ウィリアム・J・ロング著『おかしなおかしな森の仲間たち』より 訳:だいこくかずえ

Illustrated byCharles Copeland

鳥たちの食卓(2)

冬の荒野に暮らす鳥たち

 

 ここまで書いてきたことは、わたしが小さなころ、自然を探索することで得たものだ。本で知ったことではない。その頃、わたしは自然が語る言葉を理解していたのだと思う。そしてたくさん観察することで、鳥や動物たちは野生の暮らしを受け入れていることがわかるようになった。おそらく無意識のうちに、遊びの一種として、何事も面白がる精神で日々を生きているのだ。のちに野生動物についての文学や似非科学が現れ、ある者は楽しい森を悲惨な話で満たし、またある者は厳しい生存競争として広めようとした。しかしわたしが野外に一歩足を踏み入れ、動物たちを目の前にすれば、こういった借り物の見方は白日のもとにさらされる。頭で作り出された悲しい物語であったり、誤りの多い机上の科学理論だということがわかる。

 

 わたしは冬鳥たちの陽気なレッスンを、あちこちのキャンプ地で経験した。北の地域などで、自分の朝ごはんの前に、いつも鳥たちのテーブルを広げていた。典型的なテーブルは、窓のそばの日の当たる場所に据えられ、広々として豊富な食料があった。オオカミの痕を追っているときなどは、昼、焚き火をしている雪の上に、木の皮を広げただけの食卓のこともあった。

 

 雪が止んで、 かんじきの巻き上げる白銀が凍る風に取ってかわられると、素早く火を焚いて温かなお茶を用意する。次が鳥たちのテーブルで、パンくずがちりばめられる。黒帽子のアメリカコガラが、ご馳走だ、ご馳走だと騒ぎまわる前に、他の鳥がやって来ることはめったにない。この鳥の呼びかけで、さらなる黒帽子の灰色羽毛の仲間たちが集まって来る。彼らがあげる鳴き声に誘われて、腹をすかせたウッドペッカーや一対のカナダカケス(いつも一対なのだ。ノアの箱舟じゃあるまいし)、そして用心深くて見定めにくい(冬の羽毛を見てもなんの鳥かわからないので)、でも大歓迎のお客が一羽やって来る。

アメリカコガラ:chickadee by Mdf

(CC BY-SA 3.0)音声:仲間を呼ぶときの声

アメリカコガラ:chickadee by Patrick Ashley(CC BY-SA 2.0)

 と、上空から新たな美しく野性味をおびた声がふってくる。トウヒのてっぺんで羽が舞い、「小さな遠出鳥」とインディアンたちが名づけた鳥が、焚き火と鳥たちが集まってくるのを目にして、仲間のイスカの群れを呼びとめる。少しの間そこにとどまり、柔らかな声で騒ぎたて、さらなる羽のはばたきを呼びこむ。そしてイスカたちはどこか遠くの地へと去っていく。次にあらわれるのはゴジュウカラ、そしてリスが一匹、二匹、そして、そのあとは誰がやって来るかわからない。祝宴のテーブルを終えるころには、二つのことが判明する。雪にうもれた森にはたくさんの生きものが暮らしていること。そして彼らがこの上なく活気にあふれている、ということだ。

 

 だから、冬の荒野では一人きりのことが多いのに、ひとりさびしく食事をすることがない。いつも誰かしらお客がいる。親しげで優しい、礼儀正しい小さなお客たちだ。荒野に一人いるわたしのような者に、言葉では言い尽くせない喜びをもたらしてくれる。感謝祭で肉料理とパンを前に、「アーメン」と言って喜びを分ちあうように、質素ながら心地いい食卓になる。

 

 燃えたつ焚き火のような暖かさ、一服のたばこのような寛ぎ、自分のお客が名残惜しげにいつまでもそこに留まり、思わぬ動きを見せる焚き火や煙越しにおしゃべりをつづけ、ときに食卓に招いてくれた何も言わない主人に好奇の目を向けてくると、満足感で心があたたかくなる。誰かが冬の鳥たちに餌をやることを実利面からばかり言って勧めるのを聞いたり読んだりすると、なんでこの天上の楽しさをもっと言わないのか不思議に思う。

 

 雪の上で繰り広げられた数々の食事風景を思い起こせば、生き残りのための奮闘が最高潮に達するときに、野生動物たちはみんな、喜びや活気、遊び心、面白がる気分を精一杯に発揮している。キャンプのテーブルには、60を超えるアメリカコガラ、ウッドペッカー、ライチョウ、カケス、リスやその他の四つ足動物がやって来る。カケスやリスは非常に卵好きなため、巣作りの季節に仲間の間で憎しみを買うこともあるが、そうであっても、活発で楽しげな仲間であることにかわりはない。それは森の仲間たちはみんな、忘れることでいやな思いを葬るという、素敵な生き方を知っているからだ。彼らは究極の「現在」に生きている。過去を葬ってあまりある生命力に満ちている。恨みつらみを凌ぐ無頓着さやのん気さを備えている。

イスカ:Red Crossbill 鳴き声

食い意地男爵

 

 わたしのテーブルにやって来るお客には、大胆不敵な者もいれば、穏やかな環境で生まれたとても臆病な者たちもいる。しかしみんな自然を生きる、争いを好まない者たちだ。礼儀知らずの人里にいるイエスズメとは違い、多くの鳥は品よく餌を食べ、テーブルを離れる前に楽しげにおしゃべりをし、お腹がすけばまた戻ってくる。しかしたまに、無作法な鳥やリスもいて、自分の取り分を執拗に主張する。あるいは取り分を確保するため、他の者を追い払おうとしたりする。わたしがちょっとした争いを目にするのは、こうした例外的な独善者たちがいるときだ。

 

 よく覚えているのは、オンタリオの冬のキャンプにやって来る、あるゴジュウカラだ。そのゴジュウカラはどの仲間たちとも、そう、あの「サリージェーン」とも違っていた。その鳥はわたしが餌を外に置くと、すべて自分のものだと思っている風だった。太陽がのぼるより前にやって来て、いつも一番乗りだった。ときにいらいらした大声をあげて、明け方のわたしの眠りを破ることもあり、何事かと窓のそばに行くと、昨日のご馳走の残りをついばむ鳥たちを追い払っていた。人間にもそういう者がいることから、このゴジュウカラを「食い意地男爵」と呼ぶことにした。

 

 日が昇り、腹すかしの鳥たちがわたしの用意した朝のテーブルに一斉にやって来ると、男爵は手法を変えた。元気いっぱいの鳥たち全員を追い払いきれないと判断し、できるだけ多くの取り分をふところに納めると、森のどこかに姿を消した。このように食べものを隠しもつことは、いつも見せている独占欲と同様、これまでに見た他のゴジュウカラにはないものだった。彼はしばらくして戻ってくると、テーブルの上の木の枝にしばし止まり、餌を食べている鳥たちを憎々しげに眺め、ガツガツとついばんでいる者を見つければ、その不愉快者の頭めがけて突っ込んでいった。舞い降りながら、喉の奥でチューチューァーと威嚇音を発していた。

ゴジュウカラ:nuthatch by ehpien (CC BY-NC-ND 2.0)  種による鳴き声の違い

 奇妙に思うのは、彼はいつも欲しいだけ食べものを得ていることだ。ときに自分よりからだの大きなカケスやリスにも突進するが、それに抵抗する度胸の持ち主は見たことがなかった。野生動物は皆そうであるように、平和的で臆病なところがあるので、食べるのを一旦やめて脇に寄る。するとそこに彼が怒りを爆発させるように舞い降りてきて、羽をバサバサいわせ「チューァー! どっか行け! 行きやがれ!」と鳴きわめく。その声に小鳥たちの大半は、ピーピーと声をあげて木の中に逃げこむ。テーブルに誰もいなくなると、ゴジュウカラは自分の取り分を手にし、それをもってどこかに消え、また急いで戻ってくると、同じことを繰り返す。

 

 他の鳥たちが彼をどう思っているか、よくわからない。大きなかけらを取ろうとした鳥が、不運にも男爵に追われているとき、こっそりテーブルから一口分盗み、ゲームのように楽しんでいる鳥たちもいた。木の上でお日様を浴びながら、お騒がせ者が餌を隠しにいくのをじっと待ち、いなくなると降りてきて、目を配りながら食べていることもあった。このようにして、鳥たちはとりあえず食べたいだけ食べると、他の用事をするために姿を消した。もう一つ奇妙なことは、男爵は誰にもじゃまされることなく、しばらく餌を運びつづけると、それにあきたのか、テーブルにたくさんの餌を残したまま飛び去っていくことだ。

 

 森には、突然変異かなにかで、野生動物が生来もっている本能なしに生まれてきたように見える者がいる。ある一羽のガンの若鳥は、仲間が北を離れていくのを見ても、いっしょに行こうとせず、生命を脅かす冬の雪の中に居残った。あるコウウチョウは巣をつくる本能をもちあわせず、他人の巣を見つけては卵を放置するという茶番を演じていた。鳥以外の動物でも同じ話がある。家族とともに住む家をつくる本能のないあるビーバーは、土手にある空いた巣に一人住んでいる。あるいはある臆病な生き物は、脅されてびっくりすれば、何度でも同じように人から逃げようとする。

 

 それで思い出すのは、旅の途中で日暮れと雨につかまって、荒れ果てた丸太小屋に追いやられたときのことだ。小屋はギシギシ、ミシミシいうし、ヤマアラシが歩きまわり、ギラギラした目のネコ科の生きもの、幽霊にネズミ、不吉な臭い、その他もろもろの不快さにつつまれ、そこはこの世で一番くつろげない場所だとわかった。しかし土砂降りの中にとどまる以外、身を隠せる木も藪もなかった。真夜中になって、わたしは目を覚まし、いや起こされたのかもしれない、得体の知れない者に狙われていると感じた。真っ暗な小屋の中で、その生きものの存在感は圧倒的だった。愚かにも、わたしは跳び起きると、大声をあげながら、大きな毛むくじゃらの者に突進していった。ものすごい唸り声が起き、急いで灯したマッチの火に、ヌーっと窓から突き出された雌ヘラジカの馬鹿でかい頭が照らしだされた。

 

恐れで硬直しているわたしは、乱暴にその雌ヘラジカを押しやった。かろうじて何とか眠りにつこうとしたところに、また彼女が戻ってきて、低いところにある小さな戸口から頭、首、肩を押し込もうとした。わたしは彼女を追いたてようと、棒や斧頭、古いモカシンなど手に取れるもの何でも投げつけた。それでも1、2時間は家のそばをうろうろし、また窓のところに戻ってきて、ラクダのような鼻で中の臭いを嗅ぎまわっていた。どうやったらこいつを退散させられるのか。いやできっこない。わたしのことを、自分の亡くした子とでも思ったのか、そう誰かに言われても反論できない。

 

 で、さきほどの奇妙なゴジュウカラだが、あの鳥は誰にもある社会性や礼儀の感覚をもたずに生まれてきたのかもしれない。他の鳥たちが、何か珍しいものでも見るように、この鳥を好奇の目で見ているのを目にすることがあった。鳥たちの中には、腹いせに、この強欲者に仕返ししようとする者もいた。しかし多くの鳥たちは、厄介者から距離をとることで満足しているようだった。鳥たちには食べるものがあり、ちょっとした刺激もあって、このゴジュウカラを害のない厄介者として許しているのではないかと思う。

Photograph by Denis Collette (CC BY-NC-ND 2.0)

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