DISPOSABLE PEOPLE

​ディスポ人間

第42章

 ぼくの中の邪悪な霊を信じる気持ちは執念深かったが、聖なる霊がいるかどうかについて、そしてそれを自分が信じるかどうかについて闘ってもいた。子ども時代の何ひとつ、聖なる霊の存在を信じさせるものはなかったので、信じることは不可能だ。この問題を真剣に再検討したのは、ぼくが素晴らしい詩だと思っている「ブローグラム主教の謝罪」を読んでいた、20年以上もあとのビジネススクールに通っていたときのことだ。この詩は、ギガディブス氏という無神論者のジャーナリスト(文学者)と会話をもった主教についての詩だ。ギガディブスは、人々が何故、神の存在を信じようとするのか知りたいと思っていた。非常に長い詩ではあるけれど、いろいろな意味で素晴らしいものだ。主教との議論を要約するために、学んでいた統計学と経済学を適用してみた。意思決定の樹状図で説明できると思う。図はこのようなものだ。

ビジネススクールのノートに描いた樹状

 ぼくは主教が死に際に、悔い改める可能性は97%と見積もった。それは主教が自分とギガディブス氏の違いは、疑いによって多様化された不変の信頼を自分はもち、ギガディブス氏は信頼によって多様化された不変の疑いをもっていた、と言ったからだ。疑いが広がり罪に陥ったとき(3%の可能性)、主教は死ぬ見込みがあった。

 この問題を経済学の理論に当てはめれば、普通の人間が天国に行ける現世の価値(満足感またはそこから得られる利益)は、米ドルにして1億ドルを手にすることと等価である、とぼくは仮定する。この金額は、一生分のミルク&ハニー(乳と蜜)、その他もろもろを買うのに充分だろう。その男がたいした賭け事狂いになったり、国税庁につきまとわれなければという話だが。永遠に墓行きになる現世の価値は米ドルで0ドル。永遠に地獄行きの現世価値は、マイナス2千万ドル。

 このモデルでは、それゆえもし主教が信頼を選んだ場合、以下のものを得られる立場になる。

 

 50% × 1億ドル

 + 50% × 0百万ドル

 = 5000万ドル

 

 もし主教が疑いの方を選び、罪に落ちれば、支払いの可能性は:

 

  50% × 1億ドル

 + 50% × マイナス2000万ドル

 = 4000万ドル × 50% = 2000万ドル

 + 50% × 0百万ドル

 = 2000万ドル

 

  このモデルでは、主教は神の存在を疑いながら死んだとしても、天国に行けるチャンスはあったとぼくは思う。主教の神は慈悲深く、主教が生きている間、神を信頼し、その思いは強かったとみなしているから。そしてブローグラムの選択は、5000万ドルと2000万ドルの間ということになった。

 この計算をつづければ、彼の払われるであろう金額は、

 

 97% × 5000万ドル

 + 3% × 2000万ドル

 =4910万ドル

 

 無神論者のジャーナリストの意思決定の樹状図は、だいたいこんな風になる。

 無神論者が悔い改め、主教と同じ5000万ドルを得ようとしても、同じやり方で計算すれば、わずか5%のチャンスとなる。しかし彼がそうしなかった場合は、1000万ドルを失うことになる。見込みを元に計算すれば、彼のすべての配当金は以下のようになる。

 

 5% × 5000万ドル

 + 95% × マイナス1000万ドル

 =マイナス700万ドル

 

 合理的な人間として、ブローグラムは神への疑いを含む信頼、という選択をした。それをこのように言うことができる。

 もしわたしが神を信じ、神というものがいたなら、最高金額を得られる

 もしわたしが神を信じ、神というものがいないなら、我々はは同等だ

 しかしきみが神を信じず、神がいた場合は、きみは大きな損失を被る

 またきみが神を信じず、神というものがいないなら、我々は同等だ

 それゆえ、無神論者は概して失う立場にあり、主教の方は概してこれを手にすることになる。

ミルク&ハニー(乳と蜜)

 無神論者が主教の固い信心に立ち向かうはめになったのは、疑問や疑いのせいだった。ぼくは最初、無神論者のギガディブス氏と同じ立ち場だったが、詩を読んで計算をしたあとには、信じることに何らかの価値があるのではと思った。しかしこれは単なる理論的、実利的な計算であり、ぼくの心が変わることはなかった。

 ところが、2、3年たって、セミコロン、きみがやって来た。そしてすべてが変わった。 

 それはきみと出会って、新しい種類の愛を見つけたからだと思う。そしてきみがぼくを教会に連れ戻したからではなく、神の人間への愛が信じるに足ると思ったからだ。きみといると、ぼくは人生が輝くのを感じ、再生を感じ、救済を感じ、完璧さを感じたからだ。 

 そしてぼくらがシェナンドー国立公園に行った日、きみが初めて、ぼくの手をとって、ぼくを愛していると言ったあの日、ぼくは神の愛を感じたと確信した。これまでこのことをきみに言ったことはなかったけど、本当のことなんだ、マイラブ。それがすべて。ぼくは家に帰ってその時のことを書いた。それはギガディブスがもつことのできなかったものを、ぼくはついに感じたからだ。こんな風に書いた。

 

『ちょっとしたつまらないこと』

 

つまらないこと。

「神秘的なやり方」というもののくだらなさを

「死を目の前に」話されることを

まもなく始まる国際会議のことのように

ぼくがいかに気にかけるか、総括する。

 

死すべき運命についてのわいせつな質問と同じくらい

忌まわしくもイライラさせる

実存主義は

ぼくの気を引くことも、喜ばせることもない。

 

ぼくには子ども時代、自分の過去、あるいは(本心を言えば)故郷にも

メランコリックな思いなどない

そんなものは、(ぼくの言葉を信じていい)

テレビの広告のセックス浸りの女神より

(その好色な外見は、女神は誰とでも寝ると言っているように誤解を与える)

ほんものの憎むべき服装倒錯者だ。

 

それについて言えば、ぼくは、自分のペニスで遊んでいたことを

まったくもって懐かしく思ったりはしない。

セックスする相手を探しまわるのにうんざりし

独り寝の出し入れに麻痺していた。

現在の状態にぼくは適応し、良好だ。

(あるいは、ぼくは、じっと居座る寒冷前線より

まとわりついて離れないまんこを恐れる

年寄りなのかもしれない)

 

というわけで、ぼくが直面している問題はこれだ:

自分がすぐにでも

有機的な、栄養豊富な腐葉土となることへの

疑いや恐怖をもたない

が、長いこと、砕けかけたものを一つの入れ物にとどめてきて

思うに

何らかの方法で

そして自分が分解される前に

女たち、ハンバーガー、厳しい貧乏の顔つきの中にある

ひどい多様性の欠如よりは少し多く

ぼくには資格がある。

 

資格がある

長いこと起きているための理由に対して

 

資格がある、もし

神の尊厳に対するわずかなものに

出会ったり話したり、少なくとも見たりしなければ

 

虫などの栄養分になる前に

 

そして極度にさえない旅のためにこれはあった。

 

たしかに、ぼくは2度の結婚より多く、性交してきた

しかしその間、女たちは

夏の百合のはかない匂い以上のものをぼくに与えなかった

(娼婦たちは、百合以下だったと告白する)

そしてなかなか立ち消えないものと言えば

うんざりさせられた恋人たちのかすかな嫌な臭いくらい。

(これはムカつくようなラベンダーの悪臭)

 

そして見たものについては、世界のいろんなものを

たくさん見てきた

そこにはダリもいれば、ジョアン・ミロ、レンブラント、

ヴァン・ゴッホ、ガウディといったみごとな描画がある

しかし、その輝きと個性をもってしても、「大家たち」は

ぼくの皮膚の下にまで刻み込まれるほどの

描画をぼくに提供しなかった

それは、息つまるような社会の礼儀正しさが

腐ったものやケバケバしさといったものと一緒に

彼らの作品を慕わせることをぼくに許さないからだ。

(ダリに与えられた評価を

認めない人はあまりいないと硬く信じているが)

 

感情については、そう、ぼくにもある

アンネ・フランクの家に、システィナ礼拝堂に、ローマ遺跡といったものに対して

でもこういった感情はずっとは残らなかった

 

アメリカインディアンに対してより長くは

 

消えた

麻薬やマリファナ、ハシシより早く

大学の教育、ゴミ

その他の記憶から消えていくカスより早く消えた

 

過去の

ぼくが放っておくべきだったもののようにではなく

アムステルダムでは簡単に見つかるような

けばけばしい股やおっぱいのかけらみたいなもの

そのイージーさをぼくは認めねばならないが

アティトラン湖でもった楽しみなどとは比べようもない

(甘いというか、ひじょうに深い喜びだった)

 

痛みについては、ぼくは愛と性欲の

両方に噛みつかれてきた、二人の妻、蚊、その他の虫とか

そいつらは(ぼくは疑ってる)ぼくの死が待ちきれなかったのか

あるいはぼくというのは、そう装うまでもなく、食料なのか?

いずれにしても、こういうことは寄生虫の本性だ。

 

ぼくのほうは、マンゴーに噛みつき、その味だけを携えてきた。

 

結局のところ

山、サファリ、火山、女、音楽、命、死、

意味を探し、忘れまいとしてきたことの中で

ただ一つ、今もぼくの心を迷わせること:

それは何故、3の20倍以上も、ぼくの品位が数えることを許さないが

有り余るほどの娼婦といったものを手にしなければならなかったのか

最後にぼくが目にするのは

シェナンドーの谷で出会った

厳かなるぼくの神だ。

 

 そのとき、ぼくは「その存在」を感じたんだ、セミコロン。きみが初めてぼくの手に触れて、二人で山の方を見たとき、神の愛と加護を感じたんだ。神はぼくらに命を授けるけれど、その意味を知るのに何十年も待たねばならないとしたら、ずいぶんといわくありげなやり方をするんだな神様は、とも思った。

 あの日、神の存在を感じたから、次の日にきみのために、小さな十字架のペンダントを買ったんだ。