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オオカミの生き方 | ウィリアム・J・ロング

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Photo by Ralf Κλενγελ(CC BY-NC 2.0)

野生の礼儀は理にかなっている

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 2、3の独立したオオカミの集団が、飢餓のときにともに行動する際、獲物を分ける場面で激しい争いが起きるのではと我々は考える。中でも捉えた獲物が、充分でない場合には。しかしこのようなときも、私たちは自分の目で見るより、想像に頼ってしまうところがある。それで自然の解釈を見誤る。集団であれ、個体であれ、運よく獲物を見つけたり、捉えたりした場合、それはみんなのものになる。狩りを成功させた者であれ、合図を聞いてやって来た者であれ同等だ。わたしは日の出から日没まで、たくさんのオオカミの跡を追ってきたが、そしてごく稀に、彼らが餌を食べているところを見たが、食べものを前に強欲になったり、争いを起こしているのをまだ見たことがない。

 交配期に雄オオカミの中に気性が荒くなり、正気を失う物がいるのは本当だ。彼らのあとをつければ、足跡で荒れた雪の上に、血の跡が残っているのを見つけるかもしれない。同じように頭に血の上ったオオカミの雄同士が、そこで争ったのがわかる。ただ、そこまでひどく相手を傷つけることはないと思われる。というのもこういったオオカミの通り道で、争いの末、不具になったオオカミを見たことがないからだ。決闘の最中にあるオオカミのそばをたまたま通りがかった他のオオカミは、それに気を引かれる様子など見せず、先を急ぐ。やがて2頭の頭に血の上ったオオカミも仲間の行方が気にかかり、急いであとを追おうとする。少し離れたところで起きている別のケンカにも、ちらりと目をやるくらい。発情期は2、3日たって終わる。そのあとは、頭に血の上ったオオカミも再び平和な生きものに戻る。仲間からの獲物の知らせや狩りの集合の合図があれば、並んでいそいそと走っていくだろう。

 ある真夜中のこと、冬の澄んだ月明かりの下、荒地を見おろす崖に立っていた。腹を減らしたオオカミの悲痛な叫び声を、背筋を凍らせて聞いていた。突然、はるか彼方の別の方角から、別のオオカミの鋭い鳴き声が聞こえてきた。張り詰めた空気に放たれた銃弾のようだった。足元の森から影が一つ飛び出し、荒地を猛スピードで横切っていった。さらなる影が飛び出したと思ったら、さらに3番目、4番目が続いた。どの影も声も音もなく、鳴き声の方に向かった。

 夜が明けて、わたしは昨夜の影の跡を追った。その先にあったのは、大きなオオカミが一人で狩った、小さなカリブーだった。カリブーは、しとめられる前にかなりの距離を走りまわったと思われた。その地域では獲物は少なかったので、真夜中の呼び声に、自分の仲間だけでなく他の群れも集まってきた。カリブー1頭を、20頭から30頭のオオカミが食べていた。骨を残して、肉はほぼ残っていなかったので、よほど腹をすかせていたのだろう。皆でいっぺんに食べたのか、群れごとに順に食べたのかは言えない。食べたときの痕跡はなく、個々のオオカミの動向は消えていた。ただ争った跡はなかった。獲物を食べたのち、犬が見せるように互いを嗅ぎあって、オオカミは同じ方向に向かっていったが、すぐにいくつかの群れに分かれ、それぞれの狩りの場へと散っていった。

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 また別のときに凍った湖の上で、6頭のオオカミが、2匹のビーバーを追いかけているのを見た。ビーバーは食料にする木を引きずっていた。これは危険な行為だが、ビーバー家族の長は秋に充分な食料が得られなかったり、食料の木の皮が水の中で凍ってしまったり、酸っぱくなってしまったりしたとき、仕方なくやることになる。1匹のビーバーは小さな川のそばにある避難穴に逃げ込んだ。もう1匹は捕まって食べられた。この1匹では、腹の減った6頭のオオカミには充分ではなく、残されたのはビーバーの大きな切歯と毛皮の切れ端のみ。しかしここでも、ご馳走を前に争った形跡はなかった。食べたあと、子オオカミはじゃれて遊んでいた。雪に残された印は明らかなもので、その意味を取り違えることはまずない。

 弱い生きものを無差別に殺すオオカミというイメージが、わたしたちの中に強くあるが、それは間違っている。それはヒーローを気取る狩人が、オオカミの狩りや殺しは本能によるものだと主張するからでもあるし、また羊の群れに手をかけるときのオオカミの破壊性に憤りを感じているからだ。狩りについては本能ではなく、発明だ。人間がやっているように、あるいは飼い猫や飼い犬が、人間の真似をするようにして狩りを楽しみのためにやったり、腹の減っていないときに無差別に殺すといったことは、野生動物ではまずない。もし捕食する鳥や生きものが、そうした破滅的な本能をもっているなら、来たる冬の終わりには、この地上に餌になる動物はいなくなってしまうだろう。

 イタチの中には(すべてではないが)血に飢えているように見えるものがいる。しかしそのような非情な殺しをするイタチのお腹をチェックすれば、サナダムシなどの寄生虫に苦しめられているのを見つけるだろう。そうなると、絶え間ないイラつきや血を求めるようになるかもしれない。彼らのどう猛性の原因がなんであれ、イタチは自然の法則の例外と思われ、その破壊性は肉食動物によくある習慣でもなく、同じ種属のもっと大きな動物、たとえばカワウソなどに当てはまるものでもない。

 私たちは自分の飼い犬を人間の基準で訓練し、猫に非人道的な繁殖や品種改良をすることで、腹も減っていないのに鳥を殺すようなことをさせてきた。そしてその破壊性を「野生の残忍性」などと呼ぶ。私たちの飼い犬、飼い猫は、実際のところ、正常とは言えない動物だ。彼らの気まぐれな行動は、すべて人間のしつけによるもの、それによって彼らの本能はおとしめられてきた。

 オオカミは他の野生動物と同じように、食料のためにだけ狩りをする。まず自分の空腹を満足させること。そのあとは他の動物を邪魔することなく、我が道を行く。3月の「ハングリー・ムーン(狩りの難しい冬)」のある日、わたしは8頭のオオカミを(直線距離にして)十数キロ追っていた。道の紆余曲折を考えるとおそらくその2倍の距離はあっただろう。

 オオカミたちは野ウサギが豊富にいる湿地を抜けていった。野ウサギはオオカミの通常の食料だ。彼らは三つのシカの生息地(そのうちの一つは10頭を超えるシカがいる)を通っていったが、1匹たりともそれを追うことはなかった。オオカミたちの自制の理由は、道を行った先にあった。彼らは前の晩あるいはその朝早くに、雄ジカを仕留めていた。そして食べたいだけ食べていた。結果、他の動物に関心を示すことなく、自分たちの楽しみで、その辺りをうろついているのだ。これが野生動物の自然な生き方だ。

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