幻覚、それともリアル?!

メヒス・ヘインサー  [エストニア] 短編小説集

キツネと鶏 | Foxes and Birds

メヒス・ヘインサー | Mehis Heinsaar

だいこくかずえ訳

Photo by by anjelkam@hotmail.es(CC BY-SA 2.0)

木曜日の朝のこと、住宅建築家のレイン・ビハレムは、ひとりコーヒーを手にすわっていた。ぼんやり窓の外を眺めていると、自分がゆっくりとキツネに変わっていく感じがしてきた。奇妙な感覚だ。急にまわりに対して警戒心が生まれ、鼻孔が気になる匂いを嗅ぎつけた。そして隣りの家の庭にじっと目をあてている自分に気づいて驚く。そこには鶏が歩きまわっていて、どれも肉づきがとてもいい。レイン・ビハレムは口からよだれが垂れているのを感じた。ビハレムは唐突に椅子から立ち上がるが、思い直してすぐにまた腰を落とした。

 

「なんてことだ。私は気でもちがったのか?」 恐ろしくなったレインは、もう一杯コーヒーをマグカップに注いだ。そして椅子にすわり直し、スモモの木にじっと目をそそぐ。

 

と、次の瞬間、さっきの興奮がよみがった。レインは外に走りでると、隣りの家のフェンスのところに身を潜めた。スグリの茂みの向こう、金網で囲われたところに、13羽の丸々としたみごとな鶏が歩きまわってる。レインは目を大きく見開いて鶏を見ていた。口の端から舌をダラリと垂らし、尻のあたりにさっきまでなかったムズムズしたものを感じはじめていた。胸のときめきがどんどん高まり、ついにがまんしきれず、フェンスを飛び越えて、鶏の群れの中に飛び込んだ。即座に3羽の鶏の首をキュキュッとひねると、レイン・ビハレムは一息ついた。あとで思い返してみても、自分の手際の良さは驚きだった。脇に3羽の鶏を抱えこみ、レインはフェンスを超えて家に戻ろうとしていた。そのとき、女の声がしてレインは足をとめた。

 

「ちょっと、あなた、ここで何してるの?」 自分の背後から誰かがとがめた。誰かというのは隣りの家の奥さんだった。インゲ・テダーという。

 

即座にキツネの外皮を脱ぎ捨てたものの、獣のずる賢さと人間の知性をたずさえたレイン・ビハレムは、何ごともなかったように振り向いて、隣人にほほえみかけた。

 

「お礼を言うのではなく、腹をたてるとは。どうしてなんです、インゲ」

 

「聞きたいのは、うちの庭で鶏を抱えていったい何をしてるのってことよ」  隣りの奥さんは厳しい調子で声を張り上げた。

 

「いいでしょう。それが知りたいなら、ご説明しましょう」とレイン・ビハレム。「何が起きたかといえば、わたしは家のキッチンで朝のコーヒーを飲んでました。仕事を始める前にくつろいでいたんです。すると窓の外に突然あらわれたんですよ、キツネが! 毛並み豊かなしっぽの長いやつです。そいつが私の庭をとおって、お宅の鶏小屋の方へコソコソと向かっていった。そしてジャ~ン! フェンスを超えて鶏の首もとにまっしぐら。ああ、なんてことだ!と私は声をあげました。そしてキツネのあとを追ったんです。運よく、ぎりぎりのところで、やつが1羽残らず食い殺そうというところに、なんとか間に合ったというわけです」

 

「あなたの話は変だし、信じがたいわね、お隣りさん。ここであたしはキツネなんて、一度も見たことないの」 隣りの奥さんは疑わしげな口ぶりで、両手を腰において威嚇してきた。

 

「見たことないですって、でも今日いたんですよ」とレインは言い返す。「その一度っていうのが、初めてのことになるんです」

 

「そりゃ、面白いことね。じゃあキツネはどこに行ったの?」 

 

「ん?」

 

「だから面白いと言ってるのよ、そのキツネはどこなの? その不思議な生きものを見てみたいものだわ」 奥さんの追求はやまない。

 

「信じてくださいよ、インゲ」 レインは落胆のため息をつきつつ、目の端に涙さえにじませて言う。「私が追い払ったんですよ。やつは最初、私の足にかみつこうしたんですよ。あいつが今、どこに行ったのか、本当に知らないんです」

 

隣りの奥さんはこれを聞いて、及び腰になった。物腰がやわらかくなったようにも見えた。

 

「最近ロンドンやベルリンの郊外で、キツネが出まわっていることをラジオで聞いたり、新聞で見たりしてないんですか?」 レインは勢いづいて話をつづけた。お尻のあたりがまたムズムズし始めたのを感じていた。「やつらはハンターも警官も、もはや恐がったりしません。普通の人ならなおさらです。そしてこの小さな町にも災難がやってきた、ひどいじゃないですか?」

 

これを聞いたインゲ・テダーが困惑した表情を見せ、男にうなづいてみせたとき、レイン・ビハレムは自分の中に、何か新たなものが湧き上がってくるのを感じた。さらなる狩りへの熱い思い、そのことに自分でもショックを受けていた、、、そしてキツネの狡猾さと人間の知性が混じり合い、今こそ新たな獲物に手を出すのにいいタイミングだとわかった。

 

レインは隣りの若い妻に近づくと、手をとり、その目を覗き込んだ。

 

「じゃあ、あなたはわたしが悪いことをしようとしたと?」 レインは優しく聞いた。「わたしはただ、獰猛なキツネがあなたの鶏に一匹ずつ襲いかかって殺そうとしたのを見ただけです。いいですか? もしそれが良くないなら、謝りましょう。今後ぜったいにもう、あなたの鶏小屋に侵入したキツネとやり合うなんてことはしませんから。誓って言います」

 

二筋の涙がレインのほおをつたい、インゲ・テダーの手に落ちた。レイン・ビハレムは背を向けて家の方に向かおうとした。

 

「ちょっと待って!」 隣りの女はその背に向かって言った。「そんな風に出ていくなんて、わたしを犯罪人みたいにして。もしあなたの言うことが本当なら、、、こちらに来て。お礼にコーヒーの一杯でもごちそうしますから」

 

あいまいな笑みを浮かべながら、レインは女のあとについて中に入った。その左手には、さっき絞め殺した3羽の鶏がぶらさがっていた。

 

インゲ・テダーはポットいっぱいのコーヒーを淹れ、それにサンドイッチを添え、二人はテーブルについた。すぐに楽しげな会話が部屋に満ちた。レイン・ビハレムがさっきよりもっと面白おかしくキツネ狩りの様子を話しはじめると、笑いの渦ができた。目を輝かせ、手を振りまわして、レインはキツネが自分の手を逃れて、再び鶏小屋に向かっていったとき、どうやってこの鶏どろぼうの首根っこをつかんだか、詳しく話して聞かせた。レインは昔の出来事をペラペラと語り、子ども時代に狩りが好きだったという話になった。キツネを以前にあちこちで追ったことがあり、それは何回にもおよび、捕まえることすらあった、と。

 

「でもあなたはずっと建築家だったのでは?」 インゲがこれを聞いて驚いて言った。

 

「ああー、それはまったく馬鹿げてますよ。わたしの人生で一番大事なことは、ハンティングだったんです」 レインは目をギラリと光らせて答えた。

 

レインのハンティング話は、隣り奥さんインゲの心を刺激した。二人の子ども、ミリヤムとミーケルは、祖母の家に父親と行っていて、夕方まで帰ってこないので、隣人の愉快な話をまだまだ聞きつづける時間がたっぷりあった。季節は春、花々の香りが庭から漂い、温かな風が部屋に流れこんできた。

 

インゲはすぐに笑いをこらえられなくなり、目に涙をためてレインのハンティング話に耳を傾け、驚きの声をあげた。話の大半はキツネを追う部分で占められ、様々な罠を仕掛けたり、犬を連れて追いまわすといったものだった。中でもインゲが特に好んだのは、キツネがしばしばハンターや犬の裏をかいて、逃げおおせる話だった。そのような話は驚きの連続で、じっとその場にすわってするのではこと足りず、レインはテーブルのまわりを歩きまわり(ときにコソコソ歩きをしたり、ときにつま先立ちをしたり)、インゲの前にひざまづいたり、両手で彼女を捉えたりし、と同時に早口で支離滅裂なことを説明したりした。レインはそれから椅子の上に飛び乗り、冒険談をその高いところから見下ろしてつづけた。それがとりこにさせられる話であれ、奇妙な話であれ、レインの目から、野生の生きものの輝きがインゲに向かって突き刺すように放たれた。するとインゲはドレスの胸元のボタンを二つ外したので、レインは驚くべき話をしながらもそのそばにすり寄っていった。インゲのからだはどこもかしここも、レインの語りに覆われていた。インゲのあらわになった胸が、レインの語りの膜と口づけに覆われると、インゲはドレスの前をすっかり開け放った。それでレインはドキドキするようなハンティング話を進めるために、インゲのからだのすべてを手にすることができた。

 

レインは本当には起きていない、自分の人生における大胆不敵な話を長々とした。しかしながらその話は、レインが実際に体験したこと以上に、本当らしく聞こえた。そのため、思い返しながら話す必要はなかった。

 

そしてついにレインがインゲの太ももの間へと迫り、秘密の部屋へとつづくピンクのドアを巧みな舌で触れようとしたそのとき、インゲ・テダーは正気に返り、この隣りの男がずっと人間の言葉で話していないことに気づいた。レインはよくわからない言葉で話をしていた。うなり声とキャンキャンいう吠え声にゴロゴロとノドを鳴らす音が混じっていた。どうやってこれをインゲは解読していたのか。この小狡いイヌ野郎は、いかにして二人の子をもつごくまともな女性であるインゲを、滑らかなしゃべりで引き込むことができたのか。インゲはまったくわけがわからなかった。とはいえ、甘い驚きの中でインゲがこの謎を解こうとしている間にも、レインは女の後ろにすみやかにまわると、自分の好色な息子をインゲの秘密の部屋へ導こうとしていた。そして面白おかしいハンティングの話をつづけながら、楽しげにその息子を部屋から出たり入ったりさせて遊ばせた。大声で叫び、吠え立て、女の髪に噛みつきながら、レインは背後から、テーブルの上の3羽の鶏の間にインゲを押し倒した。いまやこの女性も、尋常ならぬ物語で誘い出され、それに驚いたり笑ったりしているだけではなかった。自ら大声をあげ、吠えるように叫んでいた。そして熱い精液がヴァギナに侵入し、ついには二人揃って床に崩れ落ちた。

 

戸外では、プラムや桜の木が家のまわりで花を咲かせ、晴れた空のもと、ハチたちが花から花へと飛びまわっていた。小さな町の暖かな春の日は、午後を迎えた。

 

レイン・ビハレムはキッチンの床からやっと起き上がり、繊細で誠実な建築家の自分を取り戻した。そして自分のそばで裸の女性が床に寝ているのを見て困惑し、恥ずかしさでいっぱいになった。ほんの少し前には、狩りの喜びを露わにして跳びはねていたずる賢い生きものは、戸惑う男をそこに残して、獲物を手に森へと去っていった。テーブルの上の鶏には何の興味もわかず、レインはこそこそと服を着、モグモグと言い訳めいたことを口にしながら隣人の家から出ていった。

 

一方、インゲ・テダーの方は、床に寝そべったままキッチンの天井をボーッと見つめ、どのようにしてこのようなことが起きたのか、理解できないでいた。インゲの視線は壁の時計にいき、良識ある妻はやっと目を覚ました。急いで服を身に着け、鏡の前でさっと髪を整えると、大きなスープ用の鍋に鶏を入れ、茹ではじめた。夢見るようにハミングしながら部屋を掃除し、夫と子どもたちの帰りを待った。

 

というわけで、隣り合う二つの家族は、何ごともなかったかのように生活をつづけた。レイン・ビハレムは小さな住宅の設計を律儀につづけ、病気の父親の世話をした。一方、テダー家は可愛い子どもたちを育て、週末には自然の中へと楽しい旅をした。ビハレム家とテダー家がフェンス越しに顔をあわせると、隣同士がよくするように、天気の話、キュウリやカブの育ち具合など、変わりなく言葉を交わすのだった。

 

ごく稀に、プラムや桜の木が花を咲かせ、4月の心地よい風が家のまわりをつつみ、春の気配がただよう気だるい朝には、レイン・ビハレムは、隣りの鶏小屋の方にこっそり首をのばしている自分に気づいた。とはいえ以前のキツネがレインの中で蘇ることはもうなかった。ため息をついて、レインは隣りの庭に目をやり、プラムの花が春の風に揺れているのに目をとめた。そして憂鬱な気持ちで、まだ終わっていない設計プロジェクトに取りかかるのだった。

 

インゲ・テダーも同じ頃、胸騒ぎをかかえつつ、窓から外を眺めている自分に気づくのだった。インゲは隣人がまた鶏小屋に侵入していないか、そっと覗く。そしてホッとため息をつく。何も変わったことはないと、自分を安心させるのだった。