ウィリアム・J・ロング著『おかしなおかしな森の仲間たち』より 訳:だいこくかずえ

ビーバーとカワウソが

出会ったら

(1)

噛みつきあい

 ある雨の日のこと、北部の湖をカヌーでわたっているとき、水の中で騒ぎが起きているのを目にした。とても静かに近づいたので、2匹の争っている生きものは、わたしがそばに行くまで気づかなかった。で、驚いたことに、わたしに気づいたあとも、争いをつづけたのだ。(北部の湖:アメリカ最北東部メイン州

 その2匹はビーバーとカワウソで、どちらも並外れてからだが大きく、ということは、どちらも並外れて用心深いはずだった。こうした荒野では、不注意があっては、どんな生きものもここまでの大きさや年齢にはならない。普通なら、こうした警戒心の強い動物は、わたしが目にするより早く、姿を消すものだ。この2匹はやりかかった仕事に熱中しており、ときに大きくあけた口を相手のノド元に固定したかと思うと、少し離れて旋回しはじめ、互いから目を離さなかった。      

 

 カワウソの方が仕掛けることが多かった。ときどきカワウソはそそのかすように、旋回しながら敵に水をかけたり、矢のように潜水して、水を大きく泡だたせた。からだは大きいが不器用なビーバーの方は、後手にまわるのは構わないようで、敵と面と向かうため、自分のからだの長さの分だけ回転していた。ビーズのような目が赤い光を放つ。大きな切歯は獰猛にむきだしになっていた。カワウソは、ディッパーダック(北米にいるカモの一種)のように水に素早くもぐり、ビーバーはネズミイルカのような滑らかな回転を見せて、水中のカワウソをとらえた。渦巻きが爆発し、ゴボゴボ、バチャバチャと水が吹き上がった。そして互いの首にかみつきながら、両者ともに水面に顔を出す。水中でも水面でも、2匹はすぐそばの大きな異物(カヌー)を無視していた。もしカヌーにもっと気を向ければ、2者の勢いは鈍っただろうに。

 彼らが3回か4回水にもぐったとき、まわりの水が赤く染まっているのに気づいた。調停者が出ていくタイミングのようだった。どっちが喧嘩をはじめたのか知らなかったので、わたしはカヌーを2匹の上に公平に乗り上げた。両者が水面にあらわれると、オールで水しぶきをかけた。それで初めて、2匹はよそ者(敵)がそばから見ていることを意識したようだった。一瞬ののち、2匹は平静にもどった。生来の用心深さが帰ってきたのだ。先ほどの激しい狂気を、服のように脱ぎ捨てた。ビーバーはすぐに、自分の仲間に警戒音を発しながら、水の中に消えていった。こちらは社会性のある動物で、好んで家族と共同生活をしている。そして自分の身の安全は、家族の安全でもある。しかしカワウソの方は、ひとりでうろつく習性があり、音もなく旋回すると水面を進み、近くの岸辺へと向かった。わたしはカワウソがからだをまるめ、傷口をなめてミャーとなき、病気のネコがするように毛並みを整えているのを見ていた。

 

 

罠猟師の推論

 

 それがビーバーとカワウソの憎み合い、終わりのない戦いのように見えるものを目撃した、最初の機会だった。そのときだけだったら、この出来事は忘れてしまったかもしれない。しかしその後の何年かの間に、同じような不可解な抗争を何回も目にすることになった。一度など、小川の河口にある洞窟で、水がグルグル旋回しているところに浮いている両者の死体を見たことがある。そのビーバーとカワウソは互いの首にひどい噛み跡があり、それで殺しあった結果だとわたしは判断した。噛みつきあったまま、どちらも離さず、川底に沈んでいって死んだのだ。そこでしばらく沈んでいて、からだが軽くなってから水面に浮いてきて、まるで喧嘩をつづけているみたいに、渦の中で互いのからだをぶつけあっていた。

 

 この地域では、カワウソとビーバーの間の反目はよくあることなのか、それともある個体同士の敵意による特別なものなのか、わたしには知るすべがなかった。ほかの場所でも似たような争いを聞くが、そのどれもが更なる戸惑いを起こさせる。違う種間での争いは稀な例しかないのに、なぜビーバーという無害な森の仲間が、その道をはずれて、生活上関係をもたない相手との争いをしようとするのか、その理由がわからない。カワウソとビーバーは、食料として相手を食べないという意味で、よく言われるような天敵ではない。両者は共通項のない、憎しみの原因さえもたない、違った種に属している。食料について干渉し合うこともない。カワウソは魚を食べ、ビーバーは木の皮や水生植物を食べて生きているからだ。それに、野生動物というのは、食べ物を探しているとき、それ以外の生きものに干渉することを避けるものだ。その意味でビーバーも、自分のやるべきことに熱中しているはずだ。ビーバーは他の生きものと交わらない生活を送っており、夏は自分の家族とともに川をのぼったり下ったりして暮らし、冬の間は牢屋のような囲いの中で閉じこもって暮らす。めったにないことだが、ビーバーの肉を好むオオカミやオオヤマネコと出会わなければ、人間でも来ないかぎり自分たちの静かな生活に敵はいない。

 

 カワウソの方も、他のイタチ族の多くとは違い、平和を好み、また興味深い生きものでもある。非常にすぐれた漁師であり、誰にも邪魔されずにたくさんの魚を手にしている。そのためいつも上機嫌で、子猫のようにいたずら好きである。多くの動物は子どもの頃は太って遊び好きだが、大きくなるにつれ身が引き締まり、まじめな気質になる。しかしカワウソはその正反対、小さい頃は痩せて生真面目だ。子ども時代、カワウソはずっと長い間、暗い巣の中で暮らす。外に出てくると、水の中で長時間うたた寝し、背中を水につけた格好で天を向き、両手を胸のところで合わせている。大きくなるにつれ、遊ぶようになり、からだは厚みを増していき、充分に発達し終えるとどんな野生動物よりも、陽気で遊び好きになる(非常に人懐こくペットにも向いている)。いつもご馳走に恵まれて機嫌よく暮らし、ビーバーと争ったりする理由がまったくない。人間世界と人間による想像の産物を除けば、「野蛮」な生きものというのは存在しない、ということ。野生動物は、特別な理由なしに争わないものだし、その場合でさえ争いを避けようとする。それならなぜ、この平和主義者の2つの動物が、行き合ったとき喧嘩になるのか。

 

 わたしたちは動物についてわずかのことしか知らない(森で出会う本物の動物だ。本で見たり、博物館で見る、名前で知るだけの動物ではない)ので、どんな答えも当て推量となり、その推量はそれを考案した人によって様々に変化する。わたしの知る罠の仕掛け人に訊いたところ、物静かで観察眼の鋭い(毎年冬になると森に仕掛けた罠を追っている)その男は、カワウソはいつも恨みを抱えて生きていてすぐに喧嘩をはじめる、と自信ありげに言っていた。カワウソは自分専用の釣り場をもつのが好きだ。そこに侵入されるのを嫌う。ここではアビのようであり、カワセミのようであり、ツクシガモのようであり、その他さまざまな漁をする動物と同じように、湖や川の一部を自分のものと思っている。

 

 で、ビーバーはと言えば、漁師ではない。しかしビーバーはときに、漁をする者の邪魔をする。たとえば、ビーバーがマスのいる川にダムをつくれば、近所の漁をする動物にとって、それは漁の終わりを意味する。マスは、ビーバーが引いてきた丸太やハンノキの茂みや絶え間ない泥の掘り返し、渦巻く水の流れといったところに居られなくなる。それでカワウソがご馳走のありかにやって来たとき、自分の餌場が占領され、台無しになっているのに出会う。そのせいで不満を溜め込むのだ。つまりカワウソはダムの設置に恨みをもち、ビーバーは家を守るために戦う。これが罠の仕掛け人の説明だ。

 

 

インディアンのシモーの推測

 

 インディアンのシモーにこれについて尋ねると、ビーバーもカワウソも互いにそれぞれ不満をもっていて、偶然に行き合うと(たいがい互いに避けてはいるが)、どちらも敵意をむきだしにする、と言った。カワウソにはビーバーを嫌う理由があった。ビーバーはカワウソの子どもを盗んで自分の巣に連れ帰り、奴隷にする。「カワウソはすごくキラウ、ビーバーあかんぼぬすむから、はたらかせるから」というのがシモーの言ったこと。ビーバーの方はカワウソをもっと嫌っている。カワウソが自分のダムをもてあそんで堰をこわしてしまうからだ。冬、ビーバーのすみかであるダムは、危険にさらされている。そこに手がかかれば、災難が起きる。壊されれば死さえ呼び込む。騒ぎを起こすことなく、カワウソがダムのそばを通ることは難しい。、バチャバチャとみずをはねとばすカワウソに、危機を察知したビーバーが、家族全員でとびだしてくる。

 

 シモーの言うことは、彼の観察眼において、動物を仔細に見る目の的確さにおいて正しい。しかしビーバーとカワウソの恨みつらみを正しく説明しているかは、また別のことだ。子どものカワウソが、夏にビーバーの家族といっしょにいるところを見かけることはよくある。そうしていることに満足げである。そのカワウソの子がずっといることから、ビーバーの子どもたちといっしょに育てられたことは明らかだ。しかしシモーが言うように、ビーバーがカワウソのあかんぼうを盗んだのかどうか。母親を失ったカワウソの子が、ビーバーの家族についていったのかもしれない。自然なことに思える。あるいは母ビーバーは、多くの動物の母親が子を奪われたときするように、カワウソの子を見つけてきて、乳をやったのか。これは答えの見つからない問いだ。自分の目でビーバーの巣にいるカワウソを観察することはできても、どのようにして来たのかは、想像の域を超えない。

 

 敵対心とは別に、カワウソが冬にビーバーのダムで騒ぎを起こすことも事実だ。しかしそれは意図したものではなく、カワウソの特質によるものだとわたしは思うのだ。カワウソはひらけた水場が好きで、夏には湖や川の広い範囲を行き来して暮らしている。冬になると、氷が張って水が囲われ、運よくできた氷の穴を見つけて水に入るために、荒涼とした氷の世界をさまよい歩くことになる。そういうとき、カワウソは、小さな流れを楽しむ性癖(罠を仕掛ける人がよく知る)がある。カワウソはお腹が減っているか、旅のとちゅうかもしれないし、猟師と同じ道を通って遠くの川に向かっているのかもしれない。しかしカワウソは、水の流れに身を浸すことなく通り過ぎることができない。カワウソのあとを追っていて、なんの目的もなく道から外れて、氷のないところにできた水の流れで遊んでいるのを、わたしは何度も見てきた。そのあと、最初の道筋まで戻って、再び旅をはじめる。

 

 というわけで、冬にカワウソがビーバーのダムのそばを通るとき、ダムのそばに流れがあれば、いつも喜んで水を撒き散らし、大騒ぎして楽しむ。そこに住んでいるビーバーにしてみれば、そのような水を撒き散らす大騒ぎが意味することは、ただ一つ。ダムが壊れるという恐怖だ。氷の張っていない季節なら、ダムが壊れても容易に直すことができる。しかし冬の最中には、小さな裂け目でさえ、大変な災難となる。壊れた部分を修理するために、氷の下を潜っていくことができないからだ。つまり小さな割れ目も、そこに流れが押しよせれば、すぐに大きな決壊になることを意味している。大事な食料の蓄えである木材が、凍って食べられなくなる。そうなるとビーバー家族は、氷に閉じ込められ、自分の巣の中で飢え死にすることになる。万に一つ凍った湖をとおって陸にあがった場合も、短い足と重いからだという不利な条件で、雪に埋もれた森で餌探しをすれば、オオカミかオオヤマネコにつかまってしまうだろう。

 

 ダムのそばの騒ぎは、ビーバーにとって最大の警報となる。毎日ビーバーは、静かな流れのメロディーを聞いて暮らしている。居眠りをしているとき、優しい子守唄のようにそのメロディーに聞き入っていられれば、問題はない。すると突然の間があり、メロディーがとだえたかと思うと、バシャバシャいう大騒ぎがはじまる。ビーバーは氷の下に入り、家族がそのあとにつづいて、何が起きているのか知ろうと、薄暗い水中を覗きみる。ビーバーはダムの上流側か貯水池の中に住んでおり、騒ぎはダムの下流側で起きている。よって氷の屋根をくぐって騒ぎのところまで行くことができない。さんざん原因を探そうと苦労した結果、騒ぎのもとは無用のもの、無頓着なカワウソが自分の楽しみで、あるいは悪ふざけをして危険を招こうとしているとわかる。というわけで、ビーバーの怒りは沸騰する。それで次にカワウソに出会ったとき、そのときの苛立ちを思い出すのだ。

 

 というのが森の仲間の間で起きた、小さなドタバタ喜劇についてのシモーの説明だ。犬もインディアンも自分の受けた被害を忘れることはない、そうであればビーバーも同じじゃないか。シモーはそのように説明したが、わたしは答えなかった。彼は野生動物について、わたしよりずっとよく知っている。

 

 でもわたしは、喧嘩が起きるもっと納得いく理由を知っているのだ。何年にもわたって調べたのちに、ビーバーの家で幸運にも出会ったことから得た理由だ。簡単に言うと、カワウソはときにビーバーのきれいに整えられた清潔な家に、(ビーバーの忌み嫌う)臭い魚の残骸を置いていくという嫌がらせをしている、ということ。このようなおかしな説明を理解するには、北部の長い冬の間、この2種の動物がどのように生きているかを知る必要がある。

 

*次回につづく:『ビーバーの冬の暮らし』『ビーバーの家の構造とデザイン』『無害な隠匿者ビーバー』

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ウィリアム・J・ロング | William J. Long

アメリカの作家、野生動物観察家、プロテスタントの牧師(1867年~1952年)。アーネスト・シートンと同世代、レイチェル・カーソンの親世代にあたる。コネチカット州在住。毎年3月になると、アメリカ最北東部のメイン州を旅し、野生動物の観察をつづけた。その旅に息子と娘2人をつれていくこともあった。冬を超えての滞在もときにしている。

 

長年の動物観察の体験とそこで得た知識を、多数の著書に表している。『ビーバーとカワウソが出会ったら』は、『Wood-folk Comedies』からの1話。他に『Ways of Wood Folk』『School of the Woods』『How Animals Talk』などの本が出版されている。

絵:チャールズ・リビングストン・ブル、チャールズ・コープランド、USDA