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  世界消息:そのときわたしは

地球のどこかで起きたこと、起きていることを、その場所から記者や作家、学者、写真家たちが自分の言葉で伝えます。

2. 大西洋奴隷ルートの旅:ガーナ

テキスト:サイディーヤ・ハートマン(Saidiya Hartman)

エルミナ城(ガーナ)Photo by Adam Jones

エルミナ城(ガーナ):15世紀にポルトガルによってつくられ、17世紀にオランダが押収、大西洋奴隷貿易の主要拠点となった。Photo by Adam Jones

アフリカ系アメリカ人、たとえばウィル・スミスを見て「この人は奴隷の子孫だ」とは普通思わない。アメリカ生まれという出自のさらに先を想像することはない。しかしその祖父や曽祖父の代まで遡れば、奴隷時代の生々しい話に取り囲まれるはずだ。著者によると、アメリカでは奴隷制について、公の場ではもちろん家族間でも話されることは稀だと言う。

西アフリカ地図

西アフリカ地図 by Amcaja and Maphobbyist(CC:表示、継承)

奴隷貿易の基地となった西アフリカ沿岸部(1896年の地図)

奴隷貿易の基地となった西アフリカ沿岸部(1896年の地図) 

*ズームできます。

奴隷船ポスター:photo by Believe Creative(CC:表示)

奴隷船ポスター:photo by Believe Creative(CC:表示)​ *写真をクリックすると、どのように奴隷となった人々が船内に「収納」されたかがわかります。

エルミナ城の奴隷収納庫:photo by Adam Jones(CC:表示、継承)

エルミナ城の奴隷収納庫:photo by Adam Jones(CC:表示、継承) *クリックすると拡大できます。

奴隷貿易は人類にとって、過去最悪で最大の人身売買だった。ハートマンによって書かれた事の詳細は、人間の存在の根本にある「悪に属すること」を露わにしている。しかしこれは過去の出来事に過ぎないのか。現在においても、世界中のいたるところで(もちろん日本でも)、人間をランクづけし、異種のものを貶め排除し利用することがあるのは変わっていない。人間であることを否定される行為を受けたとき、人はそれを訴えるのではなく、わずかに残る自尊心を守るため口をつぐむことがある。生きる上でこれ以上の過酷さがあるだろうか。

1. 見知らぬ者たちが通った道

 

 

 わたしは見知らぬ人々を探しに、ガーナにやって来た。最初は1996年の夏、海岸沿いに身を潜めるいくつもの奴隷要塞を訪ねての旅だった。次はフルブライト奨学金を得て、1997年秋から一年間、ガーナ国立博物館に研究者として滞在した。ガーナを選んだ理由は、どこよりもわたしの目的に適っていたから。自分の祖先の村を探しに来たわけではない。奴隷たちの当時のバラクーン(収容所)を見たかったのだ。奴隷制を研究する学者として、また奴隷を祖先にもつ人間として、死者の魂をなんとか取り戻したかった。人身売買の中で自己を消し去られた者たちの「生」を蘇らせたかった。

 わたしは過去を引き寄せたかった。当時の恐ろしい記憶が今も人を震え上がらせ、その命が宙ぶらりんのまま放置されていることを知っていたから。奴隷制は人を秤にかけ、命の序列を決め、人間の価値を乱暴に振り分けた。

 奴隷制が今も、アメリカ黒人運動の中で取り上げられるとすれば、それは過去のできごとへの執着や耐え難い記憶から抜け出せないためではない。黒人の命が今も危機にさらされているからだ。何世紀も変わることのない人種に対する偏見や政治判断により、価値を下げられているからだ。これが奴隷制の行き着いた先なのだ。人生をゆがめられ、医療や教育を受ける機会すら正当に与えられない。早すぎる死を迎え、投獄や貧困に追いやられる。奴隷制の行き着いた先、そこにわたし自身も立っている。

 九つの奴隷ルートがガーナを走っていた。そのルート(ガーナ内陸部から大西洋岸に通じている)をたどることで、人々がどのようにして人間性を否定され、奴隷になっていったのかを知ろうとした。わたしは七十万人以上の捕虜が歩いた道に足を踏み入れた。奴隷貿易でブローカーを務めた商工会のある沿岸部を出発点に、人を捕獲し商工会に奴隷として提供した軍事貴族のいた内陸部へ、そして襲撃され拉致された人々の住んでいた北部の地域を訪ねた。ベイアンからケタまでの480キロに及ぶ沿岸には、奴隷収容所としてつかわれたヨーロッパの要塞や倉庫があった。敵対する者を襲って支配下に置き、貿易で利益を得ていた内陸部の権力州が建てた奴隷市も訪ねた。要塞化したいくつもの町や捕虜の供給源だった奥地の村々にも足を運んだ。

 わたしがガーナを訪問先として選んだのは、西アフリカのどの国より地下牢や拘置所、奴隷小屋が残っていたからだ。地下の暗く狭苦しい監房もあれば、格子付きの洞窟牢や筒型の小さな牢屋、ジメジメとした監房、間に合わせの収容小屋もあった。15世紀の終わりに、金と奴隷の捕獲に殺到した国々があり、ポルトガル、イギリス、オランダ、フランス、デンマーク、スウェーデン、ブランデンブルク(ドイツ)が、アフリカでの貿易の拠点として、五十に及ぶ基地や要塞、城をつくった。それらの収容施設に、大西洋をわたる日を待つ奴隷たちが収容された。

 自分の家系があるから、ガーナに行ったのではない。奥地から沿岸部へ連れ去られた、見知らぬ人々が通った道を歩くためだ。調査では、わたしの家系の生き残りも、血縁者の片鱗も見つからなかった。奴隷になる前の痕跡も、人であれ場所であれ、追うことができなかった。わたしの家族の消息は、1920年代で消えていた。

 ジュフレに散らばる部族を自分のルーツであると主張し、アメリカの家族をそこに接ぎ木して、帰郷した息子として歓迎を受けたアレックス・ヘイリー(「ルーツ」の著者)のようにではなく、わたしは無価値とされ、跡形を残さなかった人々の消息を追ってガーナを旅した。わたしがここに来たのは、アフリカ文化に驚きの声を発したり、アシャンティ王家の宮廷を自慢に思ったり、捕虜を集め奴隷として売っていた権力州を賞賛するためではない。貴族が自分の家系であったら、などとわたしは思わない。そうではなく、普通の庶民を、不本意に連れ出され、南北アメリカの地で敵視されつつ新しい文化を築いた人々、自らを「新天地」になじませ、ゼロから出発した人々をこそ見つけ出したかった。

 沿岸部までときに何百キロも歩かされ、アフリカ人やヨーロッパ人の奴隷商人の手から手へと売り渡され、奴隷船に乗せられるまでに、捕虜となった人々は「よそ者」になっていた。ガーナでは、よそ者は、嵐のあと地面を流れる水のようなものだ、と言われる。すぐに乾いて、なんの痕跡も残さないという、アシャンティ族のことわざだ。エルミナ(ガーナ沿岸部の地名)の子どもたちは、わたしを「よそ者」と呼んだが、それはわたしの先祖の呼び名だったのだ。

 

 

 よそ者とはX(誰かさん)、それが本名の代わりとなる。不明者の名、仮の名として当てられ、ヒトと公民を分ける傷口となる*。その呼び名は終わりであり、始まりでもある。自分のかつていた世界を消し、新たな世界への嫌悪を表す印だ。かつての呼び名に対する喪失感、それを切望する気持ちにおいて、わたしの名前に対する気持ちは、奴隷にされた者のそれと変わりはなかった。

 わたしはこの痛みに耐えられず、自分の過去を消し、自分を再生させようとした。両親のわたしへの支配を撃破するために、彼らが望んでいた娘の姿を焼き払うために、わたしは自ら名前を変えた。わたしはヴァラリーの名を捨てた。それは母がわたしに望んだ、シルクとタフタと砂糖菓子と香料に包まれた王女の名だ。その名は母親がもし父の家で育っていたら、そうであっただろうお嬢様を表す名だ。ヴァラリーは姓ではないが、母がディンキンズ博士の婚外子であることの恥を拭うため、わたしにつけた名だった。ヴァラリーは舞踏会へのあこがれや、お店であつらえたドレス、湖で過ごす夏といったものに魅入られた名前だ。それはメッキを施した名、うわべは金ぴかで中は生煮え、怒りでグツグツいっている。貧しい黒人の少女という母の恥は、その名によって消された。

 だからわたしは、大学2年のときに、自分の名前をサイディーヤに変えた。母の夢物語から自由になるために、アフリカ由来の名前を自分の名前として採用した。サイディーヤの名は、親の叶わない望みからわたしを解放し、家系からブルジョアの枝葉を切り落としてくれた。最初、その名が認められなかったことは、たいした問題ではなかった。新しい名前サイディーヤは人々との、根拠を消された誇り高きアフリカ人たちや、懸命に生きつづけたその子孫の婚外子たちとの連帯を生んだ。タミカス、ロケシャス、シャネカスといった貧しい黒人少女たちの中に、自分を見いだした。それはなにより母の希望を打ち砕く行為だった。わたしは自分の名を、アフリカ人の名前を記した本の中で見つけた。その意味は「助ける人」。

 その時点で、自分の過去を書き換える試みが、母の過去をも塗り替えたことには気づかなかった。サイディーヤというのは、奴隷という汚点もなく、代々受け継がれた失望の歴史からも自由な、無垢な少女、架空の誰かとも言える。その頃わたしは、スワヒリ語が商業や奴隷貿易に深く浸透し、アラブ人、アフリカ人、ポルトガル人の商人間で広く使われていた言葉だとは知らなかった。由緒正しいアフリカ人の名前に変えたために、そうとは知らずに、消し去ろうした奴隷にまつわる醜い歴史を刻みつけてしまったことになる。

 大西洋の裂け目は、名前を変えたくらいでは埋まらない、見知らぬ者たちが歩いた奴隷ルートを歩くことは、自分にとって「母なる国」に近づく方法だったのだ、とあとになってわかった。踏みつけにされ、消息のたどれない親族、放置され草木におおわれた家々、視界からも記憶からも消えた町、そういったものすべてをわたしは取り戻したかった。そしてわたしは奴隷ルートをたどる旅に出た。行くべき場所と決めた土地、そこは地球上の実在の場所であると同時に、想像上の過去を象徴する地点でもあった。

 

 

 この旅をわたしに手ほどきしたのは、母の祖父、わたしの曽祖父であるモーゼスだった。靄たちこめる夏の朝、兄とわたしはパッパとともにわたしたちの祖先を学ぶ旅に出た。1974年の夏は、わたしと兄がアラバマ州モンゴメリーを訪ねる最後の旅になった。たった四日間の旅であり、パッパも最後になると感じていたのか、昔の話をしてくれたのだ。兄のピーターもわたしも、アンダーウッド通り界隈で遊ぶのにあきていたし、近所の子どもたちにもうんざりして、まあ彼らの方も、なにかと言えば「ニューヨークではね」というわたしたちにあきあきしはじめていたのだが。田舎暮らしの彼らにむかって、ホンモノの中華料理とか、コニーアイランドのローラーコースターとか、ユダヤ料理のクニッシュとか、うだるような暑さのアスファルトの路上で間欠泉みたいに噴出する消火栓とか、ジーンズで参加してもよくてシスターがギターで賛美歌を伴奏する1時間メサとか(モンゴメリーのモーニング・ピリグラム・バプテスト教会の丸一日かかるメサみたいではなく。そこでは居眠りすればつねられ、どんなに暑くても、ドレスにタイツ、ジャケットにネクタイをしなければならなかった)、こういうことを自慢げに言いふらすからだ。

 パッパはわたしたちをモンゴメリーの郊外へと連れ出した。そこはわたしたちの祖先が、町に来る前に住んでいた場所だった。のんびり草を食む牛たち以外になにもない、セピア色に広がる農地を車で走っているとき、パッパはときどき窓から手を出して指し示しながら、「黒人が所有していた土地だ」とわたしたちに教えた。現在は目の届くかぎり、農企業がすべてを所有していた。

 以前に黒人たちが働いていた土地、そして今は他人のものとなった土地を見るうちに、パッパの記憶は呼び戻された。パッパが自分の祖父のことを思い出していたのは間違いない。パッパの祖父は死んだとき、隣りの白人に土地を奪われた。奥さんも子どもも自分の土地から追い出されたのだ。近隣の白人たちは、パッパの祖父を追い出そうと、家の井戸に毒を入れ、家畜を殺した。しかし土地を手にできたのは、パッパの祖父が死んだあとのこと。その人たちは家族を追いたて、土地を不正譲渡によって手にした。どんな風に黒人の農夫たちが土地を失ったか(覆面騎馬団や、銀行や、政府によって)を説明しているとき、パッパの話は奴隷制のことに及んだ。それはパッパやパッパの祖父のような者が土地を失えば、奴隷となるからだ。パッパは奴隷時代のことを暗黒の日々と呼んでいた。
 パッパと過ごしたあの日の午後まで、わたしが奴隷制について知っていたのは、ごく基本的なことだけだった。黒人が奴隷にされたことや、自分が奴隷の子孫であることは知っていたけれど、奴隷制は実感のない、わたしから遠いできごとだった。小さなときにしでかしたバカげたことを、大人たちが嬉しそうに話してきかせるけれど、自分はちっとも覚えていないような感じに似ている。小さな頃の本当の自分ではない姿にすぎないとか、大人たちが作り話をしていると疑っているのではない。奴隷制も、わたしの一部でありながら、わたし自身のことではない、というように感じていた。実感がうまくもてなかったのだ。茶色のフォードに乗って、のりのピンと効いた綿のシャツを着て、わたしの隣りにすわっているパッパのようには、あるいはからからの赤土の田舎道とか、テネシーからやって来た馬の商人とか、奴隷にされたというわたしと年の変わらない女の子の名前を聞くようには、触知できるものではなかった。

 わたしの行っていた学校クィーン・オブ・オールセインツで、奴隷制のことを習った覚えはない。「ちびくろサンボ」なら4年生のときのコンロイ先生に教わったけれど。先生の抑揚のあるアイルランドなまりの声が、わたしのいらだちを少し鎮めてくれた。わたしが髪をアフロパフ(ボール状の大きな髷を二つ、頭のてっぺんに結った髪型)にしていくと、先生はアフリカの王女さま、とわたしを呼んだ。それを聞いてクラスメートは白人黒人そろって、冷やかし笑いをした。ブラックパワーのサマーキャンプでも、奴隷制のことは話題にならなかった。両親はそのキャンプを無料で参加できて、家から歩いていけるものとしか認識していなかった。親は知らなかったが実際は、ブラックパワーの指導教官たちは参加者に白人にあやまることを禁じていたし、わたしはスワヒリ語で革命家のスローガンがプリントされたTシャツを着ていた。なんと書いてあったかまでは覚えていない。指導教官たちは所有は悪だと言い、ブラックパワー流の握手をやらせたり、きっちりした連隊を組ませて行進させたりしたけれど、奴隷貿易のことや白人の所有物になった者たちのことには一切触れなかった。

 モンゴメリーの田舎道をドライブしているとき、パッパは自分の母親と祖母が奴隷だったことを話してくれた。祖母のエレンは1820年ごろ、テネシーで生まれた。馬やラバの商人の家で、子守をしていた。家付き奴隷だったので、畑での重労働はまぬがれた。肉体労働者より少しましな服を着て、屋敷の残りものを食べ、主人と旅に出た。相対的に他の奴隷よりましな扱いではあったものの、主人が窮地に陥ったとき、売られていくことからは逃れられなかった。

  主人が家族を連れてアラバマまで馬を売りに行ったとき、エレンも同行した。何か都合の悪いことが起きて、エレンは馬といっしょに売られる羽目になった。ポーカーでボロ負けしたか、多額の負債に見舞われたか、即時現金の必要があったか、いずれにしてもエレンにとっては不運だった。テネシーでエレンは、自分の子どもを産んでいたかもしれない。それは子守は主人の子どもの乳母をすることがよくあるからだ。自分の母親もいっしょに住んでいた、という幸運に恵まれていた可能性もある。もしエレンがテネシーで子を、母を、夫をもっていたなら、家族とはさよならも言えずに、別れたことになる。

 パッパの母親エラはアラバマで生まれ、奴隷制が終わったとき、まだほんの少女だった。パッパは祖母のことほど、母親について話さなかった。おそらく祖母に育てられたからか、あるいは母親のことを話すと、1907年、15歳のときに母親が亡くなった悲しみを思い出すからかもしれない。パッパは主に誕生や死、奴隷の解放といった、基本事項を中心に話す傾向があった。

 1865年のある日、北軍の兵士が日課をこなしているエラのもとに近づいてきた。「兵士がマーのところに車を寄せて、おまえは自由だと言ったんだ」 エラの話の殺風景さに、わたしは亜然とした。エラの人生はたった二つのことで成り立っていた。奴隷になったこととそこからの解放、この二つがエラの物語のはじめと終わりとして並記されるのだ。でも奴隷になるというのは、まさにこういうことなのだ。ひとの人生を剥いで、事実だけをむきだしにする。

 わたしにはわからない。エラの物語にはたった二つのことしかなかったのか、それとも二つのことがパッパの希望と失望を表していたのか。ちょうど解放の価値と広大な土地を横取りされたことを比べるみたいに。それはパッパが思い出し、わたしたちに聞かせてくれたことよりも、ずっと知りたいことだった。ピーターとわたしは、黙って話を聞いていた。何と言うべきか、わからなかった。

 パッパは、トウモロコシのパイプを吸う祖母以前の親戚のことは、何も覚えていなかった。パッパは祖母からパイプの趣味を引き継いでいた。このパイプは、わたしの中でパッパの好きな部分だった。パッパはいつも、メープルのタバコのような、甘い匂いをパイプからくゆらせていた。パッパの祖先についての知識は、祖母のエレンのところで終わっていた。それ以前の人の名前は覚えていなかった。それを話すとき、パッパの顔は悲しみと怒りでゆがんだ。わたしは驚いた。パッパはいつも堂々としていて、がっちりと大柄で背は185cmあり、それに85歳とはいえかっこいい男だったのだから。わたしは他の人の顔にも、この痛みを見たことがある。祖母の家でのバーベキューのとき、祖母のいとこ二人が、祖父の名前のことで喧嘩寸前になった。そのような感情が自分にもあることを認めるには、その頃のわたしはまだ幼すぎた。でも、わたしは忘れ去られたほかの人たちとともに、ひい、ひい、ひい祖母さんの母親、エレンの先の人のことに想いを馳せていた。

 母親か祖母が奴隷だった頃の話をパッパにしていたとしても、兄やわたしには話してくれなかった。口にできないこととパッパが判断したことは、人に明かすまいと思っていたのは間違いない。それでもパッパは、わたしの母には話さなかったことを、兄とわたしには教えてくれた。今でも、パッパは母のことを「おチビちゃん」と呼んでいる。家に帰ってから、わたしは母にこう訊いた。パッパは奴隷時代のことやパッパのお母さんのエラのことを、北軍の兵士に出くわした女の子のことを話したことがあるか、と。母はこう答えた。「子どものころ、そんな話はしなかった」 母の曽祖母にあたるエラは、母が生まれる前に死んでいた。だから母には何も思い出せることなどない、名前さえ知らないのだ。

 12歳のとき、わたしは会ったこともない母方の高祖母エラにとりつかれ、何回も懲りることなく当時のシーンを思い浮かべた。兵士が近づいてきてエラが不安になる場面、馬に乗った兵士がぬっと現れ、その言葉を聞くうちにエラの顔に笑みが広がる場面、あるいはエラがくるりと振り向き笑い声を残して去っていく場面、母親に向かって駆け出したとき、信じられない思いと喜びで胸が高鳴った場面。パッパが話してくれたことのあれこれに考えをめぐらせ、物語の空白部分を自分で埋めようとした。でもうまくいったことはない。パッパとドライブしたあの日の午後以来、世代を超えて伝えられた、断片的な物語や名前だけ残る親戚の人々を、わたしは探しまわった。
 家族の写真を山ほどもっている友だちと違って、わたしは高祖母のエラがどんな人なのか想像もつかなかったし、祖母の姉妹である大叔母さんたちの子ども時代さえ闇の中だった。すべて過ぎ去ったことなのだ。写真の中には、死んだ人の形見として持ち出され、お墓にいっしょに埋められたものもあった。それ以外は残っていない。わたしが見ているのは、誰かの記憶と想像から引き出されたものだ。叔母のモーゼラ(この名前そのものが、曽祖父のモーゼスとその母エラの形見だ)が、彼女の母親ともう一人の高祖母ポリー(みんなからビッグママと呼ばれていた)の写真のことを話してくれたことがあった。その写真の中で、モーゼラの母親ルーは、フリル付きのドレスにブルーマ姿で、ビッグママの膝の上にすわっていた。高祖母ポリーが何を着ていたかは、覚えていないと言った。でもわたしの母が描写した言葉がある。ポリーは深いチョコレート色の肌をもつ丸顔で、がっちりした女性だった。

 ビッグママが奴隷だったころの暮らしを話したことはなく、エレンとエラも同様だった。パッパは彼女たちの人生の最小限のことしか口にできなかった。わたしの家族の沈黙と空白は、珍しいことではない。奴隷時代のことは、口にされず、伝えられず、過去は謎のまま放置されていた。

 

 

 過去の話で、わたしの母が進んで語ったのは、ジム・クロウ法(黒人の一般公共施設の利用を禁止制限したアメリカ南部の州法)のことばかりだった。母は人種隔離政策の中で育った。子ども時代、公園やプール、ソーダファウンテンは立ち入り禁止だった。母の思い出は、黒人立ち入り禁止区域で埋め尽くされている。ごく基本のこと、水飲み場やトイレを使う場合も、肌の色で分けられていた。

 わたしの父の人種差別に関する話はあまりない。アラバマの空軍に下士官兵として従軍していたときに、「ニガー」と呼ばれたのが最初の体験だと言っていた。白人の伍長を殴ったが、かろうじて軍法会議にかけられるのを免れた。でも父が「奴隷」とか「奴隷制」と口にするのを聞いたことがない。わたしは父方の親戚のことをほとんど知らなかった。父の家族は名も知れぬ祖先のことを、その人たちがどんな人だったのか、知ろうとはしなかった。すぐ目の前で、家系は消失していた。父方の祖父母は、ニューヨークで成功して故郷に帰るつもりで、カリブ海に浮かぶ数十キロの小さな島、不毛の地キュラソーを離れた。しかし十年、二十年が過ぎ、二人はまだ帰るのは早すぎると思った。あるいはまだお金が十分たまっていない、と判断した。あるいは次の年に帰った方が楽だ、とか。

 二人は故郷を離れたものの、安定した生活が得られないことを認められず、アメリカで成功する夢も捨てきれずにいた。「チャンスはある」 それは恐怖から逃れる言葉だった。この言葉が二人の悪夢の日々を癒した。なぜ故郷を出てここアメリカにいるのかを思い出させた。それが唯一の慰めであるかのように、言葉は唱えられた。悪い予感を振り払うように口にされた。失敗をかわし、孤独から救われ、切望の疼きを鎮める言葉だった。その言葉によって過去を覆い隠し、未来にだけ目を向けた。故郷に金を送ることで、残された子どもの世話をしている自分たちの母親や、アメリカでの生活を切望する十代になった子どもたちの怒りを抑えることはできなかった。アメリカのような場所では、郷愁や後悔をもっていては生きていけない。だから二人は明日だけを見て生きていた。

 同時に二人は、うまくいかないことのすべてをアメリカのせいにして呪った。アメリカは祝福であると同時に呪いだった。涙が出るほどの極寒の冬を呪い、高価な石炭を呪った。呪いとは息子が無礼な態度をとることであり、娘がパピアメント語(キュラソー島の言葉)で話すのを拒否することだった。アメリカはあらゆる不満の原因であり、うまくいかないことすべての言い訳だった。

 もう故郷には帰らないことがはっきした時点で、祖父母は沈黙と半分だけ真実のバリアを過去との間に敷いた。時間を分割し、過去をいらない付属物であるかのように切り捨てた。二人は過去とのつながりを感情的に処分できるとでもいうように、念願の家に帰るという夢を追い払った。時とともに、今がすべてであると思うことにした。祖父母はアメリカで、グリーンカードを得て死んだ。それは二人がどこかに所属していたという、唯一の証明書だった。

 祖父母とは違ってわたしは、過去とは自分が帰ることのできる国だと考えていた。わたしは彼らの人生の教えを拒否した。傲慢さゆえに、わたしはそれを敗北と受け取っていたのだ。祖父母が達成できなかったことをやりとげようと、わたしは思っていた。わたしにとってそれは、過去と現在の間にあるバリケードを壊すことだった。祖母と祖父をパークプレイスの小さな小さな世界から解放し、ブルックリンよりずっと前の彼らの歴史を、わたしが訪問することを意味していた。そしてわたしは旅に乗り出した。そう、ニューヨークへの旅立ちが祖父母にとってやみくもだったのと同じように、わたしはなんの痕跡も残さなかった人々を探しもとめて旅に出た。

 


 わたしは博士論文のための調査をしているとき、偶然、母方の高祖母の証言を、アラバマの奴隷供述調書の中に見つけた。イェール大学図書館のほこりをかぶった書類の束の中に、それを見つけたときはとても嬉しかった(北軍の兵士と出会ったエラではない。曽祖母ミニーの母であるポリーの方だ)。奴隷だったときのことで覚えているのは何か、と訊かれて「なんにも」とポリーは答えていた。がっかりした。それはウソだと思った。ジム・クロウ法の時代の南部で、白人に調書を取られることを考えれば、高祖母が躊躇した理由などいくらだって考えられる。でもポリーの沈黙は、奴隷たちの記憶について、わたしの疑問を掻きたてた。記憶しようとする過去とは何か、忘れようとするものは何か。高祖母のポリーは、忘れることで新しい暮らしが生まれると信じていたのだろうか? 過去を思うことで、得るものは何もなかったのか? ポリーが語ることを拒んだ言葉こそが、わたしの知るべきことなのだろうか。奴隷としてのさまざまな体験談は、知り得ないことなのか。欠落と沈黙と空白がわたしの家系の実体ということか。この伽藍堂がわたしに残された唯一のもので、奴隷にされた話を知ることは不可能というなら、わたしの人生は追悼そのものであると言えないか。あるいは絶対に克服できないうつ病にかかっているということになるのか。

 「父親を知りません」「母をなくしました」「子どもたちはみな散っていきました」 このような発言は、証言の中にあふれていた。言い逃れし、黙ってやり過ごすことが重要だったので、ことは「今まででいちばん酷かった」とか「暗黒の日々だった」という言葉に置き換えられて語られた。それは奴隷が受けるむち打ち、屈辱、近親者との別離といった定番の暴力を超えるものであり、言葉にするのもはばかられるような、排泄の刑、性的暴行、マルキ・ド・サドの小説に匹敵する責め苦といった、虐待に当たるものだった。なんとか酷いことを耐え抜いたことは、同時に生き残ったことへの恥にもなった。忘れたい思いとの闘いとして記憶にとどめられた。

 わたしの大学院時代、何の記録もない彼らの人生を、ひどい虐待の体験を記した記録を、手にすることはできなかった**。この歴史の空白を埋めようと決意し、記録される価値もないとみなされた人々の人生を代弁したいと思った。しかし、何もないところから、いったい何が書けるのか。

 それから何年かのち、アラバマ供述調書を再び閲覧したが、高祖母の項目を見つけることができなかった。エラ・トーマスについてはあった。エラをポリーと勘違いしたのだろうか? わたしは自分のノートを見返し、コピーしそびれたあの供述がないかと、アラバマ及びその付近の2冊を含む5冊の調書をくまなく探した。しかしミニーも、ポリーも、それに似た名前も見つからず、記憶に刻まれている一節を探し当てることもできなかった。それは半ページもない記述で、クラーク通りの住所、容貌についての所見が、かすれたインクのタイプライターで書かれていた。わたしはあのとき呪文でもつかってポリーを呼び出したのか。あまりに熱心に過去を追い求めるので、幻影でも見たのだろうか。過去の歴史に頭をつっこむわたしを、からかっているのだろうか。それとも一途な学究心をあざ笑っているのか。母なるものを失って目が眩んでいたあのときのわたしを、暴こうとしたのか?

 わたしの目の前で、高祖母のわずかばかりの痕跡は消え去った。この出来事は一つの象徴だった。奴隷に関する古記録を手にする難しさ、つかみどころのなさ、それはわたしのこの問題への入り口となった。

 保管書類はほぼ予想の範囲内のものだった。奴隷商人の積荷目録。貿易品の出納簿、食料品の在庫リスト、証券、生存者と病弱者と死者の明細リスト、船長の航海記録、農園主の日誌。商取引の報告書にはひどく惹きつけられた。貿易会社の年次報告書や、ロンドンやアムステルダムから西アフリカ沿岸の出先機関に送られた手紙類を読みながら、破滅させられた人々の足跡を追った。一行一行品目を追いながら墓標を見ていった。日用品、貨物、そして描写がはばかられるようなもの。報告書には当時の出来事や、人々の(一項目となり、防腐処理され、封印され、ファイル収納庫に保管された)来歴が記録されていた。それを読むことは、遺体安置所に足を踏み入れることだった。最後のひと目を許され、奴隷用貨物室に消えていく人の姿を心にとどめる行為だ。

 

 

 わたしは消え去った人々が残したものを手にしようと、ガーナまでやって来た。この空想じみた計画へわたしを駆り立てるものは何か、知りもしない人々をなぜ追いかけるのか、なぜ疑いの気持ちが前進を阻まないのか、説明するのは難しい。もっとも簡単な答えは、過去に近づきたかったからだ。どんな風にして奴隷という恐ろしい体験ははじまったのか、理解したかった。男の子一人がどうして3メートル分の綿生地やラム酒一瓶と同じ価値なのか、女性一人が籠一杯のコヤスガイと同等なのか、知りたかった。捕らわれた人とよそ者をわけている境界を、わたしは自分の足で超えたかった。奴隷貿易の餌食となったり、捕獲から逃れるため奥地に逃げ込んだ人々、そうした庶民の物語を語りたかった。

 もしわたしが、ガーナに来ることによって、よそ者であることから逃れたいと願ったなら、待っていたのは失望だっただろう。それはガーナに着く前から想像していたことだ。よそ者という感覚は、親交のあるなしや帰属意識や疎外感だけでなく、過去との関わり方にも関係している。過去というものが一つの国であるなら、わたしはそこの住人だ。わたしは「記憶から消し去りたい体験」の果てに生まれついた者。忘れたいという思いの証しとして、葬りたいという意思の結果として。わたしの存在は1200万人の奴隷が大西洋を渡ったという証拠であり、その意味で過去はまだ終わっていない。わたしは奴隷たちの子孫だ。わたしは死んだ人々の痕跡だ。いかに一般社会が死者たちと向き合うか、それが歴史だと思う。

 

 

 

 

 

2. 家族についての偽物語

 

 

 奴隷の家族を所有したり、子を産ませた白人の男たちは、幻のような存在だった。まるでわたしたち奴隷一族が呪文で呼び出した産物であるかのように。彼らは調査検閲の圧迫を逃れるため、姿を消そうとした。白人たちの名前は、奴隷の名でもあるから忘れはしないが、39回の鞭打ちの刑や競売場で父の名を暴かれることを恐れるように、奴隷たちは恐る恐る主人の名を告げた。

 叔母のローラは折に触れ「ボネール島(カリブ海南部の島)出身のドイツ人」(わたしたちの影の先祖の一人でもある男)の話をしてくれた。ローラ叔母さんはすべてを進んで話してくれた。過去のことは葬るのが一番と信じ、奴隷の子に無関心な父親ややっかいな家系、恥につながるだけの逸話になると、口を堅くとじてしまうベアトリス叔母さんとは違い、ローラは道理を超えた事実の詳細をあれやこれやと話してくれた。納戸にしまわれた話を外に持ち出し、わたしたちの家系を生んだスキャンダルの一つ一つを説明してくれた。ローラ叔母さんをひるませるものは何もなかったので、他の親族たちがタブーと思っている家族の情報を得たいと思ったら、わたしが聞きに行くのは彼女をおいてなかった。

 ローラ叔母さんの話には、アフリカから大西洋を渡ってきた者のエピソードはなかった。一つの逸話もだ。フレデリック・ダグラス(奴隷制廃止運動家の元奴隷、1818年 - 1895年)が言うように、「奴隷の間では、家系の広がりはなかった」のだ。わたしの家族も同様だ、過去は謎のままだった。話は遠縁の白人の男たち、不明になっている黒人の父親、父権についてのウソや秘密、辿れない家系の流れといったものに集約された。叔母さんはときどき、ウィルヘルム・ハートマンとかレイナー・ヘルマンの名を口にした。「ヘルマンはケチなろくでなしだった。女たちはみんなそう言っていたよ」といった人物評も加えて。

 わたしの家系については、アル中に金持ち商人、無感情な後見人といったバラバラの寄せ集め情報ばかり。わずかな情報しかなく、先祖についての話はすべて大雑把なものだ。どれだけ話を膨らませようとしても、「奴隷は家系をもたない」、この真実から逃れることはできない。「捕獲された奴隷」は、父ではなく主人の配下にあり、子は後継者ではなく、ただの産物となる***。

 奴隷についての昔ながらの話。白髪交じりの紳士が奴隷制度の誘惑に身をまかせ、哀れな黒い肌の女は「男の欲望に身を捧げる」。農園主とめかけである奴隷の「夫婦」の物語。あるいは尊敬できる立派な父親ではなく、主人である父に冒涜されるという悲惨な話。こういった新世界アメリカの痛ましい男女の物語を、誰が正常だと思うだろう。よく聞く話ではないか。がつがつした雇い主たち、無責任な主人たちと犯された母たちの血統をかき混ぜた、暗く濁った物語。

 『まがい物』とは、オランダ人が混血の子を呼んだ言葉である。混血であることと同時に、婚外の子であることもほのめかしている。白人の主人たちは、まがい物を「息子」とか「娘」とは口が裂けても呼べなかったはずだ。それでもこのウソの家長たちは、名前をつけたという理由だけで、わたしたちのボロボロの家系の中の誰よりも、その子たちには目をかけた。

 

 

 わたしは、オランダの奴隷貿易について、数えきれないほどの本や記事、書類を読んでいた。オランダは、イギリス、ポルトガル(ブラジルとの協同で)、フランスに次ぐ、4番目の奴隷貿易大国だったこと、1700年から正式な奴隷貿易終了まで、ゴールドコーストがオランダの主要な奴隷の供給地であったことを知っていた****。オランダは、女性の奴隷拘置所のことを「ホアハット」(売春拘置所)と呼んでいたことを知っていた。わたしはオランダの船は、貨物輸送用の船を改修したものだと知っていた。奴隷たちは船のデッキで、アフリカの太鼓や笛とともに踊ることを、ムチ打ちによって強制されたことを知っていた。477,782人の奴隷が、オランダによって、1630年から1794年まで輸出され、そのうちの89,000人がゴールドコーストからだと知っていた。この数字は、少なく見積もりすぎている可能性があるが、わたしが10倍、100倍多く言っていたとしても、世界がこの犯罪に関心をもち、死んだり不明になった者たちのことを熟知しているとは言いがたい。自国のハールレムやライデンでつくられた布地が、アフリカの仲買人とやりとりされた奴隷売買の際の交換品の57%を占めたこと、銃、銃弾、酒、宝飾類が残りの貿易品だったことを知っていた。わたしはエルミナ城の収納庫に入れられていた奴隷の3~15%が、そこで死んだことを知っていた。奴隷たちはときに4ヶ月もの間、「積荷一式」が買われるまで、奴隷船に閉じ込められたままだったことを、そして大西洋横断には目的地により、23日~284日かかったことを知っていた。奴隷たちは家畜にならって「コープ」(頭)で呼ばれていた(人間を数えるようにではなく)を知っていた。奴隷配送のことをアーマズンと呼んでいたこと、その意味は生きた積荷であり、他の商品と区別されていたこと、オランダ人はオランダ語で奴隷にあたる「ネイスロー(Negro)」をつかい、そのため奴隷船は「ネイハーシップ」あるいは「ネイスローシップ」と呼ばれたことを知っていた。あるオランダ人歴史家によると、奴隷貿易による死亡率は、西半球(主として南北アメリカを指す)での生活に定着するまでの間に、70%に達していたことを知っていた。

 しかし、これらの情報がなんの役に立つだろう。これから知ろうとすることへの、なんの案内にもならなかった。祖先の村の人の名や地名といったものを、わたしにもたらすこともなかった。

 

 

 オランダの西インド会社の役人は、追跡できるよう、奴隷に二度焼き印を押した。エルミナ城に捕虜たちが到着すると、アラビア数字(またはアルファベットの文字、あるいは両方)が、胸に焼かれた。キュラソー島に着くと(そこが西インド会社がスペイン領南北アメリカに奴隷を売る中間地点だった)、そこでまた赤熱の鉄で焼き印を押された。焼き印は奴隷売買の際や、犯罪の処置、死亡報告書を書くときの身分証明とされた。しかし役人たちは、「今年の3月1日に、買ってきた奴隷の女が死んだことは、まぎれもない真実です。死んだあとそのからだを確認しました」という以上のことは言えない。

 刻印の数字は、どの船の積荷として送られたか、一人一人の身元確認の証となった。また、その奴隷を買った会社を特定したり、単にリストに「インド行き」とか「有効」などと書き記すためにつかわれた。奴隷船の役人は焼き印のマニュアルとともに旅をしていた。「焼き印をするときは次のことに注意。(1)焼き印する前にロウかオイルを塗ること。(2)焼き印は紙に押せば燃えだすくらい熱くしてつかうこと。このような準備に従えば、奴隷たちが焼き印によって傷つくことはない」

 奴隷売買や焼き印について、エルミナ城の仲買人の長、ウィリアム・ボスマンが鮮明に描写している。ボスマンによって描かれた場面は、西アフリカ海岸のあらゆる港の出航風景に見られた。奴隷の荷が届くと、貿易業者と軍医がやって来て、遠慮会釈なくからだを検閲をした。軍医は目の検査をし、歯や性器をつつき、病弱者と健康な者を分類した。適正と判断された者たちは、ボスマンが次のように書き記した。「…は番号付与。配送者に登録される。一方で、会社の紋章または名前のついた鉄の焼き印を、火に入れる。それをつかって奴隷は胸に焼き印される。これにより、(別の焼き印をもつ)イギリスやフランス、その他の奴隷とわれわれの奴隷を区別し、ネイスロー(Negro)が入れ替わってしまうことを防ぐ。奴隷貿易は非常に野蛮に見えるかもしれないが、やらねばならない必要に従っているだけだ。しかし奴隷たちに焼きを入れすぎないよう、十分注意を払っている。特に男より弱い女性に関しては」

 「WICS25」「 T99」といった奴隷貿易の会社がつけた記号や、胸に残された焼き印で自分の身内を識別したい者などいない。トニ・モリスンの小説「ビラヴド(愛されし者)」の中のある場面を思い出す。セスの母があばら骨に押された丸に十字の焼き印を指して、娘にこう言う。「これがあなたのママの印。(中略)もしわたしに何かあったら、顔で識別できなくても、この印でわかるから」 所有物としての印は、傷として押されたのち、家族の紋章となる。母斑のように、個人を特徴づけるものとなる。

 

 

 『子供は母親の状況を受け継ぐ』(Partus Sequitur Ventrem)売買証書は『将来の増加要員』も含むので、まだ生まれていない者にも足枷がはめられた。「母親は自分の子の誕生をただ嘆き、悲しむしかない」、かつて奴隷だったメアリー・プリンスはそう言う。「母が子を救うことは不可能だった」。売り買いの印は、母方の家系に受け継がれ、世代から世代へと手渡される*****。「愛されし者」で娘のセスは、母親が奴隷であることの重荷を背負い、屈辱の人生を受け継ぐ。そしてやがて自分にも焼き印が押されるのだ。さらに、愛されし自分の娘もいつかそうなる。

 父親の名ではなく、母親の印が、子の運命を左右した。父親についての話がどれだけあろうと、家族の傷口を縫い合わせたり、無残な事実をおおうことなどできはしない。父親の姓はあってなきがごとき「空虚なパロディ」であり、奴隷を所有する主人が、「子の生みの父」である以上に、家長であり自分勝手な愛人なのだ******。そして追い払われた黒人の父親の代理人でもある。

 

 

 わたしの父方の祖母はファン・アイカーだった。彼女の母やその母がそうだったのと同じように。わたしは、レオノラ・ファン・アイカー、マリア・ジュリア・ファン・アイカー、エリザベス・ジュリアナ・ファン・アイカーといった恐れを知らない、強い意志をもった女性たちが連なる家系の末裔だ。彼女たちは結婚を許されなかった。四世代の子どもが、父の名前があるべきところを空白のままに生まれた。父親の欄は、役人のペンにより、X(某氏)よりさらに空虚で、抹消と同じくらい何も示さない「適用者なし」を意味する線が引かれただけ。叔母のローラとベアトリスは、ファン・アイカーであることに満足していた。それは奴隷の子であることと同様、主人が生ませた子であるという別の道にもリスクがあったからだ。二人が学んだことは、母系からの継承を肯定し、それを奇怪なものにしないことだった。叔母たちの話は、恥を和らげるためのものであり、法的な父親の認可の外にある家族関係の実りの方を尊重していた。

 

 

 わたしはハートマン姓の一人でもあった。祖父のフレドリック・レオポルドの先祖は、亡霊のような存在。曽祖父についてわたしが知っているのは、成功したユダヤ商人だったことくらい。叔母たちは曽祖父を「パパの父親」と呼んでいた。父と息子のみが血縁であり、叔母たちはその中には入らないことが暗黙の了解事項だった。

 わたしの父によると、ハートマンの名前は、この世界におろす家族の錨のようなものだったらしい。家族の唯一の継承物だという。財産は何もないが、名前がある、と。それで祖父の白人の従兄弟たちが、かつて奴隷所有者だったことをもみ消すために、また血縁関係があることを疑われないよう、ハートマンの名を肌の黒いわたしたちから買い戻そうとしたとき、わたしたちはこの名を固持した。ハートマンの姓はウィリヘルムからフレドリックまでの三世代の息子に受け継がれ、その三人はみなバージリオと名づけられた。

 

 

 キュラーソーの首都、ウィレムスタットの記録保管所で家系を調べていたとき、祖父の名前はハートマンではなかったことを発見して驚いた。

 祖父の出生証明書の名は、マドゥロだった。祖父の母クラリータの苗字である。祖父の父親が息子のことをあとになって認知したのか、あるいはローラ叔母さんが言うように、息子に自分の苗字をつかうことを許したのか、わたしにはわからない。それとも祖父が17歳で独り立ちした際、その名をくすねたのだろうか。ハートマンの名は、祖父のパスポートやグリーンカードに記されていた。もし見つけることができたなら、結婚証明書にもその名があったことは間違いない。

 わたしは子ども時代、息子としてハートマンの姓を正当に継承し、自分の子どもにも受け渡しできる兄がうらやましかった。父と母はこの苗字に信頼と誇りをもっていたので、わたしは結婚後もその名をつかい続けている。しかし結局のところ、その名の元にしっかり根が張られたり、恩恵を受けるほどにわたしの家族が連なっていたわけではなかった。では、わたしたちが権利を主張する「ハートマン」とは、いったい誰のことだったのだろうか。

 

 

 

この作品はサイディーヤ・ハートマンの著書Lose Your Motherから抜粋したものです。

出典:Narrative Magazine: Winter 2007, Nonfiction(原著:サイディーヤ・ハートマン著「Lose Your Mother: A Journey along the Atlantic Slave Route」(Farrar, Straus and Giroux刊、2008年)

 

サイディーヤ・ハートマンはニューヨーク、ブルックリン育ちの学者。現在コロンビア大学の「英文学および比較文学」学科の教授を務める。プロフィールを読む

 

日本語訳:だいこくかずえ

 

参照:引用部分などの元になる図書

1) アレックス・ヘイリー著「ルーツ」/Roots: The Saga of an American Family
2) Henry Louis Gates Jr著「Wonders of the African World 」(New York: Knopf, 1999)
3) Julie Kristeva著「Strangers to Ourselves 」(New York: Columbia University Press, 1991) 
*この本の中の「ヒトと公民の間にはくっきりした傷がある。それが外人である」の部分を筆者は言い換えて記述している。
4)**ミシェル・フーコーは、「不名誉な人間の生」(Lives of Infamous Men:「Essential Foucault」The New Press, 2003)の中でこう書いている。「比喩ではなく厳密に不名誉なこと。つまり、永遠に無価値なものとして記憶される運命にある、という恐ろしい言葉を通してしか、その者たちは存在しない」
5) トニ・モリスン著「ビラヴド(愛されし者)」吉田廸子訳、1990年、集英社刊
原典:Toni Morrison著「Beloved」(1987年)
6) メアリー・プリンス(1788-1833)バミューダ出身の元奴隷。のちにロンドンに住み、自伝「The History of Mary Prince 」(1831)を書き、イリギスで出版された。
7) ***「捕獲された奴隷」は、父ではなく主人の配下にあり、子は後継者ではなく、ただの産物となる。
Paul Riesman著「First Find Your Child a Good Mother: The Construction of Self in Two African Communities」(Rutgers University Press, 1992)
W. E. B. DuBois著「The Souls of Black Folk」(1903; repr., New York: Penguin Books, 1989)
8)**** 1700年から正式な奴隷貿易終了まで、ゴールドコーストがオランダの主要な奴隷の供給地であったことを知っていた。
17世紀には、オランダは2、300人の奴隷を輸出していただけだった。18世紀の最初の10年で、この数は急速に増えた。ヨハネス・ポストマは1675年から1699年の間に、ゴールドコーストから輸出されたのは136人とみなしているが、貿易量は1700年から1709年の間に、3000人にまで増大していた。以下の本を参照されたい。「 Race and Slavery in the Western Hemisphere: Quantitative Studies」(ed. Stanley L. Engerman and Eugene B. Genovese / Princeton: Princeton University Press, 1975)
The Dutch in the Atlantic Slave Trade, 1600–1815 (Cambridge: Cambridge University Press, 1990)

10) 「Curaçao, from Colonial Dependence to Autonomy」 (Aruba: De Wit, 1968)

11) Johannes Postma(ヨハネス・ポストマ)著「Postma, “The Origin of African Slaves」

12) 「Curaçao, from Colonial Dependence to Autonomy」 (Aruba: De Wit, 1968).

13) William Bosman著「A New and Accurate Description of the Coast of Guinea, Divided into the Gold, the Slave, and the Ivory Coasts」(London: Cass, 1967)

14) *****Fred Moten著「In the Break: The Aesthetics of the Black Radical Tradition」(University of Minnesota Press, 2003)
人種差別は、世代から世代へと伝えられた傷跡(汚点)のもう一つの姿。
Racism is another way of describing the marks passed from one generation to the next.

15) ******父親の姓はあってなきがごとき「空虚なパロディ」であり、奴隷を所有する主人が、「子の生みの父」である以上に、家長であり自分勝手な愛人なのだ。
このフレーズは、Hortense Spillersの「Mama’s Baby, Papa’s Maybe」と「The Permanent Obliquity of an ‘In(pha)llibly Straight’: In the Time of the Daughters and the Fathers」(「Black, White, and in Color: Essays on American Literature and Culture」Chicago: University of Chicago Press, 2003)に書かれている。

 

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