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Photo by Manjunath Beleri(CC BY 2.0)

デリーで一夜

バシル・サハワルズ

わたしは空港に到着した。そこは混沌の地、「ノー」と言いたいときは「イエス」と言い、「イエス」と言いたいときは「ノー」と言う、そしてイエスでもありノーでもあるときは口をつぐむ。彼女はそのすべてをやってみせた。最初熱意をこめてイエスと言い、それから残念そうにノーと続け、最後に電話の向こうで黙りこんだのだ。わたしが彼女に会うために、インドに来ていると告げたときのことである。彼女はわたしに会おうとしていたのだろうか。

 

飛行機は二時間前に到着していたが、入国審査のところで、わたしは長い乗客の列に並ばねばならなかった。そこではパスポートに承認印を押す前に、男の審査官がヨーロッパからの女性客の顔をパスポートの写真としっかり見比べるだけでなく、仕事熱心で几帳面な偵察官のように、頭から足先まで徹底的な身体検査を行なっていた。この国の入国管理は市場の検品に匹敵する。望ましいもののみが通過を許される。もし持ちこむものが不確かなときは、審査官の目つき、表情を注意深く読み取り、それを通すときの手つきややり方をよく見ているといい。わたしの場合は、あやしい一品と見なされた。それはわたしがアフガニスタンからの乗客だからだ。入国審査官は美しいヨーロッパ女性に対しては欲望の目で、わたしに対しては疑いの目で見る権利を有している。わたしの手に爆発物を扱った証拠が何も見い出せなかったので、審査官は長い長い質問をした後に、しぶしぶわたしのパスポートにスタンプを押した。この男に何ができる? アフガニスタンにある彼の国の大使館は、わたしにビザを発行しているのだから。

 

入国審査官の長々した質問に丁重に答えながら、わたしの心はそこを超えて、向こう側で別の長々とした列をつくっている古びたタクシーの群れをさまよっていた。彼らは初めてインドを訪れる、おなじみの観光客からひと儲けすべく待っているのだ。しかしこのタクシーの列に行き着く前に、それを邪魔する別の人の群れを通過しなければならない。ホテルのデラックスルーム、スーパーデラックスルームを掲げ、両替を勧め(もちろん破格のレートだ)、素晴らしいツアーやリラックスできるヘッドマッサージ(入国審査で痛めつけられていたわけだから)を売り込む人々がいて、この商売人の波に挟まれるようにして、空港に迎えに出た家族や友人たちの人波が層をなしている。入国管理を出たところで、わたしは様々な商売人があれこれ言ってくるのにもまれながら、あたりを見回した。彼女の姿を見つけることができない。そうこうするうちに、まわりには誰もいなくなり、商売人たちは次なる到着客への売り込みに向かっていった。

 

右目で持ち物を監視し、左目で彼女の姿を求めてあちこち見まわしながら、わたしはロビーの隅に向かって歩いていく。飛行機が着いてからもう三時間がたつが、待つこと、実りない時間を過ごすことは、ここインドではよくあることなのだ。ボンベイからプーナまで電車に乗って旅するのに、八時間近く待たされることだって珍しくない。飛行機の予約席が、VIPが乗るために取り消されていることだって普通だ。だから人はここに来る前に、たとえ目的を達するのにひどく時間がかかっても、寛大に耐えることを学ばなければならない。昼も夜も結局のところ同じようなもので、どうして急ぐ必要があろう。

 

片隅に逃れていると、ヨーロッパからの旅行者たちが、地元の人々から様々なサービスをしつこく押しつけられているところが見えた。わたし同様、彼らも商売人から逃れようと、人の来ない片隅を探しているのだが、見つけることができない。実際のところ、インドには人の来ない片隅などというものはない。泊まっているホテルの部屋でさえ、人に邪魔されない「片隅」は許されていない。わたしは、数年前に泊まったことのあるホテルのことを思い出す。そこは最高級の四つ星ホテルだった。わたしがチェックインするやいなや、入れ替わり立ち替わり、部屋のドアをノックする音が続いた。彼らはノックすると、こちらが返事をしない内にもう部屋に入ってくる。

 

「お客さま、洗濯物はありませんか?」

「いや、今はいい」とわたし。

十分後、またノックの音。「お客さま、ルームサービスはいかがですか?」

「今はいい、休んでいるところだから」

十五分後。コンコン、コンコン。「お客さま、何かご入用では?」

「少し眠りたいんだ」

「ああ、すみません、すみません、お客さま、大変失礼しました、お客さま」

 

しまいにわたしは起き上がって、充分ではないと知りつつ「Don't Disturb」の札をドアに掛ける。さらに、わたしはフロントに電話して、サービスを押しつけに来る者たちを寄越さないよう告げる。このような回想に浸っている最中、突然の声が飛び込んできた。

 

「ああ、ごめんなさい、ごめんごめん、すっかり遅れてしまって」とパドゥマが満面の笑顔で言っている。わたしはここまでの苦痛をすべて忘れて、彼女を腕に抱きしめようと腕を広げかけた。が、ここはインド、そういう行為は差し控えねばと思いいたる。

 

わたしが自分の荷物に手をかけようとすると、一人の男が走りよってきてそれをつかみ取った。「ああ、いいのよ、いいのいいの、マノジに運ばせて」とパドゥマ。わたしはマノジは彼女の運転手なのだろうと思った。正しくもあり、間違ってもいた。マノジが運転手であることは正しかったが、パドゥマの運転手だという憶測は間違っていた。著名な映画俳優マノジ・クマルに因んだ名前をもつマノジは、実際運転手ではあったが、パドゥマの友だちの運転手だった。パドゥマは運転手を借り受けて、わたしを拾いに来てくれたのだ。なんと優しくて素敵なことを。

 

パドゥマは変わらぬ大きな嘆願するような目をもち、どこにも年齢の影は見えなかった。ドゥルガーの女神がわたしの目の前に、その神々しい姿を現したように。甘いメロンのような肌、バラの花びらのようなくちびる。パドゥマの微笑みは千個のディヤ(土器のオイルランプ)に灯りをともしたようだ。サルワール・カミーズ*のピンクが、褐色がかった肌を際立たせ、体の線をくっきりと強調している。パドゥマの目は、わたしが最初に出会ったときと変わっていなかった。コオルに縁どられた、黒々とした目。わたしは彼女に陶酔している。

*サルワール・カミーズ:南アジアの民族衣装で、サルワール(ズボン)とカミーズ(シャツ)のセットで着用される。男性用、女性用と両方ある。

 

インドの富裕層がするように、車の後部座席にパドゥマと並んですわって、わたしが幸せな気持ちですっかりくつろいでいると、美しいパドゥマが突然叫ぶ。「アライ・トゥム・キダアル・ジャ・ラハイ・ホ? インド門の近くよ」 運転手は千回も謝罪の言葉を繰り返すのだが、パドゥマはそれでよしとせず。「トゥム・ルーウ・ビルクル・バイワグーフ・ホ。だんな様は長旅でひどく疲れているの、わかるでしょ」 それで気の毒な運転手マノジは、わたしがこうむった入国審査の長蛇の列やらパドゥマ夫人の遅刻やら、起きたことすべての非難を引き受けることになる。運転手が文句を言われるのはよくあること、そして彼らはそれを受け入れるよう教えこまれている。だからこのことは、わたしがアフガニスタンからやって来たせいでも、入国審査官が金髪女性を入念に調べ上げるせいでも、ましてやパドゥマのせいでもない。わたしたちはやっと、目的地であるインド門に到着した。インド鉄道ゲストハウスだ。

 

そのゲストハウスはB&Bである。といっても、ご想像のベッド・アンド・ブレックファーストではない。それはビッグでビューティフルな、ありあまるほどのホテル従業員が仕えるホテル。あなたのために、一人がホテルの入口のドアを開け、一人が荷物をもってレセプションデスクまで運び、二人が宿泊手続きを受けつけ、一人がエレベーターのボタンを押し、最後の一人が部屋のテレビのスイッチを入れる。が、テレビのスイッチが入れられる前に、わたしとパドゥマはゆゆしい質問に答えなければならなかった。パドゥマは客室係に向かってこう言った。

 

「ムケルジー夫妻の名前でダブルの部屋を予約してあったのだけど」

「ああ、そうですか奥様。お二人はムケルジー夫妻ですか?」

「そうよ」

「何泊されますか?」

「一泊だけよ」

「ああ、そうですか、はいはいはい。朝食はいかがしましょう」

「お願いします」

「コーヒーにしますか、紅茶にしますか」

「紅茶で」

「ホットミルクは?」

「お願い」

 

わたしはムケルジー氏ではないが、黙っている。ムケルジーはパドゥマの夫だ。パドゥマから黙っているように言われていた。わたしが黙っているので、客室係はわたしがムケルジー氏であることに疑いをもたない。彼はわたしのパスポートをチェックする必要がないのだ。嬉しいことに、パドゥマは鉄道局高官の一人で、彼女の身分証明書は、我々がホテルの全従業員から最大級のもてなしを受けるためにだけ必要なものなのだ。

 

テレビ係の男は、我々二人が望んでいたかどうかに関係なくテレビをつけるとすぐに、わたしたちを置いて出ていった。わたしはパドゥマの甘いくちびるに触れ、キスをする。パドゥマも激しくキスを返してくる。が、わたしはキスを中断する。旅で汗にまみれ汚いままで、インド鉄道最高の高官にどうしてキスなどできようか。

 

わたしはパドゥマにあやまり、シャワーを浴びたいと言う。わたしは浴室のドアを開けたままにして、シャワー室に入った。熱い湯は気持ちよく、ここまでの苦労をすべて忘れる。シャワーをいつまでも浴びていたい気分だった。そのとき、ドアをノックする音がして、パドゥマが答えるのが聞こえる。

 

「はい?」

「奥さま、タオルを代えましょうか?」

「そうね、ありがとう」

「ほかに何かご入用なものは?」

「いまはいいわ」

「わかりました、奥さま。ありがとうございます、奥さま」

 

腰のまわりにタオルを巻いてシャワーから出てくると、わたしはパドゥマに近寄り、手を取ってベッドの方に引き寄せる。が、ほんの数分後、またドアがノックされる。

 

「ルームサービスだわ、、、」

「何の?」

 

わたしに答える間もなく、パドゥマはわたしをベッドから追い出すと、浴室に隠れるよう押し込んだ。わたしはそこでウェイターが入ってきてパドゥマが礼を言うのを聞く。ウェイターは出ていく。浴室を出ると、テーブルの上に食べものが置かれているのが見え、わたしはにっこりする。突然お腹がぺこぺこに減っていると感じた。

 

「お腹が減ってるってどうしてわかった?」

 

「入国審査に半日もかかって、通過するまでにお腹がぺこぺこになるのはみんな知っているわ。あなたがシャワーを浴びている間に、食べものをとったの」

 

「のども乾いているんだ」

 

「まあ、なんておばかさん、おばかさんでおばかさんなわんぱく坊主なんでしょ。ちっとも変わってない。ビールを頼みましょう」

 

パドゥマがルームサービスに電話する。わたしは新しいズボンとシャツを身につけ、食べ始める。わたしはインド料理が大好物。わたしが住んでいるロンドンで見つけたインド料理は、本物のインド料理とはまったく別物だ。わたしたち二人は食べながら、昔のことなど話して楽しく過ごす。知らぬ間に、わたしたちはうまいインド料理を喰いつくしている。それからベッドに飛び乗って、キスをし始める。でも服は着たまま、すぐにルームサービスがビールを持ってドアをノックすることがわかっていたから。ところがいくら待ってもドアはノックされない、それでルームサービスは注文を忘れたに違いないと思い、わたしはシャツとズボンを脱ぎ始める。ドアがドスンと鳴り、誰かが叫んでいる。

 

「ルームサービスです!」

 

わたしはベッドから飛び出て、頭をサイドテーブルにぶつけ、ベッドランプをひっくり返し、浴室に突進する。男が部屋に入ってきて、パドゥマが文句を言う。

 

「アレイ(ちょっと)、ビール、一時間も前に頼んだのよ」

 

「すみません、どうも、すみません、奥さま、すみません、奥さま。ビールをきらしてしまっていて、近くのスーパーまで買いにいっていたんです」

 

「まあ、それは。そこまでしなくてよかったのに」

 

「いえ、いえ、いえ、奥さま、あなたは身分の高いお役人ですから。あなたがここにいらっしゃれば、できるかぎりのお世話をいたします」

 

わたしは浴室から出てくる。これで三度目。どっちの口からキスしたらいいのかな、と考える。わたしはコブラの口を選ぶことにする、懐かしいインドの瓶入りビールだ。わたしはビールを一口飲み、ウェイターがキングサイズのボトルを一つではなく、二つ買ってきてくれことに感謝する。奥さまも飲むだろう、と見積もったのだろう。運のいいことに、パドゥマは酒を飲まず、ベジタリアンでもある。電話が鳴ってパドゥマが出たとき、わたしは二本目の瓶をあけるところだった。パドゥマは顔に不安の気配を見せながらこう言う。「まああ! 今彼はどこにいるの?」 そしてわたしの方に向いてこう言う。

「運転手を友だちのところに返すのを忘れていたわ」

「そりゃまた」

「そうなの、下に行って何とかしてくるわ」

「わかった。わたしはここで待っていよう」

 

パドゥマは下に降りていき、わたしは二本目のビールを飲みきる。彼女はなかなか戻ってこない。わたしは目を開けていられなくなる。服を着たまま、テレビもつけたままで、ベッドに横になりちょっとの間休むことにする。

 

電話が鳴ってわたしは目を覚ました。しばしの間、自分がどこにいるのかわからない。やっと夕べのことを思い出し、電話に出る。

 

「おはようございます、だんなさま。ウェークアップコールです。奥さまがお約束でここを出られる前に、朝の十時にだんなさまを起こすよう言いつけられました」

 

「なんだって?」

 

時計は十時を指していた、わたしのフライトの出発時刻は午後一時だ。ロンドンまでの便を逃さないよう、急がねばならない。シャワーも浴びず、部屋に届く紅茶やコーヒーのサービスも待たない。自分がアフガニスタン出身だということを、わたしは忘れていない。インドからの入国も出国も、普通より時間をとられるはずだ。

 

髪を整えようと鏡をみると、片隅にパドゥマからのメモがあるのを見つける。四時間後、わたしは飛行機に乗り、五分刻みでげっぷをするパンジャブ人の軍司令官の隣りに座っている。司令官のことをなんとか頭から消して、パドゥマが残していったメモを開ける。彼女はこう書いていた。

 

ほんとうに、ごめんなさい。さようならもちゃんと言えないまま、帰ります。夕べは一晩中あなたの隣りで横になっていましたが、あなたを起こす勇気がありませんでした。あなたはひどく疲れているみたいでした。あなたとキスをしてさよならが言えるくらい、あるいはそれ以上のこともできるくらい早く、起きてくれないかと待っていましたが、あなたは丸太のように眠り込んでいました。さようなら、いとしい人。ありがとう、たった一夜のために、わたしに会うだけのために、苦労して寄り道してデリーまで来てくれて。ほんとうに幸せな気分よ。ずっと忘れません。ではさようなら、またインドに来るときは知らせてくださいね。

 

あなたのパドゥマより

 

 

訳:だいこくかずえ

 

初出:Swans commentary:2011年5月23日号

 

バシル・サハワルズ

バシル・サハワルズはアフガニスタンの作家。1960年、カブール生まれ。1981年、ソビエトがアフガニスタンに侵攻した二年後、アフガニスタンを離れる。イギリスで大学を卒業した後、世界各国の多種多様な組織で働く(EU、国連、アジア開発銀行、様々なNGO、国際赤十字社など)。彼によれば、D.H.ローレンス、サマセット・モームに強い影響を受け、より広い読者と出会えるよう英語で作品を書き始めた。ペルシア語の作品と同様、英語の作品は数多くの雑誌や出版物に掲載されている。現在、スイスのジュネーブに在住。(旧サイト掲載時のバイオ:2011.9)