ピアノとピアニスト
Bruce Duffie インタビューシリーズ(4)

パウル・バドゥラ=スコダ | Paul Badura-Skoda

オーストリア生まれの著名なピアニスト。バッハ、モーツァルトの時代から現代にいたるまでのピアノに関する膨大な知識をもち、ピアノのコレクターでもあります。各国での演奏ツアーに加えて、レコーディングが非常に多い演奏家としても知られています。1927~2019年。

他の著名ピアニストと比べると、パウル・バドゥラ=スコダはそれほど知られていないかもしれませんが、半世紀以上にわたり、演奏と音楽研究の両方において第一線にいた人です。

 

1927年、ウィーンに生まれ、1949年に指揮者のヴィルヘルム・フルトヴェングラー、ヘルベルト・フォン・カラヤンとの共演によって世界的な注目を浴びました。以来、スコダは世界中で演奏を行ない、スタンダードな楽曲、あまり弾かれない楽曲、の両方をたくさん録音しました。

 

スコダは1989年にモーツァルトのコンチェルトを「6気筒オーケストラ」(新聞の音楽評論で1987年からそう呼ばれるようになったもの)と弾くため、シカゴにやって来ました。シカゴ・シンフォニエッタは、ポール・フリーマンの監督のもと、演奏活動を活発につづけてきた団体で、シカゴ交響楽団の本拠地であるオーケストラホールを含め、様々な場所でコンサートをしてきました。大きなオーケストラより、多様で大胆な選曲をしてきたシンフォニエッタは、舞台上でもその聴衆においても、広い範囲をカバーすることをモットーとする音楽集団です。

 

話をするときのスコダは、演奏のときと同じように、生き生きと活気に満ちています。ニコニコと笑顔を絶やさず、わたしの質問に喜んで答えてくれました。そのおかげでこの会話は、深い洞察力とユーモアに満ちたものになりました。

 

彼はモーツァルトの大家であり、シカゴでも「ピアノ協奏曲23番(イ長調)」を演奏したので、会話はそこから始まりました。

(2009年 ブルース・ダフィー)

・300年ごとに歴史の変換点がありました

・演奏者に自由を与えた作曲家たち

・モーツァルト時代のピアノでモーツァルトを弾く

300年ごとに歴史の変換点がありました

1989年3月7日、シカゴにて

 

ブルース・ダフィー(以下BD):モーツァルトを演奏する秘密を教えてください。

 

パウル・バドゥラ=スコダ(以下PB-S):あー、それは言えませんよ、教師の仕事が損なわれますからね。みんなそれを知ろうとするでしょ、だから秘密にしておくんです!(両者、笑)

 

BD:あなたはモーツァルトに対して、特別な親近感をもっていますよね。あなたにモーツァルトがもたらす特別な喜びとはなんでしょう。

 

PB-S:音楽を愛する人すべてに、モーツァルトは特別な喜びをもたらすということだと思いますよ。まずモーツァルトは非常に完璧な音楽、最も美しい音楽を書いたことがあります。歴史の中でおそらく転換点にあった音楽ではないかと思うのです。ハーモニーを使うことが可能で、それが真にハーモニーらしく響き、初歩的すぎるということもなかった時期です。音の選択、装飾音、高度な技術といったものの無駄のなさによって、音楽が最高値にまで達しました。それによりすべての音に意味が託され、また感情もそこに加わりました。

 

BD:そのレベルにまで達した作曲家は他にもいるのでしょうか。

 

PB-S:バッハが同じだと、これははっきり言えますね。もしバッハがモーツァルトを知っていたら、こう言ったんじゃないでしょうか。「きみはなんて素晴らしい人なんだ、生徒にしよう。対位法については、まだ洗練の余地があるね」(両者、笑) そう言ったかもしれないね。でもモーツァルトは当然ながら、『ハ短調フーガ』といった名作を書いている。最初の版は2台のピアノ用で、それから弦楽四重奏(弦楽合奏ではないか)にしています。バッハはそれを認めてこう言ったのでは。「きみは音楽を書く術をよく知っているね」

 

BD:音楽を書く術というのは、時代を経て、世代から世代へと受け継がれていくものでしょうか。

 

PB-S:イエスでありノーだね。音楽史において何回かの断絶が起きていて、その一つは我々の時代に起きた。そしてこの断絶、すべてのことが問われ、原点に戻らなければならなくなるようなことは、300年ごとに起きてきたんです。その間隔のリズムはとても興味深いね。つまり1600年に大きな変化が起きた。その後、わたしたちが和声的言語と呼ぶ発展が段階的に見られた。表現手段としてカデンツ(主音、下属音、属音、主音)の四つの進行は、音楽における最大の発明の一つだね。専門用語になってしまって申しわけないけど、他に何か言いようはあるだろうか?

 

BD:I、IV、V、I のカデンツのことですよね!

 

PB-S:そうです。そのカデンツは1600年以降に書かれたあらゆる音楽に取り入れられたね。バロックと古典の間には、実際的な断絶はなかったし、古典とロマン派の間にもね。19世紀の終わりに向かう頃になって、人々は少しばかり飽きてきた。彼らは正しいとも言えるし、間違っているとも言えるね。でも新たな道を歩きはじめたんだ。あらゆる人がこれまでと違う道を歩きはじめた。それにもっとも忠実だったのが、フランスの作曲家たちだったと思う。まず印象派が出てきて、そのあとメシアンのような作曲家がいて、それからスイス系フランス人のフランク・マーティンへと続いた。彼とは友だちになったんだ。それからストラヴィンスキーがきて、あらゆることを試すアヴァンギャルドの人々がきて、ノイズ・ミュージックと続くね。それまでに聞いたことのない音を出す、電子楽器も出てきた。そしてシェーンベルクの12音技法を我々は手にした。

 

BD:あなたは今「ノイズ」という言葉を出しました、それについてお聞きしたいです。音楽とノイズの違いはどこにあるのでしょう。あるいはノイズはどのようにして、音楽として帰ってきたのでしょうか。

 

PB-S:そこには含みがあります。いい音楽、悪い音楽、いいノイズ、悪いノイズを生むのは音楽的な関係性の中にあります。結局のところ、すべての打楽器は、ピアノも含めてですが、音楽を生む際、一定量のノイズも生みます。その境がどこにあるか言えませんが、非常に素晴らしい響きの音楽でさえ、ノイズはその中に入っているはずです。もしそれがただの混沌であったり、無秩序なものであれば、わたしにとって音楽ではなくなります。とても個人的な見方ではありますが。

 

BD:では、あなたにとって、秩序ある音の中で、何が素晴らしい音楽となり、何が劣った音楽になるのでしょう。

 

PB-S:信じられないかもしれませんが、その背後には人がいます。詩がそうであるように、書くことがそうであるように、どのようにしてそうなるか、わたしたちには言えないことです。モーツァルトのあるメロディーに、あるいはシューベルトのメロディーに、ただ人は心動かされます。分析は可能ですが。「非常によく構築されている。ここの1度、4度、5度の進行ですよ」などと言えます。でもその奇跡のようなメロディーの説明にはなっていません。人はただ感動するわけです。なぜでしょうか? 人としてのモーツァルトを過小評価する人に、わたしは賛成できません。モーツァルトは人としても優れていたから、バッハと同じです。彼には言うべきことがあった。わたしの師であるエドウィン・フィッシャーは、モーツァルトの音楽は愛だと言いました。わたしがモーツァルトに感じるのはそのようなことです。ある人間が卓越した知識と素晴らしい芸術性で音楽を書いたとして、もしそこに愛がなかったら、単なる音でしかなく、何かを伝えたいという意志がなかったら、わたしは心動かされることはないでしょう。

 

BD:すべての偉大な作曲家はこの愛をもっているのでしょうか。

 

PB-S:必ずしもそうではない。もちろん、わたしの選ぶ偉大な作曲たちについては、その通りと躊躇なく答えますけどね。しかし、そのような意味で愛があるとは言えない作曲家がいて、それでも偉大な音楽を書いている人がいることも知っています。でもそれは近代においてだけです。シュトックハウゼンとかブーレーズといった、数少ない優れた同時代の作曲家が、このような愛をもっているかどうかはわかりません。偉大な演奏家の中に、トスカニーニとかフルトヴェングラーとかルドルフ・ゼルキン、ホルショフスキーとか、また別の意味でホロヴィッツとかルビンシュタインとかはこの愛を持ってます。これは演奏家にとっても同じだからです。本当に素晴らしいと言える演奏家は他にもいますが、彼らが心から聴衆に愛を感じていたかはわかりません。ポゴレリチが演奏するのを聴くと、そんな風に感じることがあります。彼に異を唱えているのではないですよ、彼は偉大なピアニストの一人ですから。

 

BD:すべてが技術であり、感情はない?

 

PB-S:いいえ、そうではありません。感情はありますが、心を向け、気持ちを分け合いたいと思う聴衆に対するポゴレリチの感情が感じられません。もちろんこれに先立つ人がいます。グレン・グールドはその境界線上の人ですね。彼には溢れる感情がありますが、彼の音楽を通じたコミュニケーションは非常に興味深いものです。グールドは聴衆の前で演奏することを好みませんでした。彼がレコーディングのみの活動に入る前に、演奏を聴きましたが、非常に素晴らしいコミュニケーションがあると思いました。

 

BD:グールドは演奏する際、すべてを自分の内に置きたかった?

 

PB-S:そうです。

 

BD:それから他の人に聞かせる、と。

 

PB-S:そうです。グールドは音に対して、歌うことについて、様式に対して、人と違う考えを持っていました。でも彼は間違いなく、偉大な演奏家です。

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演奏者に自由を与えた作曲家たち

BD:今日のピアノ演奏家は、昨日の、それより前の演奏家と同じくらい偉大でしょうか。

 

PB-S:昔のピアニストを偉大な演奏家と呼ぶなら、たしかに彼らは偉大です。彼らを偉大な技術者とか偉大な職人と呼ぶのなら、それは疑わしくなります。若い世代のピアニスト(わたしは60歳を超えたところで、50歳以下はみんな若い演奏家です)は、我々が完璧な技術と呼んでいるものを強調しすぎるところがあります。それは手にするのに非常に努力を要するものです。とはいえ、一人の人間ができることは限られていて、もし技術的な完璧性にすべての力を注ぐなら、一音も外すことなく、練習に練習を重ねるなら、そこにあるメロディーの美しさを失うかもしれません。偉大な音楽家、アルトゥル・シュナーベルを思い起こしてみましょう。彼はときにたくさんの間違った音を弾きました。あるいはアルフレッド・コルトー、偉大なるショパンの弾き手ですね。ホロヴィッツはわたしに同意するでしょう、彼はコルトーを愛してました。わたしは去年ホロヴィッツに会いました。つまりこういった音を外すピアニストたちというのは、音を完璧に弾くピアニスト以上になるのです。ただわたしは美しさとは何か、詩情とは何かを理解しようとする若い世代の人たちが戻ってきていると感じてます。音楽についてのレビューで、美しさという言葉があまり使われていない、あるいはここ10年、20年の間使われてこなかったことを不思議に思っている人はいるかもしれないですね。

 

BD:響きの美しさと感情的な美しさでしょうか。

 

PB-S:そうです。

 

BD:あなたが若い学生を教えるとき、自分の頭の中を覗くように、心の中も覗くよう助言するのでしょうか。

 

PB-S:ええ、そうです、その通りです。そして真似をするのではなくて、自分の想像力を育むことです。もちろんわたしたちは彼らを助けなければなりません。まず最初に、彼らに楽譜に書かれた音楽だけが重要じゃないことをわからせる必要があります。楽譜に先行して草稿やスケッチがあり、ときに作曲の過程ではつまらないものもあります。ベートヴェンのことが頭に浮かびますが、ショパンも決定稿ができるまでに、非常に苦労しています。創造における興奮や熱狂を学生と分かち合いたい。彼らに自分のカデンツ*を書かせ、その部分で即興をさせることもあります。最初はみんなおっかなびっくりですが、そうすることを学んでいきます。よく学ぶ者もいれば、臆病になってしまう人もいます。作曲家の生きた道を理解するために、彼らの喜びや苦しみを、幸せや不幸せな愛を理解する必要があるのです。そして作曲家と人生を分かち合うのです。こうすることで作曲家と友だちになることができます。

カデンツ(カデンツァ):独奏楽器による協奏曲などで、独奏楽器の奏者が自由に即興演奏する部分のこと。

 

BD:演奏をするとき、生徒を教えるとき、一つの音楽の中に、どれくらい感情的な自由や解釈上の自由を得たいと思いますか?

 

PB-S:まず言いたいのは、当然ながら、良い楽譜が作られている必要があります。わたしは生涯にわたって、作曲家の意図をひどく曲げた、非常に悪い版と戦い続けてきました。作曲家たちの作品に、いったい何が起きたのか知る由がありません。シューマンは中でも編集者と呼ばれる人々から酷い扱いを受けました。イタリアのことわざがあります。「翻訳する者は裏切り者」というね。

 

BD:(笑)

 

PB-S:演奏というのはある意味、翻訳のようなものです。だからまずは、テキストを定めて、作曲家が確定したものを正確に見る必要があります。歴史を遡れば遡るほど、テキストは出発点に過ぎない、作曲家は演奏者と友だちになりたい、仲間となりたいと望んでいるとわかります。18世紀の作曲家の誰であれ、バッハからハイドン、ハイドンからモーツァルトとたどれば、彼らが楽譜に詳細を書かず、意図して演奏者に自由を与えていることがわかります。演奏者は、あるフレーズをもっと大きな音で弾くべきと感じたり、別の日にはもっと小さく弾くべきと感じたりします。装飾音を即興的に弾いたり、あるいはちょっとしたカデンツをつくったり。ピアノ協奏曲ではなくて、ピアノソナタでもね。

 

BD:ある作品を選び、それをどのように演奏するか決める場合、その弾き方はいつも同じになるのか、それとも時とともに変わっていくのか。

 

PB-S:変わることを望みますね。わたしの作品へのアプローチはいつも、作品を理解しようとすること、そして作曲家の意図を再現することです。このことの背後にはある哲学があります。誰も偉大な作曲家以上のことはできない、という思いです。この哲学は、作曲家は最良の方法を知っているという信頼と信念をもとにしています。面白いことですが、平凡な、あるいは質の低い作曲家のものを演奏すると、そのようには全く感じないのです。それでわたしは、作曲家の人を助けるのは自分の務めであり、テキストを超えることをしようと思うのです。これをサリエリのコンチェルトの録音でやりました。それほど前のことではありません。そこにある音をあるがままに弾いても、悪くはありません。サリエリはプロの作曲家ですが、わたしは少しばかり彼の曲をよりよく持ち上げ、モーツァルトに近づけ、実際以上にしたんです!(両者、笑)

 

BD:ではモーツァルトに対して同じようなことをできますか? 彼の実力以上にちょっと持ち上げると。

 

PB-S:それは無理です! わたしの解釈とともに、ここ7階の窓から飛び降りるようなものです。(両者、笑)そういうことになりますよ! たとえやろうとしても、モーツァルトは非常に素晴らしいので、悪い演奏をしたときでさえ、耐えうるものになるんです。映画の中で使われた有名な楽章、、、あれは何でしたっけ?

 

BD:『みじかくも美しく燃え』?

 

PB-S:それだ! 誰もがあの映画の中で演奏されたように弾くべきだと思っています。たっぷりと歌われるセンチメンタルなメロディーとしてね。でもモーツァルトは、思うに、そういうのを笑みを浮かべて見てるんじゃないかな。わたしの演奏や解釈は変わります、長い間に変わってきました。作品を再び弾くときはいつも、今回のシカゴ・シンフォニエッタとやっているコンチェルトのようにね、その作品を初めて見るような気持ちで学ぼうとします。

 

BD:あなたは真新しい楽譜でそれをやりますか?

 

PB-S:新しい楽譜です。そして昔のものと比べ、メモをとります。自分の解釈が時の経過とともにどう発展したかを見ることもできます。ときにその解釈は一周することもあります。らせん状と言ったほうがいいかな。その周期というのは20年とか25年のことで、ほとんど変わらない解釈に、わたしがずっと若かった頃に弾いていたような、同じ意図のもとに戻るのです。

 

BD:モーツァルトは今の状態を眺めて、ここ数年の彼の音楽に起きたことを喜んでいると思いますか?

 

PB-S:そうですね、演奏者が味わいや感情なしで弾かないかぎりはね。そうしたら彼は腹を立てますよ。モーツァルトの書いた手紙から引用しているんです。「充分な技術はないけれど、彼女は味わい深さと感情をもって弾いている。何の味わいもないゲオルク・ヨーゼフ・フォーグラーよりずっと好きだね!」

 

BD:モーツァルトは彼の時代のテイストを押しつけようとするのか、それとも200年後のわたしたちのもっているテイストを評価するのでしょうか?

 

PB-S:これはわたしたちの生存に関わる質問ですね。基本的なことはほとんど変わらないと思いますよ。食べものの味わいを考えてみましょう。もしそれがしょっぱいと今思うなら、100年前にもしょっぱかった、あるいは辛すぎたとなるでしょう。もしある詩が今も心を打つなら、それはそのまま朗読されればいい。過剰な強調や何か付加したりしないでね。コンピューターに詩を教え込んでも、人を感動させるものはできないのでは。

 

BD:でも音楽は時間の中に、空間的に、感情的に存在しています。二百年前の感情は今ととても変わりましたし、人間の状態も非常に変わりました。戦争を体験したし、我々の暮らしは今ではスピーディになっています。二百年前、三百年前に書かれたものを、今も理解できるのでしょうか。

 

PB-S:理解していると思いますよ。もちろんすべてを理解はしていません。学者しか理解できないような記号があったりはしますが、おおよそのところ、モーツァルトが言いたかったことはそのまま理解できます。それにモーツァルトはそれほど成功していたとも言えないし、最近株は上がっていますけどね。わたしがキャリアをスタートさせた頃は、多くの人が「モーツァルト、、、うん、子どもたちにはいいね」あるいは「彼はベートーヴェンの先駆けではあるけど、ベートーヴェンの重要さにはかなわない」と言っていました。最近は、モーツァルトへの高い評価によって、ベートーヴェンには影がさしている、と言えるかな。それはなんのせいなのか。永遠の表現だと思うね。もし誰かに、自分は彼女を愛していると言うとしたら、二百年前に言っていたのと同じように言うわけで、それ以外の言葉はつかわないでしょう。モーツァルトの時代が優雅な時代だったとは考えてはいけない。フランス革命の時代であり、今日の革命や戦争と同様、血なまぐさい出来事があった時代だね。残酷なことはたくさんあったし、牧歌的だったなんてことはないんだ。モーツァルトの私的な生活を考えてみれば、今も心に触れるものがある。わたしはいろいろな種類の音楽を演奏してきたけれど、中でもモーツァルト、ハイドン、シューベルトをね、でもベートーヴェンは少ない、このような音楽に触れたことのない聴衆に向けてテストをしてきた。そしてその反応はとても自然なものだった。洗練された聴衆と言われる人たちより、音楽をよりよく理解しているように見えることもある。これは子どもたちを前に演奏するときも同じだ。子どもたちはいつも同じだ。だからわたしたち人間には、変化よりももっと重要なことがあるんじゃないかと思うね。変化というのは表面的なことだ。世の中の速さについては、モーツァルトの時代にもたくさんの速さがあった。カーレースはないけれど、別のものでね。

 

BD:ではここで哲学的な質問をさせてください。社会にとって、音楽の目的は何でしょう?

 

PB-S:うーん。それは一つの問いだね。美しい花の目的はどこにある、美しい風景を見る喜びは? 海で見る夕日は? わたしたち人間は喜びの感情を必要としているし、それは日々の暮らしから気持ちを引き上げてくれるものだ。本物の音楽を手にしていなかったら、貧しい暮らしになるだろうね。すべての音やノイズがこの効果をもっているとは思わないけれど。素晴らしい音楽家である友人がこう言っていた。偉大な芸術や音楽は、人の心や魂に平和を与えるとね。そして偉大ではない音楽、あるいはその反対のものは、人を動揺させたり不安にさせたり、興奮させるために駆り立てるわけだ、彼にとって偉大な芸術とは言えないだろうね。わたしは彼の意見に賛成するよ。

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モーツァルト時代のピアノでモーツァルトを弾く

BD:あなたはたくさんのレコードをつくっています。録音スタジオでの演奏は、コンサートホールと同じなのでしょうか。

 

PB-S:イエスでありノーです。技術的な完成度に関して、スタジオでは求められるものは多いです。この二つは違うものだと考えていますから。聴衆のいないところで、見えない人々とコミュニケーションをとる場合、そして録音が10回とかそれ以上聞かれるときは(そういうことは起きますけど)、ちょっとした不注意や小さな間違いがあったりすると、1度聞くだけなら問題なくても、レコードでは深刻な問題になります。ただこれとは別に、同じように感じてもいます。良い音楽を生み出したいという意味でね。

 

BD:ステージで演奏しているとき、自分の過去のレコードとか、他の人のレコードと競っていると感じたりするのでしょうか?

 

PB-S:まあ、ありますけど、もし本当にそのように感じるなら、それはとても良くないことです。もちろん演奏家はいろんな思いに取り憑かれますけど、すっきりとした気持ちで弾くのは、不可能ではないけれど、とてもとても難しいです。ピアノの前にいるときは、演奏の問題点を忘れるようにしますし、自分がトップにいるとか、1週間前に、あるいは10年前にどう演奏したかとか、誰それは同じ作品をどのように弾いたかなど、考えないようにします。

 

BD:コンサートを聴きにやってくる聴衆には何を期待するのでしょうか。

 

PB-S:わたしは聴衆がよい聞き手であること、聞くためのよい準備ができていることを願うし、レコードや、宣伝文句や、言われてきたことなどに惑わされないことを望みますね。わたしにとって、聴衆がいて、彼らがコンサートにやって来る、という我々の文化は素晴らしいと思ってます。ここでは、グレン・グールドの予見は、正しくはなかったと言えます。アメリカだけではなく、アジアの国々や南アメリカでは、今日多くの人々が(若い人も含めて)、わたしがコンサートをするようになったときより、演奏会に行くようになっています。

 

BD:あなたは楽天家でしょうか、そして音楽の未来全体についても?

 

PB-S:ええ、その通りです! わたしは楽天的です。

 

BD:聴衆は国によって、あるいは街によってどのように違うのでしょうか。

 

PB-S:同じ街の中でも違う聴衆がいます。木曜の夜には非常に厳しい聴衆をもち、土曜の夜には信じられないくらい良い聴衆に恵まれるとかね。習慣と関係する部分もあるし、来る人の平均年齢や来る理由にもよります。音楽が好きだからではなく、はやりものだから行くというような人々もいます。わたしは彼らを締め出しはしません。その人たちも必要です。こういう人々は我々演奏家のキャリアにとって助けになりますし、もしかしたら良心の呵責から、音楽を愛していて来る人たちより、音楽家を助けてくれることさえあるんです。

 

BD:楽器について少しお聞きします。あなたはご自宅に素晴らしいピアノのコレクションをお持ちですが、演奏で出向くホールでは、どんな楽器であれ、あるものに従わなくてはなりません。そこで出会う楽器と馴染むのに、どれくらいの時間がかかるのでしょうか。

 

PB-S:これはピアニストが抱える問題の一つですが、ピアニストの芸術の一部でもあります。ピアニストは自分のピアノを弾くことを学ぶわけではなく、幾千もの違うピアノを弾くのが仕事です。キャリアを始めたころは、慣れるのに非常に苦労しましたが、今はどんな楽器であれ、すぐに慣れるようになりました。あるピアノは固くて、あるピアノは軽いタッチ、あるピアノは冷たい音がして、あるピアノはとても甘美な音がする。そんな風に千差万別です。いま話しているのは同じメーカーのピアノのことです。もちろん、メーカーが違えばそれぞれ性質は異なります。ベーゼンドルファーはベルのような明瞭さがあるけれど、強く弾くのには向いていない、特にバスの音を強く大きな音で弾いた場合ですね。スタインウェイは素晴らしい音で鳴ります、ロマンチックな音色です。でもモーツァルトのある箇所を弾くとき、キビキビした音色を得るのが難しいことがあります。スタインウェイでも特別製のものを除いたらね。わたしはアンティーク・ピアノのコレクターであることで、ずいぶん助けられました。モーツァルト時代のピアノからベートーヴェン時代のピアノへ、ベートーヴェンからショパンのピアノへの変化は非常に大きくて、スタインウェイからボールドウィンへ、ボールドウィンからベーゼンドルファーへ、ベーゼンドルファーからヤマハへと変わること以上に、扱いが難しいです。

 

BD:あなたはモーツァルトのコンサートをするときは、モーツァルト時代のピアノしか使わないのでしょうか?

 

PB-S:ええ、とてもあの楽器になれていますから。わたしと妻が書いたモーツァルトについての本のことを聞いたことがあると思いますが、モーツァルトが作曲につかっていた楽器でモーツァルトを聴く、という考えを支持する最初の人間だと思います。オリジナルの楽器で演奏するという考えは、非常に広がってきました。実際、爆発的と言っていいかな。今は誰もそれに疑問をはさみません。バロックや古典のオーケストラの名前をたくさん聞くでしょう? ジ・エイジ・オヴ・インライトゥンメント・オーケストラ、コレギウム・アウレウム合奏団、とね。人々はそれを聴いて、楽しんでます。それはピアノについても同じです。歴史について説明することはできなくても、過去を体験することができます。古楽器にとって不利なのは、現代のピアノの元ではありますが、美しく、繊細ながら、音が小さいことです。音を届かせることが難しい。モーツァルトのピアノで協奏曲を弾こうとは、特にここ、オーケストラ・ホールでは思わないです。でも今はスピーカーによって、各家庭にピアニストたちはやってきます。録音によってですね。わたしはこう言っています。「自分の部屋でモーツァルトのピアノの美しい音を、大きすぎない音を聴く喜びをもつべきでは?」とね。いずれにしても、コンサート・グランドを聴くときのようなボリュームで、聴かないほうがいいでしょう。音量を下げれば、モーツァルトの音に近づくことができます。

 

BD:あなたはオーケストラとの共演、室内楽、ソロのリサイタルとどのようにバランスをとっているのでしょう。

 

PB-S:バランスをとるのはわたしではないですよ。どのような申込みや契約が来るかです。需要と供給ですね。わたしたちは売ってるわけですよ。(笑) でも売っているのはハードウェア(楽器)ではなく、ソフトウェア(演奏)ですけどね。

 

BD:あなたはパウル・バドゥラ=スコダを売っているのか、モーツァルトを売っているのか。

 

PB-S:バドゥラ=スコダでくるんだモーツァルトを売ってますよ。いい例えじゃないかな。もちろん、わたしはモーツァルトを生き返らせようとしてますけれど、どんな作曲家も演奏者が必要です。彼らは演奏者なしでは、作品がただの紙切れだと感じてるでしょうね。演奏家は逆らうことはなくても、ときに変えて弾きます。どこまでが音楽に対して誠実かそうでないかは、はっきりと言うことはできませんけど。その質問はさっきありましたね。

 

BD:ピアノを弾くことは楽しいですか?

 

PB-S:ええ、とても楽しいことですよ! 才能のある若い人たちが即興で弾くのを見るのは素晴らしいですね。チェコスロバキアから来ている、20歳か21歳の天才的な若者を知ってます。彼はすでにチャイコフスキーのコンクールで5位に入ってます。彼は自由に即興演奏をしますが、どれだけ奔放に弾くかを見るのはとても楽しいものです。2ヶ月前に彼を連れて出かけたのですが、その演奏ときたら信じられないものでした。たとえば彼は即興演奏をしたのですが、それからモーツァルトがすでにやったものを弾きました。曲を終わらせられない人のように弾くわけです。最後の和音を弾いて、それにもう一つカデンツを加え、また弾いて、次に終わりが来るかと思うと、そこでまたクレッシェンドして続けるんです。それを3分か4分やってました。最後にとても小さな静かな音で締めくくってね。それはもう楽しかったですよ! そういうところに楽しさはあるんじゃないかな。

 

BD:素晴らしいお話をシカゴにもってきてくださって、ありがとうございます。

 

PB-S:ありがとう。これ見よがしじゃないことを願ってます。

 

BD:大丈夫です、とてもよかったです。

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2019年、死の前年に開いたコンサートにて Photo by Thorsten Krienke(CC BY-SA 2.0)