DISPOSABLE PEOPLE

​ディスポ人間

第22章

 

「不眠症ほど嫌なことはない!」 アフリカの広大な空のもと、眠りのこない夜に耐えながら、ライオンがうなり声をあげた。すでに3週間がたち、ライオンの苦痛は計り知れなかった。ライオンは誰もこの苦悩をわかるまいと思った。

 

そこから100メートルほど離れたところから、群れの頭(かしら)が不安げに声をあげうろつくのを見て、クーガーが低くうなった。ライオンは年老いた王で、不眠は年のせいではなかったものの、王のおならは明らかに年のせいだった。このような夜には、群れのライオンたちが眠ろうとしているとき、王は大音響の爆破を起こし、空気と肋骨を震わせた。ちょうど彼がいまやったように。数秒間の間に、、、1回、、、2回、、、3回、、、と、一匹の子ライオンが、おならに色がついていてるのが見えた、と言い放った。これはさらに肋骨を震わせる笑いとなった。年取ったことがおならの多い理由であり、また子ライオンたちにクスクス笑いを許し、群れを起こしてしまうのを止められない理由でもあった。しかし彼は王であり、王というものは小さなことには関わらなかった。 

 

しかしクーガーは、王が絶えずうろつき、絶えずうなり声をあげ、おならでクスクス笑いを誘っていることを心配した。クーガーは、王が解決するために多くの努力を払ったことを知っていた。「昔ライオン」である自分に、ゲムズボック(大型レイヨウ)の柔らかな肉を夜遅い時間、寝る前に食べさせることなど。また薬草や藪の葉、魔術の歌もあったが、それでも眠ることができず、長く孤独な夜を起きて過ごした。

 

クーガーと王は友だちではなく、友だちだったこともない。しかし、安心感というのは、思いもしないものによって保たれてることはある。それに加え、生きている間は、自分らを保護してくれている王に対して、嫌悪をあからさまに見せることは難しい。それでクーガーはそこに留まり、ライオンはうなり声をあげ、両者は輝く星を眺め、眠りにつく月を見守った。クーガーにはいくつかの疑問があったが、その内の一つ、王に関するものは決して口にしなかった。「われわれはあなたの苦悩を理解している。この地で、何世紀もの間、われわれはそれを見てきた。しかし、それをみんなで分かち合わねばならない理由があるだろうか?」

 

「子どものころは、ライオンになりたかった」とクーガーの子どもが言った。「そうなれば、だれの質問にも答える必要などなくなるだろうね」

 

1987年8月12日の日記から

 

 これに何か服を着せたり、化粧したりする必要はない。そうではないものに見せかける必要はないんだ。これがそのままの真実。

 2008年6月、ぼくはインドネシアのジャカルタにいた。それほどたびたびここに来ることはない。インドネシは世界で人口の多い四つの国の一つで、水田のように火山が広がる国だ。注目に値するインドネシア。その文化の豊かなこと。驚くべきたくさんの言語。素晴らしい部族たち。みごとにスパイシーな食べもの。何ともすごい下痢。

 今回(3回目)の旅で、ぼくは事故にあった。ぼくは運転手付きのレンターカーに乗っていて、カップルはバイクに乗っていた。二つの乗り物が衝突して、カップルは危うく死ぬところだった。多くの貧困者を抱える国では、いくつかの(たくさんではない)偶然の(立て続けのではない)死というのは気づかれないままだ、ということを感じる。とはいえ、なるべく人を殺さないようにぼくは気をつけてる。

 これはぼくの育ちによるものだ。すべてのものや人を尊重せよ。そういったものがぼくの中には残っている。

 自分の過去から距離を置くことは、そう簡単なことではない。完全に離婚するより、別れているだけの方が簡単だ(教会と国の関係ように)。だからぼくは自分のルーツを忘れることはない。ぼくの家族や犬、以前の恋人たちを。ごく普通の発展途上にある地味な国にある、ごく普通の地味な村で育った、ごく普通の地味な子どもとして。

 事故の前の晩、国を離れたあるカップルが、ハノイでの出来事を語るのを聞いて、怒りで血をたぎらせたのはそのためだ。彼らが言うには、隣りの家の人は犬を飼っていて、その犬は毎晩、ベトナム人家族に縛られ叩かれていたそうだ。そうする理由は、肉を柔らかくするためだった。ぼくは嫌悪感を抱き、怒りに震えた。このようなニュースがどこかの郵便配達夫を喜ばせることがあるかもしれないが、犬は一休みもできず、正当に扱われることもない、といつも思っていた。またあらゆる動物を優しく扱うことの大切さを、いつも考えていたと思う。

 子どもの頃からものごとの価値をぼくは学んでいた。20代になるまで「食料庫」のために買い物をしたことがなかった。ぼくの子ども時代には、次の食事に必要な2、3品を買うだけだった。31歳までフォアグラが何か知らなかったし、ましてやシェフが焼いて香港ソースといっしょに出されるものが、どんな味かについても未知だった。今はこういうことを知っている。さらに世界のあちこちにある空港や、高層ビル群、そこに暮らす人々が自分のことを「何々様」と呼ぶ場所も知っている。ずいぶんと遠いところまで来たものだ。とはいえ、ぼくは自分の飼い犬にテレビ付きの寝室をまだ与えてないし、フェイスブックに彼のページも設けてない。でも銀行の窓口の人に、ぼくの前に並んでる地元の客の応対を先にするよう勧めるだろう。ぼくがどれだけ家政婦や使用人をもとうと、自分の尻を誰かに拭かせるようなことはしないと思ってる。自分のルーツはわかってる。これまでも、これからも。

 もちろん、他の人と同じように、ぼくも間違いは犯す。一度か二度は、自分のルーツを忘れていたと思われることをしている。

 1991年のある日、キングストンの通りで、年老いた汚い身なりの女がぼくの方にやって来た。ぼくは当時カレッジに通っていて、リグアニーにあるドミノピザに行くだけの金を持っていた。その女性がぼくに何か言おうと口を開けたとたん、ぼくは「いや、あんたにやる金は今日はないよ」と返したのを覚えている。彼女がまさに「すみません、だんなさん、◯◯への行き方を知って、、、」と言いかけたときで、彼女の目がスーッと曇った。その表情をぼくは死ぬまで引きずって生きていく。人を見かけで判断するような育ち方はしなかった。大学に入ってからの2、3年のうちに、自分の中の何かがゆっくりと死んでいったことを、自分がルーツから外れていったことを知った。

 そのことがあったあと、ぼくは自分を元に、正常に戻した。以来、「違った見映えの人」と出会っても、自分を平静に保つようにした。インドでは、顔じゅう隙間なく、ビー玉くらいのイボでおおわれた女の人と出会った。彼女が乞うてきたので、内心その顔を恐ろしく思ったが、表情に表すことなく金を渡した。キングストンでは映画『最終絶叫計画』のマスクみたいな男がいた。おそらく酸か何かをかけられたのだろう。ぼくはその男を人間として見た。バンコクで4月に電話してきた娼婦のところに行かなかった。それは彼女たちは娼婦だったから、娼婦たちに衝動を感じることはもうないから。ネパールでは、目の角膜からイボが出ている女性がいた。そんなことがあるのか理解できなかったけれど、その人を女性として見た。そして小児麻痺のせいでからだの自由がきかない人たちがスーダンにいた。その人たちを見て、自分がどう振る舞っていいかわからなかったが、彼らは傷を負った人であって、人に傷を与えた人ではないと気づいた。

 さてジャカルタの話に戻ろう。ことは次のように起きた。運転手はぼくを乗せて、シャツを買ったモールから戻ろうとしていた。彼は表通りに出ていこうとして、してはいけない所でUターンした。向こうからやって来た車は、こちらを見て止まった。その脇を走っていたバイクは、こちらが見えていなかったので、ぼくの車にぶつかって止まった。バイクは路上に残った。乗っていたカップルはぶっ飛んだ。ぼくは金属がつぶれる音、ガラスが割れる音、モノが壊れる音を聞いた。そして野次馬がやって来て、家族がやって来て、混乱の会話がはじまった。

 ぼくは自分が相談役となっている会社の安全保証係りに電話した。2、3日前に一緒に夜飲みに行った人だった。カップルを病院に連れていくように、でも誓約書を書いたりしないようアドバイスを受けた。ぼくは病院に行き、様々な手続きや経過が進むのをそこで待っていた。トリアージ(負傷程度による治療優先順位の区分け)、検査、レントゲン撮影、着いたばかりの親戚や友人たちがかける慰めの言葉など。その1週間前、ぼくはシンガポールで別の病院に行ったが、そこは清潔で、見映えも設備もよかった。

 女性の方の怪我の状態がどれくらい悪いのか結果を待っているとき、最初のよくない兆候を聞いて、いつもの自分を見失っていた。安全保障係りが電話を返してきた。彼が提案してきたことは、基本的にいくらあれば女性を記憶喪失にできるか、女性とその痛みを葬り去ることができるかだった。

 女性は大きく跳ねて落下して、治療の中心となる人だった。彼女の小さな息子が病院にやって来た。その子は歯が抜け変わっているところで、前歯のところが二つ空いていた。ぼくの中の作家が、スパイが隠れているみたいに、歯はいま出ていくのを待っているところだ、と思った。その子は、ママがレントゲン撮影を終えて、車椅子で出てくると、ひざに座ろうとした。すると彼女はバハサ・インドネシア語で「まだだめよ」という意味のことを、痛みを隠して優しく言った。

 唯一英語が話せる彼女の親戚の人が、いくつかの重要な情報を伝えてくれた。医者がすぐにやって来て、レントゲン写真の結果を見るだろう。女性の子どもはこの息子一人。バイクにいっしょに乗っていたのは、2番目の夫で、1年前に結婚したばかりである。最初の夫は外国人居住者に雇われた運転手で、ガレージで車の中で居眠りしていて、一酸化炭素中毒で死んだ。女性は、すでに夫が埋められてからそれを知った。それは地元では24時間以内に埋葬することになっていたからだ。女性の脚の具合はそれほど酷いものではなさそうだった。

 そして担当医がやって来て、レントゲン写真の結果を見て、家族にバハサ・インドネシア語で説明し、指示を与えた。医師が去ったあと、ぼくは彼女のところに行って、声をかけ、今どのような状態かみようと思った。でも主に、起きたことを謝ろうと思っていた。そこで2番目の衝撃的なことが起きた。おそらく、運転手を含めた他の人がぼくのことをどう話したかと関係があると思う。あるいはぼくが直立してこわばった姿勢のままで、空腹のひとかけらも見せなかったからか。あるいはぼくの履いていたイタリア製の靴が、一人息子の臓器でも売らない限り買えないものだと思ったからか。あるいはぼくから漂う権力者の香りのせい、あるいは外国人だからか。それが何であったとしても、ぼくが彼女に近づくと、車椅子の中で傷ついた脚をさすりながら、ぼくを見上げて、初心者の英語でこう言ったのだ。「すみません、、、あなたを事故に巻き込んでしまって、だんなさん」

 ぼくは車のところに行き、そこで声をあげて泣いた。彼女はぼくのママを思い出させた。 

 ぼくがよく覚えていないのは、ぼくらが住んでいたのは靴箱だったのか靴だったのかということ。でもそのようなものだった。おそらくぼくらの靴箱はトタンでできていたんじゃないか?

 ぼくはママとトタンの靴箱に住んでいた。ぼくのママのことはもう書いたな。ソニア・ラブレイス、1953年生まれ。ぼくを産むとき死にそうになった。身長163センチ。男やもめのような印象。4人の子の母。女。いつも貧乏。人や植物、子犬に餌を与える人。自分は全く読めないけど小説を買う人。フリルのピンクのドレス愛好者。ジャマイカ人。

 これがぼくのママだ。でも洪水のときの話やママが泣く目にあったことについては、まだ話してないと思う。

 そのときぼくは12歳だった。まだ。1982年の6月だった。

 テレビの天気予報官、トム・ブロウェスターは、嵐が来ていると言った。のろのろとではあるが、かなりの強さのものだと強調していた。非常な凶暴さをもっているが、ゆっくりとやって来るタイプの嵐、ジャマイカの警官に似てる。予報官ブロウェスターは、気象図をもとに、嵐はゆっくりと島を通り、ジャマイカ南部全体に大被害をもたらすと説明した。予報官は繰り返し、繰り返し、同じことを述べた。

 「心配しなければならないのは風ではありません。雨です。雨をたくさんもたらし、またゆっくりと移動するため、そこらじゅうが水浸しになって洪水が起こる恐れがあります。低地に住む人は、高いところに避難してください」

 「高いところ」というのは予報官が言った言葉。当時その言葉でまず思い浮かぶのは、マリファナで得られる大きな効果だった。大人たちがこう言うのを聞いていた。「飲んでハイになったらどうだ、吸えば飛べるぞ」

 誰ひとり、最初は予報官の言葉を信じなかった。みんなこの予報官は間抜けとだと思っていた。これまでにこの男が天気を正確に予報したことはなかったので、みんなはヤギか牛を見て予想した方がずっと安全だと思った。あるいはおしっこをして、ちんちんを持って揺らし、最後の一雫がどっちに落ちるかを見ればいいと。もっと適切な予報を望む者は、コインを投げて調べたかもしれない。

 でもぼくらは低地に住んでいたので、あの予報官が人生で一度だけ正しいこと言ったのがあの時とすれば、ぼくのおじさんの忘れがたい言葉を使うなら、ぼくらは「糞の底」に沈んだ。このおじさんは、そこに埋まって発見されたおじさんではない。

 ぼくらの家は低地にあっただけでなく、運河の近くにあった。この運河は、土砂降りが続いたあとに、何度も溢れたことがある。雨水は、土手を超えて勢いよく流れ出し、ライオンが狩りをするように襲いかかって、小さな子どもや川を渡ろうとしたバカな人々を飲み込んだ。何回かぼくらはその光景を見ていた。だから土砂降りになるといつも、ぼくらはベランダにすわって、運河の水の高さを見張っていた。夜遅くまで、寝る直前までそうして見張っていた。

 夜遅くなるまでに、怒り狂う風が鞭打つように吹きすさび、雨も降り始めた。ぼくの家はこの辺では珍しいレンガ造りで、ワルいオオカミが吹き飛ばすことがないくらいの頑丈さだった。その頃までにぼくの家は、もう一つの部屋が出来上がっていて、そこに木やトタンの家に住んでいる親戚や友だちが避難してきていた。ロウソクの火と聖書を手に、ぼくらは真夜中に教会の集会をしているようだった。お祈りをしている人たちもいた。夜が生きもののように姿を変え、暗闇が空と同じどす黒さと不穏さに満たされていったのを覚えてる。[ どれだけ夜が暗くなるものか。ラム酒好きのボブおじさんが1980年代半ばに工場の仕事をなくし、わずかばかりの解雇金のすべてをバーで使い果たしていると、内縁の妻のフリーダおばさんがやって来て、みんなが見てる前でおじさんの首根っこをつかまえ、顔をピシャリと平手打ちし、その途中でおじさんの飲み残しをぐいと干した。夜というのは、ゆっくりとおばさんを見上げたおじさんの顔と同じくらいどす黒くなるものなのか。夜というのは、湿って腐りかけた邪悪な息を吐くものなのか。あの日の夜はそうだった!]

 ぼくは怯える大人たちに囲まれて、暗い小さな部屋にいる子どもで、家のまわりには何か恐ろしげな生きものがいると感じていた。そしてその生きものは、闇を通して、ドアを通して、兄さんのからだを通して、ぼくのことをじっと見ていると感じた。

 少しすると、うなり声をあげていた風がやみ、雨が本降りになってきた。夜の11時くらいのことで、家に来ていた人たちは、もっと広くて安全に眠れそうな場所を探しに出ていった。多くの人は数キロ先にある消防署へと向かった。そこもレンガ造りの建て物だったからだ。ぼくは兄さんとパパとで一部屋にいて、妹はかあさんともう一つの部屋にいた。運河がどうなっているか見にいくのは、ぼくら子どもには恐ろしいことだった。それに水位を見るにも、何を見るにも暗すぎた。そのときには不法消費している電気は切れていて、ろうそくもランタンも風で火が消えていた。誰ひとり、懐中電灯を買ってくるように言っていた気象官の言葉を真面目にとらなかった。しばらくして、ぼくらは眠りこんでいた。

 真夜中すぎ、水位が上がりはじめた。ちょうどそれは、ホラー映画でヒーローがたった一回悪者を打ちたたいて、すぐに悲劇の娘をなぐさめようと背をむけたとたん、背後で邪悪な影が立ち上がるみたいな感じだった。そんな風に水は上昇した。ぼくの家より運河に近い家が2軒あった。2軒で13人の人が住んでいた。その夜のあと、その家の2人を目にすることはなかった。ときどきぼくも遊んでいた小さな女の子2人だ。水に押し流されたんだ。あの闇夜にぼくらを起こしたのは、あの子たちの死にゆく声だったのかもしれない。それともぼくのママと妹の声だったのか。

 ぼくは声をあげて目を覚ました。こっそり忍び込んできた水がぼくのベッドの高さまで達していて、ヘビのようにぼくの隣りに横たわり、大口をあけて、ぼくを一口で飲み込めるか品定めしていた。パパと兄さんを起こし、ぼくらは水の中を歩いてドアのところまで行き、向こうにいるママと妹を助けようとした。ドアは動かなかった。急速に外の水位があがり、圧力でドアがあかなかったのだ。同じことがママと妹にも起きていて、どちらも互いを助けに行けないんだと思った。

 それでぼくらは大声を上げはじめた。その日ぼくらの魂が裁かれ、その評決を聞かされたみたいに、家の者全員が叫びはじめた。

 水はぼくの肩のところまで来ていて、にっこり笑ってぼくのくちびるにキスできるくらいだった。そのときには、逃げようもない水の暴力と押し寄せる泥臭さに観念していた。と、信じられないことに、消防士たちがやって来た。消防署に逃げた友だちか親戚の誰かが、ぼくらの家に立ち寄って様子を見てくれと伝えたのだ。消防士たちはドアを壊すのに斧をつかった。その後、救世軍が新しいドアをつけるのに3ヶ月かかった。消防士の1人がぼくを肩に担ぎ上げてくれた。ぼくが家族と再会するのに、そこから16時間かかった。パパは骨折していた。政治家の1人が哀れみの表情を装って、ぼくらみんなにドロリとたっぷり、息がつまりそうな赤んぼうの鼻汁みたいな同情を寄せていった。でも一番よく覚えているのは、ぼくら全員が無事とわかっとき見せたママの様子だった。ママはぼくらを抱きしめながら、川のように涙を流した。無事な姿をちゃんと見ようと、ママがぼくを押しやったとき、その目になんとも言えない優しさがあった。そのときわかった、どんだけママがこれまでに叩いたり、ひどいことを言ったとしても、ぼくのことがすごく好きなんだと。

 パパがしたことのせいで、ママが泣いているのは何度も見たことがあった。パパはママをひどく傷つけることもあって、ママはおばさんの家に慰めてもらいに行ったりした。そのおばさんがその2、3日後には、ママのところに慰めてもらいに寄ったりもしていた。その週の間に、おばさんにも何か起きたのだ。こんな風に同情心はお金以上にまわりまわってると、ぼくは学んだ。あの村では、お金の場合、貸したあとに、2度と返ってはこなかったが。

 ジャマイカではこう言う。「遺言のあるところ、親戚はやって来る」 それは誰かが死んだとき、会ったこともない人が現れて、遺産相続を言いたてることがあるから。ママの場合はその心配はなかった。何も所有してないから。自分名義の糞さえも。ママの人生は厳しいものだった、セミコロン、ときどき嬉しいことが混ざるくらい。その喜びさえも、ちょっとした暗い面があった。家系内でぼくらが初めてKFCに行ったときとか。外国から帰ってきた親戚の1人がやって来て、KFCに連れていってくれた。それで「ど南」に住みながら、「北」の生活をちょっとばかし味わうことができた。なんてすごいご馳走だったか。みんなでイタリアまで旅して、ベニスの高級レストランで夕食をとったみたいな気分だった。KFCでの食事のあとで、ぼくはロバート・ムガベ(ジンバブエの大統領)の「ここを絶対に離れない」の物真似をやってみせたが、ママに即座にピシャリとやられた。でもぼくはKFCが好きでたまらず、毎日ママにあそこにまた行きたいと言った。自分たちの境遇を考えれば、ぼくが大人になって仕事を見つけられる見込みは薄いから、ママはいつかね、と言っただけ。いつもことはこんな風で、何か楽しいことを見つけても、先の人生でそれをまた手に入れられる保証はない、と学ぶのだった。

 でもね、セミコロン、ママがぼくのことをすごく愛してくれてたのは知ってるんだ。2番目の息子であってもだ。ぼくを見るときの目の優しさ、にっこり笑顔を返してくるときのママを知ってるからね。で、ママは死んだ。そういうこと。

 心に浸みた初めての死、それはママの死。自分に正直になれば、ママが死んだことを知ったとき、怒りはなかった。もっと気持ちに近い言葉をみつけるなら、それは「炎症をおこした」という言い方。知らせが来たとき、ぼくは裏庭で友だちとクリケットをやっていた。ぼくはボールを打って1得点し、パートナー(たまたま兄さんだった)が投手に向かうのを待っていた。そのとき知らされた。田舎の人というのは良くも悪くも、大切なことを知らせるときも、気配りすることがない。ぼくらを呼び寄せて話がある、などという手順を踏まない。

 「ケニー、マーティン、おまんのママが死んだって」 そのあとに「神様のお恵みを」「イエスキリストよ」などが叫ぶようにつづき、それは起きたことを強調こそすれ、和らげることはない。

 兄さんの手がクリケットのバットをきつく握りしめていたことを覚えている。そこに神様の言葉が込められていて、握ることで救われようとしているみたいだった。ぼくの方は、バットから手を離したなら、指が自然にまるまって拳になっていただろう。

 ここまでの年月、あれだけ身近に確かな手応えで暮らしてきたママが、いま蒸気みたいに消えてしまった。

 ママが世界のどこで暮らしていようと、いつか死んでしまうことはわかっていた。それは罪深く生まれてきたぼくらみんなの運命だったから。そのように言われていたし、いつもそのようになる。でも、と思う。もしもっと発展した国にいたら、ママの病気は治せるもので、もっと長生きしただろう。とはいえママが若くして死んだことは、当時のジャマイカの医療のレベルにおいて、非難されるものではなかったということ。発展途上の国の中では、ぼくらの国の医療は高水準のレベルにあったのだから。医師が治療法も探究心も持たない第三世界ではない。ここはジャマイカなのだ。

 本当の問題は、1980年代半ばまでに、可処分所得のない人は使い捨て人間となっていったことだ。その頃には、医者のところにニワトリを持参するなどということはなくなり、現金のみの世界になっていた。ぼくらはすっかり資本主義社会の一員になっていた。

 ママが病室で寝ているとき、テレビでは激しい政治のボクシング・マッチが展開されていた。闘争は二つのスローガンで戦われていた。社会主義者のコーナーでは「国民ファースト」が、労働党のコーナーでは「現金第一」が叫ばれていた。ママが最後の息を吐き出したとき、11ラウンド中3ラウンドまで来ていた。

 しかしこのことはとても複雑な問題であり、聖書か葉っぱ(この二つは、ぼくの経験では熟考する助けになる最良の道具)なしには探求しないほうがよさそうだ。

 

『悲しみに突き刺されて』

 

悲しみに突き刺されるとき、それが「くっ突く」。

トム爺さんのねばねばしたつばみたいに張りつく。

ベトベトと、ねばっこく、べったりと

威厳が消え去ったあとの恥みたいに。

悲しみがくっ突く。いつのまにか。糞のように。便秘気味のケツの穴で。

からかいや、煽ったり慰めたりにもめげず、はがれるのを拒否し

くっ突く。肥やしのように。

肥やしは腐り、朽ち、悪臭を放つ。

悲しみはくっ突く、行きもせず、帰りもしない、ただそこに居座る

かんしゃくを起こして動かない幼児みたいに。

居座ってくっ突く。乞食に1ドルやったあと、

釣りをくれという卑しい男のように、ぴったりとくっ突いて離れない。

くっ突く、砂糖のような甘さだ

歯に張りつくのではない

「うっかり」こぼしてジョージーの手をとらえた

ぶくぶくと沸騰する自家製グァバのジャムみたいに

逃げようとするときの、原始の叫び声のようなもの。

悲しみが突き刺すとき、それがくっ突く。

100%の体液の中でヒルが沐浴するように、

濃縮還元ではないビタミンやミネラルを吸い尽くす

悲しみはくっ突く、肺炎患者の喉の奥に張りつく黄色い痰みたいに

ヴィックスもミューシネックスを舐めても取れない。

くっ突く。とれない。

悲しみに突き刺されるとき、それがくっ突く

バリアム(精神安定剤)、ピラテス、ヨガ、上物のアプルトンのラム、

何をやろうと、そこから逃れる道はない。

悲しみに突き刺されるとき、それがくっ突く。

自分のクソな皮膚が張りつくようにくっ突く。

 

日付のない日記から

 

 ここまでの話でわかるだろう、セミコロン、ママが死んだことをどう話そうと違いはないって。そして話すことで、ママが生き返るかもしれないけど、生き返るのはママの人柄だけ。

 ぼくが君に知ってほしいのは、セミコロン、自分の中にどうしても戻れない場所や時間というものがあることを知るときがある、ということ。ぼくがそこに戻れないことはわかってる。生きていようと死んでいようと。ぼくには確証がある。死者が抵抗できることを知っているからだ。ぼくは覚えている、棺をかつぐ人々が棺桶を運び、それを死者が埋められたくないと言った場所に埋めようとした日のことを。ぼくは覚えている。かつぐ人たちが棺を運んでいると、どんどん重くなっていくのを感じ、100人でも運べない重さになった。トム爺さんはそのように抵抗した。生きている間バカにされていたとしても、死ねば、爺さんの遺言は尊重されねばならなかった。ぼくはその場にいて、それを見たんだ。ぼくが死ぬときも、あのクソ忌々しい場所に戻ることはない。これはぼくの遺言だから、この世界のなんであれ、それを変えることはできない。

 これについて、もう言うことはない。

 もう何もない。

 あるとしたら一つだけ、心に浮かぶことがある。

 頭に銃をつきつけられて脅されでもしない限り、生きている間に、二度としないと誓いをたてたことはいくつかある。コンドームなしで娼婦と寝たりはしない。これも一つ。でもこれより重要なことは、自分の家族の遺体確認のために、第三世界の遺体安置所に金輪際行かないこと。ママはそこにいて、汚い錆びた台に乗せられて、冷凍庫から引き出されてきた。大きな肉の塊みたいで、素っ裸だった。検視後のぞんざいに縫い合わされた大きな傷口をぼくらは目にした。彼女に殴られた跡があるかもしれないと、そいつらは考えた。それで検視のために頭皮の一部をはいだ。ぼくらに見せるとき、それを隠そうもしなかった。そこにあるのは単なる死体。その証拠にママは動かなかった。