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Dolphin Diaries

イルカ日誌 : バハマの海でマダライルカたちと25年

ローズモールと子どもローズバッド。
(デニース・ハージング撮影)

 

イルカ日誌
バハマの海でマダライルカたちと25年

 

 

デニース・ハージング / Denise Herzing
海洋生物行動学者


だいこくかずえ訳

 

デニース・ハージング著『イルカ日誌:バハマの海でマダライルカたちと25年』(2016年11月、葉っぱの坑夫刊)から、以下に一部のテキストを抜粋して掲載します。

<子どもの頃にテレビで野生のイルカの世界と出会い、研究者になりたいと思った著者のバハマでの調査の日々> 

2500万年前、初期の哺乳類であった頃、イルカは陸上の祖先から離れて海へと向かいました。以来、水中に住む哺乳動物として、そこで生きつづけています。この本の著者デニース・ハージングは、12歳のときにジャック・クストーのドキュメンタリー番組を見て、この生きものに魅了され、将来イルカの研究者になろうと決心しました。イルカが海で何をしているのか知りたい、比率で人間の次に大きな脳をもつこの動物が、何を考えているのか知りたい、イルカとコミュニケーションすることは可能だろうか。そんな疑問がデニースの頭に次々に浮かんできました。この本はイルカへの探究心をもちつづけた少女が、やがて海洋生物学者となってバハマの海へと旅立ち、そこでイルカたちのコミュニティを間近に観察した25年間の記録を綴ったものです。

まえがき
クリスティン・ジョンソン
認知科学者(カリフォルニア大学サンディエゴ校)

 希望あふれる学部生のときに、この素晴らしい刺激に満ちた本の著者と知り合えたことは、わたしの運の良さだと思う。当時のわたしたちが皆そうだったように、クジラ類研究におけるジェーン・グドールになるべく、デニースは野生のイルカを間近に観察する夢をもっていた。デニースが他の者と違ったのは、自ら出かけていき、それを実現したこと。そしてさらなる厳しい決断の数々を下し、あらゆる困難(資金提供者探し、クラゲの幼虫の襲撃、エンジン故障、ハリケーンなど)を乗り超えて、バハマのマダライルカの世界的権威となり、野生イルカのプロジェクト(Wild Dolphin Project)を創設し、今こうしてわたしたち残りの者に、魅力あふれるこの本を差し出してくれている。
 海にいるデニースは「恐れを知らぬ者」の生きた見本である。疲れ知らずの勇敢な精神をもち、引き締まったパワフルなからだで、水中用カメラを手に俊足のエネルギーあふれるイルカたちを追いかけるデニースは、楽々それをこなしているようにいつも見える。嵩のある装置(それによりわたしたちは多大な情報の恩恵を受けたのだが)を扱っているにもかかわらず、彼女は優美なイルカの姿に変身してしまったかのようだ。デニース自身が海の生きものみたいに見えた。彼女の努力によって、この驚くべき生きものの日々の暮らしの詳細や長期にわたる履歴がビデオや音声に記録され、わたしたちの分類学の知識は格段に進んだ。これは野生では非常に難しいとされる研究だ。彼女の研究がその精密さ、包括的な広がり、完璧な誠実さによって世界に認識されている一方で、この本には賞賛に価する近づきやすさがあり、それはあらゆる点でデニース・ハージング博士のスタイルそのものだ。
 恐ろしく高価な調査の資金(船や燃料、ドッグ使用料、乗船員、カメラ、コンピューターといった)をどうやって得るか、不可能に思える課題のデニースの解決法は、世界に向けてそれを放つこと、野生のイルカのそばで泳ぐ夢をもつ人にいっしょに船に乗ることを許すことだった。探検の機会に恵まれたのは、映画俳優、探究心旺盛な学生、ドキュメンタリー映画の製作者、イルカのそばで寝起きする長年の夢をもつ普通の人々など。でもすべての人が同じように大切であり、自分の乗船が心から歓迎されていると誰もに感じさせる、デニースの人並みはずれた能力がなければ、ここに報告されているかけがえのない調査は生まれず、成功もなかっただろう。 
 またわたしたちにとって運がよかったのは、デニースはいい人々を惹きつける特別な才覚があり、それは最高のものだったこと。長期にわたって狭いところに閉じ込められれば起き得る些細なぶつかり合いをうまく回避できる、楽天的で根気強い船のクルーたち。心からイルカへの関心をもちつづけ、広範囲に及ぶ支援と財源を提供するプロジェクト委員会のメンバーたち。美しい海があり人間と仲のいいイルカたちがいるからというだけでなく、創造力豊かで誰もが仲間になりたいと思うデニースの特質を知って、集まってくるたくさんの熱心な協力者たち。デニースは厳格な科学者、心優しいナチュラリスト、想像力豊かな夢想家をみごとに同居させている。彼女は長い時間を、水の中だけでなく、コンピューターの前で10年、20年にわたるデータベースを管理下に置いて、記録の収集や分析を行っている。野外調査の先駆者たちとともに活動し、行動や音声、さらには認知学まで彼らから学んでいた。デニースの「フェーズ2」活動は、イルカたちと実際に双方向コミュニケーションを試みる画期的な企画であり、彼女が主題として取り組んできた深い洞察を表すものだ。この『イルカ日誌』のような調査の概要をまとめる仕事に投資された、途方もない努力を忘れることは簡単であるが、その努力の成果はこの本のどのページでも明らかである。 
 この本の中で、読者はイルカ的個性の持ち主、リトルガッシュ、スタビー、ロメオ、ローズモールなどを知る。その魅力的な仲間たちの中で、デニースは4分の1世紀を過ごしてきた。読む人はイルカたちが斑の数とともに知識を積みあげ、大人になっていく過程を知るだろう。デニースはそこにいて、あなたのために、すべての者のために、イルカたちの生命の物語を記録し、各世代が成熟し子を宿すのを、暴れん坊の子イルカたちが大人の複雑な社会状況の中で、重要な役割を果たすようになるところを見守る。そして水の上で、陸地の見えないところで長期間暮らすのがどんな感じか、あなたは知るだろう。海と空が世界のすべて、あなたの想像以上に、果てしない青の世界なのだ。
 わたしはデニースといっしょに、何度も調査の旅についていくというこの上ない幸運に恵まれた。そして何年かの間に経験したこの旅が、わたしの人生を変えたと言っても決して大げさではない。そのときの記憶は、思い出の中で最も生命感あふれ、心動かされるものになっている。人を惹きつけてやまない海の魅力。イルカの背ビレを探して、胸をドキドキさせているときの鼻をさす潮の匂い。錨をおろして、万華鏡のような水面を見つめるとき、それは千変万化で留まることがない。つづいていく生命の本質だ。あなたのまわりに広がる、すべての方位に開かれた、神秘的で捉えがたい色彩の大きな空。優しく淡い色彩の夜明け、雲間からとどく日没の光の矢、どれだけ遠くにあるのかがよくわかる星々の密集。そして月は丸い円盤ではなく、丸々とした光を放つ球、水面の月影に今にもその姿を流しこみそうだ。夜も更けたころ、船の前甲板に出て、銀色の月あかりの中で、わたしたちは自分と出会う。陳腐に聞こえるかもしれないが、それが真実としか言いようがない。
 イルカたちが少しの間、あなたと過ごす時間をつくってくれたと知ったときの、これ以上ないワクワク感とありがたいと思う気持ち。奇妙な人間たちとどんな面白いことができるのか点検し、自分たちの豊かで楽しく、忙しい生活の中から交流の時間をとってくれていると知って初めて、主導権は彼らの方にあるとわかる。どんな風に彼らはわたしたちを喜ばせてくれるのか、不器用な陸上生物であるわたしたちは、息をとめているのに苦労し、イルカたちの楽々とした泳ぎについていこうと痛くなった腕を掻く。それは心酔わせることだ。動くおもちゃになって、彼らの興味の対象となることは、目もくらむスリル。コマでもまわすようにあなたのまわりをグルグルと泳ぎながら、アイコンタクトをしてくる時ほど、野生のイルカがあなたの気をそそることはない。あなたが耐えられなくなって逃げ出せば、イルカたちは勝利の喜びでからだをくねらせる。あるいはほんのわずかな時間であっても、幹部級の年長のイルカたちの群れといっしょに泳ぐことを許されたときのこれ以上ない名誉。デニースのような専門家によって研究され、伝えられていたとしても、まだ残る驚くような現実、その神秘のとてつもない深さ、それは海の深さに価する。
 デニースの仕事をよく知る者たちは、この面白く啓蒙的な研究の詳細を十分に味わうだろう。彼女の研究に初めて触れる人たちは、未知の宝ものに触れた気分になるだろう。しかしすべての人がこの本から学ぶ最も大切なことは、デニースの研究対象への、そして自然界全体に対する敬意である。デニースのワイルド・ドルフィン・プロジェクトのモットーは「彼らの世界で、彼らの望むやり方で」。この言葉がすべてを語っている。

 

クリスティン・M・ジョンソン博士
カリフォルニア大学サンディエゴ校、認知科学学科
ワイルド・ドルフィン・プロジェクト科学顧問

 

はじめに


野生の力、それが世界を存続させる
ヘンリー・デイビッド・ソロー「ウォーキング」(1862年)


 わたしはある期間、地上でもっとも賢い生きものの一つ、イルカと仕事をする特権を得ました。20年以上前、海で暮らすイルカを長期にわたって水中で観察し、(最終的には)野生のイルカと異種間コミュニケーションを試みるための場所を探しに、都会から遠く離れたバハマ諸島北部までやって来ました。そして海洋生物行動学者として、3世代にわたるイルカの家族を観測しました。これは、その地域に住むタイセイヨウマダライルカ (Stenella frontalis) のコミュニティについての本です。25回の夏を彼らの世界に駐在し、マダライルカ200頭以上を個体ごとに(加えて200頭以上のハンドウイルカも)その生と死、新たな命の誕生を追い、彼らの成長の過程、闘争や友好、イルカ社会内での責任の分担を見守ってきました。
 研究は、わたし自身の理解度と観察の経過にしたがって、三つの期間に分かれています。1985年~1991年の最初の期間は、どのように水中のイルカを観察し交流したらいいかを把握することに費やしました。根気強く、へこたれることなく、尊敬をもって接することが、広範囲にわたる彼らの行動や社会生活の観察に求められると気づきました。イルカたちが彼らの生活の中にわたしたちを受け入れてくれたことで、20年間にわたり、求愛や交尾、子どもたちの遊びの世界を観察することが可能になりました。観察は彼らのペースにそって行われました。イルカの世界を観察し、交流し、探索することで、人間ではない生物についてゆっくりと知っていきました。調査研究の間、野生のイルカの暮らしを邪魔したくない思いと、彼らと交流したい気持ち、この二つの間を行き来しました。このまたとない機会を逃さず、研究をしながらそのバランスを取ろうとしました。
 1992年~1996年の中期には、イルカたちは驚くべき行動と様式を見せてくれました。わたしは水中でのイルカたちの複雑な行動を定期的に観察しはじめ、彼らの行動の取り方を見ることで、その経緯を理解するようになりました。からだを完璧に動かせる大人の、よくこなれた、予測可能な行動と相対するのは、「成長過程の未成年の振る舞い」でした。似た側面は見られるものの、まだよくこなれておらず、動きや声の強度によって振る舞いが変化し、ぎこちないからだの動きと声の出し方になります。
 1997年~2008年までの最後の期間には、たくさんのイルカの個体が成長し、第3世代を生み出すところを目撃しました。今は祖母となったメスのイルカたち、あるいはコミュニティの長老となったオスのイルカたちを観察し、彼らと交流したことは、海の家族とともに成長してきたような気持ちになりました。わたしは、高周波の声の録音装置の使用、遺伝学や認知学(社会の中の学びと教育)といった、さらに高度なプロジェクトに着手しました。1997年にはフェーズ2を開始し、人間とイルカ間の双方向コミュニケーションのための、水中キーボード(信号盤)と交流の手順を進化させました。それにより異種間コミュニケーション実験の4年間は、素晴らしいものになりました。そして2004年と2005年に襲ったハリケーン「フランシス」「ジーン」「ウィルマ」の衝撃で、イルカのコミュニティは破壊され、入れ替えが起こりました。
 この本の目的は、彼らの成功や失敗、成長や環境とのつきあい方を通して、個々のイルカの生に光をあてること。ここに書いたエピソードの数々は、当然ながらわたしの目を通したもので、訓練されたものとは言え、人間の能力の限界は越えられません。それでもできるかぎり、自然界の真実を伝えなければならないと思っています。こちらがもたらす影響と時間の経過を通して、イルカたちとの信頼関係は深まり、出会いの際に分かち合えるものの質は高まります。これは人類学者たちがよく知る過程です。当然ながら、調査者は直接的に、自分では気づかずに、調査に影響を及ぼしています。わたしの場合は水に入って、イルカたちの暮らしの細部を間近に観察し、別の生物として個々のイルカたちと交流をします。わたしはこの本で、研究プロジェクトをどうやって成立させたか、イルカたちとどのように仲良くなったか、1頭ずつの個性や行動の様式といったことを書き記しています。わたしの考えや気持ちと同時に、勝ち得たものと失敗したことも知っていただこうと思いました。それは学びの経験として重要だからです。
 今、彼らのコミュニティは変化しました。自然の猛威ののち、平静に戻りはしましたが、全く違ったものになりました。この20年間の観察なしに、彼らの暮らしが変わったことを知るのは、不可能なことでした。これこそが、長期調査の価値なのです。
 イルカというのは氷山のようなもの。水面から見るイルカは、海中の行動のほんの一部です。集団を形成する個々のイルカに、それぞれの物語があります。イルカたちの家族の物語があり、サメとの遭遇があります。わたし自身がサメに遭遇した話もあります。初めてバハマに着いたときの話があり、イルカたちの信頼を勝ち得た月日があります。データ集めのエピソードがあり、嵐との追いかけっこや人間の力の素晴らしさの話があります。わたしの目の前で成長していった、イルカの子どもたちの話もあります。そのうちの何頭かは自分の子をもち、イルカ社会を繁栄させる一員になっていきました。また厳しい自然の中で、もがき苦しみ、死んでいった者もいます。何年間ものあいだ、わたしたちは彼らの生息範囲、活動、生息環境を記録しました。昼に浅瀬で、夜に魚やイカが集まる浅瀬の縁から離れた深いところで、イルカたちが漁をするのを見ました。マダライルカと、同じくここの居住者であるハンドウイルカのあいだで起きた、餌探しや攻撃行動、異種間の子守りといった、複雑にして目を見張るような関係も目撃しました。
 イルカたちは仲間や家族とともにつくる、複雑な社会に生きています。食べ、漁をし、子どもを育て、責任を分かち合い、外敵を避け、衝突を解決します。また彼らは人間が想像するしかない感覚の世界に生きています。聴覚、視覚、味覚といった違いに加えて、わたしたちの理解が及ばない世界に住んでいます。イルカと分かち合えるのは、彼らの家族生活や日々の挑戦、子孫やコミュニティに対する強い献身の部分。そこが人間とイルカの間にある接点です。わたしたち自らの文化への思いと同様、彼らの文化の存続への願いがそこにあります。
 野生でイルカがどのように暮らしているか、人間との類似性が理解できるよう、記述する上で、「擬人法」的な書法をつかいました。この本の中で、わたしは科学論文には含めにくいことを、彼らの物語として話し、わたしのイルカ観察として記しています。チャールズ・ダーウィンの『人及び動物の表情について』やマーク・ベコフの2007年の著作『動物たちの心の科学』が正当化しているように、わたしも擬人法を手立てとしてつかい、イルカに感情があるように書いている部分があります。ダーウィン、ベコフの両者は、他の生物における感情の存在を認め、科学的裏付けをしています。ドナルド・グリフィンが1990年代の革新的著作『動物の心』で言っているように、「擬人法はわれわれにとって、何が起きているかを考えるときの手立てになる」のです。
 この本では、飼育環境にいるイルカについて、イルカ貿易の倫理についても、わたしの考えを述べています。アル・ゴアが気候変動に関する自分の映画に『不都合な真実』と命名したように、イルカの飼育問題は、ある意味、不都合な真実です。なぜ不都合かと言えば、人間は特別な存在であるという考えや、「イルカと泳ごう」ツアーや「イルカ・セラピー」のために野生のイルカを捕獲するビジネスに対して、疑問を投げかけているからです。イルカ好きの人で、自分の子どもが拉致されたイルカと泳ぐことを知りながら、このような企画をよしとしている人は、わたしの知る限りあまりいません。できることなら、こうした行為に対して、人間という種を代表して、わたしはイルカに謝りたい気持ちです。
 人間は地球上でもっとも複雑な働きをする脳をもっています。そして類人猿さえしのぐ、2番目に進化した脳をもつのがイルカです。しかしイルカは道具を扱ったり、ものを作る手をもっていません。わたしたちが高度な知性を計るときに参照する能力です。わたしたちはもてる想像力と創造力を、高度な科学と技術革新を、他の生物を理解するためにつかえないものでしょうか? これは従来とは異なる挑戦になります。技術一辺倒ではなく共感を基本にした、科学的にして参加性と相互性をもった、侵略的ではない試みです。異種間のコミュニケーションを扱うわたしのフェーズ2の終着点は、違いを埋めることに心をくだき、理解の橋を築くことでした。渡り鳥のように、過去25年間にわたり、わたしは毎夏、バハマの浅瀬に帰っていきました。それでもなお、大きな問いがあります。あの広大な海で、イルカたちはその複雑な知力で、何をしているのだろうか、と。 
 海洋でのわたしの調査が何を示唆したかと言えば、イルカには知性があり、複雑な生命活動、関係性、コミュニケーションをもっていることです。野生の中では、イルカたちが認知能力とコミュニケーションのスキルを、実際の生き残りの中でつかっていることを観察する機会に恵まれます。これはわたしたちが見知らぬ文化の中で生き延びることや、他の種と関係をもつときにつかう洞察力に似ています。わたしは心熱き大学院生たちが、この道を先導していってくれるだろうことに、感謝しています。たとえその先でも、氷山の一角が見えるだけだったとしてもです。
 いま、こうして読者の方々を、水面下の世界にご案内できることを嬉しく思っています。服をぬらすことも、クラゲに刺されることも、髪を潮焼けさせることもなく、です。でもそうではないかもしれませんね。青く透明な海や、吹きつける潮風を感じていただけるかもしれない。うるさいコバンザメがからだの脇を泳ぎぬけたり、大きなサメがあなたをボートまで追い詰めたり、それがどんな感じか想像してみるかもしれません。それはあなた次第。わたしのよく知るあの海へ、バハマの水の中へ、野生のイルカたちがつくる素晴らしい共同体へ、あなたを案内させてください。その特権があることを、わたしは嬉しく思っています。


第1章 前期 出会い(1985~1991年)

最初の交流:未来への視野

 1985年、人懐っこいイルカが住むことで知られるバハマ諸島へ、探索の旅に出ました。この地域が水中での長期の調査に適しているか、天候状態をみるためでした。ジェーン・グドールやダイアン・フォッシーの野生の霊長類の研究から、平和的で愛ある関係を築く十分な時間があれば、知能の高い動物の集団から多くを学ぶことができ、さらには彼らの社会の一員として認められることさえある、ということをわたしは知っていました。長期にわたる野外調査は、すでに霊長類と象でなされていました。イルカでできない理由があるでしょうか? 20年間という最小期間内で、2、3世代のイルカを追うことは可能にみえました。
 この調査期間に、船で大海に出ていく勇気や、男性優位の領域で女性科学者として仕事をする大変さ、継続することの大切さといったことを学びました。わたしはこの野外プロジェクトをさまざまな科学的装置や、この海の生物から直接学んだ作法をつかってスタートさせました。ここのイルカの家族から信頼を得られるまでに、5年の歳月を要しました。この期間を経てやっと、イルカたちは野生のままの振る舞いをわたしたちに見せてくれるようになりました。
 25年間わたしが追うことになるリトルガッシュ、ペイント、ロメオと出会ったのもこの時期でした。でもそれはほんの始まりに過ぎなかったのです。

 


イルカとの最初の出会い:関係を築くこと

知識と肉体的表現としての力を望むなら、外へ出て冒険せよ。
アプスレイ・チェリー・ガラード『世界最悪の旅』

 

1985年以前 はじまり

 もしイルカに質問ができるとしたら、何を聞けばいいだろう。またイルカの方がこちらに質問してくるとしたら、それは何だろう。1985年のむしむしした初夏の朝、マダライルカに初めて海で出会ったとき、頭に浮かんだ疑問だった。バハマの浅瀬(グランドバハマ島北部の水深の浅い場所)で船の錨をおろし、ゆっくりと透明な海洋に泳ぎ出ていったときのこと。視界に陸地はなく静かで穏やか、羊水のような温かな海水のただ中にいた。2頭のイルカが近寄ってきてまわりを泳ぎ、わたしの目を覗き込んできた。野生動物と直接目を合わせるなんて、ほかに比べようもないこと。顔にパシャッと冷たい水を浴びたような気持ち、とでも言おうか。はっきりと鋭い、互いを探りあうときの視線を感じた。彼らの目の奥に、わたしとは違う「生命」の存在を見たのだ。10年後に激しい潮の流れや巨大なサメに遭遇したときは、これとは違う畏敬の念を大洋に感じた。それはひとりで泳ぎ出ていくことなど許されないような海だった。でも今回の体験とはまったく違うものだった。これが野生のイルカとの最初の出会いとなった。
 わたしのここまでの海洋哺乳類研究の年月のあいだ、こんなことが起きるなんて思いもしなかった。人類学の授業をとらなかったことを、深く後悔している自分がいた。初めての文化に出会い体験するとは、人間以外の文化と遭遇するとは、いったいどんなことなのか。もし相手がこちらに興味をもち、探りを入れてきたらどうするか。わたしは生物学者であり、イルカやクジラについて研究するクジラ類学者だ。バハマへわたしを連れだしたのは、野生のイルカの生態への興味だったが、実地研究については、科学者として訓練を受けたことはなかった。とはいえ、バハマでの野外調査はまったく自然なことに思えた。わたしの祖先たちは、植物や動物、地球自身とともに進化してきた。それよりずっと前の2500万年前、初期の哺乳類であった頃、イルカたちは陸の祖先から離れて海へ帰った。高度に進化した哺乳類の世界は、イルカという水生動物の世界をのぞく窓であり、陸と海が分離して別のものに見える外洋のようにではなく、海岸線のように互いがからみあうものだ。注意深く互いを気づかい、興味を寄せ合う二つの種族なのだ。
 動物行動学の世界では、「ガチョウを知るには、ガチョウになること」という哲学が、近代動物行動学の父とされるコンラート・ローレンツによって最初に提唱された。このような方法論は、ジェーン・グドールのチンパンジー、ダイアン・フォッシーのマウンテンゴリラ、シンシア・モスのアフリカゾウなど、多くの社会生活を営む動物の研究で成果をあげてきた。彼ら先駆的な女性研究者たちは、野生動物の社会生活に光を当てるための、実り多い信頼できる方法論を実例で示してきた。これこそが、わたしが野生イルカの研究につかおうとした手法、方法論である。
 何年にもわたって科学者たちは、野生動物のコミュニケーションの仕組の初歩を知ることもなく、イルカを含む人間以外の動物に英語を教えようとしてきた。わたしはいつも、イルカの心は海洋にいる間に進化してきた、という考えに魅了されていた。わたしたちのものに相当するような、でも同じではないと思われる心があることに。彼らの心とはどんなものなのか、どうやって表されるのか。イルカたちのコミュニケーションの仕組を学ぶことで、彼らの意識のあり方を理解することは可能なのか。そして異種間の境界を超えることはできるのか。そこに橋をかけることは可能か。わたしはまず、イルカたちが音や視覚、触感触覚によって、どのようにコミュニケーションをはかっているか理解することに焦点を当てることにした。そしてさらには、同じ自然なコミュニケーションの回路をつかって、人間とイルカの異種間コミュニケーションの可能性を探りたいと思った。

***

 わたしはアメリカ中西部の、海から遠く離れた土地で育った。リビングルームのテレビから流れてくるジャック・クストーの世界を覗いたことで、人間以外では地上でもっとも賢い生物の一つであるとされるイルカに魅入られ、その世界を探索することに心奪われるようになった。イルカ研究への情熱に火がついたのは、12歳のときだった。わたしは子ども時代を過ごしたミネソタ州で、奨学金付きエッセイコンテストに参加した。課題の一つは、「もし世界のために何か一つできることがあるとしたら、あなたは何をしますか?」というものだった。わたしの答え? それは「人間と動物のあいだの翻訳者になりたいです。そうすれば地球に住む他の生物の心を理解できます」というものだった。成長するにつれ、そして自分のまわりの自然界を観察していくうちに、水の中で進化した、わたしたちと同じように複雑な心をもつ存在へ、どんどん傾倒していった。手をもたないイルカが、その知力をつかって何ができるのか。そのときわたしは、自分の生涯の仕事をみつけたと思った。単純な疑問がのちに大きな影響をもたらすことはよくある。5年後に自分はどこにいるだろう。どんな環境にいたいか。どんな人々に囲まれていたいか。わたしは生きものの住む海で仕事がしたかった。わたしは、調査を、野生のイルカの生態を観察し、記録することがしたかった。またこの未知の領域で才能を発揮する、わたしに刺激を与えてくれる人々とともに生きたかった。この単純明快な答えが、わたしを決意へと導き、次の10年、大学院で学び、調査プロジェクトと非営利団体「ワイルド・ドルフィン・プロジェクト」(わたしのタイセイヨウマダライルカ研究の支援組織)の基礎づくりに向かわせた。
 というわけで、12歳のときから、自分がイルカのコミュニケーションを研究したいことがわかっていた。大学の頼りになるカウンセラーからアドバイスを受けて、海洋生物学の世界に進もうと故郷を離れ、水の世界へと足を踏み入れ、そこを好きになれるかどうか試そうとした。わたしは海洋生物学の学部生用教科をもつワシントン大学と、海洋学の研究で知られるマイアミ大学の両方に出願し、両方から受け入れられた。しかしわたしはオレゴン州立大学への入学を二つの理由で決めた。まずオレゴンは緑豊かな風景に加え、健康的な生活ができそうな美しい場所だと思ったこと。次にオレゴン大には、海洋哺乳類学者であるブルース・メイト教授がいて、わたしはその海洋哺乳類を研究したかったからだ。わたしはオレゴンの海岸から出る海洋学クルーズの船や鮭漁の船に仲間と、機会さえあれば飛び乗っていた。潮のにおい、海藻のにおい、波のとどろきが大好きだった。自分が心から水の世界が好きだ、ということを発見した。
 内陸部で4年間の学部生活を終えたのち、オレゴン州ニューポートにある海洋生物学研究所で最後の年月を過ごした。鮭のふ化場で、ゼニガタアザラシやアシカを観察した。ブルース・メイト教授のもと、バハ・カリフォルニアでは、ふた冬のあいだコククジラの調査に加わった。1年目はブルースの研究所で、コククジラの新陳代謝率の研究をしていた院生のジム・スミッチ博士といっしょだった。バハ・カリフォルニアのサンイグナシオ・ラグーンやその他のラグーンは、人に慣れたコククジラの生息域で、研究者が容易にこの種の研究の機会をもてる場所だった。2年目の冬、あらかじめ無線タグを付けたクジラを、陸地からレシーバーでモニタリングする仕事を手伝った。調査チームが岸に戻ってきた日、最初にタグ付けされたクジラ「ブランコ」の無線信号を聞いたと、わたしは興奮気味に伝えた。冬のタグ付けシーズンが終わると、すぐにオレゴン岬のヤキナ・ヘッドにある灯台にレシーバーを設置した。そこはわたしが以前に3年間、回遊してくるクジラを数えた場所だ。ある夜、オレゴンにいて、ブランコの信号音を聞いた。灯台のそばを通っていったのだ! わたしたちは車に飛び乗って走り、一方熟練パイロットであるブルースは、海岸線の上をブランコを追って飛んだ。ブランコはアラスカのウニマク・パスまでずっと追跡された。ここでの研究の数々は、わたしにとって価値あるものとなった。また有益な機会と洞察力をもたらしてくれ、ブルース教授はかけがえのない師となった。
 ちょうどその頃、レジーナ・マリスという名の全長40mの木製の美しいバーケンティン(横帆船:最前方のマストのみ横帆で他は縦帆の帆船)が、6週間の学生プログラムを海で行うということを聞きつけた。大西洋でのレジーナのプログラムに便乗すべく、わたしは6週間の船旅に飛び込んだ。わたしたち学生は多くの時間を、バハにあるもう一つのコククジラの繁殖地であるマグダレーナ湾で過ごした。わたしは、ケネス・ノリス博士(イルカ研究の父であり、のちにわたしの師となった人)やケネス・バルコム(著名なシャチの野外調査科学者)、そのほかのよく知られた海洋哺乳類研究者たちに出会った。船で毎日やることは、海上生活の典型的なものだった。学生たちは昼のあいだは授業を受け、船の走行を維持するための手伝いを4時間交代でやった。天文航法による船の運航、基本的な操船術(デッキで操縦桿をにぎり、帆を上げ、もちろんノットも結んだ。もやい結び、縮め結び、本結び、そのほか様々なノットを結んだ)の授業を受けた。誰もが船員になった気分だった! 海洋科学者になる学生たちの訓練として、海そのものを理解するために、幅広い海での実地経験を積む必要があった。わたしは海への愛、船に乗ることへの愛を高め、わたしの人生はこうして波間に据えられた。わたしはオレゴン海域で、顕微鏡で見るような微生物から巨大な哺乳類まで、海で学ぶことを心から楽しんだ。
 そして1981年、学部生として回遊するコククジラの調査を終えてすぐのこと、わたしは命にかかわる事故にあった。森に一人で住んでいたときに、家のテラスから落ちたのだ。谷まで落ちていき、上から落ちてくるデッキの木材に強打された。肋骨を折り、肝動脈を切断し、出血多量で死ぬところだった。なんとか25歳の誕生日にこぎつけたとき、死ぬほどの体験というのは、その人の人生にとって何が一番大事かを思い知ることにつながる、と気づいた。それでわたしは再び、いま大西洋岸にいるレジーナ・マリスに乗ろうと決心した。かろうじて肋骨が治りかけたところで、でも医師の許可は得て、マサチューセッツのグロスターでレジーナ・マリスに乗船した。今回は学生としてではなく、「身分の低い学生研究者」(部屋付きで1日1ドルで働く「奴隷研究者」)としての6ヶ月間の航海。船はバミューダへ直行し、カリブ海をくだり、シルバー・バンクのザトウクジラを観察するため、最終目的地ドミニカ共和国へと向かった。海岸から離れた点在する水面下のリーフや岩場で、ザトウクジラの母親たちが子を産んだり、交尾をするために3ヶ月を過ごす場所だった。
 大きな帆船に乗って風の歌を聞き、波の鼓動を感じること、これ以上のことはない。しかし季節は10月、わたしたちの南方の熱帯域ではハリケーンが生まれていた。日が経つにつれ風が強まるのを見て、船のクルーが神経質になっていることに気づいた。船は速度を落とし、水が入り込まないよう甲板のハッチは締められた。その日の終わりには、わたしたちはハリケーンの尻尾のあたりにいる、ということがはっきりした。間の悪いことに、汚水排水ポンプ(通常は船に水がたまるのを防ぐため自動で働いている)が、動かなくなった。24時間ぶっ続けの交代作業で、雨と10メートル近い高波のなか、わたしたちはデッキで水をかいだし、かいだしした。クルーは船の帆を正常に保ち、強風のなかで船を安定させようとした。船が10メートルの荒波にもまれているとき、デッキに出る者はほとんどいなかったが、わたしは愛用の防水カメラ、ニコンで写真を撮った。デッキに自分を命綱でしばりつけ、写真を撮った。海は壮大で、自分は小さかった。自分がコルクか何かのように感じた。海がうねるたびに上下し、船は登っては落ちた。二日間の足止めののち、船体を引きずるようにしてバミューダに入った。でもわたしたちには運があったようだ。小さな帆船のいくつかは沖に引きずられ、波の打撃で壊れ、浮いていた。これが海で暮らすこと、海で死を迎えること。すべて運次第だ。こういうことに自分は慣れていかなければならないのだろう。
 バミューダを離れるときがきて、カリブ海の島々を通って南に向かった。ホグスティ岩礁と呼ばれる無人の小さな島に停泊した。ここでの任務は、人里離れたこの島を洗うコールタールを観測し、その量を計測することだった。浜にはタールがあり、海藻にもタールがついていた。あたりはコールタールだらけだった。1981年のことだが、こんなひなびた島であっても、すでに海洋汚染はあった。わたしたちはタールを記録し、取り除く作業で日々を過ごした。ある日のこと、わたしがゴムボートで島に戻っているとき、他の研究生たちが激しくわたしに手を振っているのを目にした。太陽の照り返しのせいで見えなかったが、わたしは突然現れた岩礁に向かっていた。岩礁を傷つけはしなかったものの、船外エンジンの留め具を壊してしまい、わたしは恥じ入り、「奴隷研究者」として価値のない存在だと感じ入った。その夜、料理人のエルマ・コルビンの胸で泣いたあと、わたしの理解者であり、経験豊富な師であるペリン・ロスが、ベストの下から缶ビールを取り出し飲ませてくれた。レジーナ・マリス船上でのビールは、下船、解散する土曜日の夜だけのご馳走で、そのときクルーは何とかもう一缶手に入れようと、算段のかぎりをつくす。このようなことは二度と起こさない、というわたしの決意をペリンが理解したのだと思う。
 のちのわたし自身のバハマの調査活動では、船上の若い学生たちが引き起こす過ちに対して、我慢強く、神経をくだくことを学ぶまでに相当の時間を要した。学生たちはバッテリーを充電するのを忘れ、用具の一部を海に落とし、カメラのレンズを出しっ放しにする。野外調査では予期しないことが起きる、と学生たちには伝えていた。天候が崩れることがあり、用具が壊れることもある。必要な用具を揃えるだけの資金がないこともあれば、髪が潮でひどい状態になることもある。そういうことをできるかぎり予測し、準備しておく必要がある。それは野外研究の時間は貴重であり、高くつくものだからだ。
 いつも、船には予備が必要だと繰り返してきた。わたしは二つのカメラ、二つの水中用ハウジングを用意していた。フィルムは安い、ビデオテープも安いが、野外調査の時間は高価なのだ。有効に時間をつかうこと。明日というのはないかもしれないから。25年間の野外研究生活で、わたしはビデオカメラのハウジングを一つ流しただけだ。25年に一つは記録と言っていい。また一度だけ、ビデオを重ね取りしてしまったことがある。悲しむべきは、その場面はとても重要なところだった。その前夜にみんなでそれを見ていたとき、わたしは次の日の撮影のために、テープを送っておくのを忘れた。25年間という期間を考えれば、その過ちは許される範囲かもしれない。とはいえ、科学者にとって集めたデータやフィールドでの体験はとてつもなく貴重なもの。そしてデータの喪失(人目に触れにくい動物の写真をなくしたり、珍しい行動を撮ったビデオを消してしまうなど)は常にあることだ。それでも、毎年の調査期間を終え、野外調査の旅から戻ったときに、生きて帰れれば、船が無傷であれば、よい夏を過ごしたと言える。
 オレゴン海岸とバハ・カリフォルニアの両方で、コククジラの調査を終えて学位も取り、大学院での調査を進める準備が整った。でもその前に、一つやっておきたいことがあった。英語を話さない、西洋ではない国で、何がしかの経験を積むための旅をしたかった。自分はコミュニケーションについて研究したいのだ、とわかっていたからだ。科学的な知識や経験を超える、多様なスキルが必要だと思っていた。運のいいことに、そのとき、姉がわたしたち一家が住む家の半分を買い取る決心をした。金額としては小さく控えめなものだったけれど、姉が送ってくれた手付金で、大学院の授業料に半分、3ヶ月のアジアへの旅の費用に半分、用立てることができた。クレジットカードなしの、でもたくさんの幸運に恵まれて、わたしはバックパックで旅に出た。中国、ネパール、インドとまわり、言葉によらないコミュニケーションと異文化体験を通して普遍的な事象をたくさん学んだ。旅の途中で、レジーナ・マリスに乗船したとき出会った仲間のニシワキ・マサハラを訪ねるため、日本に立ち寄った。非西洋の文化との交流から得た洞察は、その類似性と差異において貴重なものとなった。旅をするときに、(服やシャンプー以上に)必要とするものは多くない。言葉が通じないとき、身振りやしぐさ、笑うことでコミュニケーションできることはよくある。無事にアメリカに戻り、この先の大学院での研究と、わたしが将来仕事にしたいと望んでいるイルカのコミュニケーション研究に身をささげる準備がいよいよできた。
 この時点で、イルカのコミュニケーションに関する研究者3人の仕事を熟知していた。ハワイのルイス・ハーマンは、認知学と研究室実験で知られていた。サンフランシスコ州立大学のダイアナ・ライスは、飼育施設のイルカのコミュニケーションの研究をしていた。ジョン・リリーは論議の多い科学者で(彼以前の時代の予見者でもあるが)、双方向コミュニケーションの可能性を探っていた。というわけで、わたしはサンフランシスコ湾岸へと出発した。ハーマンの研究は実験的なもので、わたしが関心をもつコミュニケーションに焦点を当ててはいなかったので、ハワイでの研究は避けることにした。サンフランシスコに着くとすぐ、マリーンワールド・アフリカUSAに研究室をもつ、ジョン・リリーとダイアナ・ライスの両者を訪ねた。
 わたしはいつも、自分の将来がどんな風になるか、はっきりとしたビジョンをもっていた。その一つは、将来的なイルカ研究の認識のため、どこかの研究施設に行き、イルカの声を分析する分光分析の機械を見ることだった。ジョン・リリーの研究室を訪れたとき、それとは反対のものを見た。研究員は目的意識が薄いように見えた。研究自体は創造的で興味深いものだったが、わたしには合っていないと感じた。ところがダイアナと会う約束をとりつけ、彼女のトレーラー研究室に足を踏み入れたとたん、分光分析機を目にして、こここそわたしの求める場所だとわかった。わたしの最終目的は飼育環境にいるイルカの研究ではなかったが、そこで身振りと相互関係にある声の重要さを学んだ。つまるところイルカは聴覚の動物なのだ。またコミュニケーション信号の複雑さについて知ることもできた。人間も似たような方法でコミュニケーションをするが、人類学研究では、発する信号の「意味」を見つけることを優先している。どんな信号を誰が発しているか、その関係性はどういうものか。性別はどちらか、母親か兄弟か、それとも親族ではないのか。人間の信号を理解する方法は、社会やネットワーク、関係性といった文脈にその信号を照らすが、それは水中の社会でも同じではないかと思った。わたしには新たなアプローチをしたいという思いがあり、自分の研究は、動物を題材やメカニズムとして扱う以上の(より広い視野をともなう)ものになると思っていた。文化をもち、独自の知的な社会を形成する動物として、イルカのコミュニケーションを観察したかった。それで人類学的なアプローチが助けになると考えた。研究の基調において、参加型アプローチがいかに重要かということを、わたしは長いあいだ気づいていなかった。
 サンフランシスコ行きのすぐあとに、わたしはもう一人の人物、ジム・ノルマンに話を聞きにシアトルへの旅を敢行した。ジムは異種間交流者として知られていて、シャチや七面鳥、おそらくほかの動物にも音楽を聴かせていた。シアトルのジムの家のドアをノックしたとき、わたしを迎えてくれたのは、明らかに科学や科学者に疑いをもっていると思われる人物だった。ジムの口からまず出てきた言葉は、「きみは科学者なの?」「ええっと」わたしは口ごもりつつこう言った。「そうなりたいと思ってます」 これはわたしの予想した展開ではなかった。何年かのちにダイアナの研究室で働いていたとき、ジムが自分の録音したシャチの複雑な音声(反応や応答)の分析を依頼してきた。ジムが異種間のコミュニケーションを深く理解するには、科学的分析が必要だとやっと悟ったことを、わたしは嬉しく思ったものの、皮肉なことだと感じた。人間中心主義でない科学を確立するには、他の分野の科学や他の世界の秩序、これまでと違う考え方に対して心を開く必要がある。これは科学者自身にも当てはまる。ケネス・ペルティエ博士とサンフランシスコで仕事をした際、最前線の科学と彼の心身健康の分野での仕事に触れる機会があった。ケネスの脳と心の調査研究の助手をしていた時期、彼が従来の医療と代替医療の併用の可能性を求め、両者の間で綱渡りしているのをわたしは目撃した。現在、彼はこの二つの橋渡しをする分野で、先導的立場に立っている。わたしにとっては、それは野生のイルカを探索するという挑戦になるはずだ。わたしも、従来型と非人間中心主義の科学、二つの世界に橋渡しをする存在になりたい。
 でも、と思う。どこに行けば野生イルカの研究を水中でできるのか、イルカと接することのできる環境がみつかるのか。そのような状況で研究している者がいないことを知る一方で、そういう場所はどこかにあると思っていた。でもどうやって見つけるか。その答えは、ジャック・クストーのときと同様、リビングのテレビから流れてきた。映像作家のハーディ・ジョーンズによる、バハマのマダライルカの群れを撮ったドキュメンタリーをたまたま見たのだ。人懐こいここのイルカたちの映像に、わたしは好奇心をそそられた。バハマのイルカたちは、長期にわたっての定期的な観察が可能だろうか。野生のイルカが海の中でどうやって暮らしているか、長期の観察地として向いている可能性はあった。水は暖かく、澄んでいて観察しやすく、イルカたちは人間に対してとても興味をもっているようだった。「もうここを観察地にした人がいるにちがいない」とわたしは思った。ハーディに電話をしてみたところ、彼の撮った映像の一部をわたしに見せてくれると言った。それでさらに可能性の高さを知ることができた。そして1985年、バハマに向けて6週間の旅に出た。この地域のイルカが、わたしが期待するような観察に適しているか、確かめるためだった。この地域の野生イルカは、1970年代に秘宝ダイバーたちによって発見された。イルカたちははその後、難破したスペインのガリオン船を探すため浅瀬に停泊していたプロの秘宝ハンターたちと仲良くなった。ハンターたちの使用した機械が砂の中にいる魚を掘り起こし、イルカたちがご馳走にありつこうとやって来るようになった。
 定期的に野生のイルカの生態を見ることができるか、わたしは知りたかった。ハーディの映像を見て、バハマはか弱い陸生動物である人間が、水中で長期にわたって仕事ができる場所であり、イルカたちが人間に興味をもっていることから、近づきやすいだろうということがわかった。また驚いたことには、ここでイルカの科学的な調査をまだ誰もしていなかった。
 この時点で、わたしはここのイルカの群れが、理想的な対象であると確信した。でも自分の目で、長期調査の可能性を確かめたかった。幸運なことに、コククジラの調査に加わったことのあるオーシャニック・ソサエティ・エクスペディションズ(OSE)が、この地域でエコツーリズムを運営することになり、彼らがわたしを1ヶ月間、ナチュラリストとして参加させてくれることになった。でも、どんな装備を調査に持参したらいいだろう。ニコンのカメラを個体識別用に準備し、また成功を願う友人の一人から、水中用ビデオのハウジングを手に入れた。ビデオカメラと外付けマイクロフォン(ハイドロフォン)にそれを装着し、イルカの声と身振りを同時に記録できるようにした。大学院での研究で得たことがあるすると、イルカはたくさんの感覚様式をもっており、それを同時に記録することが、彼らのコミュニケーションの文脈を理解するのに重要である、ということ。また個体を認識すること、その関係性、性別、より大きな文脈の中で生態を理解するため、世代にわたる履歴を知ることも大切だった。わたしの計画はこのイルカの集団と時間を過ごし、オスとメスを見分け、個体として1頭ずつ認識し、振る舞いや交流を記録し、さまざまな場面での声を録音し、その全体の意味を探ることだった。それほど簡単なことではない。親密な眼差しをかわすことが許されるような、長期にわたる関係性をつくりあげることを願って他の種と出会おうとするとき、人は何をどう準備すればいいのか。ジェーン・グドールをはじめとする、長期にわたり人間以外の種の世界に入り、粘り強く適切な作法で、その種との信頼関係を築いた人々の研究を除けば、わたしには道筋を示すものなど何もない。彼らは、わたしがイルカの世界に入るに際し、手本としたい人たちである。
 わたしの手法は簡単明瞭なものだった。水に入り、観察者としてそこにいて、個体特有の印を水中スレートに記録すれば、それぞれのイルカの識別を始められる。イルカたちの行動を邪魔しないよう、自分を制御するつもりだ。でもすぐにわたしが発見したのは、イルカたちには別の考えがあるということだった。

 


1985年 最初の出会い


 朝7時、水は滑らかで静かだ。ハリケーンの季節はしばしばこんな風。トパーズブルーの靄の中から、2頭のイルカが現れた。1頭は大きく、1頭は小さい。並んで泳ぎながら、わたしの方をうかがっている。近づいてくるときに、頭を動かしわたしにクリック音を送ってきた。わたしはその場で凍りついた。恐れからではない、畏敬の念によるものだ。海洋生物の研究生活の中で、異種の知的生命体との初めての接触は、なんとも衝撃的だった。新しい文化に初めて触れた気分だった。それは人間以外の種の文化だった。
 わたしはいまバハマにいて、マダライルカと初めて出会っていた。オーシャニック・ソサエティー・エクスペディションズ(OSE)がこの旅を計画し、わたしは追加のナチュラリストとして、6週間この海にいる。わたしの目的は、長期調査のために、この地域を詳しく調べることだった。OSEはこの旅のために、ラリー・バーティフェイ所有の素晴らしい双胴船「ドルフィン」をチャーターしていた。ラリーはここのイルカの群れについての噂を耳にして、自分のビジネスの最優先事項としてイルカ探検をすることにした。それはOSEのツアーと彼の18mの美しい船との夢の巡り合わせとなった。
 これまでにわたしは、コククジラやゼニガタアザラシ、ザトウクジラの野外調査はしていたものの、それは海面から集めたデータだった。水面下のイルカのデータを集めたことはなかった。ついていたのは出発前、長年の友だちであるリンダ・キャステルが、わたしの目の輝きを見逃さなかったこと。リンダとわたしはオレゴン州ニューポートの海洋研究所で、1970年代に出会った。彼女は海洋微生物学を研究していて、わたしはコククジラのプロジェクトに参加していた。友だちになったのち、わたしが野外研究を目指していることを悟ったのだろう。口で言うだけでなく実行する人であるリンダは、間髪を置かずに、水中聴音機付きの水中ビデオカメラを買うための1000ドルの小切手をきってくれた。ルネッサンス期の多くの芸術家のように、科学者も研究に興味をもった個人から寄付を受けることがある。そしてそれがわたしにも起きた。
 ドルフィンに乗船したわたしたちは、フロリダのウェストパームビーチを出て、グランドバハマ島のウェストエンドにあるひと気のない港に着いた。税関を通過したのち、60km沖にある、海に囲まれ陸の見えない調査地へと出発した。わたしはガールスカウトのような気分で、ビデオカメラを手に準備万端だった。ジェーン・グドールがチンパージーの研究でやったように、イルカの調査をするということははっきりしていた。わたしはイルカにとって無害な研究者となることを目指していた。個々のイルカを識別し、交流を観察することで、その社会を知りたかった。個体の特徴を認識して追跡できるよう、写真による識別方法を使おうと思っていた。また、彼らのコミュニケーションの信号を知り、水面下の世界に人間が適合するためにも、彼らの社会規範を学ぶつもりだった。わたしは異種の生物と仕事をする上で、参加型科学の手法を取ろうと決めていた。相互関係を結び、彼らの一員となる方法。対象を題材としか見ず、外側から見るだけの従来型の科学ではないやり方だ。そのための指針や手引書は特になかったが、自分の科学者としての経験とともに、人間の文化や相互関係の知識が必要とされるとわかっていた。もし知性ある異種の生物と相互関係を結べる十分な時間を費やしたなら、彼らから多くのことを学べ、最終的にはその社会の一員として認められるかもしれない。通常あまりない長期にわたる特定分野の野外調査であったとしても、何世代かにわたるイルカの集団を記録するために、この地域で20年の歳月を使うことは必要であり、また可能なことにも思えた。しかしこの年、わたしが過ごしたのはたった6週間だった。
 その夏は、どのようにイルカと活動するかなど含め、錨泊地(錨をおろす場所)を決める権利もなかった。ラリー・バーティフェイや彼のクルー、OSEの中心的なナチュラリストたちが詳細を決めていた。わたしは水中カメラで、イルカの個体識別をすることに集中した。水中スレートとさんざん格闘した末、素早く動きまわる生きものにこれは役立たずだとわかった。それでイルカたちの声や身振りを記録するのに、水中ビデオを使うことにした。飼育環境でイルカの基本的なコミュニケーションの信号は学んだものの、海洋で素早く泳ぎ、複雑な振る舞いを見せる彼らのコミュニケーションを捉えることは至難の技だった。
 何日間か錨泊していると、イルカたちが船のそばにそっとやってきて、わたしたちを観察していった。わたしたちは彼らの好きなようにやらせておいた。彼らの信頼を得るため、ゆっくりと水に入り、控えめに注意深く行動した。イルカたちの追いかけっこや喧嘩はときどき目にしたものの、彼らとの間に信頼を築き、日常の活動を見せてもらえるようになるまでには、さらに5年の歳月を要した。夜、錨泊地で、星満ちる空のもと、わたしたちは水中聴音機でイルカたちの声を聞いた。船体に打ち寄せる波音のはざまに、イルカたちの出すザワザワとした音が聞こえた。それはイルカたちが、議論を交わしていると思わせるに足る複雑さをもった音だった。何と言っているのか、このような声の交換でイルカたちは何をしているのか推測した。のちに、わたしはこのような声や彼らの生命体としての複雑さをもっと理解するようになり、音にともなう行動を予測することもできるようになった。でもまだこの夏は、彼らの出す音を理解できず、どんな情報を交換し合っているのだろうと考えていた。その日のことを話し合っているのだろうか、それとも今起きていることを表しているだけなのか。多くのイルカが声をかけるとき、署名ホイッスル(シグネチャー・ホイッスル:周波数の変化が個体ごとに特有の合図音)を使ったり、エコーロケーション・クリック音(反響定位:方角や経路認識のための探知機)、破裂拍音(バーストパルス:近接近したときに連続的に発せられるクリック音のかたまり:burst-pulsed sounds)を出すことを知ってはいたが、こういった信号のその時々の正確な意味を理解するまでには、水中で行動を観察する何年もの日々が必要だった。わたしは海で同じ行動を何度も何度も追った観察の時間を、もったいないと思ったことがない。今何が起きているか実際に目にするのは、野外においてである。わたしの責務は、イルカを直接観察して、その行動の意味を正確に解釈することだった。
 社会的な動物を研究するには、大きな集団の中にいる個体を追うことが重要だ。一番の優先事項として始めた仕事は、個体特有の消えることのない印によって、それぞれのイルカを記録することだった。写真による個体識別は、チンパンジーやゾウ、シマウマ、キリンで行われていた。その方法論は最近になって、野生のクジラやイルカに応用された。この初期の調査期間では、イルカの性別を判断することも重要だった。調査の対象を特有の印、性別によって知ることは、時の経過の中でイルカの行動を理解する基本となる。最初の数週間で、ニコンのカメラをつかい、できるだけ多くの個体の写真を撮り、性別を判別した。
 最初に出会ったイルカたちは、リトルガッシュ、ローズモール、マグジーの3頭のメスだった。この少女期のメスたちのトリオは絆が強く、ある日、わたしが水に入っていたとき、船のそばで波乗りをしていた。いたずらっ子のように目を輝かせると、わたしのまわりでホイッスル音をあげ、跳ねまわりながら泳ぎだした。1頭のイルカは背ビレの前の方に小さな傷があったので、リトルガッシュ(小さな傷)と名づけた。彼女の隣りにいたイルカは、まだ若いのに、右の脇腹にバラの花の形の大きな黒いブチがあった。それでローズモール(バラのあざ)とした。3頭目は銃弾形の傷がからだにあり、マグジーと命名した。ちょっとワルのギャルっぽい名前。この3頭は夏の間、離れることなく一緒で、いつもともに遊び、ともに災難に見舞われていた。1頭だけでいるところを目にするのは稀だった。このいたずら好きのトリオは、わたしのまわりを興奮気味にホイッスル音をあげながらグルグルと泳ぎ、目の前でホンダワラ(海藻)を落としては、キープアウェー(敵に取られないようにしてパスをまわすボールゲーム)をしようと誘って、追いかけてきたり、不器用な人間の泳ぎぶりを眺めたりしていた。この子たちはすでに少女期にあり、いつも年長のメスイルカと一緒ではなかったため、母親がだれなのか知らなかったけれど、仲間同士の結束の強さを見せてくれた最初の例であり、その後成長の過程でどう変化し、自身も母親になっていく様子を見せてくれた者たちだった。
 水中でイルカの性別を判別するのは、特有の印を見つけるより技がいる。ローズモールがわたしのそばを泳いでいて、回転して腹を見せたとき、2本の乳頭溝が見えた。それで彼女をメスと判断したのだが、もう一度確かめる必要があると感じた。オスのイルカには乳頭溝はなく、ローズモールを追いかけて交尾しようとしているとき、興奮して勃起しているのがわかる。何週間にもわたり、わたしは性器周辺を観察して、個体識別の写真と付け合せ、何度も確認作業を繰り返した。わたしは自分の足ビレにM(male=オス)とF(female=メス)の印を入れ、個体をビデオ撮影する時、足ビレでメス、オスを示した。水中作業での手軽な記録法だ。わたしの取ったやり方は、マダライルカにおいて性別認識の唯一の方法。からだの大きさもほぼ同じで、身体的特徴もメス、オスで変わりないからだ。雌雄の違いを示すものとして、白いくちばし(演壇状の口吻)があり、オスは成長とともにこの部位を発達させる。発情し繁殖期のピークを迎えると、年長のオスのイルカは、腹部に竜骨のような(性器付近にあるこぶのようなもの)を見せ、それは睾丸の大きさにまで膨張する。睾丸はこの時期、2倍くらいにまで膨らみ、腹部の竜骨によりオスは、妊娠したメスのように見えることもある。
 ある日オスの若いイルカの大きな群れが、メスに求愛、交尾行動をとっていたとき、突然、周辺から大きなからだの大人のオスのマダライルカが2頭(シックルとピラミッド)あらわれ、飛び込んできた。大きくなった腹部の竜骨を見せながら、この2頭のオスはすごい勢いで、力づくでそこにいたメスたちと交尾した。「なんてこと、若者たちは先輩たちのために、女性を用意したってこと?」 わたしは驚いた。これって面白いことじゃない。まだ2、3週間野外調査をしたにすぎないが、あの若いオスの群れの行動はオス同士の競争心の誇示であり、メスの観察をしていたのではないかと推測した。このときには、タイセイヨウマダライルカのオスがいつ性的に成熟するのか、知られていなかった。のちの遺伝学的な研究により、群れの中の多くの父親イルカは少なくとも20歳(イルカは50年くらい生きる)を超えていることが実証された。その日出会った大人のイルカたちは、交尾可能な年齢の入り口にいるように見えた。
 懸命に性別判断をしているときに、「イルカの作法」を学ぶ重要なレッスンを得た。それは夏の最盛期のことで、わたしは2、3のイルカたちと水中にいた。1頭のイルカの性別を見るためにそのイルカの下に潜っていくと、別のオスのイルカがやって来て、わたしとそのイルカの間にからだを入れてきた。そして性判別の済んでいないイルカに胸ビレをこすりつけながら、泳ぎ去っていった。のちになってわかったことは、イルカの下で向かい合うようにして泳ぐことは、攻撃的な動作、あるいは交尾への誘いであるということ。わたしは不注意にも彼を誘っていたのだ。これはわたしが最初に体験したイルカの作法で、忘れられないものになった。この過ちのあとでは、ヒトである自分が水の中でどんなメッセージを発しているか、もっと注意するようになった。結局のところ、わたしたちは「彼らの世界、彼らのやり方」の中に身を置いているのであり、それは彼らの習慣を学び、観察することを意味していた。
 浅瀬に錨をおろして蒸し蒸しと暑い日々を過ごしている間に、イルカたちは定時に現れるようになった。朝の7時、11時、午後の4時、ときに日没の頃。彼らが姿を見せると、実り多いイルカたちとの出会いを期待して、わたしたちは即座にフィンとシュノーケルを着けた。エコツアーの新たな乗客たちがやって来るたびに、わたしはイルカへの作法と水中でのヒトのあり方を紹介した。参加者たちは写真データの収集に協力してくれ、ブリッジに立ってイルカがあらわれるのを見張ったり、夜に一緒にその日の探検のビデオを見たりもした。船出に理想的な天候のときは、長い期間、船を錨泊することができた。また大きなうねりや嵐から逃れているときは、日課がこなせなかったものの、浅瀬の別のエリアのイルカを観察できた。退屈したときは近くのリーフまで船で行って、シュノーケリングをしたり、夕飯のためにヒト流の漁の技を試したりした。船では使える水の量が限られているため、からだの潮を落としに港に戻ることもあった。マリーナでサッとシャワーを浴びるだけで、生き返ったように感じた。
 すでにわたしはマダライルカのあらゆる年齢層を見てきた。ルナの子ども、アポロと出会ったが、それにより生まれたときはからだに斑がなく、グレーと白の体色をもつハンドウイルカの子どもと似ていることがはっきりした。生まれたときの「胎児線」をつけたままで、まだ海のことを知らないアポロは、最初の2、3ヶ月間は母親のそばを離れなかった。成人であるルナの4分の1の大きさ(45cmくらい)しかなく、アポロはルナの乳を飲んで過ごしていた。アポロはかなりのおませで、すでに同じ年代の子どもたちと跳ねまわっていて、日常の活動を母親とだけでなく、母親の仲間とも共にするようになっていた。その育児グループの中で、アポロは餌探しをすでに学び、浅瀬の砂地でカレイなどの簡単な漁もしていた。

***

 イルカは様々な音声を発する。噴気孔の下にある複数の空気袋を使って、周波数の変化によるホイッスル音、クリック音、破裂拍音(バーストパルス)などを生み出す。これらの音声は、メロンと呼ばれる頭部前方にある脂肪組織から押し出される。イルカがエコーロケーションのためのクリック音を対象物に当てると、脂肪質の下あごがその反響音を受け、内耳にそれを伝える。基本は哺乳類の聴覚と同じだが、水中で高周波の音や遠く離れたところの音を聞くために特化されている。
 大学院での研究で、イルカは名前のように、特有のホイッスル音をもっていると学んだ。それで署名ホイッスル(シグネチャー・ホイッスル)と言うのだ。ルナは独特の署名ホイッスルをもっており、アポロは早々に母親を識別しただけでなく、自分自身の署名ホイッスルを生み出した。署名ホイッスルは次の三つの状況で使われる。母子が互いを見つけるため、子守りをしているとき、求愛行動をするとき。ホイッスル音は、水中で人間にも聞きとれることが多く、また噴気孔から出る泡とともに発声されることもある。
 署名ホイッスルのバリエーションとして、興奮発声(excitement vocalization)と呼ばれるものがあり、ホイッスル音や破裂拍音の組み合わせで構成される。今日、アポロの声は制御がきかない興奮状態にあり、キーキーとした高ぶった声をあげ、それにケーティが応えていた。ケーティは4歳で、「斑点」の段階を迎えている。イルカが腹部(の内側)に黒い斑点を発生させる段階で、その頃には母親から自立し、年少イルカとして子守りの任務もはじまる。苦痛や興奮による叫び声は、母親や子守りのイルカの注意をひき、それを聞けば興奮状態の子イルカのところに駆けつけて、胸ビレで優しくからだをなでておとなしくさせる。今日これをするのはケーティの仕事であり、的確にそれを実行し、アポロを素早く、すんなりと静かにさせていた。アポロはまた大騒ぎを始めのたうちまわり、ケーティは再度、抑制のきかない暴れん坊の男の子を鎮めるのに苦労していた。すると遠くの方からルナが現れ、自分の子のところへやってくると、胸ビレで優しくからだをなで、すぐにアポロは静かになった。これは母と子守りのイルカが水中で子を鎮める方法を観察した、最初の機会だった。
 わたしの主な目的は、海で暮らすイルカを観察できる場所を見つけることだったが、タイセイヨウマダライルカ(Stenella frontalis)は、年齢により斑の変化が見られることでも、研究に適した対象であることがわかった。わたしが最初にバハマを訪れた頃は、この種のことがほとんど知られていなかった。実際、マダライルカの分類法は非常に混乱していた。現在は、マダライルカの体色や斑の種類はさまざまであっても、同一種であることがわかっている。たとえば、アゾレス諸島(ポルトガル)の深海に住むタイセイヨウマダライルカは、斑がないか少しあるだけである。斑はバハマのような浅瀬にいるマダライルカにとって、光を利用したカモフラージュとして働く。そのため深海にいるイルカには斑がない。元はStenella Plagiodonと呼ばれていたこの種は、今はStenella frontalis(タイセイヨウマダライルカ)とされており、合衆国北東部ニュージャージー州からブラジルまで、北アフリカの海岸からアフリカ中部までの大西洋海域のみに生息している。最初の調査期間ののち、タイセイヨウマダライルカの生涯を通した変化をよりよく反映させるため、わたしはビル・ペリンの斑区分を改訂することを始めた。ビルは汎熱帯マダライルカ(Stenella attenuata)の体色の様式や年齢層を識別する水産庁科学者である。
 ローズモールとリトルガッシュがいっしょに遊び探検しているとき、彼らが年長のイルカから社会性を学んでいるのを目撃した。この子たちが大人になり、自分の子どもをもつのを目にすることができるだろうか、と思いを馳せた。ローズモールとリトルガッシュ両方の子守りであるホワイトパッチスにわたしは出会った。彼女ははっきりとした性的な成熟を見せており、腹部の濃い斑に加えて、背中の白い斑模様が花開いていた。年長の賢いオスのイルカ、ロメオは白と黒の斑が融合し混合斑となった立派な大人で、また群れのリーダー格でもあり、仲のいいビッグガッシュと共に、ホワイトパッチスに求愛行動をとり、彼女と交尾をしようとしていた。
 この最初の夏の間ずっと、個々のイルカの性別を判断することが、その行動を理解するためにいかに重要かを何度も思い返していた。ある日のこと、わたしは年少のメスのイルカ、プリシラが大人のオスであるナックルスの下を泳いでいるのを見た。プリシラは母と子が見せる典型的な遊泳位置(母親の腹の下に子がいる)を取っていた。しかしその日は、大人のオスの下にプリシラはいた。もしわたしがナックルスがオスだと知らなかったら、母子のイルカだと勘違いしたかもしれない。今日はナックルスが、年少のプリシラの子守りをしていたのだ。あまりないことではあるものの、オスにも子守りの義務はときにある。海洋生物学では、オスメスの特定は問題を引き起こしていた。初期のザトウクジラの研究では、母クジラと大人予備軍のクジラを見て、大人予備軍のクジラは世話役のメスであると思っていた。人間にとってうまくできた話かもしれないが、自然界の現実とは違っていた。研究者たちが水中でザトウクジラの性別をきちんとつけられるようになるまで、この話は真実と思われてきた。あとになってその大人予備軍のクジラはオスであることがわかった。メスたちに交尾の機会をつくる、典型的なオスのクジラだった。事実を知れば、いかに実際と違っているかということがわかる。イルカの行動を見るとき、個体の性別をしっかり判別することは、いつも覚えておくべきことだ。
 25年たって、大学院のわたしの生徒たちは、初期の野外調査のわたしの古いノートを見て、考え方やデータシートの変化を笑っていた。とはいえ当時、誰一人水中でこのような研究をしていた者はなく、研究の方法論や情報の集め方は新しかったのだ。それを何年もかけて、わたしは進化させてきた。そこには、繰り返し、高い精度で性別を判別認定し直すことも含まれていた。
 6週間は飛ぶように過ぎ、夏の終わりが近づくと、わたしは大きなお腹をしたメスたちに気づき、この秋には子を産むだろうと推測した。また少し胴回りが大きくなっているメスたちもいて、次の春に出産する者と思われた。その頃には背ビレが千切れているスタビーと出会っていて、それはハーディ・ジョーンズが彼の映像作品でチョッパーと名づけたイルカだった。わたしは若いメスのイルカ、ブレーズにも出会っていた。頭部の大きな白い四角い印(古傷の跡)で認識されていた。大人のメス、左の尾の先端が切れていることで判別できるニッピーとも仲良しになった。彼女の娘ピクチャーズ(熊手型の印といくつかの傷あとでそれとわかる)は、母親のあとをついてまわっていた。6週間の間に、たくさんのことが起きた。
 わたしはイルカたちの特徴をつかって記憶の助けにしていたので、その夏の終わりまでには、たくさんの「切り傷」さん(ガッシュの名のつくリトルガッシュ、ビッグガッシュ)や「マダラ」さん(ローズモール、ホワイトパッチス)、振る舞いから命名された名前のロメオ(人懐こい性質から)などがいた。わたしは写真を撮るだけでなく、フィールドノートに特徴的な印のスケッチもしていた。そのスケッチブックは、野外調査での大切な道具となった。その頃はまだデジタルカメラがなかったからだ(すぐ見たいのに、フィルムをスライドにするのに何週間もかかったので)。もちろん何年かのちには、デジタルの時代が来て、簡単に撮った写真を現地で見ることができるようになった。1980年代には、旅と旅の間にフロリダまでフィルムを持ち帰り、スライドを現像し、それを投影して写真による綿密な識別判定をしていた。今では、院生たちは船の上で夜に、あるいは天候の悪い日の昼に、この作業をやっている。この新しいやり方のおかげで、何ヶ月にもわたる研究室での作業時間やフィルムの現像代が節約でき、野外での調査結果の更新にも役立っている。しかし1985年当時は、紙と鉛筆で満足しなければならず、実際それで十分だった。
 この最初の夏を過ごしてみて、澄んだ水の中で野生のイルカの群れを定期的に観察できるのは、この上なく素晴らしいことであることがはっきりした。実際の海洋ではなかなか成し得ないことだ。しかしイルカ社会の中で、この環境の中でどのイルカがどういう立場かを知るという、しっかりとした枠組が必要だった。イルカたちと自然の中で活動することは、非常に強烈な体験であるため、根拠の薄い推測や仮定を生み出してしまうこともあり得た。わたしは思った。「最低でも20年、野外調査をここでする」 イルカたちの長い一生を追い、彼らの関係性を知り、誰と誰が結びついているかを確かめ、どのようにして、なぜ、イルカたちはコミュケーションをとっているのかを理解したかった。
 水中というのはヒトの住む場所ではなく、イルカたちの世界を覗き見るのは簡単ではない。イルカの動きを捉えて、人間が泳いで追うのは難しい。身を隠したいと思えば、いつでも彼らにはできる。別の海域にも人懐こいイルカがいるのは知っていた。あちこちに単独で暮らすハンドウイルカがいる。でもここバハマには、家族で暮らすイルカたちがいて、人間に興味をもち、水中での観察を可能にしてくれている。こここそがわたしのライフワークの地。1985年にわたしがバハマに来たとき、イルカの調査研究を真面目にしようとする科学者がいなかったのは何故なのか、といつも思っていた。のちになってわかったのは、ここのイルカたちが人懐こいため、調査に客観性を欠く可能性があり、科学者たちの興味をひかなかったのだ。わたしたちはここで、定期的に彼らの野生の行動を見て、理解することはできるだろうか? わたしはできると思ったが、それを証明しなければならない。彼らの住む世界で、彼らの望むやり方で、イルカたちとプロジェクトを組むことができる、とわたしは信じていた。過去の霊長類の研究や人類学の調査で証明されたことやその効力に、ここでまた頼ることになる。従来のイルカ研究の方法論ではないが、成果が望め、野生のイルカの研究における新たな枠組を提供するものとなると感じていた。言うまでもなく、水中で彼らの行動を観察することは可能だ。しかしヒトとイルカ相互の信頼が求められる。
*​この続きは『イルカ日誌』のペーパーバック版またはキンドル版でお楽しみください。

 

(注)本文中に出てくる「マダライルカ」の表記は、原著のspotted dolphinの訳で、特にことわりがない場合、タイセイヨウマダライルカ(Atlantic spotted dolphin:Stenella frontalis)を指します。pantropical spotted dolphin(汎熱帯マダライルカ:Stenella attenuata)など他の種と区別する場合には、学名を添えるなどして「タイセイヨウマダライルカ」の表記にしてあります。すべて原文にある著者の表記に従ってこのようにしました。

プレビュー01

[デニース・ハージング]

アメリカの海洋生物行動学者。ミネソタ州出身。非営利団体Wild Dolphin Projectの創設者。野生のタイセイヨウマダライルカの行動とコミュニケーションの調査研究で、世界的に知られる。

マイケル・グリーン撮影:

©Wild Dolphin Project

タイセイヨウマダライルカの腹と腹を合わせる交尾。メスの下にオスがはいる。年少のイルカたちも、大人になるための訓練として交尾の練習をする。

ウィル・エングルビー撮影:©Wild Dolphin Project

サメは子イルカ、大人のイルカの両方を襲う。ノーズ(ハンドウイルカのメス)は生き延びたものの、傷跡がいまも残る。

デニース・ハージング撮影:©Wild Dolphin Project

イルカたちは触れ合うことでコミュニケーションをとる。遊んでいるとき、仲直りするときなどに、ヒレとヒレ、ヒレと頭、ヒレとからだをこすり合わせる。

デニース・ハージング撮影:©Wild Dolphin Project

リトルガッシュとティンクは魚を捕らえる練習中。

マーシャ・コーテス撮影:©Wild Dolphin Project

*このページのテキストと写真は、2016年10月末に葉っぱの坑夫より出版予定のデニース・ハージング著『イルカ日誌:バハマの海でマダライルカたちと25年』より抜粋したものです。

ペーパーバック版(POD)
発売日:2016年11月1日
価格:2160円(税込)
本のサイズ:156×234cm
頁数:328頁
言語:日本語
ISBN: 978-4-901274-41-8
版元:葉っぱの坑夫
販売場所:amazon.co.jp

Kindle版(amazon.co.jp)
発売日:2016年11月1日
価格:540円
言語:日本語
ISBN: 978-4-901274-42-5
版元:葉っぱの坑夫

 

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