて食べているとき、怒った鳥が一羽やって来た。そのコマドリは「どろぼう、どろぼう」と大声で鳴き叫んだ。コマドリの抗議の声を聞いて、小さな鳥たちが20羽ほど、怒りの声をあげながらやって来て、みんなでこの卵どろぼうを追いたてた。

 わたしのお客たちが、冬のテーブルで、カケスがいい人ぶりを演じるのをなぜ嫌うのか、やっとわかったと思った。彼らはわたしよりよっぽどこのカケスのことを知っていたのだ。

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アオカケス:Blue Jay by Martin Cathrae (CC: ShareAlike)

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