DISPOSABLE PEOPLE

​ディスポ人間

第21章

 

日記帳様

 

三日目になって、ぼくはスツールから立ち上がった。爽快な気分で、まるで洗礼を受けたみたいな感じだった。心は軽く、清らかで、純粋、教会でもはじめようかという気分だった。でもここはコンゴ、村の人々の神様はエルサレムには行ったことなどなく、村人をそこに返すこともしなかった。神は村の木々の中に、ヘビの中に、川の中に、槍の中に住んでいた。神は人々が近づけるもので、世界中の貧乏なクリスチャンがみんな崇める、ロブスター・テルミドール料理神のようではなかった。

 

コンゴに滞在しているとき、ここの山に登って、自分の規範を書くべきだ、という考えが浮かんできた。瞑想をし、それを書き留め、その規範を世界と共有するのだ。その教えはぼくの生き方を示し、何故ぼくが仲間の男やその妻を、何故『ロー・アンド・オーダー』を愛するのかを説明する。ぼくがスツールに座っていた3日間、教会についてたくさんのことを考えた。ぼくに取りついてる糞を振り落とすために、ヘンリー8世がしたように元からある教会を粉砕する必要があるのではないか。でもぼくが主に考えていたのは自分の教会をつくること、規範をつくること、そして最終的に自分に名を授けること。キリリッとして穢れなく、明快にしてパワフルな「牧師」の名を。

 

追伸:

コンゴには一度も行ったことがない。何が起きるかなと思って言ってみただけ。ウソをつくとこてんぱんにされる、と牧師が言ってたから、ときどき試してみるんだ。

 

思いつきあれこれ(2008年5月)

 

 

 ぼくらはその人をいろいろな言い方で呼んでいたけど、たいていは「牧師」とか「尊師」「父」と言っていた。教会通いをする年寄りたちの中には「兄弟」と呼ぶ人もいた。いとこのウェインは「長老」と呼んでいたけど、それは誰に対しても(ぼくも含めて)そう呼んでいたから。しばらくの間、ぼくも他の子たちのことを「長老」と呼んでみた。かっこいいんじゃないかと思って。兄さんがぼくに、おまえクソマヌケかと訊いてきたので止めた。その頃ママは知らなかったけど、兄さんは教会で何度も誓わさせられていて、それにうんざりしていた。というのもママはぼくらを毎週、日曜の朝の礼拝と水曜の放課後に聖書の勉強に通わせていたから。ママはぼくらに、メソジストの人たちの「信仰の確証」を望んでいた。1984年のことで、ぼくは14歳だった。兄さんはぼくより3歳上、ここから3年くらい教会通いはつづいた。

 話をもどそう、牧師のことを話していたんだ。この人は、クソ忌々しい村のギブソンロードにある、手拍子打ちのペンテコステ派の教会で説教をしていた。ぼくらの住んでいた沈下地区からすぐそばにあった。牧師の教会の信者はみんな、悪魔の崇拝者だったから、ぼくらの親戚は誰もそこに行かなかった。牧師は3ヶ月前に、チャペルトンからやって来たばかりだった。1983年型の赤いホンダアコードに乗っていて、ナンバープレートはBA1794だった。

 牧師の赤い車を見て、ぼくはママにあの人はどこからお金を得てるのかと訊ねた。献金で買ったのか、と。自分たちの牧師が車を運転するところなど見たことなかったので、こんな質問は以前は考えつかなかった。貧乏人に説教をして聖職者として働くのは牧師の仕事だから、給料をもらってる、とママは答えた。そのときその答えに対して何を思ったか、さらに何か質問したか、よく覚えていない。一つだけ鍵になる記憶がある。追加情報みたいに、ウェインがママの答えを補足してくれた。

 「金をかせぐ一番の方法は牧師になることだ」とウェインは説明した。「あいつらは女もたくさん手にする。誰も気づいてないが、シスターたちに牧師が食事だけ運ぶよう言ってると思うか? 牧師が食べるのは食事だけだと思うか?」

 他に覚えているのは、牧師が赤いホンダで通っていたマーサおばさんは、1984年の頃実際よりずっと年とって見えたこと。ぼくが沈下地区にもどったのは去年のことで、クソ忌々しい村の墓地でおばさんの墓を見たけど、たった41歳だったとわかった。

 ぼくは墓地に行くのがいつもいやだった。22年間のあいだに1回しか行ったことがなく、そのとき2度目だった。子どもだった頃、墓地というのは死んだ人がいる場所だった。当時ぼくは教会に行くのがいやで、それは行っていたメソジスト教会の裏庭には、墓がたくさんあったから。ママが言うには、教会は信心深い人々を埋めるために土地をあけてあるから、その人たちが古くてさびれた村の墓地に埋められることはないそうだ。ぼくの親戚はみんな村の墓地に埋められたから、明らかに信心深くない(金持ちじゃない)ということだ。

 教会に行ったときはいつも門のところで立ち止まった。そこに立っているだけで、いつも身震いが起きた。ママがぼくを引きずっていくか、兄さんが頭のうしろをパンと叩いた。教会で前にいやなことがあったからではない。牧師からいたずらされたとか、そういうことではなかった。単に墓が怖かったし、墓に取り囲まれた教会が怖かった。教会に行く途中、兄さんはぼくに墓の方を指さすな、とよくと注意した。指がすべて腐って落ちるというのだ。そしてどの悪魔の墓であれ、指さしたら最後、自分の家に招待したことになる。いま考えればバカバカしいが、当時ぼくは心からそれを信じていた。

 去年の12月、ぼくはとうとう自分の恐怖に立ち向かう決心をして、墓地に行った。それは埋められた人々みんなと再会するためでもあった。

 時の経過とともに、そして過去の暮らしとある距離をもったときに、人間がものごとをどう見るかというのが、いまはわかる。毎朝目が覚めたらベランダに行って、あくびをし、伸びをして、外の景色を眺めるが、何か特に気づくことはない。そしてハリケーンや洪水が起きたあと、同じベランダに立ち、身のまわりのものを一つ一つ見る。人々の表情の一つ一つ、建て物、木、古いトイレなどを一つ一つ。初めて目にするみたいにして見る。世界のあらゆるものが全く違って見えるのだ。

 これが去年、墓地に立ったときに感じたことだ。たくさんのぼくの親戚や友だちがそこに埋められていた。30年近くこの人たちと、普通の人々が住む村で、普通の生活をしているように見せかけて、ぼくは暮らしてきた。20年ぶりに、みんなの墓をはじめて眺め、実はそうではなかったと気づいた。これはどのようにしてぼくが、はじめて、パパとママをではなく、おじさんやおばさんをでもなく、ブライアンやトミーやその他の人たちでもなく、ディスポ人間(いつでも捨てられる人間)でいっぱいの墓場を見るに至ったかだ。その中には、新たな死者のために使いまわしされている墓もあった。

 マーサ・ラブレイスの墓は、こう言っていた。妻であり、母であり、祖母であり、姉妹であり、おばであり、友であるマーサ・ラブレイスは、穏やかに休んでいる、と。

 1984年にマーサおばさんは片方の乳をなくした。医者が腫瘍が悪化しているからそうするしかないと言った(というようなことを聞いたと思う)。で、おばさんは乳が一つだった。またがん性の細胞のせいで、歯が抜け落ちはじめていた。1つの乳より歯の方が3つ数が多いだけだった。4本の歯は奇妙な残され方をし、上に3本、下に1本だった。敷地のみんなは、おばさんが乳をなくすより前に、夫であるジョーイおじさんは、おばさんに触れるのを止めていたと言った。あまりに魅力がないので、もうおばさんにファックすることもなかった、と。

 以来、おばさんは教会に行くのもやめてしまい、子どもたちに料理をつくったり、洗濯をしたりして家にいるようになった。マーサおばさんとぼくは血の繋がりがあり、つまりジョーイおじさんの方は義理のおじさんだったけど、当時は他人であっても、おじさん、おばさんと呼ばれていた。ぼくらは礼儀正しくしなければならない、そうじゃないと両親が自分を手にする前に、神様が哀れみの手をかけるかもしれない。

 ジョーイおじさんは、マーサおばさんが乳をなくした同じ年に死んだ。そのことを最近考えていて、おばさんの手術の8ヵ月あとにおじさんが死んだんだと気づいた。おばさんは、ぼくらがイースターの休みのとき、4月の何日かに病院から帰ってきた。おじさんは12月に、りんご摘みの冬季農家研修プログラムに行っていた。いつもは夏の研修に行っていたのだが、その年は申請書が期限に間に合わなかった。おじさんは冬の寒さに慣れてなくて、肺炎になって、行った先で死んだ。

 ジョーイおじさんは死ぬ前の8年間、ぼくのパパと口をきかなかった。当時は、ちょっとしたことが関係をすっかり壊してしまうことがあった。たとえば、結婚後何年もしてから、のっぽがジョセフィーヌおばさんを再びだましたことで、おばさんはおじさんを見切って、24年間の関係を終わらせた。そういうことだ。ぼくのパパとジョーイおじさんについても、同じようなことがあった。パパは毎年農作業クーポンを配布する地元の議員と仲がよかった。ジョーイおじさんがパパにそれをくれないかと頼んだとき、パパはそれをあげなかった。それはパパは公平であることを望み、生きている間ずっと、尊敬に値する、高潔な暮らしをしようとしていたからだ。以来、ジョーイおじさんはパパとは一言も口をきかなくなった。でもジョーイおじさんが、他のところからクーポンを手に入れていたのは明らかだった。

 当時農作業クーポンを手にすることは、くじに当たったようなもので、夢実現への切符だった。毎年、新しいジーンズにシャツ、新しい帽子に靴を身につけ、ときに大型の携帯用ラジオを携えた労働者たちが家に帰ってくるのを目にする。チャーターされたバスで、ぼくらは空港まで見送りしたり、迎えにいったりした。ジョーイおじさんは、新たな収入で家にいくつかの設備を整えた。キッチンにバス・トイレ、予備の寝室など。毎年何か新しいものを加えていった。1982年にはテレビを手にし、それはぼくらの沈下地区最初のテレビだった。またビデオデッキやミキサーを手にし、赤いきれいな自転車を娘のソフィーに与えていた。言うまでもなく、たくさんの服や石鹸、米、小麦粉なども得ていた。

 ぼくらがおじさんの家に毎日のように行っていたのはそのテレビのためだった。おじさんが死んだあと2、3週間後にも行っていた。テレビが夕方6時を告げるやいなや、ぼくらはアニメを見るために出かけていった。おじさんの家のベランダにときに10人、11人とすわって、『家族フリントストーン』や『ドラ猫大将』を見た。ぼくは当時『スピーディー・ゴンザレス』が大好きだったけど、スペイン語を学ぶ日がのちにくるとは思ってもみなかった。

 牧師が家にやって来た日、マーサおばさんの家は電気が通っていなかった。おばさんは払うお金など一切なく、それで電気を切られていた。手術のあとも、おばさんは治療を受けていた。また葬式というのは、何よりも金のかかるものだった。ジョーイおじさんは稼いだ金を貯めることなく、すべて使い果たしていた。貯金などというのは、ぼくらの地区の文化にはなく、雨の日のために蓄えを取っておくことが許されるような、まともな職についている大人はほとんどいなかったからなおのこと。

 それは土曜日の午後のことで、ぼくら4人の男子がおばさんのベランダにすわっていた。すぐに電気がつくことを期待するように、ぼくはじっとテレビ画面を見つめていた。ビリー、トミー、ガーネット、カジョーがおしゃべりに興じ、冗談を言い合っていた。電気が切られてから2、3日たってはいたが、ぼくらは毎日そこに集まっていた。溜まり場になっていたのだ。

 いとこたちが口を閉じ、テレビの画面に人の影が映ったので、誰か来たとわかった。見まわすと、牧師の姿があった。すっきり爽やかな男だ。きれいにプレスされた折り目のある黒いズボン、さっぱりとした洗いたての白いシャツ、ツヤツヤした黒い革靴、金のシチズン・クォーツの時計、いい匂いのアフターシェーブローション、すっきりと髭を剃りシャワーを浴びた爽やかな男。尻に乾いたクソがこびりついていることなどなく、おしっこした後にはティッシュでちんちんを拭いてるんじゃないだろか。のっぽがそうしていると皆が言ってたのと同じように。牧師は明らかにぼくらの仲間ではなかった。

 なんでそこに牧師がいるのかは明らかだった。大人たちがいとこの誰かに説明し、そいつが別のいとこに話し、そしてそいつがぼくの兄さんに告げ、兄さんがぼくに言ったことによれば。「なんでおまえ同じ質問ばっかする? あの女がだんなをなくしたばかりだとわかんねーのかよ」 牧師はおばさんを慰めるためにやって来た。

 以来、牧師は毎週のようにやって来た。土曜に牧師が来たときは、ぼくらはそこによくいた。牧師はぼくらにお金をくれて、外でソーダかアイスクリームを買うように言った。キャンディーを持ってきてくれることもあった。ゴスペルで説教しようとしたことは、一度もなかった。

 大人たちは、それが悪魔の信望者のやり方だと言った。そいつらは弱った人、神の手からこぼれ落ちた人、教会に行くのをやめた人を探し、偽の安らぎを与える。また説教をしてないように見せかけて、実はいつも言葉や行ないによって邪悪な種をまいていた。お菓子を買ってくれるのもその一つ。ぼくは大人たちが見てないときに、食べねばならなかった。

 マーサおばさんは電気なしで4ヶ月間、食事を準備していた。おばさんにはジュニア(23歳くらい)、リッキー(20歳)、ルー(17歳)、それに前に話した女の子のソフィー(14歳)がいた。年長の男子はほとんど家にはいなかったから、牧師がソーダを買うためにくれたお金やお菓子を受け取ることはめったになかった。でもルーとソフィはもらっていた。ソフィーは女の子で一番年下だったから、なおのこと。

 3ヶ月くらいたって、電気が通った。ジュニアもリッキーもルーも、そしてマーサおばさんにも仕事がないままだったが、あの頃、神様は不可解な方法をもちいて、恵をもたらした。ぼくらが信心深くいれば、神様は何らかの方法で助けてくれるということ。

 電気は約1年間ついたままだった。1985年末、ソフィーは種を得て、そこから7ヶ月くらいたって、子どもを得た。ぼくはしばらくの間よくわからなかったが(兄さんに質問をするのを止めていたから)、最終的にバラバラの断片を一つにつなぎ合わせた。