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幻覚、それともリアル?!

メヒス・ヘインサー  [エストニア] 短編小説集

死にゆく幸福男、アーベル・ヴィケルプー
Aabel Vikerpuu, the happy dying man

メヒス・ヘインサー | Mehis Heinsaar

だいこくかずえ訳

Photo by by James Johnstone(CC BY 2.0)

世界中のどんな人にも職業、あるいは天職があり、いずれそれが何かを発見するときが来る。アンツラ市民であるアーベル・ヴィケルプーにとって、それは「死ぬこと」だった。ヴィケルプーの天職は、17歳という人生でもっとも輝かしい時期にやってきた。そしてある美しく晴れた朝、アーベルは母親と父親にこのように言った。

 

「大好きな母さん父さん、ぼくはこれから死にます。ぼくの大きな願いでありこの世でもっともやりたいことなのです」

 

そして実際に、その日、アーベル・ヴィケルプーの顔はほてりはじめ、頭が熱くなって、高熱のため倒れた。これを見て父親と母親は涙にくれ、ベッドサイドに立ち尽くした。ところがアーベルは二人を見てにっこり笑い、こう言った。

 

「泣かないで、母さん、父さん。ぼくは元気で健康だったとき、とても悲しかったんだ。人生の目的が何か、わからなかったからね。でもね、いまはワクワクしてて幸せなんだ、自分の行くべき道が見えたからね」

 

両親が泣き顔をアーベルに向けると、息子の顔に天使のような笑みがあるのに気づいた。するとたちまち二人の心は癒やされた。

 

その日から、アーベル・ヴィケルプーの人生は新たなものに変わった。

 

朝、アーベルと同じ年頃の少年少女たちが元気に起きて、学校に出かけていくとき、恵みの熱に襲われたアーベルは、ただちに元気づけられた。クジラ模様のセーターを編んだり、村の人々についての軽妙な詩を書いたり、ドアの枠を的にナイフ投げをやったり、その熱のせいでやることなすことが素晴らしい成果をあげた。午前中のあいだに、アーベル・ヴィケルプーの運命の病は大きな躍進を見せた。脇の下から汗がにじみはじめ、ライムの花のはちみつのような香りを漂わせたので、マルハナバチやセキレイ、ズアオアトリがその匂いに誘われてやって来た。ハチや鳥たちは窓や入り口から飛びこんでくると、アーベルのまわりで声をあげ、頭の上を散歩したり、飛行機模様の毛布の上を跳びはねた。

 

昼が近づくと、アーベル・ヴィケルプーの運命の病はますます勢いを増し、苦しげな目や笑いの発作に、最後のときが近づいているのが見てとれた。そして時計が正午を告げると、アーベル少年は目を閉じ、死の兆候を見せた。アーベルの心臓の鼓動はとまり、魂が光り輝く玉となって口まで上がってきた。そこからもう3回、人生最後の呼吸をすると、ゴロゴロという音がアーベルの胸から聞こえ、部屋は天使の羽が放つピリッとした匂いに包まれた、、、すると、どうしたことかアーベルのからだに生命の息吹が返ってきた。アーベルの脈が再びドクドクといい、2、3時間のうちに熱がさがって、アーベルはベッドから起き上がり、冷蔵庫に何か食べるものを探しにいくほど力が湧いてきた。夕方には、仕事から帰ってきた両親といっしょにテレビの前にすわり、一日の仕事を終えた工員のような気持ちで、始まったばかりの新番組や映画を見はじめた。

 

そんな風に、奇妙な病気を真ん中に、アーベル・プーの新しい生活がはじまった。

 

アーベルの運命の病を研究するため、あちこちから医者がやって来て、世にも珍しいこの病気に驚いていった。肺結核の最終段階の症状を見せているのに、レントゲンを見ると、肺のどこにも悪いところは見つからなかった。しかし、一人の医者が威厳をもって、さらなる検査をするため病院に行くことを勧めると、アーベル少年はきっぱりとこれを拒んだ。

 

「きみは本当に病気を治したくはないのかい、このわからずや君!」 医者はあきれてこう尋ねた。

 

「元気でいると、自分自身を重荷に感じるんです」とアーベルは答え、医者に背を向けた。

 

死にゆく幸福男、アーベル・ヴィケルプーの噂は、小さなアンツラの町にまたたくまに広がった。死の恐怖にとりつかれた年老いた人々、あるいは若くても慢性疾患を患っている者は、アーベルのもとを訪れ、肺結核患者のように頬を赤く染め、飛び交うハチやズアオアトリに取り囲まれて死の床にいる陽気な若者を見て、明るい希望を心に灯した。人はこの世を去る際に、このような祝祭をもって迎えることができるのか、と羨ましさと尊敬の念で見つめた。昼までの間に、自分のまわりにあるりんごの木一つ一つに、セキレイに、ひとつかみの草に、アーベルがどのように別れを告げたかに感心した。正午になると誠実に死を迎え、そのすぐ後にまた、誠実に息を吹き返したのだが。この小さな奇跡を目撃したことで、多くの人は人生に新たな希望を与えられ、何人かの人は心からの安らぎを得た。

 

その日の午後、死にゆく幸福男の再生の後、アーベルのベッドの周囲は、楽しく自由で解放された雰囲気に包まれた。人々はコーヒーをいれ、生き返ったこの男の世話をし、互いの病気や不安について冗談をかわし、天気や政治について議論し、国の諸問題ばかりか休暇に家族でどこに行くかにまで話を広げた。何年もの間、家族の間で取り組んできた差し迫った問題が、アーベルの死の床のそばで、予想もできない方法で、ごく簡単な解決法を見つけたのだ。

 

「これ、これ、この木から木切れを盗んではダメ!」 死にゆく幸福男のまわりを飛び交うズアオアトリが鳴き叫んだ。悩んでいる人々の表情は、人生の喜びと希望に彩られた。

 

春が来て、あっちでもこっちでも花々が咲きはじめると、アーベル・ヴィケルプーの死のベッドは、朝早くに桜の木の下に設置された。暖かな太陽が、死に満たされたアーベルの心を温めると、アーベルは立ち上がって、ベッドのまわりにいる年老いた人々の集団に指示を与えた。アーベルは老人たちに地面を掘り起こさせ、ディルやえんどう豆、その他の豆類を植えさせた。その結果、ベッドのまわりは野菜畑の迷宮となった。正午になって、アーベルの口から死のため息が3つ吐き出され、心臓の鼓動がとまると、ベッドのまわりの老人たちは沈黙の中しばし立ち尽くした、、、

 

生き返ったアーベルは、ベッドに寝たまま、かすかな笑みを浮かべ、祝福を受けた。2、3時間たつと、アーベルは起き上がり、機知に富んだテンポの早い物語詩を披露しはじめたので、病気の人、年老いた人もアーベルが異教の神であるかのように、そのまわりで小鳥のように浮かれ踊った。

 

アーベル・ヴィケルプーがとても元気に見える日があって、もう死の床に伏せているのが似合わないことさえあった。奥さん連中のうちの年配の崇拝者や取り巻きたちは、失望した顔をアーベルに向けて、その場を去った。アーベル自身も、どうしていいかわからず、不安げだった。アーベルは両手を意味なくもみ合わせながら、窓の外をぼんやりと見つめ、あっちの部屋こっちの部屋と歩きまわり、あくびをし、自分にとっても家族にとっても、そのことが重荷となっていった。

 

「しっかりしなさい」と母親と父親はいましめた。息子の病気から益を得ることが当たり前になっていた両親はそう言った。「あなたにはできる、いつだってできたんだから」

 

近所の人たちも、良いニュース、幸福な死のニュースをいまかいまかと待ちこがれ、1週間か、2週間おきに、様子を見にきた。簡単に命をもっていかれてしまうようなら、アーベル・ヴィケルプーはアーベル・ヴィケルプーとは言えなかった。そのようにしてまた、喜びと希望がアンツラの町に広がった。

 

そんな風にして年月がたった。死にゆく幸福男の噂はどんどん広まり、年寄りやからだの不自由でない人々も、アーベル・プーのもとを訪れるようになった。若く健康な者も会いにやってきた。美しく花盛りのからだと心をもつ女性たちもやって来て、死にゆく幸福男に自分の若さや魅力を振りまいていった。その女性たちは、老人たちの嫉妬の視線にもめげず、アーベルを誘惑することさえいとわなかった。新アンツラの町からやって来るだけでなく、アンツラや旧アンツラの町からも、そしてコベラ、ヴァルガ、オテパーからも人々はやって来た。不感症に陥った中年の妻たちは、ハチや鳥のすきまからこっそり手を伸ばし、毛布の下の死にゆく幸福男のからだにさわることで、性欲が回復するのを感じることができた。そしてみんなが密かに恐れていたことがついに起きた。カイという名の陽気な女性が、アーベルの見事なナイフ投げに、ピーピー鳴く鳥の歌に、はちみつ香る死にゆく幸福男の汗に感動して恋に落ち、無頓着に身をささげたことで妊娠した。

 

ところがそれはアーベルの人生に難題をもたらすことになった。

 

アーベルが父親になろうとしているという出来事は、新婦の家族にハチの巣をつついたような騒ぎをもたらした。女性の両親が「おまえは怠け者の仮病使いで、性懲りもなくいつまでも同じことをやっている」と文句を言いに来たので、アーベルは死ぬという自分の才能を疑いはじめた。そしてアーベルが熱も出さずに起きることが増えれば増えるほど、健康体であることで気持ちが落ち込み、天井を見つめることが増えていった。それによりアーベル最後の崇拝者たちも追い払うことになった。そして、長いこと健康状態を保つうちに、アーベルは他の人の意見を受け入れるようになっていった。終わりのない治療、医者たちによる健康法や薬によって、アーベルはもう取り返しがつかないまでに健康体となり、自分の中の死にゆく幸福男を殺し、麻痺させていった。

 

かつての習慣から、1ヶ月、2ヶ月とアーベルは愛する死の床に大の字になって横たわりつづけたところ、恋心からすっかり覚醒した妻が、バカなことをやってないで、仕事を探しにいけと言い出した。

 

アーベル・ヴィケルプーは幸福に死んでいく才能でよく知られ、名をあげていたので、葬儀場の死に化粧員と葬儀リボンの作り手として、すぐにタルトゥの街で仕事をみつけた。しかしこの業務をアーベルはうまくこなせず、毎度、死体に問題をもたらした。あるときはぶつを早々に腐らせてしまい、あるときは恐怖から、死体をまるごと一つ行方不明にさせた。

 

それにつづくアーベルの人生で語るべきことはあまりない。他の人と同様、退屈なだけだ。アーベルは妻のカイや子どもたちの世話をよくし、家庭的でまじめな男になった。料理を上手にこなし、仕事もなんとか扱えるようになったものの、天職とは言いがたかった。今でもときどき、アーベルはやけっぱちの気分で、屋根裏部屋でガラクタの中に埋まっているかつて愛した死の床にこっそりと横たわり、熱を計り、息を止められるだけ止めてみるのだった。しかしこのような馬鹿げた真似ごとは、以前の輝きとは比べようもなかった。

 

アーベル・ヴィケルプーは両側肺炎のため、高熱を出した後すぐに56歳で死んだ。人生最後の週に、アーベルが死の床に横たわっていると、部屋から再び、フルートの音色と明るい笑い声が聞こえてきた、と言われている。しかしこの情報の真偽は定かではない。それはアーベルの死を見届けたのが、妻と子どもたちだけで、その証言には嘘が混じっていた可能性があるからだ。

 

それでも、もちろん、このような達人の死が記憶されるのはいいことに違いない。

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