世界消息:そのときわたしは

地球のどこかで起きたこと、起きていることを、その場所から記者や作家、学者、写真家たちが自分の言葉で伝えます。

8.中国人の目をとおしたチベット

テキスト:ピーター・ヘスラー(Peter Hessler)

ラサの街と山並み

ラサの街と山並み。発展というのは、文化を犠牲にすることがある。ラサの古い街並みは、近代的なビルによって無機質な顔に変わった。   Photograph by molpix

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The Atlantic

アトランティックは1857年創設のアメリカの雑誌。現在はワシントンD.C.に本拠を置き、文化や社会、政治への解説や論評をする、リベラルな世界観をもつレビュー誌として知られる。ここに掲載の記事は1999年と20年前のものではあるが、中国に住み、その言葉を話すアメリカ人ジャーナリストによる、中国側の視点を探ったレポートとして他に類を見ない。西洋社会一般(日本も含む)のチベット問題に対する「イメージ」や「心理」は、当時と大きな差がないことから、掲載の意味があると思い翻訳した。

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現在のアメリカ政府の立場

西洋社会一般のFREE TIBETの流れに大きな変化はないと思われるが、アメリカは政府としては、チベットは中国の一部という立場をとっており、オバマ大統領は中国とチベットの対話再開の必要性を、2016年6月のダライ・ラマ14世との会談でも訴えている。またダライ・ラマ14世が主張する、中国からの独立ではなく「高度な自治」を求める「中道路線」を称賛しているとも伝えられている。

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ダライ・ラマ (Dalai Lama) 

チベット仏教ゲルク派の高位のラマ。1642年に発足したチベット政府の長として元首の地位を保有し、17世紀から1959年までの間の特定の時期において指揮することがあったとされる。現ダライ・ラマ14世は、1959年に発足したチベット亡命政府において、2011年3月に引退するまで政府の長を務めていた。その後は精神的指導者として位置づけられている。

 

チベット亡命政府のHP(英語)では、2016年6月にオバマ大統領との会談で、ダライ・ラマ14世が「中国からの独立を求めているのではなく、中国政府との対話の再開を望んでいる」と述べたことがホワイトハウスの発表として伝えられている。この会談についてネットで日本語検索したところ、多くの記事が「対話再開」の可能性には触れず、オバマとの会談に対する中国政府の反発のみに終始していた。

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非識字率 

中国政府統計局によると、2010年の15歳以上の大人の非識字率は、チベット37.77%、北京17%、四川省5.44%となっている。ここでいう識字とは、中国語(北京語)に対してのものと思われる。

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ジャック・ロンドン(Jack London)

アメリカの小説家、ジャーナリスト、社会運動家(1876年~1916年)。貧困のため小学校卒業後、15歳で牡蛎密漁に手を染め、その後アザラシ漁船に乗る。世界恐慌の最中、労働者として国内を渡り歩き、浮浪罪で逮捕される。またアラスカでゴールド・ラッシュに加わった経験がある。作品に『野性の呼び声』(苛酷な大自然を生きぬく犬たちの生命の物語)、『白い牙』『どん底の人びと』などがある。

チベットで働く多くの中国人は、自らを進歩に貢献する「理想を掲げた伝道師」とみなしており、文化的侵略者という西洋的な見方を受け入れない。実際のところ、彼らはその両方であるのだが。

 

 

アトランティック誌* 1999年2月号

 

チベットについての政治的見解は、山の上に広がる雲ひとつない紺碧の空のように、くっきりと明白なものである。欧米では「チベット問題」には答えがでている**。<チベットは中国の一部ではない。1951年に武力で併合される前は独立国だった。中国人は残忍な占領者であり、チベットの伝統文化を破壊しようとしている。チベットにおける古来からの精神的指導者であるダライ・ラマは1959年にインドに逃れたが、独立した(少なくとも文化的に独立した)国にもどって、統治を再開することが許されるべきだ。> ひとことで言えば、欧米の視点からはチベット問題への解答はただ一つ、「Free Tibet」、チベットに自由を。

 

チベットに住む漢民族にとっての答えも一つである。が、欧米のものとは全く異なっている。彼らは、自分たちが言うところの「チベットの解放(自由化)」に奉仕しているのだ。メイ・ジーユエンは漢人で、1997年に政府の「チベット支援ボランティア」により、中学の教師としてチベットに送られた。ルームメートのタシはチベット人で、大学生のときにメイの出身地、四川省に送られ、そこで教師になるための研修を受けた。この二人はともに24歳である。メイとタシは仲のいい友だちで、英雄道のそばに住んでいる。通りの名は、中国とチベットが1950年代に「十七か条協定(チベット平和解放に関する協議)」を締結したことからつけられた。中国からの支援で利益を得ている友好的な地域、チベット。これがメイ・ジーユエンのチベットに対する見方だ。わたしが彼になぜチベットで仕事をすることを志願したのか、と尋ねるとこう言った。「チベットは発展から取り残されている場所で、技能ある人間を必要としてます。それをぼくらはみんな知っているからです」

 

わたしは(西洋の見方ではない)この二つ目の視点から、中国人の目をとおしてチベット問題を考えてみようとした。チベットに来る前に、わたしは2年間、英語の志願教師として四川省の小さな大学で過ごした。そこにいる間に、メイ・ジーユエンのような志願教師に好奇心を抱くようになった。わたしはチベットで、運をもとめてやって来た政府募集の若い労働者や起業家たちとも話をした。首都ラサや漢人がたくさん住む地域での4週間の滞在は、このような人々に焦点を当てることにあった。

 

チベット問題に関するあらゆる事象の中で、チベット文化への大きな脅威として、ダライ・ラマ***があげた「漢人の流入」は、この問題の最大の起爆剤となっている。これは統計的にも意見の違いとして現れている。中国政府が、チベット自治区に住む漢人は人口の3%過ぎないと発言する一方で、チベット亡命者たちは、実際には50%を超えておりその数は増えていると主張する。チベット人たちは、漢人の流入は自分たちの文化をさらに破壊する試みの一つ、と見ている。中国人はこれについて、ドン・シャオピン(鄧小平)の1987年の発言の中に答えを見る。ドン・シャオピンはこう言った。「チベットは人口がわずかだ。チベット人200万人では、あのように大きな地域を発展させていくのは難しい。それを助けるために、漢人を送り込むことは害にはならない。問題はチベット人にとって何が最良か、チベットが急ピッチで発展するにはどうすべきか、中国の四つの近代化(工業、農業、国防、科学技術の四つの分野の国家計画)において、いかに前進するかである」

 

中国の公的な発表が正しいかどうかは別にして、政府によって送られたチベット在住の漢人労働者の多くは、自分たちの役割を奉仕であり貢献と見ている。この者たちは、チベット問題に関して歴史上もっとも大きな役割を演じているのかもしれず、それにもかかわらず、ほとんど見逃されてもいる存在だ。なぜ彼らはチベットに来たのか。ここをどう思っているのか。どのようにチベットを変えようとしているのか。そして自らの役割をどう見ているのか。

 

22歳の英語教師ガオ・ミンは、わたしにこう言った。「一つには、辺境の地域、少数民族の地域に、つまり「艰苦(困難)=ヂエンク」な場所に、ぼくらは進んで行くべきだということです。助けを必要とする地域が中国にはあります。新疆ウイグル自治区に行っていたなら、そこでやっていたでしょうが、チベットもまた教師を必要としてる場所だと知っていました。それとは別に、チベットは自然のままの地域です。公害はないですし、人もまばらです。多くのものがチベットでは手つかずです。だからそこがどんな所か、見てみたかったのです」

 

24歳の物理教師シ・ミンツィはこう言った。「まず言えるのは、あなたがここにやって来た理由と同じだ、ということです。旅する場所として、面白そうだからです。でも、この地域を築く手助けをしたいと思って来てもいます。ここに来ているボランティアはみんな、共産党員なんですよ。もし自分が党員であれば、艰苦な場所に働きに進んで来るべきです。つまり愛国的な理由でみんなやって来ている、と言えると思います。おそらくそれが最大の理由です。でもぼくにとっては、良い機会だったし、中国内地より給料がいいからという理由もあります」

 

この若い中国人たちと話していると、いろいろな面で、世界のどこにでもいる理想を掲げて活動するボランティアたちとの共通点を感じた。チベットで働くことの経済的な魅力は別にして、動機となっているものはよく似ている。冒険心、見知らぬものへの興味、貢献したい気持ち。そして政府の普及活動は、コン・ファンセン(孔繁森)のような人物をとおして、こうした奉仕の精神を強調している。コン・ファンセンは、中国東部からやって来て、チベット自治区で仕事をした共産党の幹部で、自動車事故で死んだのちに殉教労働者となったことで知られる。漢人労働者は、(中国人の目から見ると)能力を必要とされる地域で奉仕する間、コンを始めとする幹部たちの「古きチベットの精神」を学ぶことを奨励される。

 

彼らの任務の中心にあるのは、艰苦(ヂエンク)の概念だった。中国人がチベットの状況を話すとき、この言葉を繰り返し耳にした。そして8年間の支援を誓約したボランティアにとって、人生は特別に艰苦なものになる。政府が送り込んだ多くの漢人労働者は、チベット支援幹部に分類される者たち。教師、医師、行政官など、2、3年の勤務である。下位の大学を卒業したメイ・ジーユエンは、そのような地位を手にできず、結果8年間の契約を余儀なくされた。驚いたのは、長期契約による犠牲とは、健康への重大な被害があると彼が信じていることだった。多くの中国人は、標高の高い場所に長期間住むと肺に悪いと信じており、たくさんの働き手が、チベットに住むもっとも大きな障害だとわたしに話した。「からだに良くないんです」とメイ・ジーユエンは語った。「このような高度の場所に住むと、肺が拡張し、最終的には心臓に悪影響を及ぼします。寿命が縮まるのです」 わたしのチベット滞在のあいだに、この考えに基づくいくつもの説を聞いた(一人は若い真面目な教師で、彼はタバコを吸っていた)が、どれも主として肺の拡張と心臓への圧迫に関係していた。こういった説には医学的根拠がない。実際のところ、空気が極度に汚染され、4人に1人が肺の疾患で死んでいる中国のような国にとって、標高が高く空気がきれいなチベットは、清涼剤と言える場所ではないか。そうであっても、この見方は自己犠牲と受け取られ、政府の給与体系(標高と給与が関係する)に後押しされてもいる。高いところで働くほど、その分給料も高くなる、ということ。

 

メイ・ジーユエンの稼ぎだす、1月に1000元($120:1999年当時)の給料は、チベットの幹部教師の約半分である。それでもその給与は、四川省の田舎で教師をして得られる額の2、3倍となる。だから彼は、百姓をする両親のもとに、給料の半分を送ることができる。平均的な中国人から見ればいい稼ぎではあるが、若者にとって命を削って働くには、十分な動機になり得るかどうかは疑問だ。8年より前にチベットを離れれば、最大20000元($2400:1999年当時)の重い罰金が課せられる。これはほぼ2年分の給料にあたり、メイ・ジーユエンのような農家にとってはおよそ20トン(20000kg)の米に相当する。

母国統合の夢

 

中国人の観点からは、チベットはいつも中国の一部だった。これはもちろん、安易で正確さに欠ける見方であるが、チベットの歴史には混乱があるので、人は自分の望むような見方をすることが可能だ。中国人はある時期を無視し、他に焦点を当てることができる。たとえば1792年に清王朝が、ネパールによるチベット侵攻を駆逐するため、兵を送り込んだことをあげる。あるいは1728年から1912年の間、ラサには清の昂邦(あんばん:王朝の高級官僚)が配置されていたことをあげる。実際は昂邦の権限は時とともに減少していき、1913年から1951年までの期間、チベットは事実上の独立を享受していた。公平な裁定者の目には、中国人が描く歴史以上に、チベットの独立は消し難い事実に映るものの、アメリカが西部開拓の歴史を正当化するのと比べると、中国の方がまだ歴史的な正当性は認められる。

 

もっとも重要な点は、チベットを望む中国の理由が、時とともに大きな変化を見せてきたことだ。清王朝のときは、チベットは緩衝地帯としてもっぱら重要な位置を占めていた。そのときは昂邦(あんばん)と軍隊が、チベットの安全を保障するために送られた。しかしチベット人を管理下に置くことはあまりなく、中国語や中国文化の押しつけをすることもなかった。清王朝の目からは、チベットは中国の一部ではあったものの、どこか違う存在と見なされていた。そのため僧院やダライ・ラマは、チベット内の多くの事象において権限を保つことが許されていた。

 

20世紀初頭、清王朝が崩壊し、国外の帝国主義に打ち勝とうともがいていたとき、チベットは新たな国家主義の要として重要になった。スン・ヤット・セン(孫文)などの知識人や政治の指導者たちは、チベットに対する歴史上の権利が、西洋の権力によって侵害されたと感じていた。中でもイギリスは、1904年にチベットに侵攻し、ダライ・ラマ13世を支配下に置こうとした。チベットが中国の管理下から外れたとき、国家主義の潮流が押し寄せ、他の地域と同じパターンに陥った。香港がイギリスに、満州と山東省が日本に、台湾がアメリカ支援による中国国民党の手に、という19世紀から20世紀初頭にかけての外国勢力から受けた屈辱の一つとして。マオ・ツォートン(毛沢東)が1949年に中華人民共和国をつくるまでに、チベットはかつて力をもっていた中国の、再統一にかかわる国の最重要地域となった。

 

このようにチベットは、共産国中国の視点により、緩衝地帯から帝国主義の影響から逃れた自由で独立した存在として、中国の中心の一角へと変身した。アメリカの中国史研究家オービル・シェルは、現在もこの見方は中国人の中にある、と指摘する。「これ以上のデリケートな問題というのはあまりない」と彼は言う。「台湾の問題を別にすればだが。なぜならこれは統合された母国への夢から発せられているからだ。歴史的に見れば、中国のどの指導者もが目標としてきた夢なのだ。これは中国の主権の問題であり、領地統合の問題だ。なかでも中国の主権を侵害する、略奪者としての西洋の問題に関わる」

 

虐待された子どもが成長して子をもったとき、自分の受けた苦難を子に与えてしまうことがあるように、中国がチベットに対して同様の罪を犯すことは皮肉である。僧院の破壊、暴力的な土地の再配分、文化大革命の騒乱、今日までつづく知識人や宗教の自由の規制といったものだ。どのような帝国主義もそうであるように、破壊の多くは任務の名のもとに行われた。中国人が1951年以前のチベットについて語るとき、チベットの封建的神権政治による欠点を強調する。平均寿命が36歳、95%のチベット人は読み書きができない、人口の95%は僧院や貴族に所有される世襲的な農奴や奴隷であるなど。チベット人は良くない社会に耐えており、中国はそこから彼らを解放するための倫理的な責務がある、という考えだ。チベットに行く前に、中国人の友人たちにチベットについて訊いてみた。多くの人の答えは、写真家サイ・シンハオ(48)の次のような回答と同じだった。「あそこは奴隷社会だったんですよ。すごく残酷で、奴隷や敵の頭を切り落としたりします。映画で見たことがあるんです。自分が奴隷なら、すべてが主人の言うままです。だから解放のあとに、金持ちの地主たちが、中国人が制定した規則に反対したのは当然です。ワシントンが黒人を解放した、あなたの国アメリカの歴史と似てるでしょう。黒人たちはワシントンを支持しましたけど、富裕層はもちろんそうではなかった。歴史というのは、いつもそんな風じゃないですか。ナポレオンがフランス国王を転覆させたのと同じです。貧しい者を助けたことで、地主たちすべてがナポレオンに異を唱えました」

 

わたしの友人は教育を受けた人間ではないが、多くの中国の知識人も同じような比喩をする。チアン・ツーミン(江沢民)国家主席は、1997年にアメリカを訪問した際、同様の所見(ただし偉大な解放者として、ワシントンではなくリンカーンの名をちゃんとあげたが)を述べた。チベット人の読み書き能力と平均寿命についての数字は、間違ってはいない。中国人は封建制による害悪について大げさに言うが、20世紀半ばのチベットは改革を必要とする悪い状況にあったことも事実だ。しかしもちろん、チベット人は、自らの力で改革をしたいと思っていた。

 

さらに、中国人はチベットにおける責務として、急速な近代化の必要性と、文化的な発展を優先すべきだという感覚も持ち合わせている。西洋人にとっては、理解の難しい見方である。我々はチベットに対して、近代化されていないことや、その文化、反物質主義を理想化して見ているからだ。オービル・シェルの言うように「西洋人のイメージの中では、精神的な啓発を象徴する場所であり、そこでは人々はビュイックをつくるのではなく、良きカルマ(善い行ないに対する報い)を創造している」のである。

 

ところが、近代化が遅れてやってきた中国人にとっては、ビュイックこそが素晴らしきもの。中国で教師をしていた最初の年に、英作文の授業でアメリカ西部を課題にしたときに、わたしはこのことに気づいた。クラスで西部開拓について議論し、わたしは生徒たちに19世紀末に起きたアメリカの問題を提示した。プレーンズ・インディアンが文化的危機にさらされ、白人入植者に圧迫を受けたことだ。わたしは生徒たちに、自分たちがアメリカ市民だと思って、解決策を提案するよう言った。ほとんどすべての者が、このように答えた。「世界は変化し、発展し続けている。インディアンたちを我々の近代的な暮らしに適合させるべきだ。インディアンはこの平原のあちこちに暮らしてきて、定住をせず、常に移動をしてきた。しかし我々の近代的生活では、それは非常に不合理だ。我々の国を強力なものにする必要がある。インディアンを我々の近代的生活に適合させ、社会の発展とともに歩ませるべきだ。このような方法でのみ、我々は国を強固なものにできる」

 

実際のところ、わたしの生徒たちは皆、貧しい農家の出身で、たいていの中国人と同様、ほとんどの者は、貧困から抜け出したばかりの世代なのだ。わたしが自由や文化として見ているものを、彼らは貧困や無知無学としてしか見ていない。2年目の授業でも、同じ問題を別のクラスで試みてみた。中国は先住民たちをプレーンズ・インディアンのように扱っているか、訊ねてみた。生徒たちは皆、チベット人は同じようなものだと答えた。わたしはチベットにおける中国の責務について訊いてみた。彼らの回答は、わたしが伝えようとしていた以上に、アメリカの歴史からすでに学んでいることがわかった。ある生徒はこう答えた。「まず、わたしはチベット人を助けるために、友情をもって近づきます。でももし彼らがそれを拒んだなら、アメリカ人がインディアンにしたように、発展のために戦争をしかけるでしょう」

 

 

支援の二面性

 

中国にはチベット支援への強い意志があったけれど、そしてそれは失敗に終わってしまったが、投資は高くつくものになった。北京政府によれば、20万人の漢人労働者が、1950年代からチベットで働いてきた。チベットでは税金は事実上、存在しなかった。チベット人農夫は、中国内地の者とは違い、税のかからない土地の貸借を受けており、事業を促進させるために税の優遇措置も受けていた。低金利のローンが利用可能で、ネパールからの商用輸入は関税なしである。地元の収入は少ないにもかかわらず、近代的なインフラ整備における中国政府の投資は、しっかりと行なわれている。1952年から1994年までの間に、中央政府はチベットに42億ドルを投資、1994年には62件の大きなインフラ事業に着手し、その最終的な投資額は4億8千万ドルを上まわると予想された。この額は、チベット政府にとって、外からの歳入の90%を超える。

 

人的、財政的な資本の投資は、国外の者たちの知らないところで、チベット問題を複雑にしている。海外の報道ではしばしば、昔ながらの統治植民による、チベットの資源の搾取がもち出され、誤解を招いている。北京政府が、チベットの森林資源や鉱物資源を利用していることに間違いはないとしても、中国はこの地域に莫大な予算を投下している。その見返りはあるにしても、すぐに返ってくるものではない。チベットは軍事的に、重要な価値がある。中国は、チベットが海外の勢力下(たとえばインドなど)に置かれることを好まないが、そうであっても、これが莫大な投資の見返りになるとは思えない。1996年に中国は、チベットのために6億ドルを費やした。この地域を研究するある海外オブザーバーは、次のような見方をしている。「同じ年に、アメリカ合衆国は、アフリカ全土に対して総計で8億ドルの援助をした。これはアフリカ全土の話だ。何億人ものアフリカ人に対しての援助金である。チベットの方はと言えば、わずか250万人しかいない。もし彼らが独立した場合、誰がそのような大金を差し出すだろうか」

 

「進歩懐疑派かテクノロジー嫌いでない限り」と前述のオービル・シェルは言う。「そして道路や電話、病院などの設備が必要ないと思うのでなければ、チベットへの近代的インフラ整備という中国の多大な貢献は、もっと評価されていいとわたしは思う。この意味で、チベットは中国を必要としている。しかしだからと言って、チベットに対して成してきた中国の野蛮な扱いが許されるわけではない」

 

中国の支援のども面を見ても、二面性があり、教育はその点をよく表している。わたしはメイ・ジーユエンのような、奉仕の精神に溢れるたくさんの若い漢人教師たちに会っている。勤勉でよく訓練された教師たちで、子どもたちの先生をどうしても必要としている地域で働いていた。あるボランティア教師が英語を教えている中学校は教師不足が深刻で、多くの生徒たちは英語の授業が始められず、翌年に追加の漢人教師がやって来るのを待っていた。わたしはある地域を訪問したが、230人の中学教師のうち、60人が漢人で、残りの多くのチベット人教師は、中国政府の支援で、中国内地で教師としての訓練を受けていた。中国人がチベットの公的な教育制度を一から生み出したことを考えれば、このような内地とのつながりは必然的に思える。現在は4000校以上の公立学校がチベットにあるが、漢人が1951年にやって来る前は、一つもなかった。

 

それに加えてわたしが見学したいくつかの学校は、設備が素晴らしく、授業料はわずかだ。ある町で、わたしは三つの地元中学校を見てまわった。二つは新たに建てられたもので、わたしのよく知る内地の学校に比べ数倍よくできていた。もう一つの学校は内地からの72万ドルの投資により改装中で、巨大なクレーン車が校庭を埋め、チベットの五色の祈祷旗がはためいていた。多くの中国内地の学生とは違い、地元で一番の中学校の生徒たちは授業料無料である。高校でも、内地ではそれ相当の授業料があるのに対し、チベットでは(最大で)学期につき70ドルを払えばよく、そこには給食代も含まれていた。生徒が学校に来れるようにする、あらゆる努力が成されていた。両親が片方しか働いていない家庭の子どもは、授業料および給食代が半分に減らされた。遠い遊牧地域からやって来る生徒には、通学のための交通費がたいてい免除されている。

 

貧しい地域での、そのような施策は非常に寛大な措置に映る。基本的に、チベットの学校はどこも、中国のものより潤沢な資金で賄われていた。こうした資金援助はどうしても必要なものだった。チベットの大人の非識字率はいまだに52%である*****。子どもの78%しか小学校に行けず、その内の35%しか中学に進めない。しかし中国の援助を考えるとき、学校で何が教えられているかについても考慮されるべきだろう。チベット人にとって重要な問題だ。

 

ある朝、わたしは、4000m級の山の麓に建てられた、広々とした美しい小学校のキャンパスを訪れた。新しい校舎と芝生の校庭が西にむかって広がっていた。900名の生徒の大半はチベット人である。わたしは中国語で書かれた中央掲示板で足をとめた。

 

掲示板には中国内地のある地方官庁によってもたらされた、487800ドルの出資の詳細が書かれていた。また5世紀の中国の数学者、ズー・チアンスー(祖沖之)の略歴が提示されていた。その横には、「大きな目標をいつも心に」という生徒たちへの通達があった。生徒たちは、1980年の中国のGNPを2倍にするよう求められ、また2050年までに、GNPと一人当たりの収入のランキングで、発展途上国の中位レベルにまで達するよう説かれていた。このような目標の脇には、長々とした国政についてのこんな文章があった。

 

「我々は近代社会主義の創生という目標を達成しなければならない。そして経済を打ち立てなければならない。我々は国内の改革や、外の世界に開かれた政策を遂行しなければならない…… 我々は資本家階級の自由に異を唱え、帝国主義に対抗して平和的に発展するため、陰謀に用心しなければならない」 

 

小学校の生徒には難しい教材だったし(もしわたしが中国の宣伝要員なら、チベットの子どもたちに帝国主義に抵抗することを教える前に、もっといろいろ考えてみるだろう)、いかに中国の教育環境が政治化しているかを示している。中国の近年の経済発展にもかかわらず、教育システムは未だ過去と深く結びついている。言語にはじまり、保守主義は教育のあらゆる面に染み込んでいる。わたしが訪れた二つの学校は、漢人とチベット人の生徒両方がいたが、クラスは民族によって区分されていた。それは言語上の理由による。多くのチベット人の子どもは、小学校に入るまで北京語を学ばない。高校生であっても、漢人の教師が不満をもらすように、中国語をよく理解していない。このクラスの分離により、両者のカリキュラムは違うものになる。たとえば、チベット人生徒は、チベット人用の語学の授業を日々受け、漢人生徒はその時間を、英語の補習にあてる。中国人にとっては、このやり方は公平に見える。というのも、チベット人の生徒は、漢人のクラスに参加することも可能だからだ。

 

しかしそこには中国語偏重があり、特に教育課程が進むほど、言語や文化に対する脅威が高まるとチベット人は感じている。漢人の教師が受け持つ授業はすべて、中国語か英語でなされ、中学、高校のチベット人教師の大半も、北京語で教えていると思われる(ただし、わたしが話をした教師たちは、生徒が理解できないのでしばしばチベット語をつかう、と言っていた)。いずれにしても、重要な資格認定試験は中国語が必須であり、これは中国社会の反映である。成功するには(中でも政府関係の仕事につくには)、中国語が堪能であることが重要だ。それに加えて、ごく基本的な問題として、チベット人の生徒が言語において、大きな負担を感じていることだ。ある漢人の教師はわたしにこう語った。自分の生徒は主として放牧地帯から来ていて、家族はテント生活を送っている。そういう家の子どもたちが、学校の標準的な日課として、共通点のあまりない三つの言語(チベット語、中国語、英語)で授業を受けねばならない。

 

政治と宗教の問題は深刻だ。ラサでわたしが出会った21歳のチベット人大学生は、自分の学校の反宗教的立場(チベットの学校で、それは標準的である)に憤りを感じていた。「宗教を信じることはできない、と学校側は言います。それは、僕らは社会主義を築きあげなければならないからです。社会主義と宗教の両方を信じることはできません。でもほとんどの学生は、今も宗教を信じています。80~90%の者は信心深いと言っていいと思います」 彼のクラスメートで共産党員の学生は、歴史の授業に不満をもらした。「僕らが学ぶ歴史はすべて、中国から見たチベットの歴史です。僕はその大半を信じていません」 彼らはまた、現在行われている中学、高校の優秀なチベット人学生を中国内地に送りこむプログラムに強く異を唱えた。中国視点によるチベットが、そこで解消されるわけではないからだ。

 

このような不満は、最近の教育改正の結果を反映したものだ。1994年につくられた一連の教育制度は、中国支援の良い面、悪い面を象徴的に表している。一方で、政府は、非識字率を減らす方針を強化し、もう一方では、慎重に(チベット人の反感をかわないなよう)教育の政治的側面を管理しようという意向があった。このやり方は一定の成功をみてきた。自分を中国人でもあると考える、教育を受けたチベット人をわたしは何人も知っている。タシ(メイ・ジーユエンのルームメート)は、チベット人と中国人の両方であることに満足しているように見えた。タシは四川省で学び、いい職を得て、政府の支援に感謝の念をもっていた。わたしがチベットの一番の問題点は何かと聞くと、それは言語だと答えた。多くのチベット人が不満をもらしている意味でではない。「多くのチベット人学生は中国語が話せません。中国語が話せないといい職を見つけるのは難しい。もっと勉強すべきだと思います」

 

多くのチベット人は、中国の支援をありがたく受けているようには見えない。しかし、彼らが政治的影響をあれこれ被っていることは明らかだった。わたしにとって、教育を受けた若いチベット人との会話は、頭がくらくらするような体験だった。彼らの質問は奇妙なもの(資本主義と社会主義のどちらが勝つと思うか)から突飛なもの(アメリカでは兄弟姉妹の家でご飯を食べるとき、金を払うというのは本当か)にまで及び、まわりにいる者たちも同様の疑問の中にいた。ある朝、中学校で生徒と教師が国歌が流れるなか整列し、国旗を揚げる儀式を見ていた。そのあと、声をそろえて、祖国への愛、勉学や労働への献身といった共産党への忠誠を誓った。チベットの高峰がそびえる中、それはシュールな光景に見えた。そして30歳代前半の銀歯のチベット人学校顧問がわたしの方に歩いてきて、どこから来たのかと訊いてきたとき、その感はさらに高まった。わたしが答えると、彼はこう言った。「チベットでは、我々はすでにあなた方西洋の国々から多大な影響を受けています。ペプシにコカコーラ、映画というようなね。わたくしの考えでは、西洋から入ってくるものには、良いこと悪いことの両方があります。たとえばセックスに関することです。アメリカでは結婚したのちに、愛人が欲しくなったら、どうします? 奥さんや子どもが影響を被ったとしても、離婚しますよね。でもここの人間は非常に信心深く、そのようなことは考えません」

 

このような言説はたくさん聞いてきた。学校で反アメリカ教育がかなりされていることは、疑いようがなかった。中国人はこの点について、チベット人への貢献度がかなり高い、とわたしは感じていた。逆に教育を受けていないチベット人との会話では、彼らがアメリカの支援にいつも大きな信頼を寄せ、就任最後の年に中国にやって来たクリントン大統領が、チベットを救う目的で訪問したと信じていることは、わたしをひどく落胆させたものだ。チベットへの中国の関心が、多くは外国の帝国主義に対する反発であることを思えば、ダライ・ラマなどの亡命指導者たちが求め(そして勝ち得る)アメリカなどからの支援ほど、中国を怒らせ頑なにさせるものはない、というのは当然だ。またチベット人のアメリカへの忠誠は、アメリカ自身の先住民への扱いを考えても、純朴すぎるように見えた。歴史的にアメリカのチベット政策は偽善的であり、むしろ逆効果を生んできたからだ。たとえばダライ・ラマと中国がおおむね平和的に協調(脆弱なものだったとしても)していた重要な時期1950年代に、CIAはチベットのゲリラ部隊を訓練し武器を与えた。チベット人が反乱を起こしたとき、中国との和平は終わった。このゲリラたちが反乱の一端を担い、それが中国の厳しい弾圧を呼び、ダライ・ラマはインドへと逃れた。

 

アメリカはまた近代化を象徴する。中国の政治的な意図とは別に、複雑さを助長させた要因は、長らく孤立していたチベット社会が、近代社会に直面したことにあった。ある大学生がこう言った。「チベット人が金をもてばもつほど、生活レベルが上がれば上がるほど、自分たちの文化を忘れます。中国人がいようといまいと、それは起きることだと思います」

 

 

 

辺境の四川省人

 

漢人とチベット人の関係において、最も希望のもてる事象をあげれば、中国共産党の総書記、フー・ヤオバン(胡耀邦=こようほう)が1980年にチベットを視察した直後に、中国政府のやり方を厳しく批判したことだろう。フー・ヤオバンは二つの改革案を提示した。経済発展を推し進めるために、中国はチベットに投資をする必要があるが、同時に漢人はチベット文化をもっと尊重するべきだ。また党の幹部たちは、チベット語を学ぶ必要がある。公共サービスの場では、チベット語が使われるべきである。信仰についても、もっと自由を与えられるべきだ。

 

そのような配慮が必要だということは(中でも言葉については)、疑いようもないことだ。政府が送り込んだ漢人労働者の中で、一人としてチベット語を学んでいる者にわたしは会ったことがない。8年間もここで働いているボランティアでさえもだ。ラサで最も大きな書店、新華書店でも、中国人学生のためのチベット語の教科書を見たことがない。他の外国人学生のための本はあっても、中国人のための本はない。

 

1980年の改革案のいくつかは実施されたが、1987年にはじまったラサの反乱で停止された。中央政府の強硬派にとって、反乱は自由を与え過ぎた結果であり、1987年、フー・ヤオバン(胡耀邦)は解任された。その一因にはチベット政策があった。1989年の春には、チベットで戒厳令が敷かれた。中国は、チベット文化や信仰の制限を緩和することは、反乱を奨励することと同じだと判断した。フー・ヤオバンの二つの改革案は完全に破綻した。中央政府は、生活レベルの向上が政治的緊張を和らげることに望みを託し、内地との経済的結びつきを強化させ、チベット経済の発展に力を注ごうとした。この政策は、1990年代の莫大な投資によってさらに拍車がかけられた。

 

しかし発展というのは、文化を犠牲にすることがある。ラサの古い街並みは、近代的なビルによって無機質な顔に変わり、好景気により、大量の漢人、回族(イスラム教徒)のチベットへの移住が促進された。

 

チベットの経済は、よそ者に支配されている。実際のところ、チベット人たちの怒りを煽りながら、部外者が経済発展を進めたのだ。官僚たちが内地からやって来ることは構わない、とするチベット人にわたしはよく出会った。しかし移民労働者の流入に反対しない者に、会ったことはない。中でもすぐそばの四川省からやって来る大量の漢人に対しては。チベットに昔から住む漢人たちも問題だと感じていた。

 

仕事を求めて故郷を離れた1億人の人々による、「流动人口」(浮動人口)現象は、中国全土の都市部を襲っている。西部と南部には、大量の四川省人が「浮動人口」として入りこんでいて、チベット滞在時に、「四川省人は無教養。女は淫らで、男は教化(狡猾)だ」という偏見をしばしば耳にした。そして「最悪なのは、やつらの流入は止(とど)まることがない」というのだ。

 

2年間、四川省で暮らした経験から、なぜ四川省人がこうも故郷を離れるのか知っていた。四川省はほぼフランスの面積と同じで、そこに1億2000万人が住む。経済は不安定で、いくつかの街では最近の工場閉鎖により、労働者の反乱を起こしていた。多くの四川省人は、恐れることなく故郷を出ていく。彼らは生活の厳しさのため、非常に逞しく、吃苦(チィク=辛苦に耐える)の能力があることで、中国全土に知れ渡っていた。四川省人は働いて、生き延びる。そして世界中どこにでもいる成功した移民者たちのように、その成功が理由で嫌われる。

 

チベットで四川省人たちは、経済力で伸してきた。ラサの空港に着いた瞬間から、このことは明らかだった。入り口付近にあるレストラン16のうち13店舗が、四川料理をうたっていた。チベット料理は一つだけだった。事実上、ラサの小さな商売は、このパターンだった。どこにでも四川料理のレストランや店があった。地元の人々が言うには、ラサの漢人の8割は四川省人だとのこと。これはあながち大げさではないようだ。

 

四川省人の流入は、生易しいものではなく、漢人官僚の駐在以上に破壊的である。そして彼らの流入を監視することもままならない。西洋の報道におけるよくある誤解は、この四川省人たちは政府から送られてきたというものだ。巨大な漢人部隊が、チベット文化を転覆させるためにやって来た、というイメージだ。事実は、政府はこの状況をほとんど管理できていない。「出ていこうとする者をどうやって止められるのか?」というのが、チベットで長く過ごしてきたあるアメリカ人の言葉だ。「どんな仕組があれば、これを止められると思う。彼らは国内を移動することに何の制限もないのだから。こちらはいつだって、遠巻きに追い立てるだけだ。彼らを制することは、人権問題になってしまうからだよ」

 

民族支配の策略とは無縁にやって来る個人の移住者たちは、ほとんどの場合、政治に無関心である。わたしはよく、成都出身のフェイ・クシヤン(31)がやっている小さな四川料理の店に食べに出かけた。1996年、彼女は省運営の天然ガス施設の破産により、夫とともに解雇された。夫婦はそれぞれ、月当たり$30の解雇手当を2年間受けていたが、それが切れた時点で、貯金をはたいてラサまでの航空券を買った。二人は5歳になる息子を母親のもとに残していた。これは移民によくあることで、官僚もそうだった。チベットに暮らすことの健康被害への懸念も理由の一つで、またチベットの学校は内地のものよりレベルが低いと思われていたためだ。さらに地区外からの入学は、追加の授業料を払う必要があった。

 

フェイ・クシヤンがGNPの伸び率について話すことはなかったし、母国が発展することにも無関心だった。経済改革で工場閉鎖を招いたヂュー・ロンチー(朱鎔基=しゅようき)首相について、一度尋ねたことがあったが、彼女は首相の名前さえ知らなかった。「国で起きている一大事のなんであれ、わたしにはわからない」と肩をすくめて言った。彼女は追い詰められている貧しい女性にすぎず、他の四川省人と同じように、チベットにやって来て、必死で生活の糧を得ようとしているだけなのだ。

 

しかしこのような移民者たちには、政治的な影響力があった。部外者たちが経済を発展させ、そこから自分たちが締め出されている、とチベット人が感じているためだ。このことは一つの疑問を提示する。もし誰にとっても規範が同じであるなら、漢人の商売人がなぜ、チベット人より成功するのか。多くの返答としてあるのは、規範は同じではないというもの。中国人は政府と簡単に関係がつけられるということだ。しかし同じレベルでやったとしても、漢人は資本をより多くもち、内地の情報においても有利だ。また移民のコミュニティーでは、やって来た者を支援する傾向がある。この傾向は四川省人において際立つ。一人がまずやって来て、それに縁者が何人かつづく。やがてさらなる親類縁者が到着し、工場や商店の一角を占拠する。チベットの聖なる寺院、トゥルナン寺の前で、露天商たちが式典用スカーフ(巡礼者が捧げものとして使う)を売っている。チベット人の商売と思われるものだ。サン・ピエトロ大聖堂の前でロザリオを売っているのがカトリック教徒であるように。しかし売り子の女性によると、露店はすべて、成都の西にある三つの町からやって来た四川省人の経営によるものだという。親戚、親戚の友だち、友だちの親戚など、200人を超える四川省人がいて、この一角を埋め尽くしている。

 

ある日、スカーフの露店の前をチベット人の友人と歩いていると、不満げに彼が首をふった。「ここにいる人たちは商売の仕方を知っているんだ」 そう彼は言った。「ぼくらチベット人は知らない。まとも過ぎるんだ。もし5元相当のものがあったら、ぼくらは5元だと言う。でも四川省人は10元だと言うんだ」 いくらかの真実があると思った。漢人がチベットで成功している主な理由と同じであり、東南アジアからアメリカまで広い範囲で彼らが成功していることとも重なる。チベット人と比べて、彼らには商売人としての伝統が根づいている。実際のところ、どこかよそで失敗した漢人移民者たちは皆、成功めざしてここにやって来ていた。

 

つまるところ、チベットは特定の種族が住む、昔風の開拓地の典型のように感じられる。漢人の子どもはほとんどいないし、また彼らの多くは長期滞在するつもりがなかった。内地にいずれ帰るという気持ちで来ている。政府が送り込んだ労働者を含めて、漢人の大半は男である。わたしがチベットで会った漢人女性の多くは娼婦だった。地元民が言うには、政府の62のインフラ事業投資のあとの1994年、1995年に押し寄せてきたらしい。わたしが話をした漢人のボランティア要員は、13人の男子集団でやって来た。一人女性が応募したが、チベットには若い女性の働く場所はないと言って断られた。わたしの話した若い男は、妻を探すため職場を離れ、交通費付きで3回の帰郷をしていた。「休暇の間に嫁を探すことができる」と彼は言った。「6ヶ月の猶予があるんです。その間に誰かと出会えれば、ここに戻ってきて手紙を書けばいい」

 

民族対立による緊張感、ヒリヒリするような個人主義、照り返しの強い太陽、高くそびえる茶色の山並みといったすべてが、現実の世界というより、ジャック・ロンドン****の物語のように思えた瞬間があった。ある日、アメリカ人の友人たちとわたしは、ウェイという名の25歳の四川省人の運転手を雇った。彼はポンコツの1991年フォルクスワーゲン・サンタナに乗っていた。故郷には2歳の息子がいて、客を運んで(許可なくこれをやっていた)、半年のうちに新しい車を買う資金を稼ぎたいと思っていた。ラサから北へ5時間行ったところにあるダムシュン県まで行くのに、36ドル払うことになった。運転中に警察の検問所のところで、彼はうその資格証明を見せ(簡単なことだと彼は言う)、チベット人の運転する外国人をいっぱい乗せたランドローバーを追い越した。そのチベット人はわたしたちの運転手が未登録と気づいて、ダムシュン県で警察に突き出すぞと脅した。「ぼくが漢人だからなんですよ」 ウェイは顔をしかめた。「それにダムシュン県の警官はチベット人ですからね」 彼はランドローバーの前方を猛スピードで走って逃げ、ダートにぶち当たって燃料ホースを破損させた。

 

車は走りを止めた。西を見れば雪をかぶったニェンチェンタンラ山脈がそびえていた。チベット人の運転手がこちらを睨みつけながら走り去っていった。ウェイは予備のホースを切って、燃料の漏れる部分に当てた。それからキャブレターにガソリンを戻す処置に取り掛かった。燃料ホースを抜くと、ガソリンを吸い込んだ。口の中にそれを含んだまま、ホースを元に戻した。そして車の前部まで歩いていき、キャブレターの中にガソリンを吐き出した。

 

車は走りだした。ウェイが口の中にガソリンを感じながら運転しているのが見て取れた。それから数分後、彼はタバコを取り出した。そこにいた全員が息をとめた。ウェイを除いて。ウェイはタバコに火をつけると深く吸い込んだ。爆発することはなかった。自分と36ドルの間に広がる荒野を見つめ、ウェイは運転をつづけた。

 

これが四川省人のチベットでのやり方だった。ガソリンは苦い、しかし彼はそれを飲み込んだ。高度や天気やチベット人の恨みつらみを飲み込むのと同じ方法で。どれも問題ではなかった。何が問題かと言えば、自分のやっている仕事であり、稼ぐ金であり、成功したら金持ちになって故郷に帰るという約束だった。

 

柱のない家とは?

 

チベットは興味深い話を生む場所だったが、それは非常に艰苦(困難)なものであり、社会問題のせいで厳しい場所はさらに厳しさを増していた。チベットの旅の終わりに、わたしはフェイ・クシヤンの食堂で餃子を食べた。わたしが食べていると、彼女はいま感じている不満をもらした。商売はうまくいかないし、毎日が退屈だ。1日15時間働き、ラサには友だちの一人もいない。成都にいる息子に会いたくてたまらないが、来年にならないと叶わないことだった。彼女がわたしに、アメリカにどれくらい帰っていないのか、と訊いてきた。もう2年以上、中国を出ていない、と答えた。

 

「同じだわね、わたしたち」 そう彼女は言った。「どっちも家から遠く離れたところにいて」 そうだね、とわたしは同意した。寂しくはないのか、と彼女が訊いた。「そりゃ、家族には会いたいよ」 そう答えた。「でも家に帰るから、来月には会えるんだ」

 

悪いことを言ってしまった。彼女の目が虚ろになり、涙があふれた。わたしたち以外に誰もいない食堂ですわっていた。中国人が人前で感情を露わにするなど、めったにないことだった。わたしは何と言っていいかわからなかった。彼女が泣いているそばで、わたしは静かに餃子を食べつづけた。テーブルのまわりでたむろするラサのハエに、午後の太陽が降り注いでいた。

 

チベットはわたしの気分を落ち込ませ始めていた。ここを離れるのを心待ちにしていた。不思議なことに、過去に耳にしてきた以上にひどいわけではないのに、状況はさらに悪いように見えた。チベットには中国の支援による明らかな恩恵があり、若い漢人の先生たちの理想主義と献身には胸打たれるものがあった。しかしそれと同時に、この地域を発展させようとする多くの努力が、悪い方向に設えられており、貧しい地域に巨大な資金と労働が投下され、莫大な不幸感として返ってくるのを見るのは辛いものがあった。それと、わたしが思ったのは、普通の中国人(チベットの複雑な歴史的、文化的問題をよく知らない)は、彼らには理解できない方法で、政府によって操作されているのではないかということ。しかしここでは、誰ひとり幸せを感じていない(多くの漢人はチベットにいたくないと思い、多くのチベット人は漢人がいることで幸せでない)ことは確かなのに、いったい誰が陰で糸を引いているのかわからなかった。人は邪魔するものなく頂上に上りつめると、自分の与り知らないものの存在を感じることがある。そのような糸である。多くは取り返しのつかない歴史上の過ちのせいであるが、金のせいでもある。単純な経済的な圧力だ。母親を息子から引き離し、望まれていない場所へと追いやる圧力だ。

 

ラサで人が泣くのを目にするのはこれが初めてではなかった。この5日前の夕方、わたしはトゥルナン寺の前にいて、二人のチベット人と話していた。一人は医者で、チベット人に自分たちの文化を守るよう警鐘を鳴らす文書を書いた罪で、刑務所にいた人だった。もう一人は普通の労働者だと名乗った53歳の男だった。両者ともアメリカ人と話をしたがっており、チベット問題を解決する力があると、アメリカに対して大きな期待を寄せていた。それはわたしを悲しませた。わたしは彼らに、アメリカでは「FREE TIBET(チベットに自由を)」のバンパーステッカーがたくさん使われているが、一方で、いまチベットが被っているものと同じような、開拓され近代化に屈した部族の名前を付けたナンバープレートもあるのだ、と伝えたかった。そして中国のチベット問題の解決法(問題に対して金を投げ込む)は、非常にアメリカ的に見えた。でもわたしは口をつぐみ、彼らの話に耳を傾けた。

 

「この柱を見てください」と労働者の男が言った。彼は寺の入り口に立ち、使い込まれた赤い木の柱に手を置いた。「家に柱がなかったなら、あるいは柱がまっすぐでなかったなら、どうなります? 崩れ落ちるでしょう。ここの状況と同じなんです。わたしたちの柱とは、歴史であり、政治です。これを手にしなかったなら、わたしたちの社会は崩壊します。すべてが失われるでしょう。わたしたちの文化のすべてがです」

 

あたりは暗く、顔はよく見えなかったが、彼の目には光るものがあった。チベットでこの場所ほど政治的な場所はなかった。実際、大きな抵抗運動は、トゥルナン寺の前で行われていた。この場所でこのように開けっぴろげに話すことは、軽率だとわたしは知っていた。彼は後ろをちらりと見てから、こう続けた。

 

「アメリカの人に、ここがどんな風か、ぜひとも話してくださいよ」 そう彼は言った。「アメリカの人に、ここがどう扱われるべきか、話してくださいよ」 わたしは頷いて、彼の手を握ったものの、何をどう言うべきか、言ったところでアメリカの人々に何ができるのか、全くわからなかった。おそらく我々アメリカ人は、カジノをつくるのではないか。

初出:The Atlantic