Photo by Caitriana Nicholson(CC BY-SA 2.0)
『ヤールー川はながれる:ぼくが朝鮮の子どもだった頃』から第11章の抜粋です。
日本による植民地支配が始まる約10年前の1899年、ミロク・リーは朝鮮のへジュ市(現北朝鮮)に生まれました。「オッケ川で」は日本の統治で国が混乱し、11歳だったミロクがそれを目のあたりにする日々が描かれています。
*
秋になって、地理や世界史という科目の勉強をするようになり、授業時間は増えていった。おまけに教科書の不足から、黒板の文字をすべて写さなければならない状態だった。夕闇の中、校門を後にするころはたいてい、あたりは冷えびえとしていた。
うちのお手伝いのクオリがぼくを迎えに学校まで来たのは、そんなある遅い午後のことだった。それは母さんの言いつけで、クオリが言うには、今日は道を一人で歩いて帰るのが危ないからだった。日本兵がたくさん町をうろついていて、普通の家の中にまで入ってくる者たちもいたという。
ぼくは不安だった。日本人はぼくらの敵としてやって来たのではなく、友人として、ぼくらを手助けするために来たんだと聞いてはいたけれど。クオリとぼくは家に急いだ。日本兵の話し声を耳にすると、ぼくはいつも少し怯えた。
「父さんはなんて言ってる?」 ぼくはクオリに聞いた。
「わからない」
「じゃあ、母さんは?」
「戦争がまたすぐ始まるって」
「スノクは?」
「世界の終わりだって」
ぼくらは歩みを速めた。暗い夜空にぽっかり浮かぶように、町につづく大きな南の門が立っていた。大通りはいつもより暗かった。ちょうちんの灯りでメロンやかぼちゃや梨やチヂムを売っていた物売りたちの屋台は、道に置き去りにされていた。チヂム売りの物悲しい歌声も消えていた。
家では、その日の出来事が興奮気味に議論されていた。兵隊たちが家から家へと、通りや路地のあちこちを走りまわっているというのは事実だった。スノクは3人の兵隊が大通りの中心にある「パンの館」に入っていったのを見た。兵隊が何を探しているのか、だれも知らなかった。言葉がわからないし、兵隊に近づくこともかなわなかったから。何か恐ろしいことが待ちかまえているような気がした。
両親は夜遅くまで話し合っていた。母さんは上の姉オジニと一番年少のぼくだけでも安全な場所へ連れ出したほうがよいと提案した。父さんは家宅捜索の深刻さを誰よりわかっていたけれど、それには同意しなかった。戦争を恐れる必要はない、日本兵は一般市民を襲ったりはしない、と父さんは言った。抵抗をしたりせず、兵隊が望むものはなんでも引き渡せばいいんだ。日本兵はわれわれの王自らの要請で、良きことのために送られてきたのだからな、と。
母さんにしてみれば、こんな大変な一日を過ごしたのだから、心安らかでいられるはずもなかったが、重苦しい気持ちを追いやって、ぼくに2、3日の間家から出ないよう、内庭にあるぼくが前に使っていた東の部屋にいって寝るよう、それだけを言い渡した。父さんがぼくの恐怖心をすっかり追い払ってくれたから、もう恐くはなかったけれど、母さんの言いつけは進んで守った。
翌日の午後、小銃を抱えた4人の武装兵が本当に家にやって来た。兵隊たちは中庭を一つ一つ点検してまわり、部屋から納屋から隅々まで覗いていき、そして立ち去った。父さんが言っていたとおり、ぼくらに対しては何もせず、何も取らずに去った。その後は、家中静まりかえり誰も口をきかなかった。ぼくは再び学校に行くことを許された。兵隊たちの目を逃れて中庭から中庭へと逃げまわったオジニは、数週間もの間、あのときの恐怖から立ち直れないようだった。
このような家宅捜索はたびたび行なわれ、ほとんど毎日、時に日に2度あることもあった。兵隊たちは早朝に現れることもあったし、夜になってから突然、内庭に姿を見せることもあり、女たちは驚いて逃げまわった。
同じころ、不穏なうわさが流れていた。ぼくらの同胞の若い農民や猟師、新しい時代に反対する者、日本には悪意があると疑う者、そういった者たちが侵入者たちと戦うために山岳地帯に集まっているというのだ。町で起こるたびたびの家宅捜索は、武器を探すためと思われた。
最初のうち父さんは、単なるうわさと相手にしなかった。でもやがて、ソムン(西門)やプクムンを武装した日本の軍隊が通るのを何度も見るようになって、その話はどうも本当のように思えてきた。兵隊は行進しながら声を上げて歌い、町の門を出たり入ったりした。
それから少したって兵隊は捕虜たちを引っ張ってきた。恐ろしい光景だった。農民たちは道を引きづられ、血まみれになるまで打たれ、重い手錠をかけられ、顔を腫らし、ひどい仕打ちを受けていた。見るに耐えられなかった。人がくさりで繋がれているところや、こんなに痛めつけられているところを、今まで見たことがなかった。ぼくは恐怖と不安で家に逃げ帰った。冷や汗が顔を濡らしていた。
母さんは、ぼくをどこか安全な場所に避難させるため学校をやめたほうがいいとまた提案した。ミロクはまだ小さい、だからこんな光景を見せないほうがいいと主張した。父さんは長いことそれについて母さんと話をしたけれど、結局同意はしなかった。父さんは雇い人のパンと農場の管理人を、うちで働く農民たちのところへ出しただけだった。農民たちに、日本人とのいざこざにかかわらないよう警告するためだった。ぼくには、日本兵の行進を見ないように、とだけ言った。好奇心にかられてじろじろ見たりするのは、教育のない子どものすることなのだ。
戦闘はさらに暴力的になっていった。冬から春の間ずっと、捕虜たちが町に連れてこられた。その中には女の人たちもいた。
夏になってやっと、雨季のはじまりで、事態は落ち着きはじめた。家宅捜索も一斉に止んだ。とめどなく朝から晩まで雨が降り続いた。
ある晩のこと、キソプがぼくに会いにやって来た。キソプは青ざめて元気がなかった。「聞いたか?」 そうぼくに尋ねた。
「いいや、何のこと?」
キソプは口籠っていた。「ぼくらの国ははめられたんだと思う」 そしてこうつづけた。「ぼくらの国は併合された」
「日本に?」
「もちろん、日本にだ」
「どこで知ったの?」
「時間があったら後でナンムンに行って、声明書を読むといい。だけど気をつけるんだぞ。兵隊がいるからな。騒いだり、ポスターを破ったりするんじゃないぞ」
夕食の後、ぼくはクオリを連れてナンムンに向かった。街灯に照らされて大きな印刷物が見えた。あたりは墓場のように静まりかえっていた。門にも大通りにも人の気配はなかった。暗闇の中で街灯の光がゆらめき、小銃をもった兵士が一人、声明書の横に立っていた。ぼくは注意深くそばに寄り、その紙に王朝の大きな印が押されているのを見た。
そう、それはぼくが目にした王からの最初で最後の手紙だった。ぼくの心は痛んだ。それはお別れの手紙だったから、500年にわたりぼくらを守ってくれた王家からの決別の手紙だったから。すべてを読み終えたとき、クオリが来てぼくを来た道のほうに引っ張った。
「何て書いてあるの?」 クオリは字が読めなかった。
「ぼくらの王は退位したって」
「ずっと?」
「そうだ、永遠に」
「どうして王様はいなくなったの?」
「わからない」
家では、父さんに請われて声明書の一語一句を繰り返した。
父さんはじっと聞いていたけれど、何も言わなかった。
「これからもっと悪いことが起こるの?」 ぼくは聞いた。
父さんは黙ってぼくを見つめるばかりだった。
家中の者が黙りこくっていた。外庭にいる男たち、母さん、姉さんたち、誰も口をきかなかった。
夜遅くになって両親とスノクは徳利を前に座りこみ、最後の王朝の歴代の王たちの話をしていた。父さんの最終的な結論は、王家は国を守るにはあまりに微力な存在になってしまったということだった。今は新たな王が現れて国を治めるときが来るまで、我慢づよく待たねばらないと。父さんからぼくは、恐れることなく学校に行くこと、世間のことには目を向けないことを言いわたされた。
秋が終わる前に、統治者は城壁や門、公共の施設を取り壊し、道幅を広くしていった。店は撤去され、家々は中庭もろとも解体された。がれきの山から煙突が突き出ているのを目にしたり、学校への行き帰りの道を見つけるのに苦労したりした。解体作業は夜昼なく続けられた。破城づちの大音響や手づちの鋭い破壊音、のこぎりのかん高いギリギリ音が町のあちこちから聞こえていた。埃がもうもうと空中を舞っていた。男たちは大声をあげて、あれこれ指示を下したり、身ぶり手ぶりで何か言ったり、口論をしたりしていた。ぼくの背で門が閉まるとほっとした。
でもぼくの家の外庭も、この不穏な騒ぎから免れてはいなかった。絶えまなく人々が出たり入ったりしていた。追い出された農民、解雇された役人、避難民、出稼ぎ人たちが避難所をもとめて家に押しかけてきた。スノクは人々をほんの2、3時間だけ家に入れて休ませ、またすぐに外に送り返した。スノクは一日中、やってくる人々に、見かけほど家は裕福ではないこと、よそに避難場所を見つけたほうがいいことを話し、説得していた。この事態は長く寒い冬の間じゅう続いた。日に日にものごいや難民たちが家に来ては客間という客間を埋めつくしていった。スノクは怒りあらわに苦々しい言葉を吐いて家の前にすわっていた。「ああ、なんて悲惨な時代、悲惨な世の中なんだ」
井戸のある中庭だけ静けさが保たれていた。かつてないほどの静けさだった。一日中父さんは通訳の助けをかりて、新たな法令や税金などの諸問題について、占領統治者たちとの話し合いに身を投じていた。このことは父さんを疲労困ぱいさせ、夕方早くにもう床につかなければならない様子で、長い話はできなかった。ぼくが学校のことを話しても、父さんはほんの少し聞いただけで、灯りを消してぼくに横になるよう言った。休息がほんとうに必要だったんだ。ぼくのおしゃべりをこう言って止めさせるのもしばしばだった。「もういい。そのへんを歩いておいで。あとでまた来なさい」
ぼくはがっかりして、口をつぐんだ。
散歩に行くのはかまわなかった。崩れ落ちた城壁、塔のない門、夜の町でぼくは果てしない悲しみと底なしの恐怖につつまれた。家に帰りたかった。父さんといると、守られている感じがした。ぼくは父さんの肉であり、血だ。父さんは今も、ぼくの父親であることにかわりはない。
Photo by Brandon HowardFollow(CC BY 2.0)
また夏がやってきた。ある暑い午後のこと、父さんはぼくにオッケ川に水浴びに行かないかと誘った。ぼくは喜び勇んだ。オッケはうっそうとした古木に囲まれた静かな渓谷にある、きれいな小さい川だった。ぼくがまだ「古い学校*」に通っていた頃、ここの木陰でどれだけたくさんの日々を過ごしたことか。
クオリがござと、果物と酒をのせた盆をもって先にたち、ぼくは碁盤をかかえて父さんの後に従った。町の外に出ると、ぼくらは川に沿ってなじみ深い小道を行き、古い東屋のある果樹園につづく山あいをさらに登っていった。クオリはござを用意して帰った後だった。
父さんがあたりの景色を見まわしている間に、ぼくは碁盤を用意し、自分の借り駒の黒石を盤に並べていった。
「何年たってもここは変わらないな」と父さんは言ってにっこりした。「ここは特別な場所だと思わないか?」
「そうだね本当に、父さん」 ぼくは答えた。人の気配はなく、こずえから降りそそぐセミの鳴き声と峡谷から昇ってくる水音くらいしか聞こえない。深い緑の中で、時は静けさの中にたたずみ、ときおり山風が通りぬけてゆく。
父さんの盃を満たした。「一千年、生き長らえますよう!」 ぼくは女芸人キサエンたちがする身ぶりを真似ながら言った。
父さんが微笑んだ。「おまえはシジョの歌をうたったことあるか?」
「ないよ。あるわけないでしょ」
「歌ってみるといい」 そういうと父さんは「あたたかな南風」を歌った。それは憂いをおびた太古の節をもつ酒宴歌で、名の知れたキサエンたちに歌われたものだ。素晴らしさに胸うたれて聴きいった。こんなに美しく父さんが歌をうたうなんて、ぼくは知らなかった。ぼくはといえば、父さんのように歌う勇気はとてもなかった。父さんは碁盤に目を落とした。「まだ手合割(ハンディ)10もあるのか?」 父さんは眉をひそめた。
しかたなくぼくは角の石を二つ取りのけ、中の方の陣地だけを自分の石で囲んだ。
父さんは別の二つの石を取り去った。「おまえはハンディ6で自分の父親をやっつけられるはずだ」 そう言って笑うと、最初の駒を動かした。
当然のごとく、ぼくは負けた。
「じゃあ、8にしてやろう」
ぼくはまた負けた。
父さんは憐れみの目でぼくを見た。「練習で負けててはなあ。しょうがない、あと2つやろう」
「かまわないよ」 ぼくはそう言って10で対局をつづけた。
「ちょっと待った」 ぼくが間違った場所にばかり石を置くのを見て、父さんが言った。
「服を脱いで、しばらく水にはいってきなさい」
父さんをがっかりさせてしまって、残念だった。
「虎が犬を産むことがあるっていう話、あるよね」 なぐさめのつもりでぼくは言った。
「いやいいんだ。さあ、もっと近くにきて、父さんにおまえをよく見せてくれ。まっすぐに立ってごらん。父さんの前で、なにも恥ずかしがることはないだろ」
父さんはぼくをあちこちから眺めまわした。「おまえはひどくやせっぽちだなあ」 父さんは感じ入ったように言った。「いくつになった?」
「13」
「そうか、まだまだ時間はあるな。さあ、ゆっくり水に入るんだ。ここの水はひどく冷たいからな」
父さんは盃をとって、ぼくがぎこちなく岩から岩へと歩いて渡るのを見ていた。
それから父さんも水に入ってきた。幅広い岩盤の縁の下にゆっくりと身を入れて、肩に水をしたたらせた。ものの1分も浸かってなかったが、突然父さんは水から飛びだし、川底まで沈んだ。発作だった。父さんは死人のように青ざめて、全身が痙攣していた。ぼくはあわててタオルをとると、父さんをこすった。父さんは寒いだけだと思おうとしていた。
じょじょに顔色は戻り、父さんは起きあがった。
「だいじょうぶ、父さん」
「だいじょうぶだ、なんともないさ。服をとってきてくれればいい」
ぼくらは服を着た。衝撃はおさまらず、ぼくは震えていた。
「心配するな。父さんはまだまだ生きるから。おまえが美しい妻をえて、孫を見せてくれるまで生きるからな」
でもぼくから、生きる喜びは消えさっていた。「父さん、たのむから家に帰ろう」
「なにを言ってる」 父さんは笑いながら言った。「父さんがもう元気になったって見てわかるだろう。いましばらくこの美しい場所で過ごそうじゃないか」
父さんは赤々と輝く夕暮れの山を見ていた。果樹園はすでに影となり、谷からは冷たい風が吹きあがっていた。
「もう一度、対局をするか?」
「したくない。ねえ、家に帰ろう」
運よくそれからすぐに、クオリが迎えにやって来た。「生命の躍動は、この小川から絶え間なく沸き上がる」 立ち去るとき、父さんはこう言った。「ここでまた水浴びするときは、気をつけるんだぞ」
新たな発作が起きて、父さんはやっとのことで家の敷き居をまたいだ。父さんは意識不明で母さんの部屋に運びこまれた。
一晩中、ぼくは医者から医者へと走りまわった。
夜半少し前に、母さんがぼくに父さんの左側にひざまずいて、父さんの手をとるよう言った。母さんは父さんの右手をとり、祈りはじめた。家中の者が集まった。クオリが父さんの魂のために白い大きな布を用意し、寝室から玄関まで広げていった。
日本語訳:だいこくかずえ
The Yalu Flows: A Korean Childhood, by Mirok Li
*ヤールー川:鴨緑江(おうりょくこう)、朝鮮名はアムノク川。ヤールーは中国読みと思われる。中国東北地区と現在の北朝鮮の国境沿いを南西に流れる長さ790kmの大河。著者のミロクは、日本による植民地支配が始まった年の10年後の1920年、3.1(独立・抗日)運動を経て、ドイツに単身亡命しています。その際、このヤールー川を夜の闇にまぎれて命からがら中国に逃れました。
*古い学校:ミロクが以前に通っていた学校のこと。中国古典や書き方、漢詩の勉強が中心だったようです。その後通うようになった新しい学校は、ヨーロッパから入ってきた「あらゆる新奇な科学」を学ぶ場と当時思われていました。
ミロク・リー(李弥勒=イ・ミロク) | Mirok Li
ドイツ語で書き、ドイツで作品が出版された、朝鮮半島出身最初の作家。
1899年、海州(ヘジュ市/現在の北朝鮮)に生まれる。経済的に恵まれた裕福な家庭に育ち、四人兄弟の中のただ一人の男の子だった。ソウル医科大学に在学中の1919年3月1日、朝鮮全土で起きた独立運動(3.1運動)に参加。翌年、日本軍に収監されるのを避けて、上海経由でドイツに亡命する。ドイツではWurzburg、Heidelberg 大学で薬学を学び、後にミュンヘン大学で動物学、哲学、生物学を専攻する。動物学で博士号取得。卒業後の生計のための職業ははっきりしないが、雑誌や新聞などへの寄稿、執筆活動、翻訳などをしていたと思われる。朝鮮の文化や政治について主に書いていたようだ。晩年はミュンヘン大学東洋学部で中国古典、朝鮮語、朝鮮文学を教えていた。
「ヤールー川はながれる」は長年の苦労の末書き上げられたもので、1946年にドイツのR.Pipeから出版された。ドイツ文学界でも知られた作品となり、学校の教科書にも採用された。またこの作品で、ミロク没後の1952年に当地で、散文作品に与えられる最高賞(賞名不明)を受賞している。1950年3月20日、51才で病気のため他界。ごく親しい友人数人が、ミロクから教わった朝鮮国歌を死の床で歌ったという。その4日後、ミュンヘン郊外のGrafelfing 共同墓地で、300名を超す友人知人に見守られて埋葬され、いまもそこに眠る*。21才で祖国を離れて以来、二度と帰ることはなかった。著作としては、Iyagi, Mudhoni (1974年), From the Yalu to the Isar (1946年、1982年), Other Dialect(1984年)、Japanese poetry(1949年)などがある。