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小さなラヴェルの
​小さな物語

作:コンガー・ビーズリー Jr. 絵:たにこのみ

訳:だいこくかずえ

亡き王女のためのパヴァーヌ ~  救世主ヤンニ [25 - 26]

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25

 

 モーリスは冷たくどんより濁ったロワールの速い流れを、どんどん下流へと流されていきました。何も見えず、完全に水に浸っていました。モーリスは泳げないので、恐怖を感じていました。口を開けてはだめだ、と自分に言い聞かせました。水を飲んだらだめだ。水を飲めば、パニックになって溺れてしまう。

 

 モーリスは仰向けになって手をひろげ、川底に向かってクルクルとまわりながら沈んでいきました。こんな危険な状態にあっても、心は驚くほど冷静でした。川底に着いたら、どうやって水面にもどればいい? そう考えました。このときになって、水泳を学ばなかったことを後悔していました。

 

 死は、モーリス・ラヴェルがあまり考えたことのないものでした。モーリスの有名な作品『亡き王女のためのパヴァーヌ』は、実際に死んだ王女についての曲ではありません。そう名づけたのは、フランス語の「パヴァーヌ・プウ・ユヌ・アンファン・ディファン」という音が好きだったから。川底へと沈んでいくというこの死にものぐるいの瞬間に、華麗で風格ある曲の出だしが、そのタイトルとともにモーリスの頭の中で響きわたりました。自分への哀歌をすでに書いてあることを考えて、少し心が慰められました。自分の屍が引き上げられて、わらを詰め、ヴェルヴェットを敷いた棺桶に人形のように入れられ、世の中に公開されるとき、葬儀でこの曲がかけられることは間違いありません。モーリスがいま望むことは、親友のフィリッペ・バザンが、初演作品の演奏会にはいつも着用しているブルーのダブルのスーツに、グレーとシルバーの美しいシルクのネクタイを着せることを忘れないよう、葬儀屋に指示してくれることでした。

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 そうこうするうちに、モーリスはドスンと固いものに当たりました。次の瞬間、モーリスは落ちたときより速いスピードで、水面に運ばれていくのを感じました。それが何であれ、水面へと猛スピードでモーリスを引き上げました。一瞬ののち、モーリスは水面から顔を出し、息をつきました。「カーー、フーー、あーー」 苦しげなモーリスの声が水面をわたりました。モーリスはなめらかな丸いこぶの上を転がり、顔を下に向け、腕と足を小さな丘のようなものの斜面に広げました。水が口から吐き出されました。モーリスはあえぎながら、貴重な空気を吸い込みました。

 

 生きてるぞ! そう思いました。わたしはまだ生きてる!

 

 次にモーリスがわかったのは、右へ左へと優しく揺られていることでした。それが何の生きものかわからないものの、川の土手を登っていきました。落ち葉の山をくぐって、モーリスは自分が運ばれていくのを感じました。 そして動きがとまって、モーリスは落ち葉の山の中に真っ逆さまに落とされました。みじめな格好でドサリと着地するとすぐ、モーリスは底なしの闇のような眠りへと沈んでいきました。

26

 

 目を覚ましたとき、太陽は高くのぼり、モーリスの濡れた服に木漏れ日が降りそそいでいました。モーリスはブルブルと震え、くしゃみをしました。すごく寒いな。どこか暖かなところに行かないと、凍え死んでしまう。

 

 頭上の木の枝では鳥がチチチッと鳴いていました。リスがオートバイのようにガガガガッと音をたてました。遠くの方から牛の悲しげな鳴き声が聞こえてきます。

 

 「きみは隠れてるほうがいい」 どこからともなく声がしました。「すぐに荷船のやつらは目を覚まして、きみを探しにくるぞ」

 

 その途端、モーリスは自分が誰で、どこにいるか思い出しました。モーリスは立ち上がって、その声の主が誰かわかった途端、その場にしゃがみ込みそうになりました。1匹のカメが間近にいました。からだの半分は、ハート型の固い葉っぱにおおわれていました。こんな大きなカメは見たことがありません。小型車くらいのサイズでした。「いったいぜんたい、きみは誰だい?」

 

 「ワタシの名前はヤンニ。けさ冬の終わりの眠りの中でうとうとしてたら、きみに叩き起こされたんだよ」

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 「それは失礼」とモーリス。「いつもは無作法じゃないんだけどね。泳ぎができないもんで、しかたなかった、水面に上がってくるためにね」

 

 「いいことをしたなら嬉しいよ。いまは、、、いつ? 4月の初めかな。活動をはじめたところなんだ。ワタシのように眠るのがいくら好きでも、いつかは起きなきゃね」

 

 「わたしが落ちてくるのを見てたのかな?」 モーリスが尋ねました。

 「とーんでもない! ワタシは寝込んでいたんだ。そしたらびっくり! ドンときて、ドスーン。きみのからだの重さを感じたよ。きみがブクブク言っているのを聞いてね、魚じゃないとわかった。もし上に引き上げなかったら、きみは終わってたね」

 「なんとお礼を言ったいいか」

 

 モーリスは朝の光の中で震えていました。

 「きみをどこか安全で暖かいところに連れていかなきゃな」とヤンニ。

 「あいつらはわたしを探してるんだよね?」

 「そうだ、そのとおり」

 「この川を知るものはみんな、ルフェーブル船長を知ってる。悪の天才だ、人をあやつる怪僧ラスプーチン、この素晴らしい川に居着く極悪人なんだ」

 

 ヤンニはあくびをとめようとしましたが、できませんでした。突き出た頭の先っぽが大きく開いて、茶色いノドの奥が見えました。「フワァー!」と息を吐き出すと、「シツレイしました。ワタシらカメっていうのは、人生のほとんど眠ってて、、、冬眠から覚めるのに2、3ヶ月かかるんだよね」

 「あんな風に夕べ、きみを起こすことができて、よかったよ」

 「いや、それはそうだね。もしあれが先週とかもっと前だったら、こうはいかなかったね。爬虫類の冬眠ってのは、ほんとおかしなものでね。冬眠中に外を歩きまわることで知られてるクマとは違って、ワタシらカメは、川や池の泥の中で完全消灯。外の世界が終わってても、気づかないんだ」

 

 ヤンニがまた口をあけて、ゼーゼーと長い息を吐き出すと、モーリスの濡れた髪がさざ波をたてました。ヤンニは頭をたれ、前足の爪を大きな甲羅の中に引っ込めました。

 

 モーリスは地面から棒をひろうと、ヤンニの鼻をコンコンとたたきました。「いまはだめだ、起きて! どこか暖かな場所につれていってくれ!」

 「ああ、、、しつれい。職業病みないなもんだ。えええと、、、ここはどこだったかな? ああそうだ、、、」

 カメというのは顔に感情が出ないので、モーリスはヤンニが何を考えているのか、読みとれませんでした。

 「、、、あそこならという場所があるんだけど、川をわたらなくちゃいけない。連れていくことはできるけど、また濡れてしまうね」

 

 弱ったモーリスのからだ全身に震えが走りました。自分のからだの限界がきていると感じていたのです。モーリスのからだは頑丈とは言えませんが、パリにいるかぎり、活気をたもつことができましたし、あふれる創造のエネルギーの余りで生活を送っていました。いま現在は、何よりも暖かさとちゃんとした食事、そしてぐっすり眠ることが必要でした。たっぷりぐっすり眠ること。ヤンニが冬にすっぽり埋もれるような、真っ暗で意識不明の爬虫類の眠りです。

 

 「わかったよ。そうしよう」

 

 モーリスは汚れたツイードのジャケットの襟をただし、何とか首にぶら下がっているネクタイを結び直しました。パリにいたとき、モーリスはいつも細心の注意をはらっておしゃれをしていました。フランスで2度、一流ファッション誌のベストドレッサーに選ばれたほどです。モーリスはからだが小さく、声も小さく、いつも礼儀正しいのですが、どのように人に自分を印象づけたらいいか、わかっていました。自尊心が強く、人から認められるのを好みましたが、うぬぼれがどう作用するかも知っていたので、それが嫌味に取られることはなく、輝きや魅力として人々に伝わりました。

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 モーリスは短い腕を頭の上高く伸ばしました。「先週は、わたしの人生全部を合わせた以上に体力をつかったと思う」

 ヤンニはそのときすでに、背の高い枯れ草の間を川の土手に向かってのっしのっしと歩いていました。水辺に着いたとき、モーリスは乾いた血のついた灰色のみすぼらしいハトの羽を見つけました。モーリスの心は矢に打たれたように痛み、目に熱い涙が溢れました。

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