7. 知られざる国のサッカー代表
テキスト:ショーン・キャロル(Sean Carroll)
2010年ワールドカップ南アフリカ大会、優勝国がどこかは忘れても、スタジアムにブブゼラが鳴り響いたことを誰もが記憶している。Photo by Crystian Cruz (cc)
2010年ワールドカップ、安英学(アン・ヨンハ)と鄭大世(チョン・テセ)は、北朝鮮代表として南アフリカ大会に出場した。
2015年7月9日
「ピッチは半分に、こんな風に真っ二つに分かれていました」 安英学(アン・ヨンハ)は両手のひらを胸の前で合わせると、それをそらして開いてみせた。「右半分に北朝鮮が、左半分にセレソン(ブラジル代表チーム)がいました。ピッチに僕がはいると、セレソンがウォーミングアップをしていて、まるでコンピューター・グラフィックの世界でした。信じられない思いでした。カカに、ロビーニョに、マイコン。カナリアカラーのユニフォーム。夜だったので照明灯がついていました。僕はすべてが信じられなかった。ウォーミングアップをしなければならなかったけれど、こんなにも近くにセレソンがいたのですから。なかなか集中できなかったです」
鄭大世(チョン・テセ)も集中できずにいる自分に気づいていた。「ワールドカップといえば、ブラジルです」ときっぱり言った。「ウォーミングアップしてるとき、実際泣いてました。照明灯が強くてまぶしくて、目をやることができなかった。まるでコンサート会場みたいだった。自分はミュージシャンで。ブラジル選手がすぐ隣りでウォーミングアップしてて。南アフリカはすごく寒くて、自分の吐いた息が白かったです」
整列しているとき鄭大世の涙はとまることがなかった。ブラジルの国歌斉唱のとき少し泣いて(テレビで何度も聞いた歌だったので)、そのあと水門が大きく開け放たれた。エリスパークに『愛国歌(北朝鮮の国歌)』が響きわたったときのことだ。
「我慢はしなかった、ただ自分の感情にまかせたんです」 2010年の南アフリカで、人々の記憶に残るシーンの一つになったそのときのことを、鄭大世はそう語った。朝鮮民主主義共和国の国歌が、ワールドカップで鳴り響いた。北朝鮮が初めてワールドカップに登場したのは1966年のイングランド大会だが、当時、国歌は開幕戦と決勝の試合の前にしか演奏されなかったため、今回が初めての、北朝鮮国歌演奏の機会となった。
「男が泣いたりしたらみっともない、とみんな言う。でもぼくはそんなことは考えなかった」 鄭はそう言った。「自分は情感の強い人間なんです。ぼくは怒ったらもう本気で怒るし、気落ちすればどん底まで落ちる。嬉しいときは目一杯嬉しいんですよ」
そのような奔放さは、いつも率直であるよう両親に育てられた結果かもしれない。
1948年の南北分断以前、朝鮮半島は日本の植民地で、1905年から第二次大戦で日本が負けるまでその保護国(従属的国家結合:帝国主義国家が植民地を支配するときにとった統治形態)だった。戦後、解放された独立国家をつくるためという表向きの理由から、臨時的にアメリカ合衆国とソビエト連邦が朝鮮を管理下に置いた。しかし二つの対立軸はいともたやすく浸透し、結果、共産主義の北と民主主義の南という分断が起こり、いまに至るまでつづいている。
35年間にわたる日本の占領の期間に、自らの意志によるものであれ、強制によるものであれ、多くの朝鮮人が海をこえて日本にわたってきた。日本の支配が終わって約40年後の1983年3月2日、鄭大世は名古屋で生まれた。そして3人兄弟の末っ子として、45万人いる日本に住む朝鮮人の2世、3世(在日朝鮮人)の一人として成長した。鄭(チョン)の家族は第二次大戦の前、まだ朝鮮半島が一つの国だった頃、日本にやって来た。子ども時代の鄭は、北朝鮮が運営する学校で教育を受けた。
同年齢の日本の子どもたちから隔離されて学校教育を受けたことで、(朝鮮人であることで)特別いやな思いをすることはなかった、と鄭大世は言う。「サッカーの試合のときくらいかな」 自分の好戦的なプレースタイルに拍車がかかったという示唆をした。「日本の子はぼくらにこう言うんですよ。キムチくせー、歯みがいたか? で、こう言い返してやりました。おまえら醤油とタクワンくせー。こんな風でした。よくそう言い合ってましたよ」
そういった嘲りへの応酬で見せた強気と同様に、鄭はピッチの上でも強い印象を与えていた。そして2006年、Jリーグの川崎フロンターレと契約をした。翌年、東アジアカップ予選のモンゴル戦で北朝鮮代表デビューを果たし、そこで4ゴールをあげた。つづくマカオ戦でも4ゴールをあげ大活躍を演じたが、香港戦は0-0の引き分けとなった。「香港は強かったな。得点のチャンスがなかった」 7年後のいまも、鄭は悔しがっている。
韓国の華城(ファソン)市、鄭大世のアパートの1階にあるホリーズ・コーヒーで彼と会った。鄭はそこの22階に住んでいた。現在の所属クラブである水原三星ブルーウィングスのグレーのトレーニングウェアで、練習からまっすぐここにやって来た。頭を壁にあずけ、ラテをすすりながら、なぜ生まれた日本ではなく、チョルリマ(千里馬とは朝鮮の伝説上の馬。平壌の万寿台には千里馬の銅像がある)の代表を選んだのか(これまでにも何度も繰り返してきたという)説明をした。「強制されて日本に来たんですよ。政府が働かせようとして、強制されて来たんです」 祖父母がそうやって日本にやって来たと話した。「学校でそのことを習いました。じいちゃんばあちゃんはここで差別されていた。だからぼくは日本の国籍に変えるつもりはないんです」
鄭の父親が韓国のパスポートをもっていることで、韓国籍は最初の選択肢だったが、どちらの国を選ぶか決める時点で、鄭は迷わなかった。「ぼくは日本の朝鮮学校に行ってたんです。北朝鮮が学校を支援していて、そこで北朝鮮の歴史を学びました。韓国のパスポートをもってはいたけれど、韓国代表でプレーする気持ちはなかったですね。韓国の国歌を試合前に聞いたとき、そういう気分には、、、北朝鮮の歌のような気分にはなれなかった。やっぱりこっちです。あの歌を聴くのはいい気分なんですよ」
安英学(アン・ヨンハ)の話も似たものだ。鄭大世と同じように末っ子で、兄が一人いた。立正大学に進む前は、東京で朝鮮学校に通っていた。2002年に大学を卒業すると、J2リーグのアルビレックス新潟と契約した。そのシーズン優勝に安は貢献し、クラブは翌年、J1昇格を果たした。安はその後、日本と韓国両国の複数のクラブでキャリを積み、現在J2の横浜FC(日本のレジェンド三浦知良が所属し、今も47歳にして活躍中のクラブ)に所属している。安の場合は、先祖への敬愛の気持ちから(自分の家族は強制ではなく、自主的に日本にやって来たと安は理解している)、北朝鮮の国籍を選んでいる。「日本で生まれ育ったけれど、僕の国籍は朝鮮です。北朝鮮ではなくて、朝鮮なんです」 分断される前の朝鮮半島を示す言葉、日本語の「朝鮮」をつかって安は説明した。「僕のパスポートは朝鮮です。朝鮮半島が一つだったときの名前です。パスポートを朝鮮にしたのは、学校がそうだったからです。小学校、中学校、高校、すべて北の支援で運営されていました」
鄭大世より5歳半年上で、ひょろりとして、後輩のように目立った体格ではない(鄭の方は「人民のルーニー」の愛称をかつてもっていた)安英学は、横浜FCのクラブハウスの殺風景な集会室で話してくれた。安は自分の不安定な立場(日本、北朝鮮、韓国の間で生きること)について、心から話したがっていた。「僕らの立場をよく知らない人はたくさんいます。だから機会があればいつも話したいと思っているんです。なんで日本にいるのか。なぜ北朝鮮の国籍なのか。いろいろな先入観がありますよね」
朝鮮半島を二分している複雑な事情を考えれば、38度線の南の国のユニフォームを着た北朝鮮代表の姿をイメージするのは難しい。安は対韓国戦の親善試合で、北朝鮮代表としてデビューを果たした。それはフース・ヒディンク率いる韓国代表が、2002年ワールドカップ日韓大会で予想を覆す活躍をした2、3ヶ月後のことだった。「韓国代表は準決勝までいったんですよ。洪明甫(ホン・ミョンボ)、安貞桓(アン・ジョンファン)、彼らはびっくりするようなことを成しとげました」と安は回想する。「僕は韓国を応援してました。同じ民族なんですから。彼らのユニフォームを着て、テレビで試合を見てたんですよ。だから韓国との親善試合『南北合同試合』は、本当に素晴らしい体験でした。僕ら同じ民族なんですから」
「北朝鮮の選手、人々はみんな純粋です。政治は、、、いろいろうまくいかないことが多いですが。でもすべて北朝鮮が悪いとも、すべて正しいとも思ってないんです。それなのに新聞やテレビでは、悪い面しか出てきません。それは僕にとって悲しいことです。僕は中間にいますから。日本にいいところはたくさんある、朝鮮にもいいところはたくさんある、それを僕は知ってます。明るい材料はたくさんあるのに、暗い面ばかりが表に出ます」
ワールドカップでプレーすること、世界の目から固く身を守る自国の壁を少し崩すことは、安にとっても鄭にとっても、現実的な目標となったことはなかった。鄭は家族や学校教育との関係だけでなく、韓国や日本の代表になるより、北朝鮮の代表になることの方がハードルが低いことを認めてもいる。
2009年6月17日の韓国対イラン戦で、(すでに予選通過していた)韓国のパク・チソン選手が82分に同点ゴールあげ1-1にしたことで、北朝鮮は救われた。それは6時間後にリヤドで行われるサウジアラビア戦で、北朝鮮は勝ち点1をあげれば、W杯予選を通過することを意味していた(韓国が負ければ、勝ち点3の勝利が必要となった)。かくして北朝鮮はスコアレスドローで勝ち点1を得、1位通過の隣国につづいてグループBの2位となり、南アフリカへの道を手にした。
「ワールドカップでプレーすることは夢だったんです」 試合終了のホイッスルを聞いたときの気持ちを安は語った。「僕にとってとてつもなく大きな出来事でした。いつもその夢を見て、最善をつくせば夢は叶う、と信じてました。だから溢れる涙をとめるのは無理なことでした」
予想にたがわず、鄭大世も同様だった。「1分泣いては、1分やめ、また1分泣きました。ぼくの人生で最高のときでした。もちろんワールドカップで初めてプレーしたのは、すごくいい体験だったけど、自分にとってはサウジアラビア戦のときが最高でした。ぼくのハイライトですね」
「1週間前から、毎晩サウジアラビア戦の夢を見ていたんです。勝つこともあれば、負けることもあった。この試合はまるで夢みたいだったから、本当に起きたのか信じられない思いでした。で、何回も自分のほおを叩きましたよ」
そうやって鄭が正気を取り戻したとき、北朝鮮のワールドカップ出場のニュースが世界を駆け巡った。パク・ドゥイク選手のエアサム・パークでの歴史的なゴールにより、イタリアを打ち負かした1966年大会のことが話題になるのは時間の問題だった。しかし鄭は、南アフリカ大会にそのような期待はまったくもっていなかった。「当時はいまのようにサッカーのレベルが高くはなかった。いまはどの世代でもレベルは上がってる。だからぼくらは1966年のことは考えなかったです。まったく状況が違います。記者の人たちはみんな、1966年のことをどう思うか、と聞いてきました。あれは関係ない、別のことなんです」
鄭の指摘を具現化するように、12月に行われた組み合わせ抽選会で、キム・ジョンフン率いる北朝鮮代表は、ブラジル、ポルトガル、コートジボアールの「死のグループ」Gに投げ込まれた。「抽選会の生放送は見ませんでした」と安は言った。「時間が遅かったので、眠り込んでいました。次の日、『おつかれさま!』のメッセージをもらいました。何故かはわかりますよね。説明はいらないでしょう。友達がジョークで送ってきたメールなんです。いや、ジョークじゃないですね。誰もが当たったグループが難しいと思っていました。すごく難しい、でも僕は楽しみにしていたんです」
鄭もまた、自分の目の前に横たわる大変さを見て、なんの幻想ももたなかった。1966年のときの記憶がどこかで渦巻いていたとしても、夢をふくらませるようなことはなかった。「世界中の誰もが、北朝鮮はすべての試合で負けると思ってたでしょうね。残念ながら、ぼく自身もそう考えました。でももし、たった一つでもぼくがゴールできれば、勝つ可能性は生まれた。それがサッカーですから。ボールポゼッションが80%対20%でも、ときに20%の方が勝つこともある。それがサッカーですよね」
そして対ブラジル戦のハーフタイム、(鄭のゴールはなかったにしても)コトは思いの外うまく進んだ。「ブラジルだって君らと同じ、人間なんだ。確かに強いけれど、彼らも人間なんだから」 安はキックオフの前に監督が言った言葉を思い返した。ハーフタイムはスコアレスで終わったものの、北朝鮮のドレッシングルームで調子にのる者はいなかった。「あれでブラジルが終わるとは思ってなかったです。もちろん後半、彼らはギアをあげてスピードアップしてくるはず。当たり前ですが、あれで終わることはなかった。ブラジルは強さを前面にだし、ギアを変え、パワーを増し、スピードをあげてきました」
「ロビーニョがマジシャンみたいにプレーしてるな、と感じました」 試合のときのことを鄭は振り返る。「ロビーニョはドリブルしながら、股抜きパスをしようとします。常にそれをやろうとするし、実際にやってます。マジシャンですね。ルシオはまるで猛獣みたいです。クマとか、そういう。日本では、ぼくがこうすると」と言って、鄭は両手を広げ、椅子の背にもたれかかった。「ディフェンダーは動けなくなった。日本ではぼくは力で勝ってたんです。でも日本でだけです。ルシオはもう、人間じゃない、、、ぼくは子どもでしたよ。あれは大人対子どもの試合でした」
そうであっても、「子ども」の方はそれでOKだった。鄭のチームは勝ち点をとることはできなかったものの、志尹南(チ・ユンナム)選手の終盤のゴールは観客に感銘を与え、価値あるものとなった。また5回優勝のブラジルを相手に2-1での敗戦は、不名誉な結果ではまったくなかった。自分たちの健闘と見守る観衆の反応に励まされ、選手たちは次の試合、ポルトガル戦に向けて心熱く準備を整えた。
あー、若さゆえの現金さか。チームの心は放たれた。
「朝鮮の選手はとても純朴で、それは国が閉ざされているからです。地方に住む子どもみたいな感じかな」 そう鄭は説明した。「ブラジル戦はよかったです。みんな興奮していました。ぼくらは戦える、ポルトガルにだってうまく戦える、ってね」 その熱狂が彼らの崩壊を予感させた。ハーフタイム前はまだ1-0の負けだったものの、後半戦は壊滅的な展開となり、チョルリマのチームはクリスティアーノ・ロナウドのチームに7-0で打ちのめされた。
「僕にとってポルトガル戦の本当の口惜しさは、100%めいっぱいやりきっての負けなら許せたのに」と安、「でもあの試合ではそうできなかった。前半戦はできていました。でも後半は僕らバラバラになってました。それが本当に悔しいです。もし全力を見せられたなら、たとえ7-0で負けても100%で戦っていたなら、それはもう仕方がないことですから。ワールドカップのような舞台で、いい選手を揃えたチームと対するときに、恥かしいことです。試合の勝敗より恥かしいことです」
わたしはポルトガルのエウゼビオ選手による0-3からの驚愕の反撃、5-3で逆転勝利された44年前のグディソンパークの試合を提示し、北朝鮮の選手が2010年大会でリベンジを果たそうと願ったのではと考えたが、安はそれを否定した。「そういったものだったのか、僕にはわかりません」と安。「そのことでプレッシャーを受けるような、そういう試合ではなかったです。代表といっても一つじゃない。多分、僕らはワールドカップの雰囲気にのまれていたんだと思う。ワールドカップではいろいろなことが起きます。大きな舞台ですし、メディアはブラジル戦で善戦したので、僕らに注目してました。いろんなことが影響しました」
負けた原因は鄭の心の中ではっきりしている。自分はチームの和を乱したことで、責任があると感じている。「ぼくらは負けていた。ぼくはもう腹がたってて」とハーフタイムのときの心情を話した。「ぼくはいらついていて、ペットボトルを投げたんです。それが後ろに飛んで、そこには仲間のディフェンダーいました。それでぼくに腹をたてました。そのディフェンダーは、ぼくが怒ってるのはチームが負けているからだと思ってこう言いました。『おまえが点とれよ、点とればいいんだよ。点とれるなら、やってみろよ』 でもぼくは人に当てるつもりはなかった。ぼくは頭にきていたからボトルを投げた。でも間違いでした。そいつに水がかかったんです。でもぼくは腹がたっていたから、ゴメンとは言いませんでした。自分の席に行ってすわり、タオルをかぶり頭をたれていました。雰囲気がすごく悪くなりました。ぼくの過ちでした。今でもあのときのことを考えます。ぼくはアホのように振る舞ったんです」
鄭が自分をそうやって呪おうと呪うまいと、完敗ののち一つ確かなことがあった。それは北朝鮮代表は1966年を再現することなく、決勝トーナメントに進むことはなかったということ。しかしまだ試合は一つ残っていた。コートジボアール戦を安も鄭も精一杯戦いたいと思っていた。「もし最初の段階でわかっていても、神様が僕らは3試合全部負けるだろうと言っても、それでも僕はプレーしたかったです」と安は言った。「ワールドカップは子どものときからずっと願っていた夢でした。だからプレーできるだけで、僕は幸せだったんです」
「3戦目はとにかくゴールしたかった」と鄭は思い返す。「たった1点でもいいから、ゴールしたかった。ぼくはストライカーで、3試合で一つのゴールもできなかったら、問題ですよ。それにもっと高いレベルのクラブに移籍もしたかった。だからぼくの力を世界の舞台で見せなければならなかった。実際のところ、ぼくらは3試合目はポルトガル戦のようなひどい負け込みをしなければ、それでいいと思ってました。大量得点されなければよかったんです」
3-0の敗北はポルトガル戦の崩壊から見れば進歩だったが、鄭はどうしても欲しかったゴールが奪えなかった(あるいはビッグクラブへの移籍が叶わず、最終的に川崎フロンターレからブンデスリーガ2部のボーフムへの移籍に終わった)。また鄭はロビーニョ、カカ、クリスティアーノ・ロナウドからもらったユニフォームに、ディディエ・ドログバのものを(頼みはしたものの)加えられなかったことにがっかりもしていた。「ドログバはユニフォームをサポーターに投げたかったんで、ぼくにくれなかったんです」と鄭大世。「多分、ドログバはぼくらが7-0でポルトガルに負けたんで、ぼくのことをよく思ってなかったのかもしれません。ぼくらのせいでトーナメントに進める可能性がほぼなくなったので。この試合でコートジボワールは8-0とか9-0で勝たなければならなくなった。不可能ですよ」
このような状況は、すぐに軽薄な様相を見せて広がる。
北朝鮮代表のグループリーグ敗退(特にポルトガルによって崩壊したこと)に対する、平壌の反応についての報道が駆け巡り、おかげでイングランドでは4年ごとに起きる、自国代表チームへの新聞の酷評が和らげられた。<代表チームは人民文化宮殿で、総勢400名の聴衆の前にならばされ、長々とした「壮大な糾弾」にさらされ、その中で選手たちは監督の金(キム・ジョンフン)への批判を求められた。監督は党から排斥され、当時の金正日総書記の後継者、金正恩を裏切ったことで強制労働収容所に送られた>というような噂が次々に生まれた。この問題についてコメント可能と思われた鄭と安は、すぐに日本に帰ることでその難を免れた。
安と鄭の二人は、そんな噂はウソだと主張した。二人は、チームとともに南アフリカから平壌に戻ると、北朝鮮サッカー協会による晩餐会に招かれた、と言った。晩餐会は前年の夏、リヤドでの予選終了後に、チームのために計画されたものだったが、鄭も安も所属クラブの要請のため日本に戻る必要があって欠席した。この招待には、もう一人の在日の梁勇基(リャン・ヨンギ)選手が出席して対応した(ベガルタ仙台所属で、最終選考の23人からはもれたものの、サポートメンバーとして南アフリカに帯同していた)。
敗戦に対する罰については、「まったくのウソです、ウソですよ、もちろんウソです」と鄭は返した。「チームメンバーはみんなヒーローでした。ワールドカップでプレーしたからです。監督は軍に所属していて高い地位にいます。だから誰も何も言えません。朝鮮民主主義共和国は軍隊の国です。だから当然ながら糾弾などできません。2、3ヶ月後にぼくはまたチームに合流しました。平壌でみんなと再会しました。世界中から注目を浴びたがっている記者がいたんでしょうね。ぼくが報道のことを話すと、みんな笑っていました。『くだらないな。ぼくらちゃんと生きてるよ!』 ぼくが話すまで、みんな報道のことは知りませんでした。ぼくから初めて聞いて、みんなただ笑ってましたね」
安と鄭は日本に戻っておかしな話に出会うことになった。南アフリカ大会で力をつくした結果、チームは好意的に受け入れられたのに、そのような噂がたっていることに安はがっかりしていた。「みんなゴシップが好きなんですよ。過去には噂されたようなことがあったかもしれないけれど、、、メディアはまた同じところに戻ってしまうんですね。とても残念です」
もちろん国外にいる北朝鮮人として、選手として、自分の国のイメージがもたらすものに気づかないわけがない。「もし北朝鮮がもっとオープンで、情報を外に伝えていれば、このような噂は出てこないでしょう」と安は述べた。「何の発表もないから、ああいうことを人々は言い続けるんです。僕ら選手は言うことができます。『そんなことは全くないですよ』と。でももっとオープンになる必要はあると思います。情報が外に出ない、だから言われているようなイメージに染まるのです」
最高基準で情報を管理しようとする意向は、大会前に鄭と安がメディアの扱い方について忠告を受けたことにも表れていた。「金正日総書記から手紙をもらっていたんです」と鄭。「ぼくも安も、在日朝鮮人の選手は、金正日総書記から公式の手紙を受け取っていました。それにはこう書いてありました。『報道機関には注意をしてください』 よくあるような一般的な文章があって、最後に書いてあったのが『報道機関には注意をしてください』の一文でした。日本や韓国、アメリカの人々はみんな、朝鮮民主主義人民共和国のことを悪く書くから、彼らは用心深くなっていて、メディアを恐れているんです」
このような側面は、国外での試合のたびに、厳重な規則として現れたりもする。同伴者なしでホテルを出てはいけない、というような規則だ。「みんな心配しているんです。多くの人が北朝鮮から中国や韓国に保護をもとめて逃げていますから」 そう鄭は言った。彼自身はチームメートが亡命をするなど想像できないのだ。「代表選手は国のヒーローなんです。彼らは十分に食べられますし、キャリア後はいい職にもつけます。だから代表チームや国から逃げ出す理由がないんじゃないでしょうか」
その厳しさは違う場面でも表れた。鄭や安が試合のために平壌に行くと、同じような管理的な扱いを受ける。「一人でホテルから出ることはできません。誰か付添人といっしょでないと、出られないんです。政府の役人が一つのグループに一人つきます」 そう鄭は説明した。とはいえそのことに特別な不満はないようだった。「観光できるような場所は多くないですし。どこかで食事するくらいでしょう。温泉に行くとか。平壌はみんなが思うほど悪いところではないですけどね。ビルがたくさんあって、でも日本の30年前のような感じです。電車はすごく古いですし、ビルも同じく古いです。空港周辺はほんとうに田舎みたいです。道路に車はあまり走っていないし、だから空気はすごくきれいです」
安も似たような描写をした。「平壌は騒々しくありません。静かな場所なんです。活気があるとは言えませんが、北朝鮮の中ではいちばん大きな街で、大きなホテルやデパートなどがあります。正直言って、何度も行ってはいますが、政治のことについて、何が起きているかはよく知りません。日本に住んでいても、日本の政治に関して充分に理解していないことがいろいろあります。政治のことにあまり詳しくはないんです。とても複雑ですし。でも思うのですが、北朝鮮に来て、実際に目で見て、体験するのはいいことのように思えます」
筆者自身をふくめて多くの人が望んでいるのは、もっと行きやすくなればということだ、と言ってみた。「ほんとうに行ってみたいですか?」 心底驚いた風に安は訊いてきた。「自分の目で見て、感じることはすごくいいことです。良いことも悪いことも、自分で確かめるのが一番です。もしこっちの側に自分がいれば」と右手で示し、「こっちの見方をもちます。もしこっちにいれば」と左手をさっきと反対側に置いて「こっちの見方をもちます。その中間のところからものを見る人が、いちばん理にかなっています」
その「中間」こそ、安と鄭が立っている場所だ。日本での在日に対する差別はかつてほど顕著ではない。「誰もが自分の名前を失い、在日朝鮮人は朝鮮語を話すことが許されませんでした」 鄭は祖父母の世代が直面した苦難について話した。「日本政府は言語を奪ったんです」 しかし今も水面下に潜む問題はある。二人が北朝鮮代表であることで、特に差別されることはなかったものの、日本人と北朝鮮人が、両者の被害妄想のため、緊張関係にあることは事実だ。韓国では、在日に対する憎悪というものはないが、韓国人は在日を朝鮮人というより、日本人と認識している。安や鄭のような在日をとりまく主たる問題は、南北どちらの側の体制に忠誠心を置くかということ。両選手は自分たちは北朝鮮のチームメートに歓迎されたと主張し、金正日からの書状のような事例はあっても、特別な待遇を受けていると認識もしている。
安と鄭が日本あるいは韓国の代表として(選ばれ)プレーするのは難しい面がある一方で、北朝鮮の代表となるのはさほど難しくはなかった。意外なことに、政治的な理由ではなく、現代サッカー選手として、鄭はわずかな心残りを見せていた。「日本や韓国の代表チームがうらやましく思えることもたまにあります。彼らは報酬もよく、サッカーのレベルもありますから。でも2006年に戻ったとして、ぼくは北朝鮮代表をまた選びますよ」
わたしは尋ねた。もし南北の選択の必要がなくて、朝鮮統合チームとして競い合うことができたら、それは理想ではないのかと。「いい質問です」とうなずく鄭。「記者たちがこの質問をしたら、ぼくはこう答えています。朝鮮はひとつです。いつもそう答えます。朝鮮はひとつなんです」 ということは鄭は安とともに心のなかで、2002年に韓国代表のユニフォームを着て応援したとき、両国はそう見えるほどには分断されていなかったのだろうか。「いえ、もちろん南北に分かれています。でもこう答えるのが一番平和的なんです」
「スポーツは政治体制による分断が必然です。ぼくは平和的にプレーしたい。北朝鮮のチームはそれができないことがある。とても悲しいです。それをすぐに変えることはできないけれど、ぼくらそれを変えなきゃいけない。ぼくはその立場にいます。なぜなら北と南と日本の間に立っているからです。だからぼくの役割でもあるんです。ぼくに何かできるかわからないし、自分が政治に対してどれだけ力があるかもわからない。ぼくはただのサッカー選手ですからね」
2010年の南アフリカ大会はサッカー選手たちに力を発揮する機会を与えた。わずかばかりの、つかのまではあったが。「みんなが応援してくれて、僕は嬉しかった」 安は大会で北朝鮮を応援してくれた一般観衆のことを話した。「その人たちは試合を見に来てくれた。北朝鮮のイメージに寄りかかるのではなく、僕らのそのままの姿を見に来てくれたんです。僕らはベストをつくし、見に来た人たちがそれを見た。僕はそれが嬉しいし、またこういう機会をもちたい。来てくれて僕らを見てくれて、ああいう場で応援してくれる、そういう人たちのために、国際大会という場に出たい。僕らのがんばりを見せて、サッカーを通じて悪いイメージを減らせれば。僕らのプレーぶりもです。無作法なことなどしないし、僕らピッチでフェアに戦いました」
赤と青の母国のユニフォームを着て、ワールドカップで戦うことは、個人としての安のアイデンティティにも衝撃を与えた。「僕は誇りに感じてました、心から。ワールドカップの舞台に立ち、自分の隣りにはブラジルがいました。あのような大きな大会で、自分の国のユニフォームを着る。特別な感じでした。日本で生まれ育ったとしても、母国の選手たちとともにそこに立つことができた。国歌をうたうことはまた格別でした。心から誇りに思いました。そして若い世代の、すべての在日朝鮮人の子どもたちに、この姿を見せたいと思いました。『ぼくらにもできるんだよ』 日本に生まれたとしても、ここに立つことができる、母国の選手たちといっしょに、北朝鮮の人々といっしょに国歌をうたえる。そういうことを僕は伝えたかった」
次の世代の選手たちが(北朝鮮に生まれようと、在日であろうと)、こういう気持ちを経験する機会をもてるかどうかは、今後の課題となる。安と鄭はこう主張する、北朝鮮がまたワールドカップに出場するのに44年はかからないだろう、と。しかしこの夏のブラジル大会には出られなかった。鄭はこう付け加えた。「人生にとって数は問題じゃない。数えられないこともあるんです。先のことは誰もわからない」
時もまた止まっていてはくれない。2018年には安は39歳、鄭は34歳。ロシア大会の予選通過に失敗すれば、両選手ともに再びワールドカップの熱狂を体験することはまず不可能になる。「あの試合が永遠につづいたら、もう幸せです」と鄭大世はヨハネスブルグのブラジル戦を思い返して言った。「永遠の幸せです。あれを終わらせたくはなかった。終わったとき、ぼくは夢から覚めました。朝起きて、目が覚めるみたいにね」
安英学、鄭大世の両選手には取材協力に対してありがとうの言葉を、またカン・ヨンとエリカ・フジノにはインタビュー設定の手助けへの謝辞を。日本外国特派員協会(FCCJ)のチアキ・アイタ、ジョン・ドゥーデン、ナラエ・キム、ドミニク・ブリス、ニック・ゴーズにも心からの感謝を。またアンリ・カンの入力や翻訳の助力に対してお礼を言います。