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  世界消息:そのときわたしは

地球のどこかで起きたこと、起きていることを、その場所から記者や作家、学者、写真家たちが自分の言葉で伝えます。

5. アフリカの地で書く、インド人ディアスポラ作家たち

テキスト:アヌ・クマール(Anu Kumar)

モーリシャス北部のレストラン

モーリシャス北部グランド・バイーのレストラン。アフリカ系のウェイトレスの女性(右)とインド系の経営者(左)。        Photo by shankar s. (cc)

1.ディアスポラ

出身地を離れ、異国に居住地を求めて離散した人々、その民族やコミュニティ、またはその行為。

2.アミタヴ・ゴーシュ

(Amitav Ghosh)

ベンガル系インド人の英語作家。1956年コルカタ生まれ。デリー大学、オックスフォード大学で学び、現在はニューヨーク在住。ニューヨーク市立大学やハーバード大学で教鞭をとる。

Sea of Poppies (2008年)は阿片戦争以前の東洋の植民地支配の歴史を描いた長編小説である。

3.ピーター・ナザレ

( Peter Nazareth)

インド、マーレーシア系のウガンダ生まれの作家、評論家。1940年生まれ。マケレレ大学(ウガンダ)、ロンドン大学、リーズ大学で教育を受ける。イディ・アミンの財務省で会計官を務めたが、イェール大学の奨学金を受けアメリカに渡る。現在アイオワ大学教授、国際創作プログラムの指導にあたっている。

4.アブラハム・ベリーズ (Abraham Verghese)

インド人両親のもと、1956年エチオピアに生まれる。スタンフォード大学医大の教授で作家。小説 Cutting for Stone は2011年ニューヨークタイムスのベストセラー・ランキングで2位となる。

5.グギ・ワ・ジオンゴ (Ngugi wa Thiong’o) 1938年生まれのケニアの作家。当初は植民言語である英語を使用していたが決別し、現在は母語であるキクユ語を用いる。小説に始まり、戯曲、児童文学、映画、論文、批評まで幅広く手掛ける。(ウィキペディア日本版)

6.バハドゥル・テジャニ (Bahadur Tejani)

詩人、小説家、文芸評論家。1942年、インド人の両親のもと、ケニアに生まれる。マケレレ大学、ケンブリッジ大学で文学と哲学をぶ。Day After Tomorrowはテジャニの最初の小説で、東アフリカのインド人最初の小説と言われる。

7.ジャミーラ・シディキ

(Jameela Siddiqi)

インド人を両親にもつケニア生まれの作家、ジャーナリスト。イギリスのITNで海外ニュースのエディターやドキュメンタリーのプロデューサーを務める。小説の他、音楽関係のノンフィクションも手掛けている。

アフリカにおけるインド人の体験は、ここにしかない物語の数々を紡いできた。これはインド文学と関連づけられるべきものであるが、実際はそうはなっていない。

 

 

 

ミリアム・ピルブハイは著書「移民の神話」の中で、アフリカのインド人ディアスポラ* が体験した2つのことを述べている。一つはアフリカに至る旅について、二つ目は亡命または追放によって国を離れた人々の移住についてである。見知らぬ土地で新しい生活をつくりあげること、そこから生まれたであろう喪失感が、モーリシャスや東アフリカのディアスポラたちによって語られ、小説となった。

 

東アフリカ(主としてケニア、タンザニア、ウガンダ)の昔からのインド系居住者たちは、1960年代に独立運動が起きたとき、ともに暮らすアフリカ人たちとその理想を共有していた。しかし10年後、政情が不安定になると、インド人コミュニティは国からの強制退去命令に直面する。政治的支配が強まる中、まず目をつけられたのが作家たちで、そのうちの何人かは流浪の身となった。

 

モーリシャスはインド洋に浮かぶ島であり、アフリカの一部だ。しかし地理的にだけではなく、いろいろな意味で外界から切り離されている。

 

1760年代に、冒険家のミルザ・シーク・アティサムディがカルカッタからロンドンまで航海し、モーリシャスに寄港した。そこで彼は自分の言語であるベンガル語を話す人々と、少数のペルシャ語を話す者たちの存在に気づいた。モーリシャスのインド人とは、多くはサトウキビ農園で働く年季奉公の労働者だった。1835年のイギリス植民地における奴隷制廃止のあと、農園で働くインド人が増加した。しかしそれより早く、アティサムディの旅の記録によれば、のちに自由の身となった奴隷たち(ベンガルやマドラスからオランダ人やフランス人に連れてこられた人々)とともに、船乗りたちがここに住んでいた。

 

モーリシャスは1810年にイギリスの植民地になる前、オランダ人からフランス人の手にゆだねられ、当時つかわれていたフランス語がそのまま公用語として残った。モーリシャスでは現在もフランス語が広く使われ、また人口の90%はモーリシャス・クレオール語の話者であるが、ディープチャンド・ビーハリーの物語は、そのことでさらに魅力あるものとなっている。

 

 

英語で書く孤立した作家たち

 

19世紀の初頭に年季奉公の労働者としてモーリシャスに送られたインド人の子孫の一人、ディープチャンド・ビーハリー(2010年死去)は、作品を書く言葉として英語を選んだ。いくつもの言葉に精通していたが、自分のようなインド人とその歴史に光をあてるための選択だった。モーリシャスでは、英語で書く作家は難しい立場にある。英語の作家は少なく、英語による本の出版の機会が限られているからだ。モーリシャスの主流の言語が鳴り響く場で、英語は一定の場所を確保するため戦っている。広く話されているフランス語や中国語、ボジュブリー語(インドの言語の一つ)と、さらにはモーリシャス・クレオール語とさえ戦わねばならない。

 

ビーハリーは1976年に代表作「That Others Might Live(他者が生きられるよう)」を書いた。インドの読者に広く読んでほしいという著者の希望により、本はデリーで出版された。この小説は、出身地の違う3人のインド人の生涯を描いたものだ。3人はそれぞれ違う事情でモーリシャスにやって来た。二人は年季奉公労働者となり、残る一人、トーマスは宣教師となった。

 

いろいろな意味で、ビーハリーの本はアミタヴ・ゴーシュ*の「The Sea of Poppies(一面のケシの花)」の先駆けと言える。物語は船の上で始まり(「カラパニ(黒い水)」をわたる旅の詳細を列挙し、それだけで目録ができるような作品)またそこで終わる。トーマス、ディレン、マニッシュの3人はモーリシャスに到着するが、その後、それぞれの軌跡はまったく違ったものになる。

 

トーマスは教区牧師としてやって来た。マニッシュは父親を秘密裏に探している。父親は1857年のイギリスによる征服につづく、反植民地運動鎮圧の最中インドから逃げた。ディレンは、サトウキビ農園での貧しい生活から逃れる道を探している。ディレンはやがて、変わり者の農園主アントワーヌ・デ・プレヴィス(歴史上の実在人物)に率いられた運動に加わり、濡れ衣を着せられる。そして彼の死の悲劇につづき、ディレンの婚約者だった女が、帰国する船の上から身を投げる。

 

ワーラーナシーで教育を受け、ヴィシュヴァ・バーラティ国立大学を出たビーハリーは、ヒンディー語と英語どちらも堪能で、モーリシャス・タイムスの寄稿者として長く記事を書いていた。アナンダ・デヴィ、ナターシャ・アパナ、バーリン・ピムトゥといった若い世代のインド系作家たちは、「移民の神話」で記されているように、年季奉公労働者たちの喪失の物語を再現してきたが、それはフランス語によるものだ。

 

ビーハリーと同時代のアビマニュ・アヌヌスは詩人、小説家、劇作家であるが、ビーハリーと同じように意識的に、自分にとって好ましい言語であるヒンディー語で作品を書いてきた。学者のラシ・ロハトギが彼の創作について書いた論文で、その作品は新たな注目を浴びることになった。アヌヌスの作品「サボテンの歯」はサトウキビ農園を題材にした詩集で、トゥルシーダースの「ラームチャリマナス」(東方からの移住者にもビーハリーにも馴染みのある本)からいくつかの物語が引用されている。故郷で読者を得る試みから、彼の本もデリーで出版されたが成果にはばらつきがあった。

 

 

 

 

流浪の作家たち

 

東アフリカのインド人の存在は、植民地支配者たちがやって来る何世紀前にも遡る。最初は主に商人たちが、それからすぐに労働者(鉄道関係)、小規模の商人や商店主が現れた。またのちには、中下級の役人にインド人が多くの割合を占めるようになった。そのような人々の中に、小説家でアイオワ大学創作プログラムの教授として名高いピーター・ナザレ*のような人物もいた。ナザレは最初ウガンダの官僚として仕事をしていたが、1972年のイディ・アミン大統領の悪名高いアジア人退去命令によってウガンダを去ることになった。また作家で医者のアブラハム・ベリーズ*は、エチオピアで生まれ育った。インド系の両親はそこで教師をしていたが、1970年代前半、ハイレ・セラシエ皇帝の廃位によって起きた政情不安からエチオピアを離れた。

 

インド人たちは、ナザレやベリーズのような作家のことを自国に何年もいたにもかかわらず、「よそ者」であると強く感じていたため、彼らの作品はインドでは周縁に追いやられていた。皮肉なことに、同じ東アフリカのケニア人作家グギ・ワ・ジオンゴ*の方が、大きな影響力をもっていた。

 

東アフリカで最初に英語で小説を書いたとされるバハドゥル・テジャニ*は、グギに影響を与えたことでも知られる。1971年に開催された東アフリカ会議で、グギは汎アフリカ文学について力強い講演を行なった。いろいろな理由により、英語によるインド文学はこの分野に組み込まれた。アフリカ文学はアフリカ人としての新たなアイデンティティを示す、意識的な政治行為でもあり、そこでは作家たちが先導的な役割を担った。しかし1970年代に起きた政変により、インド系作家とその領域の文学に変化が生じた、そのように今も理解されている。

 

テジャニの「明後日」(1971年)は論争を引き起こしたが、アフリカの中の異なるコミュニティの融合をもとめる姿勢は、熱意のこもったものだった。小説は “茶色の人種” が、過去の重荷と外の世界への憧れを背負っていかに生きるかを語ることから始められる。これは主人公シャムシェールの物語として、子ども時代から青年期へ成長過程の中で表されている。

 

シャムシェールの父親は移民商人で、自分の商売を子どもたちに何とか教えたいと思っている。しかし子どもたちの方はその呪縛から何とか逃れたい。シャムシェールは、父親の店に来る人々(マサイやワトラスといった地元部族の農夫たちが農産品を売りに来る)と自分との違いに、彼らとの間にある距離に気づく。

 

シャムシェールはまた、彼らが被っている待遇の悪さにも気づく。船に乗るとき、アフリカ人たちは3等客とみなされるのだ。そのような気づきから、自分は絶対に他者を搾取しないこと、そうではなく彼らの立場に立つ方を選ぶことを誓う。テジャニはのちにアメリカに住むようになってから書いた「オバマワラ:希望と調和の物語」の中で、異人種間の愛についての話をいくつか書いている。

 

ベリーズは現在スタンフォード大学で医学を教えているが、小説「カット・フォア・ストーン」の舞台はエチオピアである。2009年に出版された作品だが、ベリーズがマドラスで医学を学ぶため、エチオピアを離れてから30年近い年月がたっている。小説ではエチオピアからニューヨークへの移住が描かれる。政治によって分断された者が、奇妙な状況で再会を果たすという驚くべき人生の物語だ。その狭間で、医者にとって必要とされる慈悲と思いやりが列挙されている。

 

双子のシバとマリオンは小さな時に孤児になった。母親は出産後すぐに死に、イギリス人の父親は双子を見捨てた。インド人の夫婦に育てられ、成長したマリオンとシバは共に、家の使用人の娘ジェネットに惹かれる。政治的事件が起こり、マリオンはアメリカにやむなく逃れ、一方ジェネットはエチオピアの独裁政権を退けるための闘士グループに加わる。

 

ナザレの2つの小説はウガンダを舞台にしている。1992年に書かれた「怒る将軍」は、すでにアメリカにナザレがいたのに対して、1971年に書かれた最初の小説「茶色の覆いの中で」は、その後に起きた独裁政権とそれにつづく追放を予見するような内容である。

 

しかし終局を迎える前に、主人公のジョセフ・ドゥスーザ(ゴア出身でナザレ自身がそうであるように公務員)は、ダミビアが(ウガンダのように)独立に向かう中、彼のような状況にある人間が必ず陥る妥協を自分の中に見る。ドゥスーザは口のうまい政治家ロバート・キユネといつの間にか知り合いになっていた。ドゥスーザの政府との妥協は、隣りのアジンワに住む理想家の友だちピウスとはまったく対照的である。ピウスは、異民族のコミュニティが一つになる東アフリカ連合を夢見ていたが、その信念のために暗殺される。

 

M.G. ヴァッサンジの7つの小説の中の「ヴィクラム・ラルのはざまの世界」は、インド人とアフリカ人の関係性を精密に物語化した作品として際立っている。ケニアにある町ナクルで、インド人のヴィクラムと妹のデーパ、アフリカ人の少年ジョーローゲ、イギリス人の子どもビルとアニーの友だち関係の中で物語ははじまる。マウマウ団の乱(独立運動)が起きて、白人たちが襲われる惨事をヴィクラムが目にしたとき、ヴィクラム一家はナイロビに移る。

 

10年後、ジョモ・ケニヤッタに率いられたケニアの民族主義者たちが力をもったとき、ジョーローゲはディーパを見つけ出すが、彼らの関係はディーパの両親だけでなく、インド人コミュニティの間でもひんしゅくを買ってしまう。生き延びるため、ヴィクラムは新しい政府で働くようになるが、汚職に目をつむり、それに応じもする。最後はジョーローゲの敵対者が彼の失脚をたくらみ、主人公のインド人一家の保守的な思想がそれに手を貸す、というこれ以上ない悲惨な結末で物語は終わる。

 

 

 

 

女性作家たち

 

東アフリカの分離社会への関心は、二人の女性作家(他の作家同様、故郷を離れて西洋に旅だっている)の作品にも表れている。ヤスミン・ラーダの「ライオンの孫娘とその他の物語」の話の一つは、子どもの語り手の視点で書かれており、自分の父親がアフリカ人の使用人の少年をいじめる話だ。タンザニアの大統領ニエレレの政治を嫌っているのが理由であり、またアフリカ人女性への性的願望とも関係している。ラーダはタンザニアに生まれ、1970年代末にカナダに移住した。先祖であるグジャラート(インド北西部)の芯の強い女性たちを、彼女の物語は描いている。

 

このような一つのコミュニティの中の敵意や、一人の人間の中の複数のアイデンティティが負う憧憬と矛盾は、ジャミーラ・シディキ*の小説「9人の乙女の祝宴」でも表されている。この本のある部分は、インド人の8歳の子どもブラッドの視点で語られる。ブラッドは母親が商店をやっているモンジス一家を馬鹿にしていることに気づく。母親が一家に見せる唯一の好意は、彼らの料理である。この小説の他の登場人物は、東アフリカでひとたび成功しその後まちまちの人生を歩むという、インド人の多様な物語を代弁している。

 

 

初出:Scroll(2015年7月)

 

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