top of page
ウィリアム・J・ロング著『おかしなおかしな森の仲間たち』より 訳:だいこくかずえ

黒衣のエンターテイナー

カラスたちのお作法

 

 しんと静まりかえった野に雪が降りつもっていた。寒さ厳しいこの季節に、カラスが2、3羽、わたしの「鳥たちの食卓」を目にして庭にやって来た。そして少し離れた木の上からご馳走を眺めていた。でもテーブルにつこうとはしない。そのころわたしは、カラスが(カケスと同じように)鳥の巣荒らしだとは知らなかった。またテーブルにいた一番小さな鳥が、この卵泥棒の1羽でもそばに近づけば、毛を逆だてんばかりだったことにも気づいてなかった。

 

 カラスたちが募るひもじさと闘っている何日かの間、わたしは彼らが空腹に負けてやって来るのを待っていたが、結局のところ1羽たりとも、小さな鳥たちの中に入ってこようとはしなかった。小さな鳥たちの素早い身のこなしや短気な気性をばかばかしいほどに恐れているのだ。腹すかしの連中がいつも気になるわたしは、それならばと、いろいろな食べものを少し離れた場所に広げることにした。肉のかけら、魚や鶏の内臓を置いたスペシャルディナーだ。それなのにカラスたちは近づこうとしない。新手の罠とでも考えているのではないか。カラスたちは農夫との長い戦い末、疑い深くなっており、それは空腹感をも凌ぐらしい。最後の手段として、雪の上に直接、食べものをバラバラと蒔いてみたところ、1時間のうちにカラスたちは食べにやって来た。彼らの最初の食事は、わたしにとって新しい発見となった。カラスたちはガツガツ食べたり、争ったりせず、威厳をもって礼儀正しいマナーで食べていた。それ以降の経験でも、そのときの印象が裏切られることはなかった。

 

 食べものの中に、家畜小屋からもってきた乾燥した固いトウモロコシが混ざっていた。しかしこの賢い鳥は、どれだけ空腹であっても、粒をまるごと飲み込むには無理があると知っていた。緑の柔らかいトウモロコシであれば、彼らはそのまま喜んで食べるだろうが、畑の熟したトウモロコシは手をかける必要があった。カラスたちは一粒だけ(一度にいくつも取ったりしない)、近くの石塀の上の平らなところにもっていくと、それを片足のつめの間で押さえ込み、とがったくちばしで激しくたたいた。その足元を見ていて、かなづちや斧を自分がつかうときのことを思い、震えがきた。でもどのカラスも、正確にくちばしを打ちおろして見せた。ときに下に向けたくちばしが粒の端にあたって、カラスの足元からトウモロコシが滑り落ちることがあった。するとさっと舞い降りて拾い、また塀の上にもどった。1回、2回とそれをやったのち、粒の真ん中を仕留める。粒は割れて飛び散り、カラスはかけらのすべてを集めて食べ、また新たな粒に同じことを挑む。 

 

  あるとき、1羽のカラスがこうやってトウモロコシ粒を砕いているとき、かけらの一つが別のカラスの足元に飛んでいった。そのカラスは頭を傾けてそれを食べようとしたが、最初のカラスがそこに飛んできた。2羽はそこで鉢合わせした。しかし、わたしが想像したように、かけらを挟んで争うのではなく、素早く互いに身を引いた。「おっと、失礼」とでも言うように、うなずきながら、羽を少しもちあげた。と、そこからおかしな譲り合いのシーンが展開された。「どうぞお先に、アルフォンスさん」「あなたの方こそ、ガストンさん」 このように譲り合ったのちに、最初のカラスがそれを口にし、また塀の上にもどって残りのかけらを集めて食べていた。

 

 黒衣に身をつつみ、風格を見せるカラスたちを目にすれば、彼らが品位を失うところを想像するのは難しい。しかし少しして、カラスたちは類い稀なコメディアンであるとわかった。カラスたちは、わたしの知るどんな野生動物(カワウソを除けば)にも増して、遊んだりふざけたりすることに時間をつかっている。何回も彼らが遊んでいるところ(見た目、子どもたちが校庭で遊んでいるような)を目撃していた。あるときは、カラス流のからかいの一幕を見た。実に彼らは社会的なふるまいを見せ、互いをうさばらしの相手と見たてており、一羽だけで行動するカラスは、季節を問わずめったに見かけない。2度ほど白いカラス(アルビノ)を見たことはあったが、一人で暮らすカラスには会ったことがない。

知恵くらべ

 

 からかい(のように見えた行動)が起きたのは、わたしがまだ小さなころのことだった。ベリー実る草原の木陰で、昼ごはんを食べていたときのこと。ほんの2、3メートル先の松の木に、若いカラスが静かに舞い降りた。てっぺんが裂けた変わった見映えの木だった。遠くの方からカアカアと、カラスの群れが鳴く声が聞こえてきた。若いカラスは耳をかたむけて聞いているように見えた。そして助けを求めるような哀れな声でひと声鳴いた。それに群れはすぐに答えて鳴き返してきた。木の上に仲間たちがバサバサと羽をならしてやって来ると、若いカラスは木の裂け目の中に隠れ、上空を群れが行ったり来たりしている間、そこに留まった。仲間のカラスは遠くの松の森の方に探しにいった。また群れがベリーの草原にもどってきて、遠くからカアと声をかけると、若いカラスは外に出て鳴き声をあげた。するとまた群れが大声をあげてやって来て、若いカラスの居場所を見つけようとした。

 

 その遊びは大騒ぎの中で終演をむかえた。カラスたちが起こす騒ぎはたいていそうだ。しかしその騒ぎ声が、怒りによるものか浮かれているだけなのかは、なんとも言いがたい。若いカラスは数回、鳴いては隠れというのをやっていた。そのたびに、群れは今度こそはと意気盛んにもどってきて、あたりを飛びまわり、また来た方向へと散っていった。1羽のカラスが、これを隠れて見張っていた、ように見えた。若いカラスが鳴き声をあげている最中に、その見張りが突進してきて、背後からその姿を捉えたからだ。見張りが放った鋭い合図に反応して、群れがカァーカァーと大声をあげながら、姿の見えない鬼を追って、いっせいにその場めがけて飛んできた。

 

 いかに簡単にカラスを呼び寄せることができるか、このからかい遊びを見てわたしは知った。そしてカラスに計り知れない興味をもつようになった。春にカラスたちがつがうとき、あるいは秋に大きな群れが集まって、冬に向けて仲間を海岸地方へ送りこむ準備をしているとき、わたしはこっそり身を隠し、以前に聞いた助けを求める鳴き声を真似してみた。すると即座に、頭の上を大声で騒ぎたてるカラスの群れが飛んでいった。とはいえ何かおかしなところがあると思った。最初の呼びかけに、カラスたちがこぞって反応することもあったが、木の上にとどまったままだったり、わたしの呼びかけに答えながらも、それ以上の反応は見せず、そのまま飛び去っていったりした。

 

 あるときはすぐにやって来たかと思えば、別のときは知らぬふり、といった不可解な行動をいまも目にする。しかし単なる興味のあるなし以外に、何がこの行動の違いを生むのか、どうしてもわからなかった。北部の荒野では、カラスはまばらにしかいないことが多く、どの季節であれ、彼らを呼び寄せることは不可能だ。そこでは小さな家族集団で暮らし、それぞれ小さなテリトリーをもっている。そして自分の仲間の声をよく知っており、わたしの鳴き真似はすぐに見破られてしまう。

 

 わたしの呼びかけを耳にした「文明化した」カラスたちは、わたしの姿を見ても、いま耳にした声とわたしを結びつけることはないようだった。それは声の主を探しにどこかに飛んでいってしまうから、そして森の別の場所でわたしが呼びかけたときも、直ちにやって来るからだ。わたしがうまく身を隠し、カラスたちが鳴き声の元を見つけられないと、たいていの群れは自分たちの用事をしに去っていく。しかしときにこのあたりと見当をつけて、わたしのいた場所にとどまり、何時間も見張っている者もいた。

 

 ある日のお昼ごろ、わたしは大きなカラスの群れをバージニア松の茂みに呼び寄せ、事の次第を見届けようと思った。カラスの群れはわたしの頭の上をなんどもグルグルまわっていたが、声の主を見つけることはできなかった。わたしはうまく隠れており、またカラスは、羽が充分広げられない茂みの中には入ってこないのだ。午後遅くになって雨が降りはじめ、カラスたちはみんなどこかへ去ったと思った。わたしの呼びかけに、関心を示す者はなかった。ところがわたしが茂みから頭を出してみると、1羽のカラスが見張りをしていた。そのカラスはヒッコリーの枝先にいて、雨の中で身を縮めていた。わたしが顔を出すと、バカにしたようにカアと鳴いた。後方からそれに答えてカアという声が聞こえ、わたしはもう1羽のカラスが、茂みの反対側からも、ずっと見張っていたとわかった。(つづく)

​1 |
bottom of page