1984年にデリーで起きたシーク虐殺の背景
日本ではあまり馴染みのないこの出来事を、本を見る前の予備知識として、簡単に説明したいと思います。
シーク教(シク教)とは:ヒンドゥー教から分離した一派で、グル・ナーナクが16世紀に開祖した。輪廻転生を肯定し、カーストを否定する一神教。パンジャブ州に本拠がある。インドではヒンドゥー教徒が人口の80%を占めるのに対し、シーク教徒は2%程度である。ナーナクが布教活動をしたパンジャブ州に、シーク教徒の多くは住んでいる。インド国外ではインド人の典型と見られている男性のターバンは、シーク教徒のものである。髪とひげを切らない習慣があり、ターバンの下は長髪である。
ロサンゼルスオリンピックが開催された1984年。その年の10月31日にインドの首相、インディラ・ガンディーが暗殺された。二人のシーク教徒警備員の手によるものだった。その直後にデリーを中心とする地域で起きた、反シーク虐殺については、日本ではそれほど知られていない。写真家ガウリ・ギルによるこの本は、虐殺から30年たった2014年に、この事件を振り返り、何があったのかを当時の被害者やデリーに住んでいたアーティストに取材し、歴史の中に記憶として留めるために制作された。
インディラ・ガンディーが暗殺された直接の原因は、その年の6月、ガンディーの命令によりインド政府軍が、パンジャブ州にあるシーク教徒の総本山、黄金寺院を武力で制圧したことにあった。黄金寺院はシーク教の指導者ジャルネイル・シング・ビンドランワレが、武装兵を率いて占拠し、シークの本拠としていた。インド政府軍の攻撃により、ビンドランワレは死亡した。
黄金寺院があるパンジャブ州は、多数派市民であるシークと中央政府の衝突がつづく地域だった。パンジャブは「五つの水(川)」が語源で、インダス川水系の豊かな穀倉地帯をもち、インド政府はここを支配下に置きたいと思ってきた。しかしシークの指導者ビンドランワレは、パンジャブの自治権を主張し、独立国家とすることを目指していた。
インド政府軍の黄金寺院制圧やシーク指導者殺害によって、シークの政府への反発が高まり、最終的にガンディーの暗殺が起きた。そしてその報復として、暗殺の翌日11月1日から、反シーク暴動がはじまり、ニューデリーを中心とする地域で、シーク教徒の大量虐殺が展開された。ヒューマン・ライツ・ウォッチのパトリシア・ゴスマンの調査報告書では、何千人もの市民が殺されたとされている。また当時のTIME誌(1984年11月19日)では、若いヒンドゥーの暴徒がシークの家や店を襲い、2000人の死者を出した、としている。BBCニュースでも3000人近いシークが虐殺されたと報じている(2009年11月)。
救いがないのは、この事件がデリー警察と中央政府役人(議員)の関与によって組織されたと言われる点(インドの国家警察の調査/英語版ウィキペディア)と、被害者・生存者の多くが、事後にまともな訴訟さえを起こせないまま放置されていることである。また関与したと見られる政府関係者などが、目撃証言にもかかわらず無罪放免になるなど、被災者たちの失望は計り知れない。
TIME Ideas誌(2014年10月31日)に寄稿したシークの研究者のシムラン・ジート・シングは、「インド政府は30年間、説明責任を逃れ沈黙してきた」と述べている。また、この虐殺に対して「暴動」という言葉はふさわしくない、これは「民族浄化」であり「虐殺」である、と主張する。自然発生的、非組織的に起きたものではなく、チリやルワンダ、南アフリカで起きたものと同じ種類の虐殺事件であるからだ、と。2014年、インド政府内務省は、これは暴動ではなく虐殺であり、何百人もの一般市民が殺された、と発表している。
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