DISPOSABLE PEOPLE

​ディスポ人間

第9章

 

「壁のある一点を2、3時間見続けて、その行為を疑うことなく続ければ、夜が必ず朝となるように、 真理と悟りを手にするだろう。男というのは健やかなからだと、女に対する欲望に勝つ意志のみが必要であり、欲望を手にするための健康や美貌はいらない、という永遠の真理を理解するだろう」
 

K.ラブレイスの無駄口(2001年ごろ)

 ぽっとんトイレ(家の外にある便所)はある意味、ぼくの子ども時代の象徴かもしれないと思ってる。その理由は日々の糞はいつもぼくらと一緒で、流されてなくなることがない、という事実を常に思い起こさせるからだ。さらには、1日のどの時間であれ、パパやおじさんたちの畑での仕事の成果、ママやおばさんたちの市場での仕事の成果を見たいと思えば、ぽっとんトイレに行って中を覗けばいい。みんなの日々の努力のすべてがそこにあった。穴の中の山に何を見ようと、すべての成果はそこに現れる。それ以上でも、それ以下でもない。でかい家でも、車でも、銀行口座の金でもなく、テラテラした糞の山にこそ現れている。その盛り上がったテラテラした山に、なんて名前をつけたか知りたいかな? 何年も前にそれを書いたノートがここにある。「ハエどもの神様」
 それは「発展」とブロンズの太文字で刻まれたトロフィーが、つばで磨かれ、みんなが見れるようにガラスケースの中に置かれ、ぼくら子どもの手の届かない高いところに保管された日々のことだった。「発展」とは沈下地区に住むぼくらが、ぜひとも手に入れたいトロフィーのようなものだったのだ。
 ぼくらのトイレにはドアがたいていなくて、板とトタンで作られていた。大きく空いた入り口から誰もが中を覗くことができたし、使用中に外にいる人とおしゃべりをしたりもしていた。ポッチャンというプライドのかけらを表す音が、無限の穴の中に吸い込まれていった。トイレはぼくの日記帳の最初の項目として(トーマスおじさんに関する詩だった)、中心的な役割を担っていた。それはトーマスおじさんの息子ブライアンが、暴徒に惨殺された8ヶ月後に書いたものだった。


  「言葉もない」

おじさんは糞まみれだった
ほかに表現のしようがない、ほんとだから
てんかんの発作になった
ぽっとんトイレで
で次の朝に発見された
糞の山の中で、死んでた
そういうことだ

 

   日付のない日記帳より(1984年ごろ)

 トーマスおじさんが糞まみれで死んでいるのを見つけたあと、日記に書いたのがこれ、『ハエどもの神様』。ずっと前に、これと同じ題名の本を見たことがあった。さてと、親愛なるセミコロン、同じナイフがヤギを刺し、ヒツジを刺すというのはよく知られた話だ。だから他人に起きた不幸を笑うのは気をつけたほうがいい。それゆえにぼくは、起きたことを詳細に綴ろうとしている。家族や親戚の誰かをバカにするためではなく、ぼくの知る真実を語るために。
 あそこで事件が起きたこと以外に、あのトイレにどんな価値があるかって? ぼくらの家から少し離れた場所にあって、みんなが使っていたド臭いぽっとんトイレだった、という事実以上の価値はほとんどない。当時は、誰ひとり家の中や自分専用のトイレなどもってなかった。したがってこのトイレも共有の財産だった。おそらくこの記憶がこの数年、ぼくにつきまとう理由はここにあると思う。ぼくはあのトイレでずいぶん長い時間過ごしたし、尻が糞の山につかないようしゃがんでいたことで、太ももの筋肉が鍛えられたからだ。
 糞にくわえてあの場面では、新聞がたくさんあったことも指摘しておきたい。言っておきたいのは、ぼくらの敷地ではニュースを読むために新聞をつかっていたわけではないこと。新聞はまだ青い果物(マンゴーなど)を熟すまで包んでおくためと、トイレで尻を拭くための両方に使われていた。(ぼくのおじさんはニュースの中で最後を迎えたと言えるかもしれない)
 これはブライアンが殺されて2、3ヶ月後に起きたことで、約1年後に、ぼくは別のいとこのジェニファーと初めてファックした。トーマスおじさんは、ジョージ・エリオットの本「サイラス・マーナー」に出てくるようなケチではなかった。そのケチはたくさんお金を隠しもっていて、てんかんに苦しめられ、意識を失ってる間に金を盗まれた。高校の教科書に載っている悲しい物語だ。でもこれはぼくの本当のおじさんに起きた話。4人いるおじさんの一人だ。多分4人の中で一番貧乏で、それはてんかんの発作があったから仕事をもらえなかったためだ。この皮肉な話は、ぼくが思うに、糞すらもてない男がそれに殺されてしまうという生涯を示している。
 おじさんの糞臭い死、ヤギ泥棒のその息子の血なまぐさい死という、ぼくら親戚に降りかかった濃厚な恥は、耐え難いものだった。ぼくはおじさん、ブライアン両方の葬式に行った。どっちも同じだった。ぼくの日記帳によれば、両者ともこんな風だ。

 

「葬式」


あいつは横たわる
犬のように道端で
蹴られ
ひっくり返され
死が確認される
顕微鏡もなし
聴診器もなし
診断もなし
生きていたことなど
愛されたことなど
感じたことなどなかったように
アーメン

 こんな風だった、これ以上クソなことはない。
 ベルばあちゃんの言ったこと。「あいつが教会に行ってたら、こんなことは絶対に起きなかっただろうよ」