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小さなラヴェルの
​小さな物語

作:コンガー・ビーズリー Jr. 絵:たにこのみ

訳:だいこくかずえ

決死の川渡り~キャサリンとの出会い [27 - 28]

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27

 

 ヤンニは鼻を浸すと、絹のようになめらかな緑色のロワール川の中に入っていきました。モーリスを背に乗せ、甲羅の先端を両手でつかませて川に入りました。ヤンニとモーリスは川をわたっていきました。モーリスは歯をガタガタいわせて、胸まで水に浸かっています。ヤンニはくちばしのような固い鼻を、水面から数センチ突き出しています。川幅の半分まで来たところで、モーリスの歯が、金皿に乗せた2個のサイコロのようにカタカタと鳴りはじめました。「しっかりつかまって」とヤンニがブクブク泡を立てながら言いました。「あとちょっとで着くから」

 

 ほんの数十メートル下流に、エドモンド・ドレイファスの巨艦が岸につながれているのが見えました。デッキには人があふれ、ルフェーブルが声をあげて走りまわり、何か指示をしています。人々の声は、風にパタパタゆれるキャンバス地のように水面の上に浮かんでいました。荷船の人々が上流に目をやったりせず、ヤンニと自分を見つけませんようにと、モーリスは神様に祈りを捧げました。川をわたっていく二人のスピードは、氷河の流れより遅いように感じられました。川の流れが下流へと二人を押し流し、荷船が停泊しているところに危険なほど近づきました。これはカメと川の流れの競争でした。この瞬間、流れの方が勝っているように見えました。モーリスの歯は止めようもなくカタカタと鳴っています。ヤンニはこれはいけないと感じて、2倍の速さで水をかきました。「あともう2、3分で着くから」 口いっぱいの水をゴボゴボ言わせて告げました。

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 寒さによって、モーリスの骨はもろいガラス棒のようになっていました。すぐにでも温めないと、ガラス棒が砕けてしまうとモーリスは恐怖にとらわれました。「がんばれ、、、がんばるんだ!」 モーリスはあえぎました。

 

 「そんな先じゃないから」とヤンニがなだめます。「もうすぐそこだ」

 

 ついに、川の向こう岸の土手に着いて、モーリスはヤンニの甲羅から滑り落ちました。腕と足を痙攣させ、目を曇らせ、もうろうとした状態で横たわりました。「やっとたどりついたね」 ヤンニがずぶ濡れで凍えているモーリスの顔をのぞき込みました。

 

 「キィーーー、、、カカカ!」 これがモーリスの返事でした。自分は死んでいってると確信しました。気高く勇敢なモーリスの心臓が、肋骨をサッカーボールのように蹴りました。

 

 できるだけのことをしようと、心優しいヤンニが乾いた落ち葉でモーリスをおおい、すき間に苔の毛布を詰め込みました。「どうだい。これで温かくなるだろう」

 「う~~~ん、、、ムムムム」 モーリスがうめき声をあげました。モーリスはヤンニにそこにいてほしかったのです。ここに一人残されたくなかったのです。

 

 「この近くに知ってるひとがいる。そのひとをすぐに連れてくるから」

 それはいい、とモーリスは思いました。でも1年くらいかかるんじゃないか。

  

  ヤンニはヨタヨタと歩いていきました。モーリスは硬貨がフカフカの綿に埋まるように、緑の苔の中に沈んでいきました。風が葉のない木々を揺らしました。もしあの世というものがあるのなら、きっとこのような場所に違いないとモーリスは思ったのでした。

28

 

 次にモーリスが耳にしたのは、自分の名を呼ぶ女性の声でした。「ムッシュー・ラヴェル、ムッシュー・ラヴェル」 モーリスは驚いて目を覚ましました。優しい手がモーリスにかぶさる葉っぱをとりのけました。うっとりするような美しい顔が、夢のようにモーリスの目の前に現れました。「ムッシュー・ラヴェル、すぐにこの濡れた服を着替えなければ」 暖かな手が、その両手がモーリスの胴のあたりをつかむと、葉っぱの中から引き出しました。20代半ばとおぼしきその若い女性の顔を、モーリスはうっとり見つめていました。ワシのような鼻に、生き生きとした目、そして赤茶色の髪。

 

 モーリスは自分が暖かな毛布にくるまれているのに気づきました。美しい女性の胸に抱かれて、壊れやすい花瓶かなにかのように、石造りの大邸宅の裏口を通り抜けて、広々とした庭を運ばれていきました。その数分後には、モーリスは熱いスパイス・ティーをすすっていました。キャサリンという名の女性が、スプーンでモーリスの口に温かなお茶を注いでいました。

 

 モーリスは赤ちゃん用のハイチェアにすわり、タオル地の心地よいローブに包まれています。最近はフランスで、いやヨーロッパ全土でも、超一流のクラシック音楽の作曲家として通っているのだから、このような待遇も甘んじて受けようじゃないか。モーリスはここまでに受けた酷い状況を良しとはしていませんでした。ルフェーブルの荷船での大騒ぎとロワール川での凍る寒さに立ち向かったあとでは、このようなことがあって然るべきと思いました。

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 心やさしいヤンニは、少し離れたところで、どっしりしたオークの朝食用テーブルの上にすわっていました。カメ特有の固い表情にめいっぱいの笑顔をつくって、モーリスの青白い顔に赤みが戻ってきたのを喜んでいました。キャサリンはダイニングの背のある椅子にすわって、スプーンを左手にもち、モーリスが次の一口の準備ができると、大きく開けた震える口にスプーンを傾けました。モーリスはキャサリンから目をそらすことができません。目を奪われる美しさなのです。白く長い指がモーリスの頬やあごに触れると、モーリスは恍惚となりました。この女神はいったいどこからやって来たのか? モーリスは知りたくなりました。

 

 すべての謎がとけたのは、その日の午後、モーリスが充分な昼寝をしたあとに、階下をブラブラしていたときのことでした。そこは部屋の奥にパチパチと燃える石の暖炉があって、よく磨かれたボードと手斧がけした無骨な家具に囲まれた田舎風のリビングルームでした。カラフルなタペストリーが壁にいくつか掛かっていて、それは装飾であると同時に、冬の寒さから部屋を守るためのものでもありました。「気分はどう?」 読んでいた本を脇において、キャサリンが訊きました。

 

 「ずっとよくなりました、ありがとう。あなたのもてなしは素晴らしいです」

 「まあ、こうして世界的な作曲家の方をおもてなしするなんて、めったにないことだから」

 

 モーリスは両方の眉を鳥の羽のように動かしました。「わたしが誰かどうやって知ったんです?」

 「わたしの大事なマエストロ、あなたの名前はここ最近、新聞でもちきりなんです。あなたがどこにいるか、誰にも知られていないの。あなたが姿を消してからしばらく時間がたつ、っていうことだけ。警察が捜しているし、あなたの友だちもね、コンサートの常連客たちもそう。それからあなたを見つけて報酬を手にしたい盗っ人やごろつきまでね」

 

 「報酬だって?」 モーリスが鼻を鳴らしました。

 

 「パリにいるお友だちや仲間の人たちのグループが、フィリッペ・バザンに誘われてやったの。1万フランよ、いまの時代としてはかなりの金額だわね」

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 「いちまん、、、」 モーリスは言いかけて口をつぐみました。うぬぼれが過ぎるのかもしれませんが、自分の価値としては低すぎると思ったのです。この数字は自分の真価を表すものではない、どう考えても、もっと大きな価値があると感じました。

 

 「モーリス、ほんとうに」と耳にささやく声がありました。その声は優しくて断固としていて、バスクのアクセントがありました。それは間違いようもなく大好きな母親のもので、このような事態の中では、強く心に響きました。「こんな風になるなんて考えてなかったでしょう。あなたには運があったの。大変なことを通り抜けて、こうして今生きている。もっと優雅に、ゆったりしてていいのよ。見栄はすてていい、引っ込めてと言ってるの。あなたのことを心から愛している人たちが待ってるのだから」

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 涙がモーリスの左の目から滴り落ち、無精髭のはえた頬に流れました。モーリスはサン=ジャン=ド=リュズにいる愛する女性(母)に会おうと計画していました。そびえるピレネー山脈のふもとにある小さな村で、その人は今もそこに住んでいました。モーリスはピレネーを越えて、スペインへの大旅行を始める前に、今一度そこに立ち寄ろうと思っていました。

 

 モーリスは暖かな暖炉の前で、もう1時間ほど、椅子の中で眠りに落ちました。そして目が覚めると、一杯のワインとタバコが欲しくなりました。キャサリンがゴブレットに父親のとっておきの赤ワインを注ぎ、ゴロワーズの箱をもってきてモーリスにわたしました。それからカミソリの刃を手渡されたので、モーリスはタバコを3つに切り分けて、1回分にちょうどいい大きさと量にしました。心地いいタオル地のローブに包まれて、ゴブレットを片手に、タバコをもう一方の手にして、ワインを飲んではゴロワーズを口にしました。モーリスはすっかり満足していました。

 

 警察や友だち、みんながわたしを探しているって? 後悔の念がモーリスの胸を刺しました。モーリス生来の人を気づかう気持ちは、ときにちょっとした虚栄心のために身をひそめることがありました。

 

 いつまでモーリスは、放浪者のように遊びあるく大物冒険家のふりをしていればいいのでしょうか? リュクサンブール公園を見おろす自分の仕事場に帰るまで? ピアノや紙の人形のある家に、熱帯の雰囲気をかもす鉢植えの植物や、壁にかけられた素晴らしい絵画や、世界中で誰よりもモーリスの世話に長けているタル、ぶっきらぼうだけど愛すべきタルのもとへ帰るまで?

 

 ところがキャサリンといえば、暖炉の前のソファで、ほっそりと長い足を折りたたんで丸くなり、赤ワインをすすりながら、モーリスの楽曲について音楽学者も驚くような知識で話しかけてくるので、モーリスの心は激しい好奇心と欲望の嵐につつまれました。それはワインのせいだったのかもしれませんが、キャサリンは自分の家(実際には父親の家ですが)を隠れ家として提供しようと言っているだけだとわかっていました。どんな複雑な連想につぐ連想であれ、モーリスがインスピレーションをものにできる、安全な場所を提供するのです。キャサリンが部屋の奥にあるピアノの前にすわって、モーリスの初期の作品、18世紀の様式と優雅さをもつ『ソナチネ』の全楽章を暗譜で損なうことなく弾いたとき、はっきりとわかりました。あー、なんという、とモーリスはもう1本タバコに火をつけ、ワインをがぶりと飲みながら思いました。この女性は真の心の友だとわかったのです。

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 キャサリンは『ソナチネ』につづいて『鏡』を見事に演奏し、モーリスをあ然とさせました。中でも軽やかな第4曲「道化師の朝の歌」は、これまで感じたことがないくらい、スペインへのあこがれをかきたてました。メチャクチャに振りまわされたみたいでした。低温殺菌のチーズの塊があっちへこっちへとザラザラの床の上を転がされるように、あらゆる情感を次から次へと引きずり出されました。まるで自分の人生に、あれやこれやのトゲトゲチクチクしたものが散らばっているようでした。そこにはタルがいました。パリジャンの友だちがいました。自分の仕事部屋がありました。そして今、すっかり心を持っていかれたキャサリンがいました。そしてさらに、長く困難な、スペインへの厳しい道のりがありました。そこは、モーリスの繊細な芸術に栄養を与えるため、作曲家としてさらに発展するため、モーリスにとって必要な場所でした。すべてを噛み砕くのは大変なことでした。たくさんのワインを飲み、たくさんのタバコを(正確には数えられないくらい、そしてノドがいがいがするくらい)吹かした後、真夜中になって、椅子の中に収まったモーリスは、足をヤンニの甲羅に乗せてとてもよい気分でした。

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