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photo by Lubuto Library Partners(CC BY-NC 2.0)

新しい旅立ち

ムバンガ・ムラパ

今は昼のさなか、アフリカの太陽がギラギラと空から照りつける。僕はニレの木陰に立っている。ちょうど砂利道が終わって、森がはじまるところだ。僕の知っている文明らしきものはこの場所で終わり、ここを越えれば緑の森以外、何もない世界となる。鉄道も車の道もなく、唯一の交通手段といえば自転車と牛車くらいという世界だ。

 

僕の名前はムレンガ、画家あるいは創造主というような意味だ。ザンビアでは男にも女にもよくつけられる、ありふれた名前といっていい。どうして父親が僕にこんな名前をつけたのか、訊いたことはない。両親は僕にアーティストか技術者にでもなって欲しかったんだろうか、もしそうなら、その希望は絶たれた。僕はアーティストでも技術者でもないから。僕が何かといえば、小学校の先生だ。田舎の村で教師の仕事につくため、そこに向かう途中なのだ。

 

僕が出発したのは今朝のこと。まず、首都ルサカからディーゼルのとろとろした走りで、フェイラまで運ばれた。フェイラの町でバスに飛び乗ると、そのバスが砂ぼこりの田舎道を走って、200キロくらい先のサンバという田舎町まで僕を運んだ。サンバでトラックに乗って、さらに奥深い田舎、世界の果てかというような、今僕がいる場所までやってきたのだ。まだ目的地に着いたわけではなく、ここから先は、森とブッシュの道を何キロも、自転車か牛車で行くことになる。

 

僕はまわりを見渡す。緑鮮やかな草地、太くてがっしりした木々、うっそうとした薮。僕は目の端で、向こうから自転車を引いてやってくる2人の男をとらえた。

 

「ジャンゴ?」 一人が僕のそばまでやってきて訊く。濃い眉と穏やかな黒い目の男だった。

 

僕はそうだと、うなづく。

 

「ジャンゴまで自転車でいくらですか?」 僕が訊ねる。

 

男は僕がしゃべるのを聞いて、困ったような顔になる。何か言おうとして口を開くが、言葉が出てこない。この人は英語がわからないのだな、とわかる。僕らは黙って互いを見ていたけれど、さて次にどうしたものか。それで僕は、5000クワチャ札をポケットから取り出し、男の顔の前でそれを振った。それがここから村までの一人分の料金と聞いていた額だったからだ。

 

男はうなづいて、ニコチンで黄色くなった歯を見せてにっこりする。僕の荷物は一つだけ、男はそれをハンドルに掛ける。僕は後ろの荷台にすわり、男がペダルを踏むと自転車が走り出した。

 

自転車の男は、おそらく僕より若いことはないだろう。僕よりも小さいし、でもよく見れば同じくらいの年かもしれない、とも思う。田舎の男は、僕なんかよりも生活がきついことが多い。不思議なのは、永遠とも思えるようなこんな長い距離、自転車をこぐ力がどこから出てくるのだろうということ。僕はただ荷台にすわっているだけなのに、一日の仕事を終えた農夫のように疲れ果て、一方自転車の男は疲れなどいっさい見せないのだ。男に訊きたいことはたくさんあった。今向かっている場所のこととか。でも僕と男の間に通じる言葉はない。言葉の壁があるからだ。

 

僕らが走る森の道は、狭くて、家畜や人、自転車や牛車の車輪に踏まれた草むらにおおわれている。道の両側には、背の高い常緑樹が立ち並び、まるで天地創造のときからずっとそこにあるような見映えだ。空気は爽やかで、セミの鳴き声や鳥の歌声に満ちている。

 

進んでいくと、森はだんだんまばらになり、土地は谷に向かって下っていった。さらに進むと、開けた村が現われた。僕は別世界に連れてこれらたような気分だった。丘と谷の広がる世界、泉と草地の世界。頭に荷物を乗せて歩く村人たち、反対方向に行く自転車乗りたちと出会い、こんな風に青々とした森に囲まれ、森の新鮮な空気を吸って自転車で走っていると、今まで暮らしていた街のことが、車だらけの空気の汚い自動車道路や人でいっぱいの通りが、物売りや子どもで溢れた商店街が思い起こされた。そして心の中に安らぎのようなものを感じた。この旅に出て初めて、田舎で教師の職につくという判断が正しかった、と思うことができた。

 

道を走っていて、僕は3年前に教員免状を取ったときのことを思い出していた。それは仕事や経済的安定を保証してくれるものだ、と当時思っていた。教師の職に引かれたのは、ひとつには自由を与えてくれそうな仕事だったこと、それほど難しい資格が必要ではなさそうだったこと、そして教職は自分が受けられる授業の中の一つだったこと、そういう理由によっていた。ところが卒業した後になって初めて、自分が2年間も職なしで通りをうろつくことになってしまったことがわかった。ザンビア政府がIMFと世界銀行からの圧力で、支出を抑えるため、公務員の採用を凍結することに決めたからだ。国のいたるところで、新年度の教員を必要としていることなど問題ではなかった。文盲率が国中で高まっている状況が、ゆっくりと進行していることにも頓着しなかった。教員免状をもった卒業生が家でぐだぐだしているしかない、つまり、家にいるしかないということだ。

 

2年後、ザンビアは深刻な負債を抱える極貧国の仲間入り、という資格を手にした。そしてお祝いの演説が、外交団のメンバーや政治家たちによって公言され、まるで貧しく極度の負債を抱えることが名誉ででもあるかのように、シャンペンが祝賀パーティで開けられた。もちろん、祝賀の本当の理由は、極貧の負債国が、借金から解放されることにある。それでザンビアは負債から解放され、政府は公務員の採用を再開してもいいと見なし、そこには小学校や高校の教師が含まれていた。しかしそれまでの間に、無職の教師たちが国じゅうにはびこっていて、漁師の網の穴ほどの数にまで達していた。政府はその求職者たちを、一度に雇うわけにはいかなかった。

 

僕は求職の申請を出していた。教育省はそれを受けて、奥地の学校へ配置しようとしたけれど、僕はそれを断った。翌年の一年間、僕は都市部での教職を得ようと努力した。教育省の側では、そのような機会を僕に与えることをしなかった。

 

「空きがあるのは田舎の学校だけなんですよ」 教育省の職員はそう言ったものだ。「田舎の方に行って働く気はないですか?」

 

「ないです」 そう答えた。

 

「どうしてですか?」

 

どうしてかって! あなただって、そんな田舎に行ってまで働きたいとは思わないでしょう、と僕は心の中で答えた。何故かといえば、田舎での暮らしは多かれ少なかれ、貧しくて、暮らしにくいだろうし。蚊やツェツェバエがたくさんいるだろうし。魔術の伝説とか聞いたことがあるし、地方で話されている言葉がわからないし。僕は職員に向かって、政府は僕が行って暮らす前に田舎をちゃんと発展させておくべきだ、と声をあげたくなったが、そうはしなかった。僕がしたのは、事務所を離れ、自分の運命を引き受けることだった。

 

かくて職なしで僕は3年を迎えた。貧乏は僕の日々の歌であり、空腹はそのコーラスだった。が、それも限度、空腹と極貧に僕は負けて、田舎で教師をすることを受け入れた。ジャンゴという名の学校で、村の名も同じくジャンゴだった。僕は自分に言い聞かせた。もし田舎の暮らしがあまりに辛かったら、いつでも街に戻ることはできるんだ、と。

 

 

ジャンゴまでは2時間かかった。これ以上ないというくらいの田舎だった。村には何百もの藁葺きの小屋が、目の届く限り続いていた。小屋は泥でできていて、数軒ずつかたまっている。家の群れのまわりは、竹か薮の垣根で囲まれている。村人はヒツジや山羊、豚を飼っていて、その家畜があたりを見境なく歩きまわっていた。

 

道に沿って店が広がっている村の市場まで来ると、物売りたち(主に女性)がいて、黄色く熟れたマンゴーやピンクのサツマイモや青々としたカッサバの葉の品々を前にしゃがみ込み、その横には木の屋台にうずたかく積んだ果物や野菜が置かれていた。僕を乗せていた男がペダルを止め、自転車から降りたので、僕もそうした。

 

「ジャンゴ?」 僕が訊くと自転車の男はそうだとうなずいた。僕は荷物を取ると、自転車の男に5000クワチャ札を渡す。

 

「学校はどっちかな」 僕が訊く。

 

男にわからない言葉で僕がしゃべると、男はまた困った顔になった。でも僕にはどうしようもない、英語で話すしかない。この地域で話されているバビ語は話せないのだから。

 

「ガコウ?」 男が自信なさげに訊く。

 

僕は学校のことだと思い、うなずいた。すると男は建物が並んで建っている方角を指した。大きな火のかたまりのような太陽が、空の低いところにあって、僕は早く行って職員を捕まえようと学校の方へと急いだ。行く途中、小石で遊んでいる子どもたちをたくさん見かけた。その子たちの顔は泥で黒く汚れていた。田舎の村は以前目にしたことはあったけれど、本の中でのこと。今はその場所に住もうとしてここにいるわけだ。実際、僕は今まで、街からこんなに離れたことはなかった。僕のここまでの暮らしは、近代的設備の中でのものだった。電気が通り、水道があり、電話やインターネットが使え、と都会にしかないものに囲まれていた。けれどもここでは、そういうものなしに暮らさねばならない。正直僕は、自分のメールアドレスさえ忘れてしまった。

 

数分歩くと、目的地に着いた。学校は鉄柵で囲まれていて、ここに来て始めて見る、コンクリートの建物だった。教室の窓はガラスで、校庭には背の高いヤシの木が生えている。学校は四つの細長い建物と、ポツポツと建ついくつかの小さな建物から成っていた。あたりは静かで、生徒たちはもう家に帰っていた。僕は門を通り、管理棟への案内を見つける。そこを行くと、校長室への案内があった。僕がドアをノックすると、中から「どうぞ」というくぐもった男の声が聞こえてきた。ドアノブをまわし戸を開くと、そこはマホガニーのデスクと引き出し収納が置かれた小さな部屋だった。デスクの向こうには、まるまるとした半分頭のはげた五十代くらいの男がすわっている。男がデスクから顔を上げると、老眼鏡が鼻にずり落ちそうになった。最初僕を頓着なく見ていたが、髪も服も埃まみれの姿に気づくと、見下すような目つきになった。でもそれはここまでの田舎道のせいなのだが。

 

「こんにちは」 僕はなんとか口を開く。

 

「こんにちは」 静かな声で男は答える。「何のご用でしょう」

 

「ムレンガといいます。こちらの学校の教師としてやって来ました」 そう答える。

 

「ムレンガさん、ようこそ」 にっこりして男は言う。「そうそう、あなたがいらしゃるのを待っていたんですよ。一週間前に、あなたが来るという知らせを受けとりました。わたしがいる間に着いてよかったですよ。ちょうど帰るところだったんでね。わたしはシュメと言います。学校長です。ここまでの旅はいかがでしたか、ムレンガさん」

 

素晴らしい旅でしたが少し疲れました、というようなことをボソボソと言う。

 

校長はさっきとは違った目で僕を見ていた。一日の仕事を片づけて帰ろうとしているときに、邪魔を入れるようなやからでは僕がないと、わかったからだ。

 

「寝る場所がいりますね。ここからそう遠くないところに、小屋が用意してあります。そこまで案内する者を呼びましょう」

 

シュメ校長は部屋を出ていき、10分くらいして、11歳くらいの少年を連れて戻ってきた。

 

「この子があなたの小屋まで案内しますよ、ムレンガさん」 校長が言った。「これで荷物は全部ですか?」

 

「そうです」

 

「学校は6時半に始まります」

 

僕は校長室を出て、ドアを閉める。案内役の少年が僕のとなりを一緒に歩く。道を二人が行くと、村人たちがこちらをじっと見つめる。誰もが僕を見てよそ者だとわかっただろう。これから住む家に着くまでの間に、他の建物とは違う二つの家の前を通った。この二つはコンクリート製で、大きさもあり、ガラスのはまった窓にアスベストの屋根がついていた。これは校長と副校長の家、あるいは主任か、その他の村の重要人物の家ではないかと思った。

 

10分ほど歩いて、僕と少年は家に、その小屋に着いた。それは村のどこにでもある家と同じだった。小屋は泥でできていて、四角い形で、藁葺き屋根だった。入口があったけれど、僕くらいの背の者には小さすぎるように見えた。からだを屈めなければ入れないのは確かだった。扉は板を釘で打ちつけた簡単なもので、ドア枠は木でできていた。枠にとめてあるゴム片が、蝶番の役割を果たしている。扉を縛ってあった針金をはずして、僕と少年は戸をあけて小屋の中に入る。

 

小屋は二つの部屋に区切られている。四角い形の小さな二つの穴が、それぞれの部屋の窓だった。床はどこも、黒い土だった。

 

小屋の中は湿った土と灯油ランプの煙の混ざった臭いがした。小屋には何もなく、アシで編まれた四角いマットがそれぞれの部屋の真ん中に置いてある。

 

もう帰っていいよ、と少年に言ったけれど、英語がわからないようで、そこに立って動こうとしない。僕の言っていることが理解できないのだ。しょうがないので身振りで家に帰っていいと伝える。やっと僕が何を言おうとしているかわかったようで、小屋を出ていった。少年が帰ると、今度は別の心配が襲ってきた。ここの言葉ができないで、どうやって村人たちとやりとりしたらいいのだろう。ザンビアには73もの言語と方言がある。誰であれ、それだけの言葉を習得するのは無理だ。1300万人の国民に、そんなにたくさんの言葉が必要なんだろうか? 73もある言語のために、いかに僕らが分断されてきたことか。

 

教育省の役人は僕に、この地域の言葉が話せるかどうかなど訊かなかった。それにこの僕、僕自身も地方語を話せないことで困ったことなどこれまでなかった。地方の人たちと交流するなどと思ったこともなかったのだから。この簡素な小屋を人の住む家にするためにも、すぐにでも村の人たちと話す必要が起こることが予想され、暗い気持ちになった。外が暗くなってきて、僕はそれぞれの部屋に一つずつロウソクを点けた。あたりは夜が醸しだす物音に満たされている。コオロギやカエルの鳴き声、夜の鳥たちのさえずりなど、僕の知るものもあった。

 

僕は今田舎にいるかもしれないけれど、そうであっても、ここの受け入れ主がたいしたもてなしをしてくれていないのは事実だった。こういうことがあるから、僕は今まで田舎での仕事を断ってきたのだし、ここみたいなみじめな環境で暮らすことを恐れていたのだ。家の鍵もなければベッドもないような小さな小屋でやっていくことが、学校の先生ということなのか。ジャンゴでの暮らしはもっと違ったものであってほしいと願っていた。聞いたことのあるよその田舎のようではなく、もっとましな所だと期待していた。でも自分の目で見てみれば、ここは国じゅうのよその田舎の村となんら変わるところはない。でも今判断するのはまだ早いだろう、そう自分に言い聞かせた。たぶん、朝がくれば、もっとましな家を与えられるのではないか。とはいえ、今はあるもので何とかしなければならない。そんなことを思いながら、アシのマットの上にシーツを広げ、寝る用意をし、蚊やコオロギを友に、その夜を過ごした。そして次の朝、朝日とともに起き出した。

 

 

ジャンゴでの第1日目。大学での2年間が試される日だ。でもまずは、出勤の前に、顔やからだを洗い服を着なくては。洗面器もないので、隣りに住む仲間の教師から借りた。新しい友は石けんも貸してくれようとしたけれど、それは断った。

 

「大丈夫。それならあるから」 僕は言った。

 

この村には水道はなく、トイレは地面に穴を掘ったもの。便所のとなりが風呂場で、木の幹とプラスチックとずた袋でできている。水は村のあちこちにある井戸水を使う。すでにどうやって井戸から水を汲むかは学んでいた。

 

学校への道を歩いていると、太陽が雲のない青い空から照りつけてきた。僕は自分に、ここはどこも美しくて、のどかで、汚れのない場所なんだと言い聞かせていた。子どもを背負い、頭に農産物のバケツを乗せた女の人たちの集団と出会う。その女性たちは仲間うちで笑ったり話したりしていた。ここでの暮らしが厳しいものだとしても、きっとここの人たちは幸せなんだろう、という風に僕には見えた。そうでなければ、なんであんなにニコニコしたり、機嫌よく笑ったりするだろうか。だけど街から来た人間が、僕のような者が、こういう所に慣れることができるのか。村は時代からひどく取り残されている。ショッピングモールもないし、スーパーマーケットもない。郵便局やインターネットカフェもない。クラブもなければ、劇場もダンスホールもない。隣りの人から、ジャンゴには街に一度も行ったことがない人や、飛行機や車を見たことがない人がいる、と聞かされていた。新聞もなし、テレビもなし、ラジオだってない。携帯電話網もないし、かすかな信号を得るにも、蟻塚の頂上まで行かなければならない。でも仮に弱い電波をつかまえることができたとしても、電気がなくてどうやって携帯を充電したらいいのか。悲しいほどの発展しか村にはなく、ジャンゴは18世紀と変わらない暮らしをしている。

 

学校に着くと、男の子女の子、たくさんの生徒たちが手に教科書をもって、それぞれの教室に入っていくのが見えた。僕は校長室まで行って、ドアをノックする。シュメ校長がどうぞ、というのを聞いて、ドアを押して中に入る。朝のあいさつをやりとりする、僕とシュメ校長。それから校長は僕にチャガ氏を紹介する。チャガ氏は副校長だと名乗った。チャガ氏は40代くらいの、立派な口ひげをたくわえ、小さな鋭い目をした男だった。チャガ氏は僕を連れて校内を案内し、先生方を紹介してくれた。僕は一つのテーブルを他の二人の先生とともに割り当てられる。それが終わると、チャガ氏の部屋に戻り、そこでカリキュラム、教科書、チョークの箱、黒板消しを渡された。

 

「3Aのクラスを教えてください」 そう副校長は言った。「子どもたちは2号棟にいます。何か聞きたいことがあったら、いつでも遠慮せずにわたしのところに来てくださいね」

 

これが退散する合図だった。副校長に訊きたいことは山ほどあった。このみじめな場所での福利厚生はどうなっているのか、給料はどれくらいなのか、あれやこれやの質問があったけれど、僕はだまって部屋を出て、ドアを閉めた。

 

教室は2号棟のいちばん端にあった。僕がドアをあけて中に入ると、8歳から12歳くらいの30人ほどの子どもたちがそこにいた。僕の存在に気づくと、教室は静まりかえった。おしゃべりしていた子たちは黙り、追いかけっこをしていた子たちは席に戻った。少しの間、僕たちは、僕と生徒たちは、見つめあっていた。子どもたちはよその学校でしているように、席を立ってあいさつしたりしなかった。僕はといえば、立ち上がって先生にあいさつすることもない生徒たちを前に、さてどこから始めたものかと当惑していた。

 

「みなさん、おはよう」 僕はそう言って、ちょっと微笑んだ。

 

返事が返ってくるのを待っていたけれど、何もない。子どもたちは黒く輝く瞳で、静かに僕を見つめるばかり。この子たちは僕のしたあいさつには、無関心なのだった。僕は咳ばらいして、もう一度おはよう、と言ってみた。が、あいかわらず返事はないまま。

 

「わたしの名前はムレンガです。新しく来た先生です」 そう言った。

 

それでも子どもたちからは、何の反応もない。

 

「じゃあ、名前を言ってもらいましょう」 そう僕は言う。「きみから始めて」 退屈そうな顔をしたやせた男の子を指して言う。その子は何も言わず、僕のことをぼんやりした目で見るばかり。

 

「きみは自分の名前がわからないのか」 そう訊いた。

 

答えはなし。

 

「みんなの名前を言える人はいるかな」

 

誰も答えない。

 

子どもたちは英語がわからない、ということなのだ。それは僕がこの場所で、これから出会う数々の障害の始まりのように思えた。いったいどうやってこの子たちと僕は、やりとりをしたらいいんだ。心の中で、ここでやっていくには地域語が必要だということを伝えもせずに、こんなさびれた場所に僕を追いやった、あの政府の役人に悪態をついていた。一人の生徒の教科書を手にとり、前の先生とはどこまでやったのか確かめようとした。でも本を見てもわからなかった。生徒たちに、きみたちをこれから教える先生なのだと伝えた。時間をやり過ごすために、ただ話していた。子どもたちの表情を見ていて、何を言っても人形の集団にしゃべるのと同じだと感じた。言っていることがわからないので、最初に見せた僕への好奇心もすぐに薄れてしまったようだ。何人かの子どもは、窓の外に目をやり出した。ベルが鳴って朝の休憩時間を告げたので、ほっと一息ついた。

 

僕はこのことを同僚のハマニ先生に言ってみた。ハマニ先生は、子どもたちが英語を一言も話せないことを素っ気なく認めただけだった。

 

「わたしもジャンゴに来たときは、同じ問題に直面しましたよ」 30代と思えるハマニ先生は僕に言う。「でも、今はわたしもここの言葉を話しますよ。他に方法はないですからね、バビ語を覚えるしかないです。でも、バビを学んだからといって、この子たちを教えるのが楽になるわけでもないですけどね。この子たちの多くは、勉強に興味なんかないんです。時間をやり過ごすために来てるだけでね。学校というものが、ジャンゴの人たちからたいして価値はない、と思われているんです。子ども時代に一度は通過するもの、くらいに見られてて、時間の無駄と思われてるんですよ。今、あなたのクラスに子どもたちが結構な数いるのは、単に農繁期じゃないからです。雨季が来たら、生徒のほとんどは親と野に出て、学校には来やしません。畑で働くことの方が、大事なんでしょうな」

 

というわけで、僕は子どもたちが話す言葉、バビ語を学ばなければならない。それによってしか、子どもたちの脳に達して、心に働きかけて、彼らが必要としている知識を伝えることができないのだから。でもそのとき、僕はかなり気落ちしていて、この子たちが僕から何か学ぶ必要なんかあるのだろうか、と自問自答を始めた。世界からこんなにも切り離されていて、劣った暮らしに浸されて、ピタゴラスの定理など何の役にたつ。シェークスピアやチョーサー、ワーズワースの詩を暗唱したところで、何になる。フランス革命がいつ起きたかを知って、この子たちは何に役立てる。おそらくこの子たちは、今のままにしておくのがいいのだ。たぶん、この静かな田舎暮らしの中で、あるがままに生きていくのがいいのだ。そして自分たちの文化や、自分たちにとって意味あるものを信じて生きていけばいい。もし何かこの子たちが学ばなければならないとしたら、それは自分たちの先祖の歴史であり、今の自分たちがどのようにしてこうなったのか、どうやって生き延びてきたのか、何千年もの間祖先たちが、いかに自然とともに平和に暮らしてきたのかを知ることだ。

 

仕事が終わって家までの道の途中で、食料品や炭や火鉢、洗面器を買うために市場を通った。いつも使っているトウモロコシ粉は見つからなかった。あるのはキャッサバとキビの粉だけだった。それを買い、魚と野菜も買った。市場から数メートルのところに商店があり、そこで調理器具、油、塩や茶葉や砂糖などのちょっとしたものをクワチャ札で買った。買ったものをえっちらおっちら家まで持ち帰る間、ここ以外の世界が前に向かって進んでいるとき、ジャンゴではいったい何がどうなっているんだと自分に問いかけていた。どこの人たちも道をつくり、鉄道を敷き、病院やショッピングモールを建て、電柱や衛星放送アンテナを立て、下水管や電気配管を設置しているのに、ここでは何をしている。街の政治さえ、ジャンゴの森ではあってないようなもの。誰が首都の大統領官邸にいようが、誰が議会でお茶を飲んでいようが、あるいはどんな新しい法が成立しようが、ジャンゴの人々にとってはたいしたことではなく、ここの首長を通して実施される、自分たちの法に従うだけだ。

 

 

生徒たちと今のままではどうしようもない。僕が子どもたちの言葉を学ぶか、子どもたちがこっちの言葉を学ぶか、どっちが早いだろう。今のところ、僕は子どもたちにとってよそ者。この子たちの目を見ればわかる。ハマニ先生が言っていたことは正しかったと思い始めている。子どもたちを僕から遠ざけているのは、言葉の壁だけではないということ。子どもたちは、そうは言わずとも、学校に退屈しているように見える。この子たちを教えるには、ここの言葉以外のことが求められそうだ。

 

この学校には僕以外にたった4人の先生しかいない。どの先生も、口には出さなくても、気力を失っている。僕の目には、みんな機会さえあれば、ジャンゴから逃げ出したいと思っているように見える。先生の数が少ないため、校長や副校長もときに授業をしなければならない。毎年、新しい先生を受け入れてはいるが、どの教師も藁葺き屋根の小屋に住み、井戸から汲んだ水を飲み、文明の利器から遠ざけられた生活をしたいとは思っておらず、遅かれ早かれここから出ていく。

 

僕はといえば、新たな危機に直面していた。街からもってきたお金はほとんどなくなってしまい、どうにかして現金を手に入れないと、食べるものさえどうしていいかわからない。校長からは何の言葉もなく、給料についてはもちろん、新しい仕事に慣れたかとも訊かれていない。僕が不思議に思うのは、教育省の役人が、こんな何もない田舎で、いったい僕にどうやって新生活を始めてほしいと思っているかだ。謙虚さや文句の一つも言えない性格が、自分を追いつめていることはわかっている。勇気を出して、校長にいつ給料がもらえるのか訊くことだ、そう自分に言い聞かせる。それがやるべきことだ。僕は校長室へと向かい、デスクで書類を見ていたシュメ氏と顔を合わせる。

 

「校長先生、僕の給料はいついただけるのかと思いまして」 僕はなんとかそう言う。

 

校長は不意をつかれたようだ。ちょっと間があった。

 

「給料?」と校長。「もちろんですよ。ありますよ。新任の先生方に給料は払われています。でもあなたの給料についてはまだ、情報が来てないんですよ、ムレンガ先生。何日か前に役所に書類は送ってあります。今週末までには、お金を受け取れると思いますよ。給料の支払いがあったら、すぐにでもお知らせしましょう」

 

この返事で、僕はそこを退散し、教員室に向かった。そこでは二人の先生が話をしていた。

 

「2週間たちましたね。がんばっているじゃないですか、ムレンガ先生」 二人のうちのチブ先生が言う。

 

もう一人の先生が笑う。

 

「そうですね、なんとかやってます。あなたがジャンゴでやっていけているなら、僕にもできますよ」と答える。

 

「それは見てのお楽しみ、ですね。ムレンガ先生、それはそれとして、祝福しますよ、ここで試練にさらされるあなたにね。わたしはここに長いんです、だから信じてほしいんですけど、ジャンゴにやって来た先生を見てきて、その人たちは来たときより素早くここを去っていきますよ」

 

「僕はここに留まりますよ、あえて言いますけど」

 

「そういう顔には見えませんがね」

 

「僕の顔はどう見えるんです?」

 

「ここでよくやる賭けがあるんですよ、ムレンガ先生。新しく来た先生が何日、何週間、ジャンゴにいられるか、いつここを見切るかを当てるんです。賭けに勝とうとしたある先生は、たった30日間でした。その先生は単に給料日を待っていただけなんです。それをもらうと、荷物をまとめて、街に置いてきた家財道具を取ってくると言って出ていきましたよ。もちろん、もう戻ってはきません」

 

「僕だって同じことをしますよ、あえて言いますけど」とチブ先生に言う。「ただ戻ってくるなどとは言いません。少なくとも、今は僕はここにいます」

 

先生二人が笑った。

 

「まあ、今のところはその通りです」とチブ先生。

 

僕は結局チブ先生から100,000クワチャを借りることになった。チブ先生いわく、ジャンゴでわたしは唯一の銀行なんです。利子が低いから、ジャンゴの人たちはみんなわたしのところを利用しますよ。

 

 

バビ語を学ぶのに時間をとられてはいるものの、午後遅い時間、太陽が力を落とした頃に、村を散歩することもときどきあった。近所の人たちとバビ語で話す努力もしていた。ジャンゴの人々は働くために生きているように見える。畑で働き、小屋を建てたり直したり、湖や川で魚を釣ったり、穀物倉庫で仕事したり、いつも働き詰めだった。村人たちの気晴らしといえば、地面にあけられた小さな穴に小石を置いて遊ぶ「ンソロ」というゲームを男女がしているのを見たのと、にわか造りの誰でも入れる居酒屋で、村人が売る自家製ビールを飲むことくらい。毎年、収穫期の終わりに大きなお祭りがある。ごちそう用に家畜が殺され、すごくたくさんのビールが醸造され、そのときだけは酔いつぶれても許される。村じゅうが陽気な気分につつまれ、お祝いは数日間つづく。

 

ゆっくりとではあるけれど、僕はここの言葉が少しずつわかり始めた。ごく限られた時間しかバビを学ぶためにつかってこなかったとはいえ、自分が少しは進歩していると感じていた。言葉を学ぶために、いくつかの方法をとっていた。市場にときどき行って、物売りたち(多くは女性)が僕に声をかけ、何か買うように言ってくるのにつきあった。いつでも何か買えるよう、お金を握って行ったけれど、物売りたちから声をかけてもらい、買うように薦められたり、僕が買う気になるように商品をほめちぎるのを聞いたりするのが目的だった。このやり方で、バビ語の語彙をかなり増やしてきた。ときどき、「7日間」という名の自家製醸造酒を村人たちが飲んで過ごす居酒屋にも行った。ここでやろうとしていたのは、人々の会話をすぐ近くで聞いて、何をしゃべっているのか、自分の少ない語彙でなんとか理解しようとすることだった。またときに子どもたちから学ぶこともあり、学校の先生たちから教わることもあった。もう英語だけで子どもたちに語りかけることはなく、できるだけバビ語をとりまぜて話すようにしていた。子どもたちにも変化が見え、以前よりも僕の教えを受けいれているように見えた。子どもたちの中に、シルタという名の女の子がいて、僕に強い印象を与えた。朗読と文法で進歩を見せた、最初の生徒だった。後で聞いたところによると、シルタは孤児で、この村に住むおばさんに面倒をみてもらっているらしい。この先もやっていこうと勇気づけられるのはこういうことだ。子どもたちは、僕が教えていることをちゃんと学んでいる、という認識がもてることだ。

 

どうやって自分の生徒たちを進歩させられるか、ずいぶんと考えた。校舎の物置で、何年も使われていない壁掛けボードをいくつか見つけた。ボードはカラフルで、さまざまな場面や風景を表わしていた。グリーンランドやエジプト、中国などの遠くの土地を描いた絵もあった。別のボードにはさまざまな仕事につく男女の絵が描かれていた。どれもジャンゴでは見かけない仕事だ。僕は子どもたちにこう説明した。きみたちがジャンゴの村や森で見たことがないものが世界にはある。世界にはさまざまな生き方をしている人たちがいて、教育を身につければ、誰もが人生において自分が望む者になれる、と。漁師や農夫、猟師の他にもたくさんの職業があって、それを誰もが選びとることができると教えた。学校でいっしょうけんめい勉強するよう子どもたちを励まし、よりよい人生へのドアをあけるのは教育なんだ、と力説した。

 

このように仕事に関しては、それなりの進歩があったけれど、経済的問題はそのままだった。手当について、教育省からも校長からもなんの話もなかった。不思議なのは、教育省の役人はいったい、こんなにも長いこと給料なしで、僕がどうやって生きていけると思っているかだ。もし状況が変わらないのなら、これまでの先生方がしたことと同じことを、つまり街に逃げ帰ることを選ぶしかない、と考えるようになっていた。もうちょっとましな小屋に移るという希望はたち消え、今の場所になんとか慣れるしかないと自分に言い聞かせて過ごしてきた。校長と副校長、主任、この3人だけが普通の家に住んでいる。この人たちの家はコンクリート造りで、部屋がいくつかあり、窓にはガラスが入り、アスベストの屋根がついていた。残りの者は、ゴキブリが出没するあばら屋で我慢せねばならない。こういう環境を見れば、なぜここに来た先生たちが居着かないのか、なぜ真の意味での変化や発展というものが、ジャンゴにはやってこないのかがよくわかる、と思った。

 

 

僕の給料はなんの知らせもないまま遅れていた。肉体がそれに耐えるのにも限度がある。空腹や心配や屈辱に耐えつづけるより、仕事なんか放り投げて街に戻った方がいい、と僕はまた考えるようになった。ジャンゴでの暮らしに失敗したことを、僕は認めた方がいい。でもそれは自分の弱さからじゃない。国の教育を担当する者たちの弱さであり、教育省やその役人たちの弱さなのだ。僕は、以前ここにいた先生たちと同じことをすることになるだろう。多くの先生たちが、職を捨てて消え去った、そう聞かされていた。その人たちがどこへ行ったのか、どうなったのか、知る者はいない。でもそうではない人も、もっと賢くやる人もいる。その人たちは仕事を放棄するのではなく、あれやこれやに耐えているふりをしている。医者の診断書を偽造しての申し立てという方法とか。地位の高い人から推薦状をもらい、病状に対応できる病院がある都市部へと、教育省や学校に緊急の移動を迫るのだ。同じことは僕にもできそうだが、どんな病気を装えばいいのかまだ思いつかない。僕はこんな悲惨な場所で、やせ衰えていくべきではない。空腹から死のうが、病気になって治療が行き届かなかろうが、僕の身に何が起きているのかに知らんぷりの場所なんだから。一番近い病院でさえ160キロも先にあり、もし急な病気になって緊急の治療が必要な場合、ここの人たちはどうするのか、僕にはわからない。

 

でも今ここを離れるのに、100キロ先の村まで自転車乗りを雇うことさえできないのはわかっている。それにチブ先生に借りたお金がある。僕は、借金を返さずに逃げ出すようなやつではない。街への旅は、次の機会まで待つしかない。

 

実際のところ、僕を養ってくれているのは子どもたちだ。あの子たちなしで、自分が何を食べているか言えないくらいだ。子どもたちは親切心から、そして多分僕の状況を察して、あれやこれや食べるものを持ってきてくれる。この子たちはなんて親切なことか、この子たちの親もそうだ。生徒のある子は、獲った動物の肉をもってきてくれたし、別の子は大きなスイカをくれた。どちらも食べきるのに数日かかるようなものだった。近所の人々も、さつまいもやアメリカホドイモやキビ粉をもってきてくれたりした。ものをあげたりもらったりの暮らしは、街の人たちとは違い、ここの人たちのやり方のようだ。だけれども、子どもたちや近所の人の親切にすがって一生、生きていくわけにはいかない。

 

僕はもうこれ以上この状況には我慢ができない、と思い、校長室へと猛然と向かい、シュメ氏の部屋に突進した。あいさつをした後、僕は給料について質問した。校長は苦しげに、もう少し待ってほしいと言った。校長も僕がどれだけ長いこと耐えているか、よくわかっているのだ。

 

「まだあなたの手当についての情報が来ないんです。普通なら、省から人が来てお金を託していくか、銀行に入金してあるという知らせが来るんですがね。どうしてこんなに時間がかかっているのか、わたしにもわかりません。お気の毒です、ムレンガ先生。でも手当が用意されたとわかったら、すぐにあなたにお知らせしますよ」 そう校長は言った。

 

「でも手当を受け取るまでの間、僕は何を食べて生きていけばいいんですか?」 僕は訊いた。

 

校長は頭のはげた部分をかいた。

 

「学校が少しお金を貸しましょう、ムレンガ先生。そうですね、150,000クワチャくらい。借りたいですか?」

 

「それしかないですね」

 

学校長はデスクから立ち上がると、部屋の隅に隠してある金庫の方へと歩いていった。そして金庫を開けると、350,000クワチャ札を取り出し、それを僕に渡した。現金を受けとると、とりあえず、飢え死にするのではないかという恐怖は弱まった。でもこのお金では長持ちしないだろうから、いずれまた、校長室へ戻ってくることになるのはわかっていた。

 

近親者に、僕が新しい場所でどうしているか、手紙で知らせたい気持ちはあった。この場所がどんなに美しくて、静かで、自然に囲まれていて、そういうことを書いた。でもここでの暮らしの大変さには触れない。そういうことは親類の人たちを心配させるだけだ。彼らは僕が田舎での仕事につくことをとても励ましてくれたのだから。書いた手紙は学校の配達人のところに持っていった。その人が学校からの手紙や知らせと一緒に、街まで届けてくれる。

 

 

ジャンゴの主食となる食べものは、キビやカッサバの粉で作ったどろりとした粥で、魚や肉、野菜と共に食べる。粥は口に入れるとゴムのような食感で、それで一日腹がもつ。最初なかなかこの粥になじめなかったけれど、今はなんとか食べられる。僕の朝食は、何か食べるときは、サツマイモかゆでたカッサバ、そしてお茶を一杯。昼食は学校でとる。学校のすぐ外で女の人たちが売っている、焼いたカッサバとアメリカホドイモで済ませる。

 

僕は村の二人の子どもの面倒をみていた。メキという名の男の子と、シルタという孤児の女の子だ。面倒をみることで、つまり僕の空き時間に二人の子に勉強を教えて、その子たちを優秀な生徒に仕立てようとしていた。メキはジャンゴに着いた日に、僕を小屋まで案内してくれた子だ。年は10歳くらいで、両親と住んでいる。二人の子は学びたい意志があり、実際なかなかの進歩を見せていた。もしこの子たちの両親や保護者が、ときどき野菜畑で働かせることがなかったなら、二人はもっと素晴らしい進歩を見せていたことだろう。僕は二人に、英語でのあいさつの仕方や、道の訊ね方、英単語のいくつかをどう読むか教えた。僕ら三人は、よく一緒にすわって、ペンと本を手に、絵本を読んだ。本の中の物の名前を、子どもたちが僕のあとをついて読み上げる。また足し算、引き算、かけ算も教えた。子どもたちが僕が訊ねたことに正確に答えたときは、嬉しくて涙が出そうだった。僕に村のあちこちを案内してくれたのは、男の子の方、メキだった。村の境界を越えて、そんな場所があることすら知らなかったところにも連れていってくれた。あれやこれやどこに行けばいいか、教えてくれたのもこの子だった。まだほんの少年にすぎなかったけれど、村の暮らし方をよく身につけていた。畑で仕事をし、森でワナを仕掛け、川で魚を釣ったり、魚網を直したり、森で狩りをすることもできた。

 

こうしてジャンゴの人々の間で暮らしてきて、ここの人たちが思っていたほど遅れた人間ではないことに気づいた。ジャンゴの人たちは電気も、インターネットも、携帯電話ももっていないけれど、生きる上で大切なもの、つまり食べること、着ること、住むことをちゃんとやっていた。必要最低限の生き方を基本においた、彼らの素朴な暮らしは、僕のようなよそ者には耐えがたいものに見えるけれど、それは確かに、街に住む人々よりもストレスのない生き方だった。野外でからだをつかって働き、自然との繋がりをもち、化学食品に汚染されていない自然食を食べる。それにより、村人たちは健康で、長生きできる人生を送っている。僕はここでたくさんの年老いた人々が、人生の晩年をみごとに生きているのを目にしていた。

 

今では生徒たちとかなりコミュニケーションがとれるようになっている。僕はできるだけバビ語で生徒に話しかける。多くの生徒が、僕の授業についてきている。なんとか子どもたちの興味を、授業の中で保とうとしてきた。でも今日は、学校での授業はなし、ここから160キロくらい離れたサンバの町まで行くことになっている。昨日、僕がここで自分のしてきたことに想いを巡らせていたら、シュメ校長に呼ばれた。

 

「あなたの給料と手当が用意できてますよ」 そう校長が言ったのだ。「サンバにある教育省に行って、小切手を取ってくる必要があります。小切手はその町で、現金化したらいいでしょう」

 

 

サンバ行きには半日かかった。小切手を受けとり、銀行で現金に換えた。先生の給料がこんなにも少ないとは、思ってもみなかった。ここまでの行き帰りの交通費を引けば、そしてたくさんの借金があることもわかっていたし、結局何も残らないように思え、本当にがっかりした。僕が受けとることになっていた給料は、以前に見た書面では充分なものだったが、今手にしているのは冗談としか思えない額だった。これが一ヶ月働いて得られる金なのか。この給料が意味するものは、永遠の貧困以外の何ものでもない。生きていける賃金ではない。おそらく僕に必要なことは、職を変えること、そう自分に言い聞かせた。すべてをやり直すのだ。そして公務員のような安月給で働かせるようなところではない場所で仕事に就くことだ。実際のところ、僕はまだ26歳である。あれやこれやを考えたあげく、もうジャンゴには金輪際帰りたくない、という結論に達した。先生という仕事から、ジャンゴで耐えていることのすべてから、逃げてしまうことを考えた。

 

そのとき、僕は生徒たちのことを思った。生徒との間で築いてきた繋がりについて。胸のうちに、子どもたちが教室で見せる、学ぶことへの意欲やそのときの輝きが思い浮かんだ。僕の教えることの一つ一つを、まるでスポンジが水を吸うように覚えていく。もし僕がここを去ったら、この子たちはどうするだろう、ここまでの進歩はどうなってしまうだろう。この先に導いてくれる人はいない。ここまでの成果はなきもの同然となる。僕がジャンゴでの仕事を放棄することで、一番傷つくのは子どもたちだと気づいた。無私の心境へと僕は近づいていった。ジャンゴでの自分の仕事はまだ終わっていない。いずれにしても今月のことではない、来月でもなく、その翌月でもないだろう。子どもたちが自分たちの言葉で、そして英語でも、読み書きができるようになるまでは、僕はここを去らないと心に決めた。僕にはわかる、自分がすべてを受け入れたことが。ジャンゴに戻ってやり直す、新たな旅だちを子どもたちのためにする。生徒たちがやっと勉強で進歩を見せ始めた今、ここを離れることは、裏切りのようなものだ。僕の心を変えさせたのは二つのことだ。それは子どもたちへの僕の愛であり、ここまでの学習の成果をもっと向上させたいという野心だ。僕はいま、心を入れ替えた。ジャンゴへの帰り道につくのだ。

 

 

毎晩、野外から聞こえる夜の生きものの声を耳に、ロウソクの灯りの下で授業の準備をする。ときどき僕は自分がこんな風に考えているのに気づく。快適な生活が一番の幸福とさえ思わなければ、ジャンゴのようなところに住んで暮らすことは難しくないのではないか。自分のここでの使命が、少しずつ成し遂げられていることが、自分でもわかる。子どもたちは日に日に進歩しているし、僕らは互いに理解しあうようにもなっている。多くの子どもが読み書きができるようになった。この先6ヶ月の間に、生徒たちは母語だけでなく、国の公用語である英語でも、読み書きができるようになっているはずだ。僕が子どもたちの生き方をいい方向に変えたんだ、という思いから得た喜びは、今の10倍の給料を手にすることや、街で快適に暮らすことよりもずっと大きいと、今ではわかる。たとえ何も財産はなくても、人の生は尊厳をもったものになるということを僕は学んだ。人が何か優れたものを自分の中に見つければ、心からの喜びを得ることができるということも知った。人はずっと一人きりで生きることはできないこともよくわかった。人のために尽くし、自己犠牲もいとわない生き方は、いい人生を送ったという太鼓判のようなもの、ということにも気づいた。

 

そうやって日々は過ぎていき、月が満ちては欠けた。生徒たちの進歩は、僕が想像していた以上のものだった。勉強の苦手な子どもたちでも、今は読み書きができる。この子たちが読んだり、書いたりするのを目にして、どれだけ僕が心躍らせたことか。今ではすべての子どもたちの名がわかる。12人の女の子、15人の男の子、それが僕のクラスの全員だ。

 

ある日、授業をしているとき、ここしばらくシルタの姿が見えないことに気づいた。シルタがどうしたか知ろうと、教室で訊いてみる。

 

「誰か、シルタの居場所を知っているかな?」と僕。

 

誰からも答えはなく、それは生徒たちが知らないということだ。

 

次の日、また同じ質問をしてみる。今度は返事があった。

 

「シルタは結婚するんです」 一人の生徒が答えた。

 

「結婚って!」 僕は声を上げた。13歳の女の子が、僕のお気に入りの生徒が、そんなわけはないだろう。生徒がたった13歳で結婚するとしたら、僕の教えていることはいったい何の役にたつ、そう自問した。ジャンゴの親たちに、教育の価値をわかってもらうには、どうしたらいいのか。どうしてシルタが、まだほんの子どもなのに。もしあの子が結婚させられるのが本当なら、子どもが子どもを産んで、その世話をするようなものだ。夫を助けて野で朝も昼も働くことになり、妻の名の下にその他たくさんの義務が降りかかることだろう。どれも、この年の女の子には、きつい負担となる。きっとウソに違いない、そう自分に言い聞かせる。本当であるわけがない。しかし、仕事の帰り道に、生徒が言っていたことを自分の目で確かめることになる。シルタの姿を、10人くらいの年長の女の人たち(結婚援助をする者たち)の中に見つけたのだ。シルタはぶかぶかの色鮮やかな巻きドレス着ていて、幼さが際だっていた。シルタの目は穏やかで、幸福なのかもしれなかった。一人の女性が太鼓をたたき、その他の女性が歌をうたっていた。女性たちはゆっくりと村じゅうを歩いていく。

 

次の日、校長先生に話してみようと心を決める。朝の休憩時間、校長室へ行き、シュメ氏に起きている事態を話した。

 

「僕の生徒の一人が、13歳の女の子ですが、結婚させられようとしています」 そう校長に言った。「その子は僕の生徒の中でも、もっとも将来が期待できる子なんです。結婚するには若すぎます。結婚をやめさせる方法はないですか? その子の養父母に結婚をさせないよう、説得はできないでしょうか。学校に戻すことはできないですか?」

 

校長は頭を振るだけだった。

 

「ムレンガ先生、あなたはここのことを理解してないですね。そういうことについては、我々は何もできません。ここの暮らしでは、親は子どもを所有していて、何でもできてしまうのです。よその場所では、もちろん犯罪になるでしょうけど、ここは違うんです。別世界なんですよ。このことに干渉はできません。誰も、です。生徒を一人失ったと思ってください。受け入れるしか方法はありません」

 

13歳という幼さで、結婚に追いやられる孤児のシルタ。小さなシルタへの哀れみで涙があふれた。もし彼女が学校を終えられる機会に恵まれていたら、どれだけの成果をあげられることかと、僕は心の中で思った。シルタは僕のように先生の職についたかもしれないし、あるいは、病院か診療所で看護婦になったかもしれない。もっとレベルの高いことを成す可能性だってあったはずだ。シルタの前に横たわる妻として、母としての大きな負担を思うと、身が震えるようだった。シルタと一緒に学んだ日々、声を出して本を読み、文章を書き、算数の計算をした。いずれその成果でより良い人生が送れるはずだった。そんなことを想うと、胸にあふれるものがあった。もし彼女が違う社会に生まれていたら、どれだけ素晴らしいところまでたどりつけたことか。

 

女の子たちの半分くらいが、7年生になる前に、学校をやめ結婚してしまうということを、知るようになった。実際、親たちが、娘を学校に行かせるのはまったくの時間の無駄だ、と言っているのを耳にもした。彼らが言うには、学校は娘たちを怠け者にするだけだ、家で本ばかり読んで仕事をしなくなる、と。男にとって、重いカッサバを頭で運べるだけの頑丈なからだをもち、畑を耕し、井戸から水を運び、子どもを育てることができる娘だけが、花嫁代を支払う価値がある、と村の男も女も信じていることがわかってきた。本を読んで過ごすような娘と、結婚したいと思う男はいないだろう。

 

 

今は雨季。木々は新たな葉を茂らせ、地上では青々と草が芽を出し、花々があちこちで咲き乱れている。ジャンゴがもっとも忙しくなる季節である。村人たちは畑を耕し、作物を植える。同僚も言っているように、ここのところ、僕のクラスも生徒全員が揃うことがない。ときに、ほんの一握りの生徒しか来ないこともある。来ない子は、畑で働くのに忙しいのだと知っている。生徒たちが学校に来れないことは、授業の妨げになっている。欠席が多いときは、前にやったことを繰り返すしかないこともある。上の学年を教えているハマニ先生が言うには、生徒の何人かは、妻や子どもを養うために、授業を放棄して野で働かざるをえないと言っている。

 

「ここでは15歳の男の子が結婚して、子どもを育ててる」 とハマニ先生。

 

でもそれも時間の問題ではないか。ジャンゴが変わり、親たちが子どもは畑を耕したり野菜を植えたりするための道具ではない、とわかるときが来るまでの。息子や娘が現代生活をうまく送るために教育を必要としている、ということを親たちが受け入れるときが来るまでの。時間はかかるかもしれないが、今から何年かの内には、鉄道や舗装道路がジャンゴの村に通り、学校や病院や会社がこの地域にも建設され、こういうものによって、ジャンゴの人々の暮らし方が変わるときが来るはずだ。あらゆる発展は教育とともに始まるのだから、発展の種はもう蒔かれているはず。僕にとっては、ここでの大変さは、生徒たちの勉強の進歩を目にすることで、充分に報われている。読み書きやものを良く知ることで、子どもたちはちっとも世界から遅れをとることはないだろうし、望むどんな生き方もできるのではないか。今から何年後かには、この子たちの中から、ネルソン・マンデラやケネス・カウンダ(ザンビアの独立運動の指導者で、初代大統領)やウォーレ・ショインカ(ナイジェリアの作家、アフリカ初のノーベル文学賞受賞者)が出てくるかもしれない。

 

「僕の勝ちですね」 先生たちが揃った教員室で、僕はチブ先生に言う。「ここに出入りする先生方の中で、僕は一番長く留まったと思いますけど」

 

「確かにね」 チブ先生がにっこりして言う。「一瞬たりとも、君が一ヶ月もつとは思わなかったけどね。でもわたしは間違っていたよ。そのとおり、君の勝ちだよ」

 

仕事が終わると、村の市場に行って、大工さんはいないかと、そこにいた物売りの人々に訊いた。ベッドを買いたいのだと説明した。僕は一人の男を紹介され、その男が自分の店まで僕を案内した。その大工は最低限の工具しか持っていなかったが、それでスツールやテーブル、椅子やベッドをつくっていた。僕のみじめな小屋にはこういうちゃんとした家具が必要だったけれど、今欲しいのは、ベッドだけ。小屋の狭い入口を通りそうな、シングルベッドを一つ選ぶ。マットレスは市場の店で仕入れた。この二つの買いものは、大変な散財となった。あり金のほとんどと言ってもいい。面白いことに、このお金は森や丘を越え、谷や川を渡り、ジャンゴの村にやっとたどり着いたもので、人々の目に価値あるものに見えている。でも僕はといえば、もうお金のことで心を悩ませることはしなくなった。買わなくても手に入れられるいくつかのものがあるからだ。トマト、タマネギなどの野菜を買うことはない。今では自分で育てているのだ。クワなど今まで一度も手にしたことのないこの僕が。始めたときは、ただの好奇心だったけれど、今ではこういった農産物に関しては、自給自足をしている。庭は、僕の小屋の裏にあり、週末に世話をしている。

 

やっと自分の住処といえるものにたどり着いた。小屋という自分の領域がある。ジャンゴに夜がやってきた。ネズミや蚊が入ってこないように、戸にかんぬきをする。閉める前、もう一度外を眺める。星のまたたく空に、三日月がかかるのを目にする。理由はわからないけれど、今夜は野外で生きものの声がしない。かわりに深い静けさがあたりをおおっている。激しい嵐のあとの静けさのような、暴風雨が去った後に、自然の猛威に調和がもたらされるときのような、はるか彼方からの安息と深い充実感に満ちた静けさだ。

 

初出:Author me.com

 

ムバンガ・ムラパ

ムバンガ・ムラパは1973年生まれのザンビアの作家。ザンビアとドイツで教育を受ける。ンペレンベ高校(1983年に当時のザンビア大統領ケネス・カウンダによって開校された)、ザンビア大学、アプライド・サイエンシス大学が母校。ザンビアの首都ルサカに暮らし、技術者として働きながら、ルワンダの虐殺をテーマにした詩集 'The Ballad of Rwanda and other Poems' と二つの小説('The Asylum Seekers' 及び 'Mountains of Jamalaya' または 'The Forgotten Child')を書いてきたが、まだ出版はされていない。