世界消息:そのときわたしは

地球のどこかで起きたこと、起きていることを、その場所から記者や作家、学者、写真家たちが自分の言葉で伝えます。

1. 女性を支援する銀行:エクアドル

テキスト:ルクサンドラ・グイディ(Ruxandra Guidi)

カニャールの人々が村を離れる率は、エクアドルのどの地域より高い。出稼ぎによる犠牲は大きいが、女性にとって恩恵もある。 Photo: Bear Guerra

小さな子どもを置いて、外に出稼ぎに行かなければならない経済事情がカニャールの人々にはあった。すぐに帰ってこれる場所へではない。メキシコ、アメリカなどの国外へ、危険をともなう旅をしてのことだ。ルクサンドラのレポートは、この状況をなんとか打開すべく立ち上がった、勇気ある女性のストーリー。

注1:12歳のノエミはたった一人で、エクアドルの小さな村を旅立った。ニューヨークにいる両親のもとに行くためだ。コヨーテと呼ばれる密入国を助けるガイドの男といるところを、メキシコの警察につかまり児童保護施設に入れられた。そこでいろいろ検察官に質問されたノエミはさめざめと泣き、その2、3日後、施設のシャワー室で首を吊って死んだ。(ニューヨーク・タイムズ、2014年4月19日付けジム・ドワイア記者の記事より)

エクアドル、カニャール県

地図 by TUBS (Creative Commons)

南米エクアドルのカニャール地方。小さな村が散らばる緑の丘に住む6万人の住民にとって、出稼ぎはいわば通過儀礼のようなもの。人々が村を離れる率は、エクアドルのどの地域より高い。70%の世帯が毎月、村の外からの送金を受けており、生活必需品を買うためにそれを当てている

 

出稼ぎによる負担は小さくはない。とくに子どもへの影響は見逃せない(注1)。親に置いていかれたり、自分が危険な旅に(ときにたった一人で)旅立つことを強いられる。経済的な悪影響は、ときに常軌を逸している。カニャールでは、海外からの資金で建てられた豪邸が、完成しないまま捨て置かれたり、居住者がみんな出ていったことで放置されているケースがままある。

 

 

しかしカニャールでは、こういった負の側面を超えて、見過ごされがちではあるが、出稼ぎによる大きな恩恵も受けている。これまで困難だった、教育を受けることや仕事を手にすること、村から外への出入りの自由や女性の経済的自立(なかでも先住民の女性にとって)が、村を離れてまた戻った人も、まったく出ていかなかった人も、どちらにも望める状況になった。

 

カニャールからの出稼ぎは1960年代に始まった。地域産業である麦わら帽子の輸出価格が暴落し、村の男たちが、エクアドルで最も大きな街、グアヤキルに仕事を求めて出ていった。1980年代には、オイル価格の暴落が負債と物価上昇を生み、1990年代までに多くの農夫たちが、なけなしの蓄えと生活基盤をなくした。次の15年間のうちに、カニャールの人口の半分(多くは男たち)が、アメリカ、スペインなどに仕事を求めて出ていった。

 

わたし(筆者)がカニャールの先住民女性、バルバリータ・ピチャサカさんと会ったのは、2014年8月のことだった。彼女は4人の子どもの母親で、40代である。2001年、夫がニューヨークのブルックリンへ旅立った。そしてすぐに妻にも来るように言ってきた。ピチャサカさんは地元の高利貸しからお金を借り、危険な旅に身を投じた。山岳地帯からエクアドル沿岸地域へ、そこから中央アメリカまで船でわたり、さらに列車とバスを乗り継ぎ、徒歩もまじえてメキシコを通って、目的地ブルックリンにたどり着いた。ニューヨークのクリーニング店で働いて1年たたない頃、やっとピチャサカさんは、子どもたちに食費や衣服代を送れるようになる。「だけど村で、子どもたちは耐えに耐えていた。それでわたしは夫にこう言ったの。あなたは大人でしょ、でも子どもたちはまだ小さい。あの子たちにはわたしが必要なの」 そう夫に言うと、2006年ピチャサカさんはカニャールに戻った。

 

ピチャサカさんのその選択は、夫との離縁を招いた。しかしそれは、自由な人生と成功の始まりでもあった。カニャールに戻ってから2、3年して、ピチャサカさんは出稼ぎ労働者による出稼ぎ労働者のための銀行を開いた、この地域で最初の女性となった。出稼ぎ労働者の負債を軽減し、地元への投資を生み出す意図でつくられた、2002年発布のエクアドルの法律が契機となった。ピチャサカさんが創設した「出稼ぎ労働者の預金と貸付協同組合」は、2、300米ドルから5000米ドルまでの低金利ローンを始めた。多くはスモールビジネスを始めたい女性たちが対象だが、同時にエクアドルから抜け出したい者たちにも有効なローンだった。ピチャサカさんは土地を買って家族が住める家を建て、良質のチーズをつくるため、牛を育てることも始めた

 

バルバリータ・ピチャサカ(左)と彼女がカニャールで始めた銀行協同組合の職員。 Photo: Bear Guerra

密入国などというのは、日本人の感覚からすれば大犯罪であり、そんなことをする人は信用のおけない、人間としても劣った人、と思ってしまうかもしれない。しかし貧困の度合いが想像を超えるレベルにあるエクアドルなどの国では、いかに生き延びるかの方が、人間として大事、という価値観があってもおかしくはない。このレポートに登場するピチャサカさんは、密入国者であったことがあるかもしれないが、村の現状を変えるために知恵を絞り、共済銀行の設立という生き方を変える仕組をつくり、女性たちの救世主となった。

ピチャサカさんは以前は、カニャールの風習に従いキリスト教に帰依する、この地域の典型的な主婦だったが、自分自身を進化させることで、それを裏切る生き方に身を投じた。子どもを置いて出て行くことで軽蔑され、夫を置いて戻ってくればまた非難を受けた、そうピチャサカさんは語る。「でもあのニューヨーク行きは、わたしに経験とヒントを与えてくれた。アメリカ人のよく言う『自分の人生をよくするために、身をこなにして働け』というね」

 

現在、カニャール周辺地域では、女性の人口が53%以上を占めている。この国でその比率は、目立って大きなものだ。ここでは31〜48%の世帯が、女性の働きによって賄われている。女性たちは昔ながらに、男性のもとで畑を耕し、草取りをし、炭にする薪を集めるといった仕事をすることもあるが、同時に、海外にいる夫からの送金の運用もしている。送金額は、2013年だけで1億9700万米ドルにも昇る。さらにまた、彼女たちはその財源を、スモールビジネスや小さな企業に共同出資もしている。

 

たった1、2世代のうちに、出稼ぎ労働は、経済的発展や目の覚めるような女性たちの解放によって、この地域と村の人々の生活を一変させた。社会科学者のルイス・グアルニソとマイケル・スミスは、この変化を「下層からの国際化(トランスナショナリズム)」と名づけた。

 

この影響はカニャールを一度も出たことのない女性、ロサ・キスペにも及んだ。ピチャサカさんの家から数キロのところに住む女性だ。キスペさんが18歳のとき、両親は彼女を親戚にあずけてニューヨークへ出稼ぎに出た。今キスペさんは、12歳の女の子のシングルマザー。わたしはキスペさんと「ウニダー・エドゥカティバ・デル・フンカル」で会った。そこはある出稼ぎ家族が始めた学校だ。自分の子どもたちが教育を受けるために、村から出て行くことをなんとか止めたい、という思いで創立された。この地域の女性の民族衣装ポリェラ・スカートをまとい、羊毛の丸い縁付き帽子をかぶり、きれいに結った三つ編みを背中にたらしたキスペさん(32)は、ここの小中高生たちといて、なんの違和感もない若々しさだった。

 

「昔は、両親がわたしを学校にやってくれなかったことで、文句ばかり言っていました。まだ小さかった頃、両親がニューヨークに行く前のことです」 キスペさんはそう言うと、涙をあふれさせた。両親がアメリカに行く前、彼女は家計を助けるため、お針子として働いていた。今では、両親はキスペさんとその娘の生活費の全部を負担してくれている。それによって、母も娘も勉強に専念できている。キスペさんは次の年に高校を卒業し、医学を学ぶため、村から2、3時間離れたところにある大学に通うつもりだ。家族で初めて、大学に行く者となる。

 

キスペさんは、両親と暮らすためにカニャールを離れることを考えたことはない。自分が耐えてきたことを、どうして娘に押しつけられよう。しかし娘のナンシーは、村を出ることを考えている。ナンシーの祖父母はすでに、ときが来たら越境の費用を用立てる、と孫娘に約束していた。

 

 

初出:International Reporting ProjectおよびNew York Times(2014年11月5日)

 

ルクサンドラ・グイディは、エクアドルの首都キトをベースに活動するフリーの記者。プロフィールを読む。

ベア・グエラはアメリカ出身の写真家、世界の発展やグローバル化、人間社会が環境に及ぼす影響を取り上げ、写真作品として発表してきた。プロフィールを読む。

 

日本語訳:だいこくかずえ

 

 

 

 

翻訳プロジェクト 葉っぱの坑夫