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DISPOSABLE PEOPLE

​ディスポ人間

第18章

 

11p.m.
セミコロン様

今日、重要な情報をきみに伝えるのを忘れていた。もうきみはうとうとしているし、ぼくが朝まで覚えていられる保証もないから、ノートにそれを書いてきみに伝えようと思った。 

 

マイラブ、今日、ぼくはまた警察に足止めをくわされた。やつらのブサイクな頭は、相互フラストレーションと会話能力不全に陥ってたよ。やつらはぼくに知性のかけらがあるのか、それとも薬物治療中なのか、その証拠を見たがっていた。代わりにぼくは、向こうを驚かせ、うろたえさせてやったよ。ぼくはやつらに、英語で3文字か4文字の単語を綴らせるよう言った。あるいは4文字単語のうちの3文字を言わせるのでもいいと言った。その間ぼくは、スーパーマンのベルトを見せないようにしてたから、こっちの方が上手だとやつらは気づかなかった。向こうが言ってこないから、ぼくが代わりに単語を選んだ。そしてBOYというチョー難しいスペルを書いて見せたよ。びっくりしてたな、ぼくの能力に!

 

警官たちはそれから苛立ちを見せながら、ぼくにチケットを渡すのを(わざとに決まってる)忘れたまま、去っていった。きみが昔言っていた深遠なる言葉を思い出したのは、彼らが去っていったときだった。「ひとたびきみのことを知れば、みんなきみのことを好きになる」 だからぼくは彼らに向かってこう叫んだ。「ぼくのことが好きなのかい?」 とはいえ、彼らがぼくの言葉を聞いていたかは疑わしい。ぼくは車の中にひとり座っていて、一匹のハエがフロントグラスの内側にいるのを見つめていた。驚いたことに、今さらながら、ブンブンいってないときのハエたちは注意深い聞き手であるばかりか、たいした話好きでもある、ということを発見した。このハエは特別に情報通だった。世界銀行はアフリカの貧困を減らす能力がなかったとか、(ぼくの話を聞くことなしに)なぜフリーダおばさんが笑うとき歯を見せないのか、ということまで知っていた。

 

というわけで、40年間にぼくが得た知識というのが、このハエの知識とほぼ同等であるという、痛烈な気づきによってぼくは傷つけられ、この出会いは終了した。

 

再びおやすみの言葉を、マイラブ、いい夢を。

​ケニー

2011年5月16日の日記から


 追悼の言葉が読まれるのを聞くよりずっと前から、パパの人生は短いだけでなく、厳しいものだったと知っていた。まだ小さかった頃から、本能的に、パパの目の厳しさは、そこまでの道のりの過酷さの反映だと気づいていた。
 1980年代初頭には、その厳しさが、顔から指先へ、足からからだ全体へとパパの全身に広がっていくのを見ていた。過酷な歳月によって、皮膚がどんどん硬化していったのだ。40年間、自分の人生のすべての時間を仕事に捧げてきた男が、さらに過酷な労働にさらされ始めた。それなのにその時には、以前より家に持ち帰るものは減っていた。お金も、食べものも、タバコも、口にする言葉も、希望も少なかった。ぼくはパパが家に帰ってきたら飛びつくような、テレビで見るような子どもではなかったけれど、ある時期から、パパから逃れるようになった。パパはいつも一人で帰ってきた。よその人はパパのことを恐れ、また尊敬もしていて、ゴキブリがあわてて逃げるように道を開けた。だからパパは一人で路地を歩いてきた。ぼくがいとこたちとビー玉やなんかで遊んでいた頃は、誰かが「ケニー、パパが戻ってくるよ!」と声をあげた。何をしててもやめるのが正しい反応だったから、ぼくは手をとめ、目をやり、薄暗い路地を通ってやって来るパパの厳しい姿を見、険しさと絶望と消耗と喪失におおわれた暗く冷たい影を追った。パパそのものではなく、パパにまつわる何か、それがぼくに恐れをもたらし、そこから逃げ出したいと思わせたものの正体だ。
 1980年の終わりには、時代が厳しさを増したことは知っていた。ジャマイカの血塗られた選挙の一つである10月の総選挙は、変化の合図だった。社会主義による目まいを起こさせる日々が過ぎ、イデオロギー論争の果てに、人々は「国民は寝過ごしてしまった、素早く服を着て、経済を建て直すために尻をあげて働くのが賢明だ」という新政権からのメッセージによって目を覚ました。ハリー・ポッターのヴォルデモート卿が今や首相となった。邪悪な資本主義者、「名前を言ってはいけないあの人」のクソ野郎で、社会主義者だったパパが、その顔をテレビや新聞で見ようとしなかった人物だ。パパの態度から、ぼくの国は鳥をつかまえて首相にして、それがさえずるかどうか待つ、というようなものになってしまったとわかった。
 新しい首相のエドワード・シアガは国民に向けて、わかりきったことを述べた。時遅し、ことはさらに厳しさを増している、国は破産した、経済を動かすエンジンは火花をとばし、見つけるのが難しい部品が必要だ。ものは欠乏し、値上がりし、パパが家族を養うことがさらに難しくなった。予備の部屋をつくろうとしていた工事はずっとストップしたまま、ママが予約購入したシンガーの調理レンジは届くことなし。夕飯の鶏肉が骨ばかりになった。屋根は、当時管でおしっこを取っていたじいちゃんと同じくらい雨漏りがあった(ぼくらにはじいちゃんも屋根もなおす金がなかった)。
 こういうことが、パパをさらに老けさせ頑固にした理由だろう。でもそれよりずっと前から、ぼくはパパが厳しい人生を歩く苦悩の人、と見ていたように思う。
 チャールズ・ラブレイス、パパが1938年に生まれたときの洗礼名だ。
 それ以外のことで、パパがどんな人間か、知っていたことはわずかだと今になって思う。家でいちばん年長の男であり、ぼくらが犯した悪事(何日も前の忘れかけてるものであっても)をムチで正すために呼びつけるといったことを除けば、知っていることは少ない。パパがぼくらに話しかけることはめったになかった。タバコをたくさん吸った。鶏肉のいちばんおいしいところを食べた。パパには三つの皿が出された。一つにはライスとバナナと団子が、もう一つには肉が、残りの皿にはサラダが。それに砕いたスコッチ・ボネット・チリ(激辛の唐辛子)の小さな皿が添えられることもあった。いいとか悪いとか答えるとき、いつももごもご言うだけで、終わりまで言葉にすることはなかった。食卓でパパといっしょに食べることなど一切なく、そこで今日の出来事を話すこともなかった。それはぼくらの一部屋だけの家に食卓がなかったからではなく、パパはそういう人間じゃなかったからだ。パパは死ぬまでの間、家計を支え、そのあとママが生きている間はママが支えた。でもパパのことを父親として知らないばかりか、当然ながら友としても、人間としてさえよく知らなかった。これを今認めるのは辛いことだ、セミコロン、でもパパの葬式はいろいろな意味で役に立った。そこでパパの人生を少し知ることができたし、生まれて初めてパパのスーツ姿を目にしたんだ。 
 葬式のときに初めて知ったことは、パパには異父兄弟・姉妹がいたという事実。パパは幼いころ、弟、妹3人といっしょに住んでいた。その人たちはパパが10代初期の1950年代に、イギリスで住むために出ていった。パパの母親は4人全員を送りこむことができなかった。家や農場の手伝いが必要だったからだ。3人の子どもの航空券を買うために2頭の牛を売ったあと、母親にはまだ1頭の牛と2、3匹のヤギが残されていた。パパはいちばん年上で頑丈だったから、家に残って世話をすることになった。聞いたことのなかったこの話にぼくは夢中になった。ぼくがいちばん聞きたかったことは、語られないままだったけれど。それは残されたパパが、毎日、家の外で皿を洗ったり、牛のミルクを絞ったりしていて何を思ったか、飛行機が空高く飛んでいくのを見て何を感じたか。強い照り返しの昼の太陽に目を細め、雲の上を飛んでいく兄弟たちの軌跡を追いながら、まだ10代のパパの顔にシワが刻まれていったのが見える。そこから30年、そのシワはママの結婚指輪の裏の文字のように、さらに深く刻まれたはずだ。
 追悼の言葉が読まれているとき、ぼくはこういったちょっとした情報に耳をそばだてた。式の最後に、メソジストの年老いた聖歌隊がブーブーいう豚たちに邪魔されながら歌っているとき、ぼくはもう一度ひつぎのところに行ってパパを見た。今耳にしたパパについての話が、そこに横たわってる人にふさわしいか、確かめたかったのだ。ぼくは優しく動物の世話をしている少年の姿を見てみたかった。きっちりと草刈りをしている様子を見たかった。いつもママの言うことに従い、必要とされることを果たし、熱心に教会に通い、神を敬う少年を見たかった。少年時代の姿はそこにはなかった。そこにいたのは1メートル92センチの、粗野な分厚い手(肋骨が折れるほど、ぼくを激しく打った手だ)を静かに胸の上で合わせた男だった。パパは実際的なものごと(かなづちや釘、ネジ、エンジンなど)に関心を向ける、実際的な男の容貌を持っていた。また磨かれた靴は、その人の口から出てくる言葉以上に性格を表していると考えるような男だった。パパのあごひげは以前より白くなっているように見え、きれいに短く刈り込まれていた。ぼくは以前にパパが眠っているとき、近寄ってあごひげを見たことがあるけど、テレビドラマで子どもたちがやっているみたいに、それで遊んだことはなかった。パパは額に何本かの長いシワがあって、それはミミズの化石みたいだった。二つの目は閉じられていた。いつもぼくの方に目を向けるとき、そう見えたみたいに。ここにいるのは確かにぼくのパパだった。
 そこにいた人たちは、ぼくがパパを見て泣くだろうと思っていたが、泣かなかった。ぼくが泣いたことがあるのは、パパがぼくにムチを打ったときだけだ。
 だけどパパのスーツ姿を見るのはいい気分だった。パパは黒いスーツを着せられ、胸ポケットにはハンカチを挿していて、素敵な見映えだった。葬儀社の人たちはパパの額のシワをかなてこで何とか伸ばして、もっと温厚に見えるようにしただろうけど、成功したとは言えなかった。そのときには、動詞は変化させられるけど原形はそのまま残る、ということがわかり、葬儀社の監督官に彼の仕事ぶりに不満はないと伝えたいと思った。その人は教会の隅に立って、ひつぎに近づくぼくらの様子を、彼の仕事ぶりへの反応をじっと見ていた。ぼくが監督官を見ると、その人がパパにさせられなかったことをぼくにしてきた。ぼくに笑いかけたのだ。ひつぎの中にいる人間を見下ろすと、そこにいたのはぼくの知るパパとはかけ離れた、生前にぼくが望んでいたパパに近い姿だった。
 それがパパを見た最後だった。まだ幼かったとしても、パパが去ってしまったことを、パパが心酔した70年代の社会主義者みたいに、もう戻ってくることはないことを理解した。パパが行ってしまったのを見て悲しかった唯一のことは、ぼくが訊きたかったことの答えのすべてを持ち去ってしまったことだった。なぜぼくを「息子」と呼ばなかったのかというような。
 ぼくは子ども時代の日記を見返して、何かパパのことで書いたことがないか、死ぬ前に話すべきだった重要なことがなかったか調べた。たいしたものは見つからなかった。一つの思い出を除けば。チャールズ・ラブレイス、もし死ぬのを少し遅らせることができたなら、ぼくはこの思い出をあなたと分かち合いたい。
 1980年、ぼくは10歳でビアー・ペン小学校に通っていた。そこはぼくらの沈下地区のそばにある「お子さんに将来の望みは何もないんですか?」レベルの学校だった(何年かのちに政府は地域の名称を改め、ビアー・ペンの「ペン」も家畜小屋みたいな響きがあったから外した)。ぼくにはわかってる。他の学校は5キロ近く歩かなければならなかったと言うように弁解可能なことを。でもぼくはそれは本当のことだったと言うだろうし、親たちが当時はそうせざるを得なかったと弁解すれば、ぼくらが笑って受け流すこともわかっていた。
 ビアー・ペンで最初の一週間を終えるまでに、ぼくは教えられたすべてのことを取得した。遅刻したらムチで打たれる。週のうち3日はブルグルライス(全粒穀物)が出る。喧嘩をしたらムチで打たれる。いい子ぶりっ子は嫌われる。先生への礼儀として「はい、ミスだれそれ」「いいえ、ミスターだれそれ」あるいは「サーだれそれ」と言うこと。残りの日々、ぼくは次の学年を、さらには次の学校を待つことで費やした。ぼくの本当の教育は家でなされた。ばあちゃん、おじさんたち、いとこたちから。彼らから大切なことを学んだ。雄牛が人に突進してくるのはどんな時か、どうやって牛の乳を搾るか、どの葉っぱがどの病気に効くか、女の子に触れる前に切ったばかりの爪にヤスリをかける重要さ、邪悪なものから逃れるために、いつ教会、あるいはオベアマンのところに行くべきか、といったことだ。
 ビアー・ペンでの最初の3年間は何も特別なことは起きなかった。毎日決まりきったことで過ぎていった。授業に出てその間すわってるか寝ていた。頭が2、3度割られた(マンゴーか鳥に向けて投げられた石がぼくの頭を直撃。それはロシアンルーレットみたいなもので、いつか自分の番がまわってくる)。ノミをつかまえた。おたふく風邪にかかって、丸い顔をからかわれた。茹で団子一個をめぐって喧嘩し片目をなくした子がいた。そしてときどき、ランプの火で温めた針で恐ろしいワクチン接種を受けた。ぼくはこういう注射を進んで受けることはなかったし、太ってまんまるのぶかっこうな看護婦のユーモアも介さなかった、と言っておこう。ぼくの妹たちが従順なアフリカの部族の血筋で、ばあちゃんや仲間の薬草暗黒部隊が手わたす薬にたやすく屈するのに対し、ぼくはと言えば、いつもヨルバか野生児だった。看護婦には丁重に、
 「つかまえてみろって、このバイタが」とか
 「ほらほらこっちだって、このアマが」とか
 「ケツの穴にやってみろって、一発やるか?」 ママがぼくの口から出る汚い言葉を聞いたら、涙で川を溢れさすだろう。
 もちろん、楽しい日もあった。マンゴーやアサム(トウモロコシでつくるカリビアンのデザート)を食べた日、ナッティバディのアイスクリームやキングコング・アイスキャンデーを食べた日、「臭いつま先」の実や「豚プラム」の実を食べた日、湿った場所に手をやって女の子をクスクス言わせた日、サッカーで遊んだ日、走りまわって、尻軽女をつかまえて幸せだった日。こういう日々は時とともに去っていった。
 そして1980年の12月、ぼくらが日常から飛び出す日やってきて、その後の30年間、心にとどめる思い出が生み出された。それは学校の先生が作文を書くように言ったことからはじまった。
 「色の黒い、天然パーマの、好奇心で目を輝かせている小さな少年が、開かれたノートを一心に見つめていました。先生が優しくその手を肩に乗せ、励ましの言葉をささやきました」 ぼくはよくその始まりの場面を再現して書こうとしたものだった。自分の子ども時代がそうだったというように、理想的な始まりと終わりのある様々な物語を書いていた。実際は違った。ぼくが書いた物語のようではなかった。
 ぼくは作文を書いた。ぼくの作文が安心して読めるようなものだったのか、それとも本当に何か特別なものがあったのか、わからない。でもグラハム先生は、「スライスした食パンの耳をとってコンデンスミルクをたっぷり塗って食べる」(のが最高と、ジャマイカでは思われていた)に匹敵する、最高の発見だと思った。
 先生がぼくらの書いた作文をもどしてくれた日、スティーブのものには点数がつけられていない(いつものことだが)ことに、ぼくは目をとめた。それは一番最初に返された分で、スティーブが取りにいったとき、先生は何も言わずに作文を手渡した。スティーブはいつも作文に同じことを書いていた。課題がなんであろうと、先生が何を書くよう指示しようと関係なかった。「夏休みには、パパの所有する島に遊びにいきました」「先週、パパのヨットで釣りに出かけました」「パパは金持ちです。みんなの税金を上げるでしょう」といったようなウソ話。スティーブの中で唯一金持ちそうなものと言えばその呼び名、ケンピンスキーだ。これはスラムに住む親たちが、自分の子どもにしかける悪ふざけで、子の名前に希望を託すのだ。このあだ名の他にも、スティーブは想像を絶する金持ちに関する空想をもっていた。
 クラスの中で二人しか、グラハム先生の手書きのコメントをもらえなかった。ぼくと、親友のショーンだ。ショーンは2回目の4年生をやっている。ショーンが作文を読んだあと、不機嫌そうな顔で、家に帰ったらママに伝言を伝えるよう先生は言った。ショーンはもう12歳になっていて、先生の伝言を覚えていられる年齢だった。ショーンは言いつけどおりにした。先生から親へ、親から先生へ、のどちらの日も。次の朝、ショーンが教室に入ってきたとき、37人の生徒のうちの14人くらいしかまだ席についていなかった。グラハム先生はショーンに、何か訊ねる前に「おはようございます」を言いなさいと100万回も注意していた。
 「ショーン、ママはなんて言ってたの?」
 これに対してショーンは、叩かれないように先生の机から3メートルくら離れたところに立って、母親が実際に返した言葉を伝えた。
 「かあさんは、なんでアタシが先生のとこに行かならんのかこっちがききたいよ、と言ってます、先生」 皮肉なことだ。ショーンから聞いたことによると、両親への伝言の理由は、先生がショーンの作文の中に大人の言葉を見つけたからなのだ。
 ショーンは悪童で、それは確かな事実。ショーンの答えに、4、5人の生徒が笑った。多分、それはショーンの書いた言葉が、当時の社会をおおうわいせつさを的確に表していたからだ。ぼくが聞いていたところでは、50年代、60年代にはささいな盗みや姦通といった当時最悪の犯罪に対して、誰もが正当な反応を見せていた。80年代初頭までに社会主義が崩壊して、人々の希望がもみくちゃにされると「社会の落ち込み」がはじまり、銃による暴力が花ひらいた。
 学校も変わっていった。グラフィティ(落書き)があちこちに現れ、たくさんの子どもたちがソックスを足首まで下ろし、シャツをズボンから出し、スカート丈は少しずつ膝上に上がっていった。男の子たちは後ろポケットからハンカチを垂らし(ショーンは赤い水玉模様のハンカチを頭に巻いていて、アラブ人みたいだった)、女の子たちは休憩時間に化粧をするようになった。
 ぼくにとって学校に面白そうなことはもともとなかったが、それは親に学校に行かされてたからでも、先生のせいでもなく、何も期待できるようなことはないと時代が示していたからだ。先生の中には教えることに意欲をなくしているみたいな人もいた。年配の先生たちが見切りをつけて故郷に帰ってしまい、若い先生ばかりが目につくようになった。グラハム先生がすごく若いのに雇われた理由でもあり、ぼくのクラスの担任になったわけでもある。グラハム先生はまだ20代の初めで、最新流行のファッションを身につけることに熱心だった。ヘアスタイルから服や靴、アクセサリーに至るまで。いつも小さな手鏡をもち、ぼくらに何か課題を与えた途端、鏡に見入っていた。
 ささいなことで誰かのことを覚えていることはあるが、グラハム先生については、あの日家で見せるように言われたコメントと、もう一つ小さなこと(先生のいろんな色の下着を見たこと)以外、先生が教えてくれたことなどなかった。先生の名前はモニカだったけど、先生がくれたコメントと下着を見てなかったなら、覚えていることはなかっただろう。先生の髪や目やくちびるでなんの発情も起きなかったから、他の女性のことを忘れるように、先生の記憶も消えていっただろう。しかしグラハム先生はタイトスカートが好きで、それが大きな違いを生んでいた。
 どの席に座るのが最適か見つけたのちは、ただじっと待った。それは(みんなが知ってることだったが)、いつか先生は組んでいる足をほどくからだ。そしてついに足をほどけば、男が期待するもののすべてを目にした。白い下着はぼくの心にチクリと刺さったし、赤いのは胸が苦しくなった。そうやって座っていると、息も絶え絶え、気を失って崩れ落ちそうで、助けてくれと叫び出しそうだった。
 あの当時、ぼくがすごく好きで、でも充分に手に入れられなかったことがいくつかあった。10歳のとき、ぼくはジンジャービールがすごく好きだった。自家製の辛いやつで、のどを通っていくとき焼けるようなやつ。ママはぼくが飲みたいのに、なかなか作ってくれなかった。フリーダおばさんのフライドポークスキンのためなら、ぼくは虐殺さえ起こしそうだった。ばあちゃんの入れる朝のカウフィー(コーヒー)が好きだった。ものすごくリッチな香りがした(ぼくら子どもは10歳までにコーヒーを飲みはじめていた)。そういうものには神々しいものがあった。でもジンジャービールやコーヒーやフライドポークスキンやカニのカレー、ジュリーマンゴーのことを考えなくなる日がやってきた。興奮と意識混濁のような日々に、ぼくの心はグルグルまわり、ぼくが欲しい唯一のもの(ぼくを癒してくれる唯一のもの)は、白の手触りを感じること、赤の下にある隠されたものを見ること、ピンクにさわることだった。ぼくはすごくさわってみたかった! でもこれは80年代に入ったころのことで、当時はまだ、先生というのは手の届かない存在だった。
 でもそれも時とともに変化する。その2年後には、学校は使用済みコンドームがあふれ、朝の祈りの時間は校長先生の非難の言葉で埋められた。男の子と女の子、生徒と先生が互いに触りはじめた。価値観とモラルが低下したので、生徒と先生の間の壁も消えたのだ。ショーンはある先生にさわった。
 ぼくはそのときには12歳になっていて、同じ学校、同じ友だち、同じ教育レベル、先生だけが違っていた。ぼくの6年生のときの算数の先生、エバンス先生は21歳以上には見えなかった。彼女はきれい+消費税で、若くてからだの線がきれいで、顔も美しく、化粧していて、毎日デートがあるみたいに、いつもバラの花の香りを振りまいている人だった。彼女は教えるためにそこにいたのか、ぼくは学ぶためにそこにいたのか。で、ぼくは先生のことを、彼女とやってみたいことを考えて過ごした。ショーンも同じだった。ぼくはその頃にはもう女の子に夢中だったし、すでに窓越しにたくさんのものを見てきたし、ガーネットやコートニーのポルノ雑誌で写真もたくさん見ていたし、近所の女の子たちと壁にもたれておしゃべりする幸せも知っていた。それに加えて、シモーヌとかジェニファーとかいろいろな女の子たちと出会ってもいた。ショーンもいろいろ経験していて、ぼくのものとさして変わりはなかった。ぼくらは来る日も来る日も、女の子のことを話して過ごした。またさらなる時間をつかって、ぼくらのいずれかがどうしたらモニカとベッドに入れるか、、、そして彼女と何をどうするか、について話し合った。
 そしてその日がやってきた。ショーンはもう我慢できない、このままではいられない状態になり、「話すだけ」はもうたくさんだと決意した。それに挑むとは信じられなかったが、ぼくは5日分のランチのお金を賭けた。
 起きたことの逐一の説明から、ぼくは次のようなことを推論する。ある日、授業がはけて休憩時間になって、(ぼくも含めて)子どもたちが外に遊びに出ているとき、ショーンはエバンス先生のデスクに行った。エバンス先生は自分の机のところで、生徒たちの教科書を集めて教材置き場に運ぼうとしていた。ショーンは本を集めるのを手伝い、先生が「ありがとう、ショーン。親切なのね」と言ったとき、あなたはとても刺激的でセクシーだ、と言った。
 当時ぼくらは先生を年齢で分類していた。カテゴリーAは問題なしの先生たちで、20代の若い先生。めったにムチをくらわせたりしない。おそらくそんなことしてる時間がないか、爪を傷めたくないからだ。カテゴリーBはクソあま。30代の先生で取り締まり強化をしてくるやつら。中国政府みたいに、誰が偉いかを見せつけるためにやる。カテゴリーCはあばずれ。40代で、誰かが列を乱そうものなら、取り逃がすことなく、すぐさまケツにムチをくらわせることであてにされている(あばずれもクソあまも男性、女性どちらにも適応される。クソあまは、もし男だった場合は「クソあまの息子」に置き換えられる)。カテゴリーDは悪霊だ。それ以外の50代の先生たちで、生徒のムチ打ちを楽しむやつら。たまったフラストレーションを解消する機会を見逃すことがない。そして最後にマクリーン先生がいて、彼女は自分専用のカテゴリーに属している。ルツとアブラハムを足したより年寄りだという噂があり、ずっと前に引退しているはずの人だけど、誰一人(校長も)あえてそれを言う者がいなかった。ショーンによる確かな情報では、頭がハゲていてかつらを被っている。夜ベッドの中で、飼い猫がまんこをなめたときだけ笑みを浮かべる。11本足の指がある。地球に住む悪魔の代理人、ローマ法王の邪悪な敵対者である。ただ一つの生きる目的は何かといえば、ムチ打ち。それとマクリーン先生はぼくの名前を覚えられない。
 「ちょっとそこの子、あんたの名前は?」
 「ケニー、先生、、、あの、つまりぼくの名前はケニーです、先生」
 「火曜日に宿題をもってこなくて、わたしがムチ打った子はあんた?」
 「いいえ、先生、ぼくじゃありません、先生」 妙な間合い、これは「ネズミ獲りゲーム」か。先生がぼくの髪や服や靴を点検しはじめたので、急いで身なりを整えた。休み時間にビー玉遊びで身をかがめるので、たいていシャツはズボンから出ていた。
 「黒い靴をはいているじゃないの、あんた。何をはくのが決まりかわかってる?」
 「いいえ、先生。いや、はい先生。知ってます。ママが先生に手紙を書いて、、、」
 「あんた先週、母親からの手紙のことでウソついて、ムチ打ちした子じゃないの?」
 「いいえ、違います、先生。ぼくじゃないです、先生」
 「名前はなんだって言ったっけ。オフィスに戻って調べるから」
 こういう尋問以外には年配の先生と話すことはないし、絶対にこっちから話しかけたりはしなかった。エバンス先生は、でも全然べつ。彼女はカテゴリーAで、よくクスクス笑いをする。
 ショーンが彼女にセクシーだと言ったとき、エバンス先生はクスクス笑って、さらに(ショーンの言い分では)「ドアの錠をはずした」。ショーンとぼくは散々話し合った結果、そのときまでに、女は男の中にある自信を見て好きになる、そして女の子も男の子の中にある自信を見て好きになる、とわかっていた。それが真実だとぼくらの間では承認されていて、どちらもその点でぬかりはなかった。ぼくについて言えば、何時間も次のような練習を試みていた。どんな風に立つのがいいか、どのように壁に寄りかかるか、女の子に「ぼくのこと好き?」などと絶対に訊かないとか、みんなの前で女の子の手を握らないとか、いつが適正なときなのかをどうやって知ればいいかとか、そのときが来たら何て言うべきかとか。ショーンにとって時は熟した。ショーンは以前にうまくいったときのセリフを持ち込んだ。
 「あなたのパムパム(膣)はたっぷりとして素晴らしいって賭けてもいい」 ショーンはこれを賛辞として口にした。これで彼女のドアが開かれるか、あるいは軽い非難の言葉を浴びるか、そんなところ。エバンス先生はまたクスクス笑いをして、ショーンはドアから入った。
 1980年代初頭、経済復興大計画の一部として、公務員の多くが、行政規模の縮小を託された新たな反社会主義政権のもとで解雇された。多くの警察官、消防員、先生、看護婦などが解雇された。ぼくらの学校に看護婦が常駐する一角があり、そこでデブでブスの看護婦が一日中小説を読んで過ごしていた。そしてときどき恐ろしいワクチン接種をぼくらにした。この看護婦は政府の公務員縮小計画の最初の施行の対象となり、その部屋は空き部屋になった。
 ショーンとエバンス先生の「会談」から2、3日後、二人は休憩時間に元看護婦部屋に行った。ショーンが言うことには、そこで「男女の出来事」が起きたという。ショーンは夢中になって先生の柔らかで大きな乳首の胸を吸い、湿って膨らんだクリトリスを指でさわり、ケツの穴に指をつっこんだ。そのお返しとして彼女の方はうめき声をもらし、ショーンの耳や舌を吸った。残念ながら、そこから先はたいして進まなかった(他の男子たちがこの手のことではウソをつくのに対して、ショーンは正直で、あったことをそのまま言うタイプ)が、そのときにはショーンもぼくも、年上の女の人にどう近づいたらいいかすでに学んでいた。
 以来、ぼくの階級は上昇しはじめた。エバンス先生の気前のいい評価のせいであり、また彼女からの支援や注目が増えたことによる。エバンス先生はショーンに二人のことを誰にも言わないよう頼んでいたけど、次の日にはぼくが知ってることを彼女も気づいていた。先生は口外してほしくなかったと思われ、それでぼくは共犯者となり、彼女から特別なレッスンや注目を得るようになった。幸運の女神がぼくを指差したことで、ぼくの運命に変化が起きた。しかしパパの話からはすごく離れてしまった。もし何が起きたかパパが知ったら、ぼくの根性を容赦なくムチで叩き直そうとしただろうし、ムチ打ちのあとに、ぼくがどうなってしまったかは誰にもわからない。
 ぼくが10歳だったときに戻ろう。グラハム先生はぼくの作文を誉めてくれた。両親宛てに書いた感想をぼくに持たせた。そこには10歳の子が書いたものとして、これまで見た中で最高の出来であり、お子さんは可能性を秘めていて将来有望だ、とあった。
 ぼくはその感想を持って家に帰り、ママに見せた。ママはこれは母親ぶりを見せるまたとない機会だと判断した。誇らしげに微笑むと、おまえは自慢の息子だと言って抱きしめ、髪をなでた。ママからの耳にしたことのない誉め言葉に、ぼくはうろたえまくった。しかし同時にそれはぼくの人生で、めったにない幸せな瞬間にもなった。
 そしてパパの番だ。
 ママは異様な興奮状態の中、パパが帰ってくるのを待たずに、パパの仕事場に先生の感想を持っていって見せるよう告げた。
 ぼく独自の礼儀作法をつかわずに家を離れることは許されないことで、またマンゴーなしではどこにも行かなかったから、パパの仕事場への6キロの道のりにその両方を携えていった。ぼくの作法というのは、女っぽい礼儀の見せ方ではなく、大人のように振る舞うことだった。そしてマンゴーは、いつものようにズポンの前ポケットにあった。ぼくは歩いているところを見られたくなかったけど、それは難しいことではなかった。というのもその頃には、ぼくはすでに高度に訓練された忍者ジェダイの達人だったのだから。それでぼくは沈下地区から出ていく2番目の路地をつかい、姿を消して歩いていった。木の頂上の葉っぱの上を飛ぶように行ったり、そっと鳥たちの羽につかまって進んだ。鳥たちはぼくの存在に気づいておらず、ぼくのからだの重さも感じないままに空を飛んでいた。角の店から手に袋入りジュースをもって出てきたビリーにだけ、姿を表すことにした。その前の日、ビー玉遊びでビリーを負かしていて、スチールのビー玉を戦利品として手にしてた。ジュースをひと吸いさせてもらう交渉の道具として、マンゴーをひとかじり、もしそれでだめなら昨日のビー玉を返すことを考えた。しかし近づいたときには、ジュースの袋の色が消えて、透明な氷が残っているだけだった。ビリーは何も差し出さなかったので、ぼくもマンゴーとビー玉を保留し、姿を消す前に、これからどこに行くか告げた。
  途中、「燃える子牛」を殺りくし、「ブラックハートマン」を出し抜くけれど、哀れみのかけらさえぼくは見せない。ぼくはまた、エイリアンの集団に捕らえられ、ビブルポップ星に連れ去られていたファッションモデルを救出した。ファッションモデルと宇宙船から飛び降りて地球に近づいたとき、ぼくは彼女の白い下着の下に手を入れ、そのまま安全に地上に着陸した。彼女はにっこり笑って、ぼくのしたこと両方に感謝してくれた。
 パパの小さな修理工場に着いて、そこで戦った唯一の悪霊は、内部の者だった。そいつはそこにいて、厳しい顔つきをしていた。そいつは見習い工のデイブと働いていて、エンジンを解体していた。ぼくのことを何の表情もなく見たけど、それは入っていいという印で、何の用事で来たか言ってもいいことを意味すると知っていた。ぼくは先生の感想が書かれた紙を手に、修理を待っている立てかけられたギアボックスの上に腰かけた。少しして、パパはやっていることの手をとめてぼくを見て、もごもごと口の中で「なんだ?」と聞こえるような言葉を発した。ぼくは前かがみになって、手にしていた紙を手渡したけど、また「手が汚れてるから、それが何なのか言え」というようなもごもごが聞こえた。そのときぼくはパパは字が読めないとは知らなかった。葬式のとき、パパが犠牲になったから妹や弟がいい生活をできたんだ、とみんなが言っていた。ぼくは学校の先生がぼくの作文のことを何て言ったか、ママがそのことをパパに伝えるよう言ったことを話した。パパは話を聞いたのち、顔をぼくから背けまた何かもごもご言った。
 それから何分かぼくはギアボックスにすわって、パパが仕事をつづけ、見習い工にもごもごと指示しているのを見ていた。見習い工はぼくの存在に気をつかうことはなかった。こっちがどう振る舞うかが他人に影響を与えることはある。
 しばらくしてパパはまた手をとめ、汚い布で手をぬぐうと、後ろポケットから財布を出して2、3ドルを抜き出し、ぼくに差し出した。テレパシーでもあるのか、見習い工が何を飲みたいか問われてるのを察知し、「コーラ・シャンペン」と言った。パパが「レッド・ストライプ(ビール)」ともごもご言い、ぼくも何か好きなものを飲んでいいいという感じがした。隣りの店に行って、頼まれた飲み物と自分の分のD&Gジンジャービール・ソーダを買った。ぼくが釣銭をパパに渡すと、もう片方の手に5ドル札を持っていて、それをぼくにくれた。ぼくのお駄賃としてくれたのか、帰らせるための袖の下なのか、学校で誉められたご褒美なのか、今に至るまでわからない。何一つ、その口からは発せられず、そのあとぼくは家に向かった。もう遊びはしなかった。ジェダイの達人に変身こそしてなかったものの、どうしてか自分は人の目に見えないと感じていた。
 一見どこにでもあることに見えたけど、その日のことはぼくの人生に決定打を与えた。
 その三日後、パパの友だちのローパーさんが家に寄っていった。この人は夕方によくやって来て、家の脇でパパとおしゃべりしたりタバコを吸ったりしている。その日ローパーさんはいつもより少し早くやって来て、パパはまだ帰ってなかった。それで家の前の階段にすわって、ママとマーティン相手におしゃべりをしていた。ぼくがトミーの家から戻ってくると(時間が早かったから、ぼくが走って帰るところを上の道からパパが目にすることはなかった)、ローパーさんはそこにまだいた。ローパーさんはぼくに向かって大声で嬉しそうにおめでとうを言った。
 「おや、賢い坊主のお帰りかい? 坊主、おれにあの作文を読んでくれなきゃな。昨日バーにいる間じゅう、おまえのプッパ(父さん)はみんなにずっとその話をしてたんだぞ。さあ、作文をこのおれに読んでくれよ、坊主!」
 そのときわかった。パパは人とちゃんとした会話をもたなかったとしても、ぼくのことを誇りに思ってたんだ。
 さて、ここで本題にはいろう。パパの死について話そう。ここまでずいぶん引き伸ばされてしまったけれど。パパの話のつづきだ。
 ぼくのパパはぼくが大きくなる前に死んだ。パパ自身まだ若く、ぼくの兄さんや妹たちもそうだった。これについてはママも同様で、ぼくが大きくなる前に死んだ。そしてママ自身もまだ若く、ぼくの兄さんや妹たちもそうだった。実のところ、ぼくの家族の多くがぼくが大きくなる前に死んだ。死んだ本人たちも若く、50歳を超えて生きた者は少ない。それが理由で、長生きのボブおじさんが親切にも、20代のぼくに中年期の危機について助言をくれたのだ。
 パパが死ぬ前の日、ぼくはパパに会いに行った。パパはスパニッシュ・タウンの病院に入院してた。1986年11月のこと、ぼくは16歳だった。
 ぼくらの村から街まで行くバスがあって、「街のケツ」と呼ばれるスラムな南西地区から街中に入っていく。バスはシミだらけの恥に満ちたスラムを通って、どこか遠い建物から立ち上る黒々とした噴煙に向かって走る。そしてバス停はないものの、病院の門のところで停止する。バスはいつも、街や近くの村からやってくるたくさんの貧乏人たちを公立病院まで運ぶため、そこで止まる。ぼくが病院に行く何日か前に、いとこのウェインが冗談を言った。みんなあそこに死ぬためにいくか、死にそうな人に会い行くかどっちかだな。無邪気な子どもが言った冗談だとしても、誰も笑う者はいなかった。
 パパはこの病院に入院していた。パパの具合が悪くなったから診てもらわなくては、とママがぼくに告げてから2、3日間入院していた。パパは普通の食事が取れず、手術のあと具合が悪くなっていて、体重を落とし、墓場みたいな感じだった。孝行息子のように、ぼくはママといっしょにパパを見舞った。自分たちが訪ねていくところを心の中で描いた。ママがパパの手に触れ、パパが消化できる流動食を食べる手助けをする。ぼくはそれを見つめる。
 ぼくらはバスで席を見つけた。いつもそうできるわけではなかった。みんながバスに乗り終わるのを長いこと待たねばならなかった。そしてバスは出発した。
 土曜日は村から出るのに、主要道路で交通渋滞が起きた。土曜日は市場の立つ日で、人や家畜や車で溢れる道を通れるのは、止むことのない祈りと神への信仰心だけだ、とママを嘆かせた。でもその日は水曜日だった。通りはそれほど混雑してなかった。
 「パパはすぐによくなるよ」 ママはそう言って、気分を軽くしようとした。当時ママには幸せなことがほとんどなかったのに、なんとか笑みを絶やさないようにしていた。その朝、ママは目に悲しみをとどめたまま、そのような笑みを一つぼくに向けた。そのあとぼくら三人は口を開かなかった。兄さんも黙っていた。妹たちは来ていなかった。そのときまでにまだ二人しか生まれてなく(一人はお腹の中だった)、父親の病気を見舞うには小さすぎると思われていた。
 ママの笑みや話された言葉とともに、ぼくの村のこと、心をよぎるいくつかの恥の記憶、そういったものがぼくの心の奥で漂っていた。ぼくは窓越しに無限の人生を覗きつづけ、見聞きしたことを日記に書きつけて過ごしてきた。
 サトウキビ畑のことを思い出す。当時それは政府の持ちものだったが、以前は奴隷プランテーションだった。そこは言い伝えによれば、魔女に所有されていたものだ。ぼくらがクーリーと呼んでいるインド人たちが、サトウキビ畑のまわりに住んでいた。200年以上前、クーリーたちは奴隷が解放されたあとに連れてこられた。プランテーションのまわりに、彼らは小さな家を建てた。その人たちが家を建てたあと、それほどたくさんの家が増えたわけではない。
 ぼくらのバスは道沿いに15マイル(24キロ)ごとに立つマンゴーの木を通過し、小さなカトリック教会(この教会はバチカン市国から認可を受けてるのだろうか?)を通り過ぎて道を進む。その道みちにはいつも、果物を売る女の子たちがいた。マンゴーにオレンジ、輸入のリンゴ。これがこの子たちの家族の主たる収入ではなく、ちょっとした足しであったならとぼくは願った。でもそうではなかった。
 街のはずれから入っていくと、古い家並みが目の前に現れた。女たちは朝の10時だというのに寝間着のまま庭ですわっていた。男たちは道端でしゃがみこんでいた。「しゃがみ野郎の大群か」と兄さんが冗談を言ったことがある。この人たちも不法居住者で、朝のビーチのカニの穴と同じくらいの数いて、街の人口の一部を占めていた。2、3ヶ月前、世界銀行からの資金で、国の再定住計画ができた。住宅供給大臣はこれを発表することに鼻高々だった。人々はその頃、世界銀行やIMFのことをよく話題にしていたし、社会主義者たちが経済を破綻させたあとは、経済の救済計画についてもよく口にした。
 ぼくらを乗せたバスはトタンのフェンス、壊れた窓、トゲ付きフェンス、野良犬、スラムの次回会合の日時や場所を告げる大量のポスターの前を通っていく。この巨大な丘陵地に広がるスラムは、昼も夜も音楽が愉快に充満するあばらやだらけの地区。住宅供給大臣が「スラム」からの脱出という揺るぎない約束をしたので、新しい都市を作れるはずだった場所だ。その頃ここでデモがあったが、ここの人たちが自分たちのことを「スラム」と呼ばれたと思ったからしたデモなのか、彼らがこの地区には(他の人には計り知れない)価値があると思っているからデモしたのか全くわからなかった。
 途中でぼくは道端にいる、「中東に平和がもたらされたらすぐに餌がもらえる」と約束されたみたいに見える犬を見た。ぼくの犬を思い出させたんで、その犬のことを覚えている。ぼくのラフィーもただのよくいる雑種犬で、自分で餌をみつけ、家の外で暮らし、病気になれば草を食べて治し、他の犬と喧嘩し、ニワトリやヤギやブタを追いまわしていた。なんの芸もない普通の犬。うつろで、毛が抜け、臭くて、ぼくは時々、ラフィーが家に帰る道を忘れてしまえばいいのに、と願った。ぼくらの家から何キロも離れたところの人が、袋に入れて投げ捨てていくネコみたいに。ラフィーはぼくが13歳のとき車にひかれて、それで一巻の終わりになった。テレビドラマに出てくるような(車のフロントシートに立って、風に顔を向けて風景を楽しみ、アメリカのハイウェイを走りぬけていくような)犬ではなかった。こういう犬たちは投げた棒を拾い、ボールのあと追い、ダニを移すことなく、子どもたちと地面を転がりまわる。
 バスはセント・キャサリーン小学校のところを通る。門のところには疲れた顔をした警備員がぼんやりとすわっているが、何かあれば即座に、空腹と木のスツールを武器に学校を守る準備はできていた。パパの賃金よりもっと薄給ではないかと、警備員を見て思った。
 当時まだ駆け出しの作家であったぼくには、なぜイギリス人の承諾が必要なのか理解できなかったが、ぼくらのバスは小学校の角を通れるよう折り合いをつけていて、病院に向かって走った。ぼくは病院の背後から煙が空に上がっているのを目にした。兄さんは以前に、煙は焼却炉からのもので、死産の子どもや貧困者を焼いているのだと言っていた。本当のことなのか、無学な子どもに対する「牛がおまえを呼んでるぞ、話がしたいってさ」といった種類のからかいなのかわからなかった。そのときにはわざわざ確かめたりしなかった。
 道端には乞食たちがいて、通りを自分たちのマリオット・リゾートにしていた。片足の乞食が道路の真ん中まで跳ねていったが、自分の影を追ってるみたいに弱って貧相だった。車やバスが来ると「銀行の窓口」求めて足を引きずっていく。ぼくらのバスの誰かが「そのド臭いからだをどけろ!」と男を怒鳴りつけた。ぼくはそれをメモした。(バスの乗客の何人かは笑い、ぼくの兄さんも忍び笑いしていた) その声にドッと拍手が沸き、スタンディング・オベーションも。
 外灯のそばでひれ伏すように寝ている老女を見た。「トリシアのフェラ」と、1日前の宝くじの当選番号、どこに鶏の背肉は売ってるかの看板の下に頭を突っ込んでいた。冷たいレモネードを一杯、汚れたペットボトルから味わったのがわかったが、レモンも砂糖も氷も抜きだった。目は果てしなく虚ろで、破れた服から見える鎖骨はタイタニック号より深く沈んでいた。よその影人間が捨てたタバコの吸殻を吸っていた。この女にはたくさん子どもがいたんじゃないだろうかとぼくは思ったが、誰一人世話をする者はいない。できた子どもであれば、見にくるくらいはするだろうに。
 街のこのあたりは、フリルやレース飾りなどない場所。居間もなく、客室もなく、予備の部屋もない。余分なものはいっさいなし。
 2、3分してバスは病院の門のところで停止した。8歳くらいの男の子が、釣り銭を期待して道案内をしていた。この子はこれで食ってるのだ。この8歳と思しき子は、学校の先生とより牛と多くの時間を過ごしてきたように見えるし、着ているマンチェスター・ユナイテッドのジャージは、この子にとって唯一のイギリスに近づく道。服装と振る舞いを見れば、この子が貧乏人であることは明らかだ。クソさえなしの子、とぼくはノートに記した。
 もう一人、男の子のそばにいた小さな女の子(妹ではないか)がいて、そのポカホンタスはあたりを走りまわり、見知らぬ人々をつけまわしていた。この女の子は6歳くらいで、近くの屋台から流れるバッテリーラジオの音楽にあわせて、無邪気にグルグルと旋回していた。音楽はガーシュインじゃない。もし夜にこの子の家の前を通りがかって窓から家の中をのぞいたら、「パパ、くすぐったいよう」とキャーキャーと笑う声を耳にするだろうか、と思ったりした。まずそういうことはないだろう。
 ぼくらは病院の中に入っていった。声をかけなければならない人々と口をきき、そしてパパの部屋へと向かった。病室には誰もいなくて、パパ一人、尿と消毒液と苦痛の臭い。言葉はない、もうパパはしばらく意識がなかった。
 病室で見たり臭いをかいだりすることから、一人の男についてたくさんのことを語ることができる。どんな風に出勤していたか、メルセデスなのか徒歩なのか。どんな仕事についていたのか、学校にはどれくらい行ったか、普段どんなものを食べていたか、1日何回ご飯を食べることができたか、キャビアとケーキが出されたらどちらを選んだか。でも夜ベッドに行くとき何を思ったか、友だちといるとき作り話や伝説のたぐいをする側だったのか、政治についてどう思っていたかについては、残念ながら言えない。サツマイモのブディングを作ったことがあるか、太った女と寝たことがあるか、シャワーのときに小さな声で歌をうたっていたか、女が皿を洗おうとしているのを無理やりウェストを抱いてダンスしようと考えたことがあるか、そういったこともわからない。ちょっとした癖(おならをするとか、にっこり笑うとか)もわからなければ、割れるような大声で笑ったことがあったかもわからない。あるいはママのことを愛したことがあったかのか、もわからない。
 パパは次の日の朝9時17分に死んだ。木曜日だった。その日担当医を見つけて、ぼくは質問をしようかと考えたが、結局しなかった。パパが先生に、ぼくのことを愛したことがあった、と告げようとしたとは思えなかった。
 パパは胆石を取るという単純な手術のあとで死んだ。パパの導尿カテーテルがいっぱいになっても、誰もそれを代えに来なかった。トイレに行きたいとベルを鳴らしても、誰もやって来なかった。滑り止め防止付きソックスを誰もパパにくれなかった。パパが倒れそうになったとき、支える人はそこにいなかった。医師を呼んでくれる人が部屋におらず、大きく開いた傷口を誰も縫い合わせてくれなかった。汚い床に血を流して死にかけているとき、誰もパパの最後の言葉を聞くことはなかった。そしてパパは気を失った。よってその1、2日後、パパは死んだ。というようなわけ、そういうことだ。

注意書き:
・これは不完全な図である。ここに描かれているよりもっと多くの恐ろしい家があり、ダピーがいる。敷地の右側がぼくらの家族、親戚が住んでいる側。反対側に住む人たちの多くはあとからやって来たよそ者。
・ここに書いた絵の方が、実際ぼくらが住んでいた所より見た目がいい。映画館もぼくらが行っていたものよりしゃれている。
・家はすべて同じように描いたが、実際にそうだからではなく、どの家の人も四つの壁に同じように閉じ込められているからで、また窓から逃げ出すこともできない。
・ボブおじさんの家はフェンスに囲まれているが、侵入者を防ぐためではなく、おじさんが外に出られないようにするため。栄養失調気味のおじさんのおかしなところは、ぼくら子どもにいつもアイスクリーム屋に連れていくと約束すること。土曜が来るたびに、日曜にアイスクリーム屋に連れていくと言うが、日曜日におじさんの姿はどこにもない。年長の子たちはこんな風に言っていた。「あんだけ約束してなにもしないやつは他にない」

 

 村にあるヒマラヤスギをこの図には描けないけど、とても重要な木なので、これについてはあとで話す。

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