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DISPOSABLE PEOPLE

​ディスポ人間

第32章

 

 さてと、31章のつづきだ。最初にガーネットの息子のことをざっと見てみよう。ここにいるこの子は8歳で、もうすぐ9歳になる。母親はからだで覚えさせるため激しくこの子をムチ打ち、こんな風に教えられるのも終わりが近いと知っている。母親はこの子を教会に引きずっていこうとする。礼儀を教えようと叩く。9歳になるまでに性格を正そうと、ムチで打ち、殴りつけ、蹴り上げ、つばを吐きかけ、道徳心を植えつけようとののしる。その意図をこのチビの悪童は知っているようで、早く喜ばしい9歳を手にしようと急ぐ。そして今そこに到達! セーフ! すべてを乗り越え、そこまで来た。なにものもこの子を変えることはできない。永遠に! この子のママが期待できるのは、最後の頼みの綱である優しく寛容な神さまだけ。で、今、10歳になったこの子はここにいて、地元の少年グループとご機嫌につれだって歩く。

 そうだ、そういうこと、またあとでこの子のことに戻る。

 ぼくの人生で、複雑と思えることと出会ったときは、それを一口サイズに砕いてみる。そうすれば少しずつ、そしゃくしながら考えることができる。以下はぼくが数学のときにやっていた方法で、そこではこれとは違う簡素化や、理解して概念を記憶するための技術をつかう必要があった。サイン、コサイン、タンジェントを例にとれば、覚えるために「コー」「サー」「トー」を使った。

 コー:対辺/斜辺

 サー:底辺/斜辺

 トー:対辺/底辺

こうすることで、複雑なことが簡素化される。

このようなやり方は、他の多くのことにも適用できる。

たとえば次のような方程式に当てはまる。

 

少年は自分の人生はゴキブリだ、と非難を受けるだろうと思ってる。

+ 少年は多くの時間を、ボスマン(ミスター・ビッグ)が毎日、ジューシーなフライドチキンをオフィスで食べているのを見て過ごす。一方、自分は腹をすかせたまま家に帰る。 

+ 少年はブラウンマン(ミスター・マン)が、弟の死と深く関係していると知っている。 

+ 少年は自分には人生の希望などないことを知っている。

ー 他者からの尊敬はなし

ー 自分の家に愛する人が一人か二人のみ

= 純粋で、混じり気のない憎しみ

 

 こんな風にガーネットのことをごく簡単に描いてみた。時とともにわかってきた。なぜぼくらは貧乏のままなのか。なぜ男と女があちこちで寝てすごすのか。なぜ女たちは子沢山なのか。なぜ多くの子どもが学校に行ってないのか。なぜ昔人間たちはオベア、あるいは教会を(あるいはその両方を)過剰に信じるのか。ひとたびこれらのことを細かく砕いていくと、多くのことがより明らかになった。ごく簡単な人生の方程式だ。

 ただ一つ、ぼくが解明できないことは、どのように関係性は築かれるのかということ。実際の人間と? 実際の女性と? そこにあるのは正にロケット科学だ! 人生の目的とは何か訊いてくれ、、、ほら、訊いて。簡単なこと。今日が最後の日と思って毎日を生きること。すべての人を優しさと尊敬をもって扱うこと。微積分について訊いてくれ、物理学について、理論化学について、世界の雑学について、何でもいいから。でもどのように関係性は築かれるのか、については訊かないでほしい。

 わからないんだ、セミコロン、ぼくが子どもの頃にあまり愛を感じずに育ったのが原因なのか、あるいは大きくなるうちに愛に気づいたり、それが何なのか考えたりするための、愛せる人が充分にいなかったからなのか。わかってるのは、自分は関係性の中でいつ愛を与えたらいいのか、その経験が足りない。

 セミコロン、ぼくは男と、女と、犬とさえ心を触れ合わせることができなかった。犬は、もちろん、あてにできない。だから結びつくことができないんだ。

 男については、ゲイと思われるんじゃないかと恐れてしまった。前にもこれは説明した。 

 女についてはセックスの相手というだけ。女と会ったとき見てるのは、のっぽのファック、キュートなファック、逮捕されない年齢に達してるだろうファック、毛深いファック、初めてのブロンドのファック、いいおっぱいのファック、笑顔のかわいいファック、尻でかのファック、チビのファック、爪を磨き上げたファック、いいブーツ履いてるからいい思いができそうなファック、料理上手なファック、上品にビールをもつファック、赤ん坊は6ヶ月過ぎてるからマミーはもうOKファック、気の毒に顔にやけどの跡があるけど、、、でも大丈夫なファック、などなど。心の中では、女の人の歩きかたでさえ、クーチーのレンズをとおして見てる。きつきつパムパム歩き、ククムクム(やせたパムパム)歩き、重量のせいでのろのろ歩き、パムパム太りの太ももこすり歩き、甘くジューシーなパムパム滑り歩き、などなど。いとも簡単に捨てられる巾ひろガニ股歩きの価値のないギャルもいた。行くところどこにでも、悪い癖が取り憑いてくるみたいに、ぼくの寝床に連れていかれて楽しい一乗りするのを待ってる女たちがいた。ともに過ごした女たちには、覚えておくために一人ずつ名前をつけていた。うまいバーガー、太ったバーガー、ヘルシー・バーガー、ジューシー・バーガー、モスバーガー、バーガークイーン、ミーティーバーガー、などなど。

 子ども時代にもっとも愛について学んだのは教会で、牧師のする「ぼくが死ぬまで会うことがないだろう男の話」を聞いているときだった。愛の薄さの行き着く先、それはこの世の墓場だった。

 以下に示すのはその長いもの短いもののすべて。

 

 

1番目の妻

 

  これについては意図的に白紙にしてある。最初の結婚をぼくがしくじったことを、自分がどう理解してるか、反映させるためだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

2番目の妻

 

  これについては馬の口から直接聞いたほうがいいと思うが、ただこの馬の口はすごく臭い。それと今でも見たり聞いたりしたくないことが含まれている。彼女は自分の話をぼくの日記帳に書きつけた、勝手に。2004年6月。

 こんな風に始まる。

 「真実を話すのに、外が暗かったり、雨がふってたり、どんよりしてたりする必要はない」

 こうも言ってる。

 「人生においてどんな地位が用意されていたとしても、村の雄羊になりたいと思うことも、なることもできる。除け者でも娼婦でも不適応者でも心配する必要はない。なぜならその騎手になればいいのだから。乗るものが何であれ」

 そしてこう終わる。

 「あなたはこの地球の浮きカス以上の何ものでもない。あなたに見合ったものを与えてくれる、歯抜けババアに引っかかるのよ」

 2011年8月、ぼくは160センチメートルの火のような怒りに会いに出かけていった。ぼくはなんとか終わりにしたいと思っていた。結局のところ、やってみるだけの価値はあった。人というのは以前と同じように踊ろうとは思わないということ。今ではグーグルで「ライスクッカーでどうやって米を炊くか」を見て、米を炊くことができる。そして奇跡の簡単8ステップを見つけた。ぼくはケンコーK-1のペンを手に成長してきた気分だし、今はアディダスのスニーカを履くのが好きだ。不可能なことはない!

 時代は変わった。

 2011年、ニューヨーク、ブルックリン、ジャマイカ料理店バフ・パティのそば。連続殺人魔の残忍さよりゾッとするほど冷たい彼女の体温とともに、冬はずっと前に去っていた。8月6日のことだった。彼女はそのあたりに戻ってきていて、2ベッドルームの小さなアパートを、不況の影響で安く購入していた。デートしていた頃は、彼女はブルックリンに住んでいたけど、ぼくらはアッパー・イーストサイドにいっしょに移った。セントラルパークの近くで、彼女はそこでジョギングしていた。

 

 ぼくは2番目の到着だった。彼女の友だち、正確に言えば、彼女のママの友だちマーガレット、よく知られた呼び名では「片目のマージー」、もっと正確に言えば「片目イェイェ・マージー」が、ディナーをつくる手伝いをするためと称して先にやって来ていた。

 ぼくが着いたとき、マージーはリビングにすわってブドウを食べながらCNNを見ていた。54歳で、親友のドレッタより2年早く生まれていた。

 マージーは以前に、16歳になるまで誰が本当の母親か知らなかったとぼくに告げた。その頃マージーはすごい田舎、(ジャマイカの)ポートランドのジンジャーハウスに住んでいた。どんな風に会話がはじまったのかよく覚えていないが、彼女が言うには、その女性を16年間毎日のように見てきたけど、自分のママとは知らなかったそうだ。その人は買い物や日曜の朝に教会に行くとき、マージーの家の前を通っていった。マージーの家のベランダにすわっている人を見れば、それが誰であれ、手を振ってきたという。ときにマージーの家の2軒手前のジャーメインという小さな男の子がいる家にも立ち寄っていた。16歳のとき、マージーはジャーメインもその女性の子どもだとわかった。

 両者の家は400メートルも離れていないくらいだったが、どういう理由かその女性がマージーの家に来ることはなかったし、マージーの家族もその人の家に行くことはなかった。初めてマージーとその女性が会話をもったとき、その人は謝りもせず、何の説明もしなかった。ただこう言っただけ。「大きくなって、いい子だわね」 娘の成長を見ての、一定の満足感を伝えるものだった。

 イェイェ・マージーは、41歳のとき、高血圧が原因で片方の目を失明した。最初、(彼女は糖尿病もちでもあったので)網膜にある小さな毛細血管(彼女の発音のせいで「小さなイモムシ」かと思った)が少し出血した。その後、目の中の血管が切れた、というような具合。以来マージーは、もう片方の目が血圧のせいでダムみたいにせり上がってくるのを抑えるため、一日中ココナッツ・ウォーターやデカフェ、緑茶を飲んで過ごすようになった。

 

 ドアは鍵もかかってなくて、ほんの少し開いていたので、ぼくは家に入っていった。マージーがソファーのところからぼくを迎えた。

 「まあなんてご立派な、どこのお方? ミスター・ラブレイスと可愛い痔持ちの登場かしらぁ」 レベッカは人の秘密を口外せずにはいられないタイプ。

 ぼくはいつもしてるように挨拶を返し、意味ありげに彼女を見てこう質問した。「レベッカはおばさんがディナーの手伝いをするんで早く来るって言ってたと思うけど?」 

 「わたしの過失ね」 部屋に入ってきたレベッカがマージーを弁護した。「おばあちゃんがいつも言っていたことを忘れてた。『奴隷を働かせる前に、食べさせてはいけない』ってね。どうしてた、元気、ケニー?」

 レベッカはニューヨークに住んでいるジャマイカ人の知り合いを呼んで、いっしょに食事でもと考えたのだ。一人はサイモンで、CUNY(ニューヨーク市立大学)で教えていて、博士号を取ろうとしていた。自分が博士号にとりかかった年(2006年)に打ち上げられ、2015年に冥王星を観測開始したNASAの無人探査機ニュー・ホライズンズと競争してた。もう一人はジョバンニで、両親が与えたその名は、彼らの期待以上のものを約束していた。彼はニュージャージーのラトガース大学で法律とビールを専攻していた。ぼくはこの二人と、ジャマイカで同じカレッジに行っていた。そしてレベッカと住んでいたときには、よくいっしょに食べたり飲んだりした。

 招待された者はみんな、昔懐かしいジャマイカ式の「ライム(集まり)」にしようと、飲みものか手料理をもってくることになっていた。ぼくはすごくスパイシーな正真正銘のジャークチキンをホイルに包んで持参した。前回、ぼくらがこのジャークチキンを食べたとき、サイモンの頭のてっぺんの教授っぽいハゲ部分に、アマゾン盆地の水量を超える汗が溜まったもの。

 ジャマイカからやって来たマージーは、何も持ってこなかったが、レベッカの蒸し魚と羊肉のカレーをつくる手伝いをしたと思われる。前に記したように、彼女はすでにソファににすわってクラッカーをぽりぽりやっては歯をほじってる。

 レベッカはいつもと変わらないように見えた。ぼくらは、マーサズ・ヴィニヤードでみんながやるように頰にキスをしあった。ぼくらそれぞれが、豊かになる間に覚えた習慣である。

(*マーサズ・ヴィニヤードはマサチューセッツ州の島。聴覚障害者の社会の一つとして知られ、ここ独自の手話があることで知られる)

 

 ぼくは、彼女のことを愛していると信じようとしていた。そして何がぼくに起きたのかと言えば、急に病気になったのと似てる、と思う。5ヶ月間、問題なく健康でいたのが、突然流感にかかった。すると誰かが、流感の季節がはじまったんだ、とぼくに教える。ぼくに起きたのは、周期的に訪れるテレビを見過ぎたときとか、道でカップルが手をつないでいるのを見たあととかにやってくる、衝動のようなものだった。

 

 レベッカは人差し指でキッチンを指した。ぼくは持ってきたチキンをキッチンに運びながら、リビングの方に声をかけた。「最近はどうしてるんだい、マージー?」

 マージーはぼくらの結婚式に来たけれど、親しいつきあいがあったわけではない。彼女はドレッタとレベッカと親しかった。マージーはぼくの手伝いをしようと、後からキッチンに入ってきた。

 「あのね、むかしむかし、ママがあたしとスーザンに言ったの、なりたい者なんにでもなれるのよって。それからスーザンに訊いたの。あんたは何になりたいのって。あの子がなんて答えたかわかる? こう言ったの。アタシ、ユダヤ人になりたい。今じゃあの子は自分がなりたかったものがよくわかってるはず。今どうしてるか知ってるよね。あの子は泥みたいにお金をもってる。あたしは自分が何になりたいかなんて、考えなかった。今もそう。つまり、あたしは今、正式な<専業主婦>ってことなのよ」 <専業主婦>と言うとき、マージーはさも得意そうに、それがレジ係りや仕立て屋、無職よりずっと 上のような言い方をした。

 どうして「この専業主婦」が最近、自分の顔を漂白するのに夢中なのか、ぼくが訊ねることはなかった。

 ぼくがキッチンに入って最初に耳にしたのは、上の階で家具を引きずる音だった。耳にいやな音が響いた。それから掃除機の音が聞こえた。レベッカに、いったい誰が夜の6時に掃除機をかけてんだいと訊ねた。レベッカは上の階を指して、そこの人が男の掃除夫をやとったんだけど、その人が仕事をおそろしく長くかけてやる、と言った。

 「男ってのは女とちがうやり方をするでしょ」とレベッカ。「彼女は本で、彼が掃除機とか。どっちが掃除機をつかってるにしても、実際にやってることを隠すための音なの。彼女は独身だし、あいつ以外にあの部屋に入った男は見たことないんだけどね」

 キッチンは狭かったけれど、清潔できちんとしていた。カウンターに砂糖とレモン、そして水の入ったピッチャーがあるのが見えた。彼女がぼくのために用意したんだとすぐに察知した。レベッカがぼくの目をとらえた。

 「あなたがあたしに何もいいことをしてくれなかったとしても、レモネードだけは別よね」 おそらく彼女は正しい。

 ブルックリンのそこら辺の店で、質のいいブラウンシュガーを見つけるのは簡単じゃなかった。権力者というのはいつも、質の悪い砂糖をガイアナやハイチからブルックリンに送り込む。良質の砂糖は、有機栽培とか自然食品とかの名目で、ウェストチェスターの自然食品店のために残しておく。ぼくの心をよぎったのは、ぼくの曾々じいさんが鉈を手に、頭を芋のように焼かれながら、さとうきび畑でどんな思いで死んでいったかであり、死の直前に、健全な有機栽培のサトウキビのことを、それが何世紀も先に、アッパーイーストサイドの人々にどのように栄養をもたらすことになるのか、考えたりしただろうか、ということ。

 マージーは自分の一杯をつくると、キッチンの流し台の方にやって来て、窓辺にある花をほめた。

 「この花ってほんものなの?」

 「そうよ、ほんものに見えない?」

 「いや、あたしちょうど造花の花を植えてみたところだから。きれいだからね。造花のほうがきれいなことってあるのよ」

 「植えるってどういう意味? 土に?」

 「土だとほんものらしく見えるでしょ」

 マージーの家に行ってみたいと思ったことなどない、ぼくは。レベッカにレモネードや他の飲みもの用に、氷が充分あるかと訊いた。レベッカはオーブンの隣りに置いてあるイグルーを指した。かつて彼女の舌が鋭敏に果てしなく揺らされた日々があり、火山を内に秘めたままからだが盛んに話しかけてきた日々があった。今は彼女の指が口をきく。

 痩せっぽちのニッガが、アパートの正面に向かって歩いてきたとき、ぼくはピッチャーに砂糖を入れていた。レベッカの部屋は一階上で、キッチンの窓から建て物の入口がちょうど見下ろせた。そいつは短パンをはいていて、鳥みたいに細い足をむき出しにして、この鳥を撃つ季節に歩きまわることの危険性(鳥と間違われる)にまったく無頓着だった。背丈3メートル、体重100グラムくらいに見えた。ジョバンニが犬の前を通り過ぎると、その犬はさっと耳をそばだて、それからまたゆっくり夏の夕方の太陽を浴びはじめた。と、その背後からサイモンの姿が現れた。パープルの靴、黒と白の縞のパンツ、黒と白の水玉のシャツ、明るいオレンジのスカーフ(夏だというのに)、中折れ帽にサングラスという出で立ち。カレッジ時代から知っているけど、みんなサイモンが「かわいい」と思ってた。でもゲイじゃない。

 ぼくは質問が来る前にそれを予期していた。「こんばんは。あんたたちどこに行くんだい?」 聞き取れるほど近くにいたわけではないが、何が発せられるか、正確な言葉でわかっていた。

 以前にレベッカはメールで、老人が一人住んでいると言っていた。その男にぼくは会ったことがあった。年は65歳で、気持ちのいい笑顔の持ち主だった。男の質問に当惑したけれど、警戒心は湧かなかった。みんなこの老人に危険はないと思っていた。男は入り口のところで、3階の自分の部屋から持ってきた椅子にすわっていた。食事のときと、娘が夕方7時に仕事から帰るときだけ、部屋に戻った。レベッカが言うには、老人は無料でアパートの見張り番をしているそうだ。何か犯罪が起きても、力はなし、電話もなし、武器もなしだけれど、何か起きないかと見張ってる。男の妻は白人女性で、18年前に出ていった。老人はレベッカに、妻は再婚してニューオリンズに住んでいて、無料食堂でボランティアをし、修道女をアルバイトでやり、今はスワッッピングに興じてると話したようだ。

 老人はすべての来客に同じ質問をした。「どちらまで?」 出かける人には「どちらからいらっしゃった?」 この二つの質問は、同じ答えが帰ってくるかどうかをテストしているわけではなかった。訊かれた人たちは、なんと、どう答えるべきか迷った。

 レベッカはまた、背の高い、色の浅黒い老人の息子のことを話した。「ほら、あのスリランカのスピンボウラーみたいな、なんて名前だったっけ?」 ムラリタラン、とぼくは知っていた。レベッカがクリケット選手で唯一名前を知る男で、それは以前に彼の並外れたスピンを彼女に教えたからだ。以来、あらゆる肌の浅黒いインド人、パキスタン人、スリランカ人、バングラディシュ人、ネパール人はムラリタランに似ていることになった。老人の息子は来ては去っていき、上にあがっていく前に、老人にタバコを渡すこともあった。連れがいることもあり、たいていは女性だった。パーソンズ/アーチャー駅行きの地下鉄E線で、真夜中の1時に家に向かっているとき、レベッカは一度息子の姿を見たことがあると言った。息子はレベッカに気づいたようだった。連れている娘は見たことのない子で、乗っている間じゅうペチャクチャやっていたが、息子のほうはほとんど口をきかなかった。いつも白人の女の子を連れてるのよ、とレベッカ。彼女の見たところ、息子は「列のずっと後ろのほうで延々と、理解されるのを待っている男、あなたみたいにね」のようだった。 

 ぼくは玄関の方に行って、4年以上会っていない昔の友人たちを迎えた。ぼくに最近あったことを彼らは知らないんじゃないか、と思った。レベッカとぼくが離婚してから、長いこと会ってなかったので。レベッカはおそらくそのことをしゃべってないだろう。

 まったく変わってないな、と思わさせられたのまずはサイモンだった。

 「クソったれケニーよ、久しぶりだなぁ。いい暮らししてそうに見えるぞ。腹が出てんじゃないか。妊娠でもしてるのか? ふとっちょのパムパム娘にいいもん食わせてもらってんのかい。今どこに住んでる?」

 サイモンのしつけはオムツがとれたところで終了していた。両親は品位だの礼儀作法だのに頓着しなかった。いつも口汚くしゃべった。最後に彼と会ったときは、自分の車は修理工場で、ユーホールのトラックで家まで運転していた。そのとき言っていたのは、引越ししてるわけじゃないけどユーホールのトラックをレンタルしてるのは、普通の小型車(30~40ドル)より安い(19.95ドル)からだ、自分の車が使えない間、必要だから、とのこと。 

 「おー、ケニー、どうしてたんだ?」 ジョバンニはジョバンニ、変わってない。

 ぼくらは抱き合った、ジャマイカスタイルで、黒人のブラザーがやるように、男同士がやるように、ゴロツキ同士がやるように。そしてゾウの知能をもつジョバンニは、そこで中断していた会話を再開しはじめた。

 「だけどさ、もしどっちの政府が何をしたか言いたいならば、サイモン、おまえの支持政党が高校入試の審査レベルを2から3に落としたのを、思い出してくれるよう頼むね。まったく低の低、酷いもんだよ。ジャマイカにしたことで最低のことじゃないか。おバカな労働党だよ!」 

 「ジョバンニ」とサイモンが口を挟んだ。「おまえが覚えてることはな、前に会ったとき、豚のしっぽを食べたことだけだろが、それしかない! いいか、言わせてくれ。マイケル・マンリー(ジャマイカ人民国家党の党首)が政権についてたときをみろ、、、」

 「なんなのそれは? かあさんのためにみんなで豚でも飼ってるの? 作法を忘れちゃったの?」と言ったのはレベッカで、以前と同じ口ぶり。サイモンとジョバンニはレベッカに挨拶する。笑いながら。レベッカ、レベッカと。

 

 ぼくは一度彼女をキューバに連れていったことがある。2006年3月21日のこと。彼女はぼくと一緒にヨーロッパの出張へ、それより前にはアメリカのある都市に行ったことがあったけど、その旅はまったく違うものだったし、全部ぼくの持ち出しだった。それはぼくらの記念日だった。ぼくらはコンセルジュが勧めたレストラン「エル・ティブロン」まで、ホテルから歩いて向かっていた。そこはプライベートな「お忍び」レストランと呼ばれるような店だった。ぼくらは2回目の結婚記念日を迎えていた。ぼくは懸命に他の女の子から目をそらすよう努めていた。前にぼくの友だちが、なぜピザを食べるためにイタリアまで行くんだ、と訊いてきたことがある。

 ぼくらのディナー:「エル・ティブロン」の看板があり、ワインキャビネットにはずらりと60本くらいのワインが寝かされていた。かつてここでライブを行なったシルビオ・ロドリゲスの言葉。子ども時代の思い出。シェイクスピア、ダンテ、カルロス・ルイス・サフォン、バウンティ・キラー、ビーニ・マン、シャギーからの素晴らしい引用。壁を這う虫。椅子に刻まれたエッチング。ブッダの教え。よそのテーブルからの笑い声。ウェイターのつけているエプロン。この店を訪れた客の写真。彼女のジプシーっぽい腕輪とリングを見る目。彼女は自分の指とリングをじっくり吟味、婚約指輪を友人たちに見せるときのように手をかざして、そして右手の指につけかえてみる。長い時間、リングを見て過ごしていた。彼女はジージャンをはおっていて、開いた胸のところに小さなペンダントと明るいブルーのドレスが見えていた。フォークとナイフがぼくらの家族みたいに、テーブルの上で鎮座していた。彼女はときどきそれに触っては、動かしたりしていた。サングリアを飲んでいて、レモンやリンゴ、オレンジのスライスを見つめていた。自分のバレンタインはとても簡単、と彼女は言っていたことがある。ネスクイックチョコ二つと笑顔があればいいと。でもぼくらがそこに座っている間に、ロマンスは湿っぽく、かび臭くなった。

 レベッカはゆっくりとサングリアを飲んでいた。フォークで中のフルーツを取り出していた。

 ぼくらの会話:

 「あたしの妹が9歳のとき、レイプされそうになったの知ってるわよね」

 「知らなかったよ。どうなったの?」

 「サングリアに何が入ってるかわかる? 赤ワインとフルーツは別にして」

 「ブランデーを少し入れたんじゃないの?」

 「ラム酒じゃないかしら。あたしはブランデーは買わないけど、家に戻ったら試してみたいわね」 彼女は一人称単数でこれを言った。

 

 「でもジャマイカ料理が最高だって、知ってるよね」 豚のしっぽの話が、これから囲む食事にマージーの注意を向けさせたのは明らかだった。

 常に弁護士を気どるジョバンニは、みんな自分のところの食べものが最高だと思うものだ、と言った。

 サイモンがそれに対する反反論を試みた。「じゃあバルバドス人は、心から自分とこの料理が好きだと思ってんか? あいつらは自分さえ好きかどうか」

 レベッカは変わらず。ぼくらがおしゃべりしている間も、あれこれこっちに動かし、あっちに動かし、テーブルを整えるのに忙しい。みんなは自分で酒の用意するようキッチンに招き入れられた。誰も水をほしいとは言わなかった。

 「バルバドスなら、今じゃ発展した国だって言われてるの知ってるだろ?」 ジョバンニがキッチンに行きながらそう訊いた。

 「それで得たものといえば、醜さと不快さってわけかい?」とサイモンが薄笑いを浮かべて答えた。

 「なんで彼らを醜いとか不快とか言うんだい? バルバトス人の知り合いでもいるのか?」 

 「知り合いがいなくたってわかるさ。話はよく聞くし。バルバトス人について人が言ってることは本当さ、なぜなら嘘をつく必要などないからさ」

 「あのな、彼らは今や発展した国だ、ジャマイカなんか及びもつかない」

 「あれが発展した国っていうなら、おれは自分の人生あともどりして、文盲になるよ。あいつらに音楽があるか? 文化があるか? 何もないだろ」

 「だけど彼らには金がある」

 「いいかジョバンニ、なんの精神疾患か知らんが、脳の移植でもするんだな」 

 この二人のお決まりの会話だ。残りの者はみんな外野席にとどまる。

 ぼくはビールを取りにいって、レベッカとキッチンに残った。マージーはリビングにいて、ときどきオーブンの魚の焼け具合をみている。サイモンとジョバンニはビールをもって、ダイニングテーブルについた。

 レベッカは髪を切っていた。彼女はいつも髪型を変えている。一度ドレッドにしていたこともある。

 

 ぼくはレベッカに真実を言おうと決心したが、途中でやめた。代わりにぼくは「利益」をとり、時間が流れるままにした。新しい友だちをつくり、新しい場所に行き、新たな義務を自分たちの名のもとにつくった。キューバはある意味、ぼくらにとって転換点となった。

 

 「ジャマイカはもっと発展できていたはずだよ、62年の独立のときにカリブ共同体に参加してたらね」 ジョバンニがテーブルの向こう側から声をあげた。

 「何に参加するって?」 サイモンがこちら側からあざけるように返した。「おまえ狂った子猫の小便でも飲んだか? EUで今なにが起きてるか見ただろう? 弱小国が強い国にやられてんのを見てんだろ」

 「あたしはよくは知らないけど、あんたたちみたいに教育がないからね、でも80年代の首相のシアガは正しかった。ジャマイカはカリブ共同体に入るべきじゃなかったのよ」と言ったのはマージー。

 「みんなマイケル・マンリーがやったことを理解してないんだ」とジョバンニがいきりたった。「あの男にはビジョンがあった。いいかい説明するよ」

 「あんたがあたしに何を説明しようって?」とマージーが返した。「あたしの知る限り、マンリーはたいしたやつだったかもしれないけど、いい指導者ではなかったってこと。あいつは人を外に追いやって、残りの人で国を治めようとしたの。シアガは最高の閣僚だった」

 「シアガか、シアガがなんだって?」 サイモンがさえぎった。「あの男はとんでもない盗っ人じゃないか。言ってることわかるか? シアガはジャマイカ最悪の首相だよ」 アプルトンのラム酒を3杯もおかわりするうちに、サイモンは持論に確信をもち、考えが明快になっていった。

 「これは何なの?」とマージー。レベッカの指示でぼくは料理を2、3品テーブルに運んでいた。それを見てマージーは関心を向けた。もともとこんな議論に興味がなかったのか、食べものに気を散らされたのか。

 「スイートタマリンドだよ。タイから輸入されたもの」 ぼくが説明する。ぼくが持参したものだ。

 「ジャマイカはあたしの愛する国、知らない果物は食べないよ。それに甘そうじゃないし」

 レベッカがうしろに来て、皿を手にしていた。

 「人は羽がないし、空は飛べない。でもおばさんは雲の中をとおってここに来たじゃない」 レベッカが返した。

 サイモンはそれに口を挟みたいようだった。「マーガレット、あんたのことはよく知らないけどさ、あんたが言ったことよりもっと妥当な考えをもつ人たちを火あぶりの刑にしたという事実を言っておくよ」

 会話はつづき、ジャマイカからのフライトやジャマイカ航空が売られてから、どれだけ事情が変わったかなどが話された。レベッカとぼくはテーブルを整えた。みんながテーブルに揃うと、マージーがお祈りをはじめ、その中でシアガのような首相が授けられるよう神に頼んだ。

 みんなが食べはじめて少しして、ぼくはジョバンニがジャークチキンに心を傾けているのに気づいた。彼の方を見るたびに、ジャークチキンがその口に飲み込まれているのが目撃された。

 レベッカはひとりで充分やっていけているようだった。2ベッドルームのアパートではあったけど、広々としていた。もっとアップタウンのいいアパートに住むことができそうだったが、いつも彼女は倹約家だった。眠る場所があって、家族の写真をかけられる充分な壁があればよかった。壁にはたくさんの写真がかけられていた。ぼくのものはなかった。

 ジョバンニはジャマイカへの飛行の話をつづけていた。おそらくずっと帰っていないのだろう。

 「で、あっちは最近どうなの、マーガレット」と訊ねた。

 「あのねぇ、ジャマイカはいまもいいところよ。ただしお金を手にするのは大変。何も新しいことは起きない」

 「豚農場があるって聞いたけどね。それでみんな一財産つくってるって、違うの?」 ジョバンニがネットで読んだジャマイカ・レポーターの記事やラジオ局の情報をもとに訊いた。

 「知らないわね」とマージー。

 「あと家を買ったり、修繕して売ったりできるって。政府が譲渡税を下げたから、みんな家を売ったり買ったりはじめたとか。ぼくの知ってる女性が、、、」

 サイモンが二人の会話に口をはさんだ。

 「いいかな、聞いてくれよ。みんな聞いて。みんなに説明するのが国民として義務だからね」 最近サイモンはジャマイカに帰って新情報をもっていた。「一番いま金になるのはチキンの背肉のライセンス契約なんだ。おれが言ってたって誰にでも言ってくれ」 サイモンはそういうと親指で胸を指し、自信のほどを見せた。「これはおれが聞きかじったことでも、誰かに言われたことでもない」 そう続けた。「おれは事実として知ってる、1ヵ月に20万ジャマイカドル以上稼げるんだ、ライセンスがあればな」 ジョバンニはそれが米ドルでいくらになるのか知りたかったが、サイモンは自分の講義に集中していた。「コンチはいいんだが、ライセンスを取るのが難しい」

 「ジョバンニ、2500米ドルくらいになるわね」 レベッカが口をはさんだ。

 ジョバンニが聞き耳をたてた。

 「そりゃいい金になるな。どうやってライセンスを手にしたんだい?」と質問をする。

 サイモンはそれに答えた。

 「首相がライセンス授与を管理してる。だけどおれにはいい友だちがいてね、覚えてるだろ、アーサーのこと。ケニー、カレッジで一緒だったアーサーのこと、覚えてるだろ?」 ぼくはうなずいた。ジョバンニも覚えていた。「こういうことだ、アーサーは繋がりがあるんだ。首相と友だちでね。労働党員にするように、みんなにライセンスをやったんだ」

 「ほらな、言っただろ。ひどい腐敗以外のなにものでもない」 ジョバンニはどうみても、今もこれからも人民国家党支持者だった。その発言はサイモンの血圧をあげるのに効果的だった。

 「ジョバンニ」 サイモンが断固とした口調で言った。

 「なに?」 ジョバンニがとぼけた顔で答える。

 「ばかなことを言ってる暇があるもんだ。ちょっと言わせてくれ。労働党支持者が食べものを口にするまでに17年の年月がかかったんだ。17年だぞ、あの汚い臭い人民国家党の社会主義者たちが自分たちだけ太って、労働党は腹を減らして道を歩いてるときにな*」

 レベッカが話の雲行きを感じて、二人の会話を穏便にしようと口をはさんだ。

 「でもライセンスをとって、肉を手にしたとして、どこにそれをしまっておくの? チキンの背肉とかどこに保存するの?」 レベッカが訊いた。

 サイモンはまだ怒りが収まらないようではあったが、穏やかに自分の知識を分け与える方を選んだようだった。

 「港で冷凍庫を借りれるんだ、ニューポートのような場所ならね」とサイモン。

 「アーサーがやってるって?」 言い争いを遠ざけようと、ぼくも口をはさんだ。

 「そうだ、あいつは山ほどのライセンスをもってる」

 「で、自分で稼いでいるってわけ?」

 「それどこじゃない、浴びるほどだ。あいつは信じられないくらいの金を稼いでる」

 「あたしはその人のこと知らないけど、稼いだお金を賢くつかってほしいものだわね」 レベッカが言った。

 「おや、アーサーを知らないの? あいつは45歳目前だ、ぼくらより年上だからな。でもあいつときたら、車だの漂泊クリームだのを女たちに買ってやってる。あいつが言うには、友だちの一人に金をやってとっとくようにってさ。残りの金はベッドのマットレスの下か、家のどこかに隠してるらしい」

 「ひどいアホだな!」 ジョバンニが声をあげた。「バカとそいつの金はすぐにわかれわかれだ」 ジョバンニはサイモンをまた怒らせる糸口をみつけた。

 サイモンはさっきからジャークチキンの足に吸いついていた。右頰の少し下、右目と喉仏の中間あたりに傷があって、それはジョージーがパパに顔をなぐられたあとできる腫れと近い位置だった。ジョージーのパパは左利きだった。顔をなぐるのが好きで、小さな面を鋭く打つのが好みだった。1970年代になって、背の低い、左利きの男の残忍さは底なしだと人々が気づいて以来、左利きの男の残忍さと競えるものはないと、地方の人間は思ってきた、とぼくは知っていた。おかしなことに、今のアメリカ大統領は左利きだが、彼に邪悪なところを見るジャマイカ人はいない。

 「だけど向こうに帰ったら何するつもりなの? いつまでも姉さんの金をあてにすることはできないでしょ」 レベッカはそのように口をはさんだ。マージーが無職でいれば、いつまでも自分のママ(ドレッタ)に、マージーに金を送るよう自分(レベッカ)が言われることを承知でそう言ったのだ。

 マージーは質問の意味を深くとることなく、自分がどれほどの窮地に立っているかを話しはじめた。マージーは、コンスタント・スプリング通りにあるモールの中に、小さなレストランを開いた。姉のスーザンが元手を出してレストランを買い取った。マージーに課せられていたのは、月末にテナント料を払った上で自分の取り分を残せるよう、しっかり稼ぐことだった。モールのオーナーである白人の金持ちの男は、片目のマージーがそのあたりをウロウロするのを目にするまで、レストランを買ったのが彼女だとは知らなかった。それを知ってから、オーナーはマージーを困らせるようなことをはじめた。賃料を上げ、レストランが「レベルに達してない」ことを指摘し、マージーに店をある男に売るよう言ってきた。そうすれば店は投資価値をもち、自分の期待するレベルに上げることができると思ったのだ。そしてマージーに、モールをもっと高級なものにして、最高の質の店やレストランだけを入れたいと話した。

 「オーナーは醜い黒人女に店をやらせるなんて思ってもなかったんだよね」 マージーはそう言って、店を売ったことを認めた。

 「白人てやつはかわんねーな。あいつらは黒人が何かできると思ってやしないんだ!」 ジョバンニが苛だちを見せた。

 これは便利でつかえる結論だ。マージーは、自分の黒人の父と母も同じ状況にいたし、また彼らもマージーに何一つ期待することはなかった、と付け加えることもできた。しかし真実というのは、油が水面に浮くように常に現れるものではない。

 

 ジョージーについても、誰かが何かを期待することはなかった。母親も、父親も、友だちも、白人、茶色い肌の人、黒人も、、、誰も。

 

 「だからマイケル・マンリーは、同等の権利、あらゆる人を公平に、と言ったんだ」 そうジョバンニがつづけた。

 「ジョバンニ」 サイモンの血がまた沸騰しはじめた。

 「なに?」

 「どんだけくらだないことを言えば気がすむんだ。ファック野郎が、マンリーは糞だ!」 

 「あら、あたしは彼と一度くらいやりたかったわ」 マージーが茶々を入れた。

 「あたしが見るかぎり、あんたたちみんな、黒い犬をサルと交換させようとしてる」 レベッカが、今まで見たことのないやり方で、自分の生まれ故郷から距離をとってそう言った。ぼくは彼女と同じ考えを共有していた。二つの政党と首相は、国に対して同じような影響を与えていた、という。

 ボブ・マーリーの「ワンラブ」がかかっていたけれど、誰もその祈りの歌を聴いていなかった。

 「あんたたちはマンリーがどんな指導者だったかわかってない。あいつはオバマとおんなじだ」 サイモンが言葉をつづけた。

 「いまじゃあいつはもう一人のたいしたアホだわ。見映えのいい黒人男なのよ!」 マージーは、「年とって醜くて背の低い、貧しくて、言葉を持たない、片目の女版」の自分のようだった。

 サイモンがそれを聞いて、新たな話の糸口をみつけた。「マージー、あんた男が必要なんじゃないの。どうしたんだい、一人もいないのかい?」

 「あのね、あたしをいいと思う唯一の男ってのはね、ペットショップに行って3本足の犬か目の見えない猫を手にするようなやつだけ。それに最近じゃあ男を見つけるは至難の技なの、あたしの住んでるとこじゃなおのことね」 ぼくはマージーの正直すぎる物言いに驚かされた。

 マージーは右手の人差し指で、右の眉をなでた。「ここがあたしの唯一の美点なの」と示しているかのようだった。

 「もし男を探そうというなら、池から離れて川にいかなくちゃ。そこにはもっと魚がいるからね」というのがサイモンのある意味まとを得たアドバイス。

 マージーは淀みなく素早くそれに答えた。「あんた、あたしに看守になれって言ってるわけ? 最近じゃ、黒人の男をたくさん目にできるただ一つの場所、それが刑務所なの。あたしはその手の魚を探してるんじゃない。最近あたしが話をした黒人の男たちはみんな、役立たず。あたしが家や貯金をもってるか聞きたがる。少し前にクィーンズで出会った役立たずのジャマイカ男は、401kみたいな年金があるか聞いてきて、服にアイロンをかけたり髪の手入れをしてやるっていうの。冗談じゃないわよ! いーい、あたしはね、人生のこの時に及んで食べさせてやる男を探してるんじゃないってこと。で、待ってんのよ。会場も、牧師も、教会も、ドレスも、パーティのメニューも、招待客のリストもすべて準備済み、あとは適した男を見つけ出すだけ」

 そして、この理解しがたい宇宙の法則の話の最中、ジョバンニが声をあげた。「くそっ。カレーのヤギがおれのシャツに飛び出しやがった!」

 サイモンが何か言おうとしたが、レベッカがそれを遮って言った。「ジョバンニ、あなたの感謝の念のなさは心配の種よ。自分が着てきた服に何かプラスしてここから帰る、それに不満があるわけ?」

 クスクス笑いが起きた。マージーの無分別な男探しと最近のデートの体験話は、レストランなき後の未来とともにすべて忘れられた。ジョバンニのカレーの話で、食卓は食べものの話題に引き戻された。

 ジョバンニがとっかかりをつくる。「ヘルシアで魚料理やロブスターが一番なのは、今もスクリーチーなのかい?」

 西アフリカの人たちは、故郷を離れるとハエや蚊、停電を懐かしがる。ぼくらジャマイカ人は音楽と食べものだ。ジャマイカ人が集まれば、いつもどこの何が一番かが話題になる。記録によれば、ミドルクォーターは今もペッパー・シュリンプ、フェイスペンはアキ&ソルトフィッシュとローストしたパンノキ、ポートモアのケンズならヤギのカレー。ボストンジャークは今じゃひどい有様。

 サイモンがあざ笑った。「50年もジャマイカに帰ってないみたいだな、おまえ」 サイモンはことごとくジョバンニに対して、最近の情報で圧倒しようとしていたが、そのときマージーが嵐を起こそうとしていた。

 「ジャマイカで起きたことだけどね、ハノーバーで二人の女の頭が切り落とされた話、聞いてるよね。二人のうち一人は年配の女性で60代の人、自分の家のベランダにすわってた。クソ恐ろしいやつが、後ろから襲ったんだよ」

 レベッカがぼくの方を見て、慰めの視線を送ってきた。彼女は、ぼくが12月にジャマイカに帰ったとき起きたことを知っている唯一の人間。

 つづく会話の中で、サイモンもその事件のことを知っていて頷いていた。「世の中変わったよな」と静かに言った。彼はそれを、今や世界中の人々が大挙して、自分たちの政府を臆面もなく転覆させている(男たちは望むだけの妻を手にし、子どもたちはジントニック・ビジネスをするためにフリーダイアルを設置し、聖職者は自由に聖歌隊の少年をものにできる)ことを思って語るような、悲しげな小さな声で言った。

 2、3ヶ月前に起きた事件が会話の中心となった。レベッカはときどきぼくの方を見ていた。

 そしてそんな風にその夜は、ぼくらの人生みたいに、過ぎていった。

 10時45分に、みんな帰っていった。ジョバンニはペンステーションからニュージャージー行きの最後の電車をつかまえなければならなかった。

 みんなが帰ったあと、ぼくは残って片づけの手伝いをした。またレベッカと二人になるのを待っていた。

 ぼくらはしばらく口をきかなかった。二人がそれぞれ冷蔵庫にものをしまっているとき、からだが触れ合った。

 「気まずくない?」 彼女は片づけを続けながら訊いてきた。「レベル1からレベル5の気まずさで、1が一番低くて、たとえばあなたの奥さんが、あなたのよく行くバーにあなたを誘うというような。5は一番高いの。そのバーであなたは友だちとばったり会う。するとその友だちは、これは本物の妻だとあたながわからせようとするのを笑うわけ。どう収まるかしら?」

 レベッカはいつもこんな風にものを言った。答えなどないとわかって、質問をしているような。

 

 ぼくはずっと長いこと、暖かな女性の股間の感触なしには7日間も生きられないと思ってきた。今ぼくにわかるのは、自分が求めていたのはそのときどきの会話の楽しみと、ワインのひとすすりだったということ。ぼくの隣りでときどき、一夜を過ごす誰か。朝の光で目を覚まし、木々でさえずる小鳥の声を聞き、風がやさしく窓ガラスをたたく音に気づく、そんな素晴らしさを見つけたんだ。ナイトクラブの灯りで輝いていた女性の美しさを朝の光が汚す前に、送り出さねばならないような女ではない人だ。

 レベッカは今は気を許して本心を語るようになった。ぼくと彼女は2000年にアトランタで出会った。最初の妻と、その後つきあった何人かの女ともだちとの間の出会いだった。レベッカはジャマイカ人で黒人だった。彼女のパパは女をたぶらかす甘口の怪物で、それでドレッタを誘惑した。アメリカに住んでおり、レベッカの居住許可を申請した。ぼくが会ったときには、レベッカはアトランタの市民だった。仕事熱心で、家にテレビを見に帰る生活で、まともな生活を歩みはじめていた。ぼくとの遠距離デートを2、3ヶ月したのち、レベッカは持ちもの全部を箱に詰め、期待を胸にブルックリンにやってきた。その大移動ののちに、3年間の結婚生活を終わらせるといった、つらく厳しい決断があった。

 

 「あたしたちがセックスしてるとき、あなたの顔っていったら、、、、、車の修理工みたいだったわね」 レベッカはその言葉の間で、何か聞き取れないことを言った。ぼくが彼女に愛を感じてなかったというようなことではないか、と推測した。

 「あなたがやっていることの対象物みたいな感じよ」

 これにもぼくは答えることができなかった。

 「ケニー、あなたは早死にするんじゃないかしら」

 奇妙ないいがかりじゃないだろうか。でも意外な指摘だと言ったら、ウソをついたことになるかもしれない。彼女はいつもこんな風だ。

 「なんだそれは? どうしてわかる?」

 「グーグルでどうやって人のオーラを読むか調べたのよ」

 「誓おうか、、、きみはきみのママよりずっと変わってるんじゃないか?」 そう尋ねた。

 「自分の一生を愛すべきヤギを探して過ごす男ほどには変わってないわ」

 「どこからそんな話を仕入れた? どんないかがわしいタブロイドで読んだんだ?」

 「どこでも読んでも見てもないわよ。でもそういう類の人間がいることを知ってるの。この世にはいろんな人がいるんだから」

 ぼくは何もせずに数分間そこにいた。レベッカは洗い物をしながらしゃべっていた。ぼくはただそこに立って、見ていた。すると彼女も手をとめた。彼女は壁に向かうシンクの前に立っていた。ぼくは彼女の背後、冷蔵庫の脇にいた。レベッカが肩越しにちらりとこちらを見た。

 「あなたに起きたことはとても気の毒に思ってる」 ぼくに背を向けたまま、そう言った彼女の声はわずかに震えていた。あのことが起きて2、3日後に電話をくれたとはいえ、彼女がなんと言ったらいいか言葉に窮してるのがわかる。いろいろあったにしても、彼女の同情は見せかけではないとわかっていた。

 彼女に告げたかった。あの日以来、ぼくの日常は胃酸過多で、シングルモルトウィスキーの味を求め、長時間の散歩と花を植えること、何も入ってないヌードルスープを食べ、アスピリンを飲み、ジャズピアノだけを聴き、暗い部屋で一人すわっている自分に気づくと、ウィスキーの神さまと話していることを。でもぼくは知ってる、この地上でのぼくらの生のように、ぼくらが感じる苦悩はつかの間のものだ。時とともに薄れていく。そしてぼくらの肉体がそうであるように、徐々に違う形に変わっていく。無感覚に、あるいは穏やかなすすり泣きに。

 でもぼくはそのとき、そこで、彼女にこうも言いたかった。彼女のことをよく考える、と。ぼくらが出会った頃、20代後半だった彼女が、どれほど若く、黒く、美しかったか。でもこれはぼくが口にできることではなかった。映画館での求愛のことを思い出したからだ。それは愛撫と抱擁によって引き出された愛の言葉に過ぎなかった、とわかっていたからだ。今でも、ぼくらがシートで前かがみになって、互いに触れ、まさぐりあっていたのが目に見える。少し後ろの席の闇の中で、黒い影がぼくらを見つめていた。クレジットがどんな風に流れ、場内の灯りがどのようにともり、ぼくらが服をいかに整え、握っていた手を離したか覚えている。そこに何か本当にいるのではないかと、何度も振り返って見たことを覚えている。でも何もいなかった。もうそれは未来に行ってしまって、そこでぼくらを、ぼくがいま口に出そうとしてもがいている言葉を、待っているのではないか、と思うこともあった。 

 

 悪魔はウソをあざ笑う、だからぼくは愛していたんだと悪魔に言った。そしてぼくらは一緒に笑い、ぼくらの関係がメタンガスの小さな泡となって消えていくのを見ていた。 

 

 「ありがとう、レベッカ」とぼくは言った。「ぼくも残念に思ってる。本当に。ぼくらの間で起きたことすべてをね。きみを傷つけてしまったことを」

 そしていま残っているのはその染みだ。自分の魂以上に愛したものの爪痕だ。それが神ではないことは知っている。

 

 

その間にあるもの

 

 レベッカが去ったあと、ぼくは「苦痛」という名の女の子と1年ほどつきあった。従うつもりがあれば、男は「孤独」といるより長く、「苦痛」との関係をつづけることができる。「孤独」のほうは真のあばずれ。「苦痛」は少しずつ人を食いちぎるが、自分自身も食いつぶす。また「苦痛」の方は寝ることも可能だ。「孤独」に関しては、通常、安くて物悲しい娼婦たちのいるところに、出向かねばならない。夜の街で、男たちの闇を照らす唯一の灯りとなる存在。

 「苦痛」には別の名前もある、当たり前だけど、デビーだ。彼女にもまた問いがあった。「なんのためにアタシは生きてるのか」  この問いは次のような形をとることもある。「問題はどこにあると思う?」 この質問は短い交際期間のあいだに、およそ2167回繰り返されたんじゃないか。ぼくはこの数字を複雑な公式から推定している。この公式はいくつかの変数を考慮している。

 

・言い争いが起きる頻度(質問はたいていこの間に起きる)

・一つの言い争いの中での質問回数の平均値(1回の言い争いの中で、違う言い方で質問された場合を含むことがある)

・つき合いはじめて最初の6ヶ月間の対数的事実:つき合いはじめに見られるように、関係が情熱的であればあるほど、彼女の怒りは激しくなり、言い争いも多発するので、質問が起きる数の平均値が高くなる。

 

 これによって2167回という数値を算出した。

 別れたあとに、ぼくは彼女への答えとして一遍の詩を書き、それを郵送した。

 

 

『ぼくらの存在の意味』

 

ぼくの理解では、

そして神の計画を見れば、

人間の本質は

その人間の自覚と自由意志の中にある。

 

だからぼくは主張する:

人間の本質は

その人の心臓をかけめぐる液体が

跳ねる音の中には見つからない

むしろ

意識的に、故意に

おならを放ったときに聞こえる

風圧がおこす音の中にこそある。

 

ぼくが主張するこの論理の、

微妙にして重要な違いを

きみが理解するかはわからないけれど、

健康な心臓は、ぼくらが存在するために必要ではあるが

誠心誠意のおならはぼくらの存在に意味を与える。

 

K.ラブレイス(2006年4月)

 

 ぼくは彼女がその後、自分で何をなしたのかとても知りたい。結婚したのか、子どもはできたのか、信頼に足る犬が飼えたのか、幸せを見つけたのか。

 その他の女たちも来ては去っていった、ぼくの人生においていつもそうであるように。最初はとてもうまくいく、歯医者に行ったあとよく歯を磨くようになるみたいに。愛撫しあい、セックスをたくさんし、花を送ったりする。互いに慣れきってしまうまでは。

 その女たちに名前をあたえ、住所をあたえ、性格をあたえ、それぞれ違う服を着せることはできるが、そこになんの意味がある? 二つの結婚の間に、11人の女性との関係があり、およそ23人の娼婦との関係があり(自分のやってることに無頓着なマレーシア人の娼婦は入れない)、この女たちを「その間にあるもの」と見ていて、それはぼくが欲していたのは彼女たちの足の「間にあるもの」だけだったから。生物学上の関心であり、化学ではない。ときに彼女たちは、家に連れて帰るにはひどすぎたので、一人になるために追い返した。

 以前にバーで飲んだことのある元軍人集団は、自分の手を他人の手のように感じさせて、自分で喜びを高める方法をぼくに授けてくれた。いくつかあるテクニックの多くは、手の感覚を麻痺させて(氷のバケツに手を漬ける、手の上にしばらく座るなど)、それからマスをかく。たいがい娼婦を友とするより、はるかに大きな喜びを得ることができた。

 

 

セミコロン

 

 そして、当然ながら、きみがいる、セミコロン。きみだ。人生のすばらしい輝き。

 ぼくがきみに出会った日に、きみがぼくにしたことは何一つ完成されていない。

 それから長い年月が過ぎたけれど、きみのことを、初めて会ったときみたいに毎日考えている。

 また正気を失う日が、ぼくに来るかもしれない。古い車みたいに、劣化したときだ。

 アルツハイマーになって、帰り道を忘れてしまうかもしれない。

 ママのことを、ママに起きたことを忘れてしまうかもしれない。

 パパのことを、パパに起きたことを忘れてしまうかもしれない。

 ぼくは次のことを忘れてしまうかもしれない、

 30日あるのが9月、

 4月、6月、11月で、

 残りの月が31日あることを

 2月は28日で、うるう年のときは29日だけど。 

 ぼくは次のことを忘れてしまうかもしれない、

マイ(ぼくの)    マーキュリー(水星)

ヴェリー(とても)  ヴィーナス(金星)

エナジー(元気な)  エ(ア)ース(地球)

マザー(母親は)   マース(火星)

ジャスト(いま)   ジュピター(木星)

サーブ(食卓に出す)  サターン(土星)

アス(ぼくらに)   ア(ウ)ラヌス(天王星)

ナイン(9つの)   ナ(ネ)プチューン(海王星)

ピザ(ピザを)    ピ(プ)ルート(冥王星)

 

 それからとても、とても、とても、ありそうもないことだけど、マンゴーの味を忘れてしまうかもしれない。

 もしこういうこと全部が起きるとしたら、そしてぼくのじいちゃんみたいに、鏡の中の自分を見て「すみません、わたしの妻がどこにいるか知りませんか?」という日が来たら、ぼくはきみのことを、セミコロン、自分の妻だと考えるだろう。

 マイラブ、それを雄牛が囲われた部屋で足を踏みならしているみたいに感じるよ。雄牛たちは逃れようと大暴れするけれど、ぼくにはドアを開け、この気持ちを解放するための言葉が見つけられない。人類は偉大な大発明をしてきたのに、いまだ男は、女と一緒にいるときの気持ちを、「愛してる」という以上の表現力で伝える言葉を見つけられていないのは、最大の悲劇だと思うことがある。ぼくは )(; のような絵文字を試したり、歌をうたってみたりしたけど、ピーボ・ブライソンやライオネル・リッチーには遠く及ばない。まったく及ばない。ぼくらのことにはまたあとで戻るよ、マイラブ。ぼくらの物語はまだ語られていないからね。

 

 

注釈:ジャマイカは政党として、人民国家党 (PNP) とジャマイカ労働党 (JLP) があり、革新二大政党制である。それぞれ社会主義を掲げている。1980年代までは、PNPとJLPがほぼ交互に政権を担当していた。(ウィキペディア日本語版より)

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