オオカミの生き方 | ウィリアム・J・ロング

Wolf track by peupleloup (Québec, CC BY-SA 2.0)

オオカミの自然、人間の野生

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 カリブーはムースとは違った生きもので、別の方法で狩りをしなければならない。カリブーは広がった蹄とその両脇にある偽蹄のおかげで、ムースやシカのように、雪を歩くときあまり深く沈むことがない。また食料(水苔)が豊富で、冬場に特定の餌場に限定されることなく、広い範囲を自由に歩きまわることができる。さらにカリブーは俊足で、比べるものがないほど足が速いので、彼を捕まえたり、競って疲れさせることのできる動物がいるかどうかは疑わしい。一度危機を察知して走り始めたら、カリブーの大ジャンプを追うことは無駄だと、オオカミは知っている。

 

 カリブーに気づかれずに近づくことに失敗したとき、そして食料がどうしても必要であれば、オオカミの群れ全員で協力体制に入り、リレーをするように交代で追いかける。2、3頭のオオカミが1頭のカリブーを群れから孤立させ、着実に追うが、捕らえようとしたり、追い立てたりは決してしない。カリブーが足を止めれば、広がって大きな円をつくり、包囲の内に獲物をとどまらせ、餌を食べるのを見守る。そしてこのオオカミたちが疲れたら、そこここで待ち受けている他のオオカミたちが交代する。これにより何時間も、ときに何日も、同じカリブーを追うことができる。

 

 カリブーが追われつづけて苛立ち不安になるまで、あるいはついにオオカミが追い詰めて仕留めるまでこれはつづく。追っ手のオオカミたちは素晴らい跳躍で突進し、驚いたカリブーを罠にはめる。隠れていた1、2頭の熟練者が出てきて、とどめを刺すのだ。カリブーは自分のスピードを見せつける前に、敵を目の前にして立ち止まり、あるいは向きを変え、この瞬間をとらえた熟練オオカミの手に落ちる。

 

 このようにオオカミは直感によって、からだで感じることによって、時に見せるきらめく知性によって、いともたやすく確実な手段を手にする。これは生まれ持った能力のおかげかもしれない。だから彼の行為の多くは妥当に見えるし、その場の衝動に従っている場合も、状況判断の点で間違いはない。言葉を変えれば、あらゆる直感的な行動は根本的に妥当な行動であり、野生動物には知性が浸透している。つまり不合理な生き方では、生命を維持することができない。

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 たった一人で、ガイドも仲間もなく、荒野で何週間か一人で暮らした人間は、自分が自然に対して反応することによって、動物の生活の真実を知ることができる。一生かけて自然史の本から学ぶより、多くを得ることができる。本で学ぶ者は、命のあり様を無視してものごとを扱いがちで、それは動物の一番面白い部分を知らずにいるということだ。

 

 先入観や意味のない恐怖を排して、野生動物がどのように暮らしているかを知るためだけの目的で、一人荒野に出るなら、2日目か3日目の夕方には、自分の中に変化が起きていることに気づくはずだ。それは孤独に一人でいる体験から得られる変化である。鳥や動物への理解がしっかりと身につくようになっている。人間の本能的なもの、あるいは直感力が、長い眠りから覚めるときである。

 

 人間社会によってついた習慣や勝手な空想は、役に立たない衣服となって脱ぎ捨てられる。身につけた論理は感覚の下位に置かれ、感覚こそが瞬間瞬間の多彩な印象として受け取られ、解釈されるようになる。目も耳も鼻も鋭くなり、注意を怠らない。皮膚はより敏感になり、本来の働きを少しずつ取り戻しはじめる。それは人間がもともともっていたものであり、今はあまり顧みられないものだ。

 

 そのような人間は腹が減ったときだけ食べ、自制することを心地よく感じている。無意識のうちに静かに道を行き、自分が何かの邪魔にならないよう振るまい、見知らぬ光景や音に出会えば、歩みを止める。手に武器をもたず、非常に平和的であり、森の仲間たちと出会えば、そのときの気分によって、無関心でいるか興味をもつか選択する。しかし殺そうなどという欲望はみじんもない。もし自分の仲間である人間が、離れたところにいるのを見つければ、目を見開いて、親しみの気持ちをもって相手に近づいていく。こうなる理由はただ一つ、人間社会から離れることで、人はより自然な存在になれるからだ。

 

 さてこの体験やものの見方をオオカミに当てはめてみよう。オオカミも人間と同じように行動しているのが見てとれる。一人のときはとても臆病で、腹が減っていなければ、他の生きものに手をかけたりしない。他のオオカミたちに出会えば、社交性や協調性を発揮して、そこに加わっていく。

 

 このようにオオカミを知る者にとっては、私たちの日々の会話や文献にあることはバカバカしく見える。オオカミに対してだけでなく、仲間を殺したり、騙したり、虐待する人間を表わすとき「オオカミのような」という言葉を当てはめる。彼らはオオカミ的でもなんでもなく、人間の性質をもっているだけだ。競争原理や不自然なこと、不合理なことに毒されてきた結果だ。そういうものにわたしたちは、長いこと盲目的に従ってきた。

 

 オオカミは他の野生動物と同じように、音に対する直感で行動する。その「直感」を定義しようとすれば(それは子どもが感知するものかもしれないが)、直感とは生来的なもので、正しいことを正しいときに、正しい方法でやることだ。もしオオカミの中に間違ったやり方が蓄積されていったなら、何世紀も前に彼らはいなくなっていただろう。いま彼らがやっていることは、先祖たちがそうするのが良いとしてやってきたことの総意なのだ。

 

 結論として:ハイイロオオカミをその素のままに捉えて知れば、私たちが非難したり疑いをかけていることは、彼自身が夢にも考えないこと、やらないことだ、と自信をもって言えそうだ。オオカミの本能は常に、他者の生存と、より良い生き方へと向けられている。