Painting by Carsten ten Brink(CC BY-NC-ND 2.0)

レプブリカとグラウの交差点

ダニエル・アラルコン

盲目の男は、マイコの家からそう遠くない通りにある、酒屋の上の貸間に住んでいた。そこは少し坂をのぼった高台で、この辺の家はどこもその高台にあった。盲目の男の部屋の壁には何もなく、すわる椅子さえなかったから、マイコは立っていた。マイコは十歳だった。シングルベッドがひとつ、ダクトテープが巻かれたラジオの乗ったナイトテーブルがひとつ、洗面器がひとつあった。盲目の男は白髪まじりで、少年の父親よりかなり年上だった。父親と盲目の男が話している間、マイコは自分の足元を見つめ、コンクリートの床にある埃を蹴って小さな山をつくっていた。少年は話を聞いていなかったけれど、聞くことを期待もされていなかった。自分がつくった埃の小山から、小さな黒いクモが現われたときも、少年は別に驚かなかった。クモは床の上をすばやく横切って、ベッドの下に消えた。マイコは目を上に向けた。天井の隅で、クモの巣がきらめいていた。この部屋のただ一つの飾りだった。

 

マイコの父は手を伸ばして男の手を握った。「じゃあ、それでいいね」と父親が言うと、男はうなずいた。それで終わりだった。

 

一週間後、マイコと盲目の男は街なかにいた。レプブリカ通りとグラウ通りの交差点の喧噪の中に立っていた。二人はその朝早く、鉛色に垂れこめた空 の下に現わ れ、街の中心に向かった。ブーブーガーガーと騒音をたてる、大きなホテルの影におおわれたこの場所へやって来たのだった。男は赤い柄のついた杖をついてい て、道も充分承知していたけれど、目的地に着くや杖を折りたたみ、中央分離帯の草むらの中に隠した。男の歩調が急におずおずとしたものに変わった。マイコ は男が振りを始めたのだとわかった。男の顔から笑いが消え、あごが垂れ下がった。

 

マイコは知るべきことを、最初の一時間で覚 えた。信号機は規則的に変わる。車は三分間待って、三分間動く。車が停止すると、男は片手を少年の肩において、もう片方の手にブリキ缶をもち、二人一緒に 止まっている車の列へと歩いていった。マイコは窓を下ろしてくれた車の方へと男を導く。男は車に近づくと、哀れっぽくモゴモゴと何か言う。マイコの仕事 は、お金を恵んでくれそうな人のところに男を連れていくこと、見込みのなさそうな人のところに行って時間の無駄遣いをしないようにした。一人で車を運転し ている女性たちは、(男の言うことによれば)まず気前がいい、そしてお金を盗まれないようにこんな風にしていた。小銭をなんかのときのために、車の灰皿に 入れておくのだ。タクシー運転手も当てにできた。彼らは働いているからだ。女連れの男は相手の気を引くために小銭をよこして、自分が親切な人間であること を見せようとするかもしれない。一人で運転している男たちはめったに金をくれなかった。色つき窓ガラスの中から、一瞬たりとも関心を向けてこなかった。 「こっちが目が見えないことを知ってたら、恥じることもない」と男。

 

「でもあの人たち、目が見えないことはわかっているでしょ」とマイコ。

 

「だからおまえがここにいるんだよ」

 

マイコの母親は息子を街なかで働かせたくないと思っていたので、前の晩そう言った。すると父親が怒って声をあげ、テーブルを拳でドンとたたいた。 もちろん、 そんなことをする必要などなかった。本当のところ、マイコは働くことは平気だった。あの街のテンポが好きなくらいだった。何もしなくていいときに、とぎれ ることのない車の流れを見て、鈍い騒音に包まれているのは何とも心地よかった。「グラウ通りはな、北部地域へつながる道なんだ」と盲目の男は教えた。男の 頭にはちゃんと街の地図が入っていた。お金は北部でつくられていた。そこは人々が暮らしをよくしようとがんばっている地域だった。自分たちがどこからやっ て来たか、すっかり忘れてしまった南部の金持ちたちとは違う。盲目の男いわく、「この交差点はな、心が寛いんだ。ここの人たちは俺をわかってる、俺を好い てくれてる。それはここの人たちが生まれたときから俺を知っているからさ。ここの人は恵んでくれる」

 

マイコは街の喧噪とともにこの言葉を聞いていた。俺を、俺を、俺を。マイコに聞こえたのはそれだけ。車の音、エンジンの音、男の声。すべてが一つ の音になっていた。交差点は排気 ガスがいっぱいで、たった一時間そこにいただけで、あまりの空気の悪さにマイコは胸が泡だつようだった。のどもいがいがしていた。

 

マイコは咳きこんで唾を吐いた。そして母親が教えたとおり、それを謝った。
 

男が笑った。「おまえはもっとここを汚すだろうな。唾吐いて、しっこして、うんちして、どれもみんな同じだ」

 

お昼には雲は薄くなっていたが、うすら寒く湿った日だった。盲目の男は集めたお金をひとつに集め、いくらあるか定期的に知らせた。それほどたくさ んではな かった。お金がブリキ缶に落とされるたびに、男はありがたく頭をさげ、マイコも、言われたわけではなかったけれど、同じことをした。男は信号が変わると、 ブリキ缶のお金をポケットに移した。そしてマイコに盗っ人がいないかよく見ているように言った。でも少年が目にしたのは、ボードを掲げた新聞売りの男たち か、パンや花や果物をカゴに入れた女たちばかり、そのあたりにいるたくさんの通行人は安全そうに見えた。今日のところは、誰もが少年に親切だった。マイコ の母親くらいの女の人がさつま芋とパン一切をれくれた。少年が初顔だったからだ。その人は小さな子どもたちを連れて、中央分離帯で遊ばせていた。その子た ちはぬいぐるみの動物を、代わりばんこに引き裂いて遊んでいた。白い詰め物が草の上に散らばっていた。一台のトラックが通り過ぎると、詰め物の綿は通りに 吹き飛ばされた。

 

盲目の男はマイコが学校に行っていたのを知ると新聞を買い、それを読ませた。マイコが読むと、男はうなずい たり舌を鳴らしたりして聞いていた。載っている話はみな、がっかりさせられるものばかり、わずかな光も見いだせない、それで男は新聞を読むのをやめた。前 日、マイコと男がすわっている場所からそう遠くないレストランで、真っ昼間に、一人の判事が殺された。番犬が泥棒を噛み殺したので当局が処分しようとして いたが、社説では犬の命を救うよう主張していた。新しい女性大統領がまもなく就任することになっていたが、それに対する抗議行動が計画されていた。音楽が 走り抜ける車の窓から漏れ聞こえ、信号のたびに人々の声といっしょに、たくさんのメロディーがマイコの耳に混じり合って流れこんだ。マイコはときおり盲目 の男の顔を観察した。ヒゲの伸びた、浅黒い、むくんだ顔。ずっしりとしたかぎ鼻だった。男は盲目の人がよくしている色眼鏡をしていなかった。陰気な光を帯 びた無力な灰色の目が、乞食としての価値を高めているのだろうとマイコは思った。このあたりは競争の激しい場所で、その朝もそこで物乞いをする人たちがい たが、盲目の男よりその人たちの方に優先権があるのは明らかだった。

 

午後になって二人が戻ると、マイコの父親が男の部屋のドアの前で待っていた。父親はマイコに片目をつぶり、男にいきなり声をかけてびっくりさせ た。「実入りはどうだ、見せてくれ」 父親は事務的な声で言った。

 

盲目の男は部屋の鍵を取り出すと、鍵穴に入れるためにドアを触った。「ここじゃだめだ。中に入ってからだ。目の見えるやつらは我慢が足りないな」

 

父親と男が取り分をわけている間、マイコはそばに立っていた。勘定はのろのろと進んだ。男は一枚ずつ硬貨を確認し、それがいくらかを宣言した。誰 も男のやり 方をとめることができず、そのまま事は進行し、男は見事な手つきで硬貨を扱い、ベッドの上に種類別に硬貨の山をつくっていった。何回か、男は硬貨を誤認し たが、マイコはそれがわざとやったことであると確信していた。三度めに誤認が起きたとき、マイコの父親はため息をついて、「わたしがやろう」と言ったけれ ど、男は聞き入れなかった。

 

「それでは公平じゃないだろうが」

 

勘定が終わると、マイコと父は黙って帰途についた。思ったより道は遠く、マイコの父親は急いで歩いた。母親がどうだったと訊くと、父親は鼻で笑っ て儲けなしだと言った。言うほどのものじゃないと。少年と母親が夕飯を食べている間に、父親は夜勤に出る準備をしていた。

 

二日目、変わったことはなし。三日目になって、丘を降りての帰り道、父親はマイコを市場へ連れていき、二人分のソーダを買った。分厚い硬そうな手 をした年配 の紳士が、ソーダを出してくれた。マイコはソーダをストローで飲んだ。父親が仕事はどうだ、面白いか、と訊いてきた。少年はこの年になるまでに、余計なこ とをあまり言わないほうがいいと知るようになっていた。母親から学んだのだ。

 

下町は気に入ったか?

 

気に入った。

 

仕事を楽しんでるか?

 

楽しんでる。

 

どんな風にやってんだ?

 

この質問に対して、マイコは言葉を注意深く選びながら、この二、三日の間、どんな風にやってきたかを説明した。施しのこと、通りの交通のこと、北 へ向かう車の方が南へ向かう車より多いこと。

 

マイコの父親は黙って聞いていた。そしてソーダを飲み終えるとビールを注文したが、考えを変えた。時計を見て、カウンターの上に硬貨をばらまく と、店の男が 顔をしかめてそれをかき集めた。「やられたよ」 そう父親が言った。「おまえ、聞いてるか? 入った金がどうなったか監視してろ。しっかり頭のなかで勘定 するんだ」

 

マイコは黙っていた。
「言ってることがわかるか? あの男が半分、こっちが半分なんだからな」

 

その朝、盲目の男はマイコにポップコーンを一袋買ってくれた。マイコが新聞を読んで聞かせた後、男はこの街がかつてどんな風だったかを話した。空 気はきれい でおいしくて、車の往来などなかった頃のことだ。男が描くこの場所はうそのように思えた。「今いるこの交差点だって、昔は静かなもんだった」 男は口元を 緩めてそう言った。そんなこと信じられないだろう、と思ったのだ。

 

さて、少年は父親のことを見上げていた。
「目の見えない男ごときにだまされてちゃダメだ、ん、恥ずかしいと思え」 そう父親は言った。

 

次の日、マイコはちゃんと勘定しようとがんばった。でも昼どきには、疲れのせいで頭がぼんやりと霞んでいた。マイコが男にいくらになったか訊く と、男は正確にはわからないと言った。「あとで数えるからな」と。

 

「いま数えてよ」とマイコ。その言葉は意図したとおり、ピシリと口から出てきた。
しかし盲目の男はただ笑うだけだった。「かっこいいぞ」と男。「次の記事を読んでみよう」

 

クラクションが一つ鳴り、またもう一つ、すぐにそれが大合唱になった。通りが静かになったところで、マイコは新聞を再び開いた。山の中のある村全 部が、お祭 りの間に中毒におそわれた。肉が腐っていたのだ。厚生大臣が薬と医者を空輸で手配した。そこで信号機が変わり、仕事にとりかかるときが来た。

 

毎日午後に、マイコの父親は男の部屋のドアの前で待っていた。お金は毎度足りなかった。父親は不満を隠すことができなかった。あるいは隠そうとし なかった。 マイコにはわかった、何か起こりそうなことが感じられた。八日目、父親はナイトテーブルからラジオをたたき落とした。そしてこう言った。「ごまかしてんだ ろ、このメクラ野郎」 マイコはこういうことが起きるのを望んでいたのかもしれない。怒った父親の姿は見ものだった。真っ赤になった顔、目ん玉は大きく広がり、両拳は木づちのよ う。マイコは男がこの光景をじゅうぶんに感じられているだろうか、と思った。父親の声、鋭い物言い、それだけで充分だっただろうか?

 

少なくとも、男は事の重大さはわかっていたはずだ。ポケットをひっくり返されても、男は驚きも恐がりもしなかった。

 

ラジオはパチパチと音をたて、それから黙りこんだ。
音が止まるまで、マイコはラジオがついていることに全く気づいていなかった。

 

二、三日たって、マイコと男は新しい決めごとに従って仕事に戻った。これからは少年がお金を管理するのだ。硬貨はマイコのポケットの中でずっしり と重かったの で、以前より実入りがいいように感じられた。ただの小さな、古い、薄い硬貨、たいして価値のない、使い古された硬貨に過ぎない。その日仕事を終えると、盲 目の男はマイコにホテルの方へ連れていってくれと頼んだ。その日は天気がよく、午後の傾きかけた太陽光に照らされて、ホテルのガラス張りは、金でできてい るみたいに輝いていた。「さあ行こう」と男。男は道を知っていたし、杖も持っていたけれど、ここでは、常連客のいるところでは、少年が男を連れて歩くこと が求められた。男は手をマイコの肩に置き、二人はグラウ通りを渡った。

 

「ホテルの向こう側に通りがある。標識を読んでくれ」と男。
そこは狭い通りだった。「パロマレス」 マイコが読む。
「よし、ここを入ろう。グラウを曲がる」
二人が二つ目の交差点を渡ると、男はそれぞれの角に何があるか訊いた。マイコは右から順に言っていった。パン屋、カートで焼きトウモロコシを売る男、イン ターネットカフェ、肉屋。
男がにっこりして言う。「カートの後ろには何がある?」
「バー」
「そのバーは、なんて名だ?」
「エル・モイセス」
「入ろう」

 

バーの中は静かだった。男はマイコにいい席を選ぶように言った。少年は窓のそばの席を選んだ。エル・モイセスは外の道より低い敷地にあったので、 窓からの眺め は通りを行く人々の脚ばかりだった。焼きトウモロコシの匂いが店内に充満していたが、トウモロコシ屋はそれほど前からそこにいたわけではなかった。盲目の 男は匂いに負けて二つ買った。そのときにはすでに一杯目のビールを飲み終えていた。マイコに一本トウモロコシを与えると、自分はもう一本を二杯目の冷たい ビールで流し込んだ。男はこの場所で、男の目の前で起きた、けんかのことを懐かしげに話して聞かせた。椅子が投げられ、ビンが割れ、それが武器として使わ れ、激しいぶつかり合いの音が響きわたった。おまえのいるその辺りであのときの音が聞こえはしないか? パニック、恐怖、アドレナリン。あのとんでもない 大騒ぎはたいした評判になったものさ。

 

「そういうことが起きたときは、どうするの?」 マイコが訊く。
「そりゃ、戦うんだよ」
「でもおじさんの場合は?」
「ああ、それが訊きたいのか。目の見えない者はどうやってけんかするか? 教えてやろう」 男はささやくように話し出した。「無茶をやるんだよ。なんか道 具を手にしてな。それを振り回して、死に物狂いで出口を探す」 男はため息をついた。「目の見えるやつらとたいした違いはないんじゃないか。多分もっと死 に物狂いで、もっとむちゃくちゃなんだろうけどな」

 

ウェイターがラジオをつけた。音楽が低くうなっていたが、マイコにはよく聞きとれなかった。店内にはマイコと盲目の男、二人だけだった。

 

少しして男が訊ねた。「教えてくれないか、おまえはどんな風なみてくれなんだ? もっと前に訊いておくべきだったな。自分のことを説明しておく れ」
そんなことをマイコに訊いた人は今までいなかった。本当のところ、マイコにそんなことが起ころうとは、そんなことを聞かれるはめになるとは思いもしなかっ た。自分を説明する。マイコはしばし考えたが、何も浮かんでこなかった。「ぼくは男の子だよ」 なんとか言ってみた。「十歳になる」

 

「まだなんかあるだろう」 男はそう言って、ビールをゴクゴクと飲む。「もっと知りたいな」
マイコは椅子の上でもじもじした。
「顔はどんな顔なんだ? 年のわりに背は低いんだろ。何を着てる?」
「ふつうのもの」 そういうのがマイコには精一杯。「ふつうのものを着ている。ぼくはふつうだよ」
「おまえの着てるもの、たとえばシャツだな。どんな素材だ?」
「わからない」
「触ってもいいか?」 答えも待たず、男は服に手を伸ばし、マイコのシャツの生地を親指と人差し指で確かめる。「色はかなり褪せてるのか?」
「ううん」とマイコ。
「シャツには襟があるのか?」
「ある」
「ズボンのひざのところに穴はあいてるか?」
「つぎあてしてある」
「ズボンのすそはかがってあるのか?」
「ある」
男が低くうなった。「シャツはズボンの中に入れてるのか?」
マイコはうつむいた。シャツはズボンに入っていた。
「ベルトしてるんじゃないか。革のベルトか?」
「うん」

 

盲目の男はため息をついた。ビールをもう一杯頼み、グラスがテーブルに置かれると、ウェイターにちょっとそこにいてくれと頼んだ。「承知しまし た」 ウェイ ターはそう言って右手をあげた。男はマイコに立つように言い、ウェイターの方に向き直った。「この子のおおよその見た目はどんなだ?」
ウェイターは生真面目で無表情な男だった。マイコを頭の先からつま先まで眺めた。「きちんとした格好をしています。こぎれいです」
「髪は、、、といてあるのか?」
「ええ、きちんと」

 

男はウェイターに礼を言い、マイコにすわるよう告げた。男はビールを飲んだ。しばらくの間、マイコは男が口を開かないだろうと思った。ラジオでは 新しい曲が はじまっていた。歌声とともに明るくよく響くギターが連れ添い、盲目の男は笑みを浮かべると指でテーブルを叩いてリズムをとった。男はいっしょに歌った。 歌詞を知らないところでは、トゥララーと歌った。そして黙りこんだ。

 

「おまえといるこの老いぼれはな、こう思ってる、あの男 は頑丈なやつだとな」 歌が終わり、ウェイターがもう一杯ビールをもってくると、盲目の男がやっと口を開いた。「問題はここにある。あの男は毎晩働きに出 てて、朝おまえと会っていない。それでだ、おまえの母さんがおまえを着替えさせる。母さんはちゃんとした人なんだろな。几帳面な性格だ。加えておまえはお 母さんっ子だ。ごめんよ、ぼうや、よくわかるように言ってるんだ。そのせいでわしらは金が稼げない。おまえのその格好では物乞いは難しいってことだ」

 

マイコは黙っていた。
男は笑って、「まじで受けとってるのか?」
「ううん」とマイコ。
「よおし、いいぞ」 男はうなずくと、ウェイターを口笛で呼んだ。現われたウェイターは、支払い金額を告げた。
「ごちそうさん」 男はそう言ってまわりに笑顔を振りまいた。「勘定書をくれ、この子が払うからな」

 

その晩、マイコの父親は怒り狂った。「金はどこだ? 金はどこなんだ? この間抜けなチビめが」 少年に言えたのは「ぼくが、お金を、つかった」 という言葉だけ。それは口からこぼれ出たもの。この三つの言葉が、半分だけ真実の言い分が口に出され、自分の耳に届いたとたん、マイコは恐怖におそわれた。恐怖は胸の内からからだ全体に広がり、腕の感覚がなくなり、お腹の力がゆるみ、自分の足で立っていられないようになった。母親は、なんとか間に入ろうとして、マイコ同様打たれた。そして自分は死んでしまうのではないかと思えた、短くも激しい嵐のような瞬間がマイコにあった。母親の叫び声で、マイコはこれは今までのものとは違うのだと感じた。そうでなくとも少年がなんとか目を開けて見ようとしたなら、父親の獰猛な顔つきからそのことはわかっただろう。大きな音がして、光が走った。マイコは目を少し開ける。部屋自体が大きく揺れているようだった。少年は押されては、起き上がった。突き倒されては、立ち上がった。そのことに自分でも驚いた。もう立ち上がれなくなるまで、それは続いた。

 

あたりはしんと静まりかえっていた。マイコはどれくらい時間 がたったのかわからなかった。父親が出ていったことだけがわかっていた。少年は目を開けた。食器棚のガラスが割れて、椅子の脚が折れていた。嵐がやって来 て、去ったのだ。不思議なことに、一滴の血も見えなかった。母親が反対側の壁にもたれていた、泣いてはいない、息をついているだけだ。マイコは母親のところに這っていって、そこで眠った。

 

マイコはその夜、夢を見なかった。なんとか眠ることのできた数時間は、からっぽで真っ黒だった。少年は夜明けにベッドの中で目を覚ました。母親が運んだのだろう。

 

盲目の男は翌朝、何ごともなかったように現われた。マイコは男を見た途端、この男が死んでしまえばよかったのにと自分が思っていたことに気づい た。父親が自 分にぶつけた怒りが、二倍、三倍の激しさでこの盲目の男に向かっていたらと、少年は想像した。それなのに男は、昨日の午後、自分は別の行き方で帰るからと マイコをバス停に残して立ち去ったときと同じ、満足げな様子をしていた。あのときの男の言葉には優しいものがあった。男が酔っぱらっていたわけではないこ とをマイコは知っていたが、とにかく男は幸せそうだった。マイコが恥ずかしくなるくらい幸せそうで、マイコが頭にくるくらい幸せそうなのだった。

 

「行きなさい」 そう母親が言った。「うちはお金がいるの」 仕方なくマイコは言葉を飲み込んで、ひりひりして痛むからだを起こした。マイコは盲 目の男に怒りの目を向け、それから母親のため息を耳に家を出た。

 

その頃には、マイコは街への道を知っていた。ようくわかっていた。街の中心まで下っていくときの通りの名前も、曲がるところも、わだちがあってバ スが揺れる 交差点も、すべて知り尽していた。街につくまでの間、生真面目な顔つきで男たち女たちが乗ったり降りたりし、旧市街のすぐ手前にある橋を渡ると、バスの中 は一息つくのだ。雨の季節には、橋の下を流れる細くてきたない川が命を(命のようなものを)とりもどすが、今はちょろちょろした流れだけで、とうてい海まで行き着けそうにない。マイコと同じくらいの年の男の子たちが、川底を走っていく。その子たちのエネルギーのきらめきを、少年はバスの窓から追うことができた。もし盲目の男に頼まれたなら、この光景を、きたなくて煙った街のすべてを言葉で説明することができただろう。でも思うに、男はマイコが知るよりもっと、この場所のことを知っているに違いない。

 

その日、マイコは新聞を読み上げなかった。通りが粛々としたリズムで満ちた り引いたりしている間に、男の話を聞くこともなかった。マイコは男が謝ってくるのを待っていた。そうはしないだろうと知ってはいたけれど。少年はポケットにお金を入れる前、硬貨の勘定をしようともしなかった。そして空が明るくなり、太陽が雲の隙間から光をそそぎはじめた頃になって初めて、お金がたいしてた まっていないのに気づいた。マイコは自分の顔に触れた。ひりひりするあご、あざになった頬、右目は腫れてはないもののつぶれていて、まぶたをつまんで目を 開けなければならなかった。盲目の男には知りようがない。[自分のことを説明しておくれ。おまえはどんな風なみてくれなんだ?]

 

[乞食だよ]

 

少年は人波に囲まれていた。その人たちが物を乞うて渡り歩き、幸運の巡り合わせを、一日を一週間を一ヶ月をしのぐための施しを求めている人たちだとわかった。勘定をする、いつもいつも、生き延びるための念入りで隙のない算術。食べものはこれくらい、家まで歩けばこれくらい、子どもたちにこれくらい、家賃のために、スープのために、酒のために、雨から身を守るため、寒さをしのぐ場所のためにこれくらい。マイコの父親は起きている時間は、街の別の場所で、ここと同じような算術に明け暮れていた。もしちょっとでもうまくいけば、それが息子を守る手だてとなった。

 

「今日はうまくいったな、ん?」 盲目の男が言った。マイコの返事を待たず、黙って口元を緩め、鼻歌を口ずさんだ。

 

信号機が変わり、少年は自分を震いたたせ、止まっている車の列の中に男を再び導いた。排気ガスの匂いが心地よかった。一人で運転席にいる男がブリキ缶にお金を落とした。マイコは立ちどまった。盲目の男の方に向いて、顔を見た。

 

「どうしたんだ?」 男が訊く。

 

マイコには、答えたくても答えることのできない質問だった。やることには何の迷いもなかった。マイコは自分のポケットに手を伸ばすと、その朝二人が稼いだお金を、施しを受けたお金をそこから取り出し、そのひと掴みを男のブリキ缶に入れた。硬貨はジャラジャラジャラと素晴らしく大きな響きをたて、不意打ちの衝撃と重さで男は缶を落としそうになった。男が訊いた。「どうしたんだいったい、おまえは」 でもマイコは聞いていなかった。エンジンがたてる音以外、何も聞こえていなかった。そして信号機が変わるのをじっと見つめていた。もうひとつ掴み、小さな十セント硬貨、もっと価値のある大きな銀貨、すべてをマイコはブリキ缶の中に落とした。男の顔に当惑の表情が浮かぶのを少年は見た。お金はすべてブリキ缶に入れた。マイコは一銭ももっていない。マイコは後ずさりすると、男から離れた。

 

「どこに行くんだ? どこにいる?」 盲目の男はそう言った。懇願するようにではないが、平気なそぶりでもなく。

 

マイコは心を決めると、パンッとブリキ缶をはたいた。缶はひっくり返り、男の手から道路へと硬貨がこぼれ落ちた。止まっている車の下に入り込んだ もの、舗道の割れ目にはさまったもの、いくつかは太陽の光を浴びてピカピカと輝いていた。でもそれは少年にしか見えないもの。

 

少しして信号が変わると、道路の車は北へと走り出した。でももし、そうではなくて、街じゅうの車が、この盲目の男がひざまずいて転がった硬貨を一 つ一つ拾う のを辛抱強く待ってくれたとしても、マイコは十分に価値ある光景を目にしたと思ったことだろう。交差点を離れ、橋を渡り、家までの長い坂を上っていく間 に、少年が思い返し心の中で何度も反芻したのは、そのことだった。盲目の男は今や無力になった。もう無力の振りをすることはなかった。

 

​だいこくかずえ訳

初出:THE NEW YORKER、2006年10月30日号

 

ダニエル・アラルコン

ダ ニエル・アラルコンはペルー出身の作家。1977年ペルーのリマに生まれる。三歳のとき家族とともにアメリカに移住。コロンビア大学で人類学を学び、アイ オワ大学の創作科で修士を取得。短編小説集「War by Candlelight」は2005年PEN/ヘミングウェー賞の最終候補に残る。アラルコンの最初の長編小説「ロスト・シティ・レディオ」はアメリカで2007年 に出版され、これまで数カ国語に翻訳されてきた。日本語訳も2012年1月に出版。第2作目の『夜、僕らは輪になって歩く』は日本では2016年に出版。

Daniel Alarcón in 2018, photo by Rodrigo Fernández

(CC BY-SA 4.0)