幻覚、それともリアル?!

メヒス・ヘインサー  [エストニア] 短編小説集

蝶男 | The Butterfly Man

メヒス・ヘインサー | Mehis Heinsaar

だいこくかずえ訳

Photo by Michel Rathwell(CC BY 2.0)

サーカスの団長のオフィスに入ったとき、アンセルムはあまりの驚きで開いた口が塞がらなかった。目の前のデスクにすわっている男の頭が、とつぜん魚の頭になったのだ。しかし、それは目の錯覚だったに違いなく、次の瞬間には、何の問題もない(背の低い、太ってはげた)男が、自分に向かって声をあげていた。

 

「ノックもせずに、なんで人の部屋に入ってくる? ずうずうしいヤツだ。昼飯をくってるとドアに書いてあっただろう。自分をなんだと思ってる。何の用だ、いったい。いや聞くんじゃなかった、とっととここから出ていけ!」

 

アンセルムはそう簡単に引き下がるわけにはいかなかった。ボルスロースキー・マジック・サーカスで職を得ようと決意してきたのだから。

 

「ああ、ほんとにすみません、、、あなたが団長さんでしょうか」

 

その男の顔が曇るのを見て、この人がボルスロースキーであると確信した。

 

「あの、ボルスロースキーさん、率直にお話ししましょう。あなたのサーカスで奇術の仕事を得たいと思いまして」

 

これを聞くと、小さな男は突然態度を変えて、椅子から滑り降りるとあえぎながら小走りでアンセルムの方にやってきて、目をグリグリさせながら下から顔を覗き込んだ。「そうか、あれを見たんだな。広告の中身はよく読んだか?」

 

「読みました」とアンセルムは言い、男の疑わしげな視線に身を引いた。

 

「読んだのであれば、本当に技術のあるものしかチャンスはないとわかってるな」 そういうと男は口の端をあげて微笑んだ。「自分の技術を証明する書類か、できる演目のリストはあるのか?」

 

アンセルムの声が少し自信なげになった。「書類のようなものはないんですが」 床を見つめて口ごもった。「でも瞬時にカードで家がつくれますし、帽子から2匹のウサギが出せますが、、、」

 

アンセルムはボルスロースキーの笑みが軽蔑に変わったのを見て口をとざした。「そうだな、きみ、そういう古い帽子のたぐいは、いくらきみがうまかったとしても、ウサギだのカードだのは今の客には受けない。うちの新しい奇術師のエルネストのことを話そう。彼はとても有能でね。そいつの特技は小さな物体を他のものに変えるんだ。本物の名人だ。たとえばエルネストは観客の腕時計をじっと見つめて、セキレイに変えてしまう。誰かのジャケットのボタンを見つめるだけで、銅貨にしてしまう。彼にとって朝飯前なんだ。一度なんか女性の靴のひもをヒメアシナシトカゲに変えてみせた。その女性は心臓発作を起こさんばかりだったけど、すごい奇術だ。だろ? エルネストの演目は真夜中までかかることがある。でも客は喜んでそれに付き合う準備ができてる。なぜなら本物の芸術だからさ。わかるかな?」

 

アンセルムは素直にうなずいた。「でも、彼に何が起きたんです?」

 

「何が起きたか、何が起きたか、、、いつもこれが起きるってことだ。才能があればあるほど、頭脳は必要ない。ある晩なんかピンポンの玉を金の手袋に変えて、それに自分が殴られて耐えていたよ。自分の力を過大評価してたわけだ、、、で、わたしはちょっと忙しいんで、きみには引き取ってもらいたい。ここできみに与える仕事はないね。わたしのところの客は場馴れしてるから、きみの芸ではブーイングだ。じゃ、そういうことで」

 

「この世で誰も自分を必要としてないんだ」とアンセルムは失望した。「だからこうしてボルスロースキーに追い出されるのも当然なんだ」

 

意気消沈して、アンセルムはドアに向かった。ドアのノブに手が触れたとき、アンセルムのからだからハラハラと蝶の群れが溢れ飛び出し、団長のオフィスをいっぱいにした。アンセルムは顔面蒼白になり、腕を振りまわして飛びまわる蝶をとらえようとした。振りまわした腕で、花瓶や金魚の入った水槽を壊してしまった。この魔術師の一挙一動を見て茫然自失になっている団長の方に、荒んだ目を向けながら、つかまえた蝶を自分の口に押し込んだ。

 

「わたしはこの時間にいつもランチを食べるもんで」というのが、アンセルムの間抜けな弁解だった。「食事の時間は守るんです」

 

これでは説明になっていないと気づいて、アンセルムは部屋から出ていった。階段を走りおりているとき、誰かが後ろからあえぎながらついてくるのが聞こえた。正面玄関のところで、団長はアンセルムをつかまえた。「おい、なにを急いでる。いまきみが見せてくれたもの、蝶の群れだが、素晴らしかったよ!」

 

「、、、ああー、お願いですから、わたしの不具をからかわないでください」と言って、アンセルムは遮った。「もう充分、耐えてきたんですから。いつもこうなんです、わたしが強い感情をもつと、この生きものがからだから飛び出してくるんです。このせいで学校ではいじめられました。親戚も、わたしの両親でさえ、わたしのことを奇人変人呼ばわりします。でもわたしは正常なんです」

 

「わたしのこの状態に興味をもったのは、変態的な生物学者くらいでした。マニアックな興味をもったんです。彼女は実のところ、わたしの愛人になりました。隅々までわたしのからだを調べたかったからです。わたしのからだから出る蝶の中に、マーシュカーペットとミノムシの蛾を見つけました。彼女が最も好んだのはパープルエンペラーで、それはわたしがエクスタシーに達すると現れる蝶です。彼女は500種を超える蝶を観測しました。どの種もどうもわたしの気分を表しているみたいでした。わたしはついに彼女のやってることに嫌気がさして、家から追い出しました。そういうことです」

 

「だけどこれは素晴らしいの一言だよ!」と団長は大喜びで声をあげた。「その生物学者はすごいね、そしてきみは、偉大なる若きマジシャンだよ。明日、きみはわたしのサーカスの一番の呼びものになる、もちろん、きみが良ければだけどね。サラリーは3倍にする。素晴らしい仲間たちに会ってくれ、ここの施設を案内してくれるよ」

 

顔を赤くして興奮状態の団長は、アンセルムを舞台裏に連れていき、その手に法外な額の金を握らせた。「これは前金だ」 そして「イルムギールト!」と叫んだ。「こっちに来て、我々の若きマジシャンにわが本部を紹介してくれ!」 団長は軽く一礼すると出ていった。

 

イルムギールトは巨大な女性だった。3メートル以上はありそうだ。ふさふさとした大量の赤毛をポニーテールにして、笑うと白く輝く歯をズラリと見せた。「イルムギールト、ライオン調教師よ」 低い喉を鳴らすような声で自己紹介し、傷のある手を差し出した。

 

「お会いできて嬉しいです、アンセルムです。二流の奇術師です。わたしのことを蝶男と呼んでくれてもいいです」 アンセルムは自分の足元を自信なげに見つめ、ボソボソと言った。イルムギールトは笑顔でアンセルムの腕をとった。この風変わりなカップルは舞台裏を見てまわるため歩きはじめた。

 

アンセルムはそこで奇妙な人々の集団を目にした。見たことのない世界、ゆがんだ夢の中をさまよっているみたいだった。からだが透明な男がいた。そのまわりをハーレムのように透明ではないからだの華やかな女たちが取り囲んでいた。額から白い角を生やしているしわくちゃの老女がいた。彼女の吐く甘い息は、アンセルムに長く忘れていた過去の世界を思い起こさせた。両腕に羽をつけた二人の子どもが天井のあたりを漂っていた。その飛び方はコウモリみたいだった。またアクロバットの訓練をする様々なグループがいて、その人たちの皮膚は魚のうろこにおおわれていた。たくさんの付添人が、「芸術家たち」の気まぐれな要求にいつでも応えられるよう、せわしなくあちこちを歩きまわっていた。

 

アンセルムはこのサーカス団を見てまわって、ひどく不安になった。もしこれが世界のあちこちから集められた奇人たちであるのなら、あるいは自分が光栄にも加わることができたのが、珍しくも素晴らしい生きものの集団であるのなら、ここでうまくやるのは難しいと感じはじめた。イルムギールトがこの新しい仲間たちをどう思うかと聞いてきたとき、アンセルムはおずおずと肩をすくめ、こう答えた。「たぶん、わたしもその辺にいる平凡な奇術師程度にはできると思うけど、ちょっと怯えてます」

 

この感想にイルムギールトは腹をたて、アンセルムの首根っこをつかむと、自分の巨大な胸の間に挟んで締めつけた。「そんなことを言うなんて、あんたはちっぽけな能なし野郎だね」 激しい口調だった。「あたしがモンスターかなんかとでも? あたしは自分のパワーと美しさを恥じなきゃいけない、そうなの?」

 

攻撃されているあいだ、アンセルムはイルムギールトの深いグリーンの目を覗きこむはめになり、大きな胸から発散されるジャコウの匂いに酔わされて、突如、最高のエクスタシーの印である、エンペラー蝶の大きな群れをからだから噴出させた。

 

これを見たイルムギールトは即座に態度を軟化させ、アンセルムの前でひざを折り、優しい声で話した。「教えてちょうだい、蝶男さん、なぜあんたは自分の特質を恥じるの? そうではないのに、バカなペテン師みたいに振る舞うの? あんたの居場所はここ、あたしたちと一緒にね。あっちの世界では、あたしたちはみんな不具な奇人と思われてる。でもここでは神みたいに称賛されてるの。こっちに来て、あなたの部屋を見せてあげる」

 

イルムギールトは小さな子にするように手をとると、アンセルムを新しい住居へと導いた。そこは豪華な部屋で、二人の頭のはげた付添人がかしずいていた(一人がすぐにアンセルムの靴を磨きはじめ、もう一人はジャケットの手入れをはじめた)。部屋を出ていく前に、イルムギールトは身をかがめ、アンセルムの耳元で、明日の演技のあと、自分の部屋で待っているから、とささやいた。そのとたん、キクギンウワバが数匹、アンセルムのからだから湧いてでた。蝶男の心の混乱の印だった。

 

その晩、かつての二流奇術師が混濁の悪夢の中に迷い込んだのは、真夜中を過ぎた頃だった。彼の人生は、とうとう、こんな予想もしないところへたどり着いてしまった。アンセルムは巨大なカブトムシの中にある舞台に引きずり出され、人間の大きさの虫やムカデの聴衆が、彼の演技を待ち受けていた。アンセルムは舞台の真ん中で震えながら真っ裸になるまで、自分の黒い殻をはぎとり始めた。突然、聴衆が立ち上がり、舞台になだれ込み、ガツガツとアンセルムを貪り食うのだった。運のいいことに、朝になって目が覚める前に、アンセルムはそのひどい夢を忘れていた。しかし子どもじみた恐怖のようなものが、心の隅に残った。その晩、披露されるべき演技はそれほど簡単ではない、という予兆だった。

 

心を鎮めるために、アンセルムは街を歩こうと外に出たが、通りを曲がるごとに、サーカスの広告ポスターが現れた。

 

マジック・サーカスへようこそ!

すべての演目が世界の不思議に満ちみちています!

一番の呼びもの、それは「蝶男」

著名な世界的昆虫学者

アミルガルディ教授が登場して、

誰も目にしたことのない蝶の種類を特定します!

おいでください、後悔することはありません。

 

すべてのポスターで、2、3匹の蛇目蝶がアンセルムから湧き出し、ちょっとした恐怖心をあおっていた。アンセルムは人々の注意を引かないよう、すぐにサーカスに戻った。

 

夜が更けていくと、アンセルムの恐怖心は、自分の周囲への無関心に取って代わられた。演技の前に、アンセルムは燕尾服を選んだが、それは3サイズは大きすぎるものだった。それにてっぺんの尖ったバカバカしい縁なし帽子をかぶった。付添人たちは心配そうにアンセルムを見ていたが、干渉することはなかった。アンセルムは幕のうしろで順番を待ち、深い脱力感の中へとゆっくり沈んでいった。

 

するとどこからともなく、サーカスの団長が顔を真っ赤にして、ゼイゼイ息を吐きながらヒョロリとした鼻眼鏡の男を連れて現れた。団長はすぐに、アンセルムを隅々まで検証した。「アミルガルディ教授を紹介してもいいかな。しかし君の着てるものはいったいなんだ? マジシャンには見えないな。まあ、自分のことはわかってるんだろうけどね。7分後には舞台だ」 そして顔面蒼白のアンセルムと鋭い目をした教授が見つめ合っているのを置いて、去っていった。

 

この居心地の悪さを抜け出そうと、蝶男は幕の方へと歩いていき、舞台を覗きみた。そこではキラキラするレオタードを着たイルムギールトが、ちょうどライオンとの芸を終わらせたところだった。イルムギールトはヘラクレスの妻役を完璧にこなしていた。会場は人でいっぱいだった。広告が効いたのだ。そして拍手が起きた。アンセルムの番だった。

 

顔を赤く染めたイルムギールトが2頭のライオンを連れて蝶男のそばを通りすぎ、幸運の投げキッスを送ってきた。そしてアンセルムと教授と付添人が舞台に現れると、とどろきわたる拍手が彼らを迎えた。これにもアンセルムの沈んだ心は揺り動かされることがなかった。リングの真ん中に置かれた椅子にすわり、脚をくみ、自分の右足に目を落としていた。ピン一本落ちても、聞こえるほどの静けさだった。

 

「そうそう、そういうことだ」とアンセルムは自らにほほえみを投げかけた。「今日は世界で最も機知に富んだ演技を見に、客はやってきている。脚をくんで椅子にすわり、何もせずに去っていく奇跡の男だ」 一瞬の間なら、そんな演技も面白く見えるかもしれない。

 

その間、付添人たちは心配そうにアンセルムのまわりをうろつき、アミルガルディ教授は拡声器を口元にたずさえ、これから登場する蝶の名前を叫ぼうと待っていた。しかし蝶男は無表情でただ椅子にすわり、右足をネジ巻き人形のように揺らせるばかり。聴衆は静かなままだった。しかしどれくらい耐えられるか。

 

すると最前列にすわっていたサーカスの団長が立ち上がり、付添人の一人を手招きして何か耳にささやいた。付添人の男はいわくありげな表情で、舞台中央に走ってもどった。この行為が期待で胸をときめかせていた聴衆の注意をとらえた。

 

付添人たちはそれぞれ自分のポケットから小さなものを取り出した。鳥の羽柄、半分の玉ねぎ、小さなペンチ。3人の付添人は、むっつりとしているアンセルムから笑いでも悲鳴でも何でもいいので引き出そうと、そのまわりに集ってきた。しかし微かな笑いしか、アンセルムから引き出すことはできなかった。

 

観客のいくらかは、これこそがミイラ化した蝶男で、まわりの者が生き返らせようとしているのだ、と思いはじめ、アンセルムが少しでも声を出すと、熱狂的に拍手をおくった。しかしその他の者は、これは何だという風に眉をしかめ、こんなものを見せられてと否定的だった。

 

特別なにも起きずに、さらに2、3時間が経過した。奇跡が起こるのを待つことに慣れている聴衆も、だんだんイライラしはじめた。そして最初のヤジが飛んだ。しかめっ面をして出ていってしまった者もいた。しかし多くの客は、その大半は様々な分野で活躍する自然科学者だったのだが、そこにとどまってこの先何が起きるのかを見守ることにした。その中に心配そうなイルムギールトと、椅子に沈み込み惨めな思いをかかえるサーカスの団長もいた。

 

真夜中になると、アンセルムは深い眠りに落ちていった。自分は小さな男の子で、春の草原で手を枕に寝転んでいた。すべてがバラ色に輝いていた。かげろうのように輝く昼の光景が、アンセルムの目にくっきりと浮かびあがり、その日の前にも後にも、自分は存在しなかったということを強く感じた。

 

この考えに火をつけられ、予想外の歓喜のしるしとして、ヤガ科の蛾の黄色い群れが、アンセルムのからだから湧き出した。これには疲れとあきらめから居眠りしていたアルミガルディ教授も驚いた。飛び起きると、拡声器を手に大声で叫びはじめた。「アグリコラ・マシレンタ! ナントスバラシイ! アグリコラ・マシレンタだ!」 観客の中の一部からも拍手が起き、会場は興奮につつまれた。

 

しかしそれはほんの始まりに過ぎなかった。

 

その夢のせいで、アンセルムはある事実をはっきりと認識した。はるか遠くのかげろうのように輝く昼の光景と比べて、その後の自分の人生は意味のない影の劇場以外のなにものでもない。アンセルムは混沌とした心理状態に入りこみ、自分をコントロールするすべを失った。アンセルムの感情のあらゆる領域が爆発し、何百種という蝶がその場に現れ、本人の姿はたちまち見えなくなった。タテハチョウはミノムシと混ざり合い、モンシロチョウは秋のカイコガのまわりを飛びまわり、ニセフクロウガはムツモンベニモンマダラの群れの中に入り込み、と何千という小さな飛ぶ生きものが、喜び、悲しみ、アンセルムのはるか遠い過去と未来の日々の想いを表現した。

 

蝶たちの色鮮やかな光景に、聴衆は陶酔状態になっていった。隣りの席の者と涙を流さんばかりに抱き合ったり、コートのポケットからワインの瓶を取り出して一気飲みしたり、とすべての者がそれぞれのやり方で奇跡を起こしたアンセルムに反応した。サーカスの団長はといえば、嬉しさのあまり、席から飛び上がり、バク転をした。その太ったからだには、まったく似つかわしくない行為だった。このドラマチックな喜びの爆発は、すぐに次なる拍手をもたらした。大騒ぎの群衆の中、イルムギールトだけは、口をつぐみ陰鬱な表情で立ちすくみ、アンセルムの変わりようを不安げな表情で見ていた。

 

一方アミルガルディ教授は、男の上を飛びまわる蝶の群れのそばを跳ねまわり、拡声器で蝶の名前を叫びつづけていた。「フチありゴシック! 霜降りコロネット! タカネショウブヨトウ!」 声がガラガラになるまで叫びつづけ、とうとう声が出なくなった。するとすぐさま、聴衆の中から蝶をよく知る者が現れ(アミルガルディ教授にはもちろん及びもつかないが)、舞台中央に突進し、興奮状態で歩きまわり、声をかぎりに蝶の名を叫びはじめた。世界有数の学者であるアミルガルディは、これが気に入らなかった。拡声器を振りまわしながら、アマチュアのおせっかいやきを舞台から追い出して、席に帰らせようとした。教授の行為は、さらなる混乱を引き起こし、飛び入り参加OKのイベント会場のような騒ぎになった。

 

しかしながらある時点で、サーカスにこんなにもたくさんの蝶が飛びまわっているという事実に聴衆が気づくと、騒音と興奮のるつぼだった会場は静まった。舞台の上が色とりどりの飛ぶ生きもので満杯になっても、まだ、アンセルムのからだからは蝶が湧き出ていた。息をする空間もないくらいだった。その場から逃れようと暴れまわる蝶たちは、人々の口や目の中に入りこみ、称賛の声はくしゃみと金切り声に取って代わられた。このありえない奇跡の出来事は、そこにいた人々を圧倒し、恐怖の極地へと導いた。

 

イルムギールトは、さらなる不安に襲われていた。太く長い指で、まだ喜びに浸っている団長の禿げた頭をコツコツとたたき、その耳にこれはアンセルムにとって良くないことだと思うと告げた。正気に返った団長は、静まらない混乱を見て、禿げのてっぺんを赤く染めた。

 

「アンセルム、すぐにやめるんだ。聞こえてるか。そうでないとおまえをやっつけるぞ!」

 

 団長はこう言おうとしていた。ところが口を開いたとたん、1ダースかそれ以上のナカキエダシャク(アンセルムの自暴自棄の心情を表す蝶)が、団長の気管に突進したので、イルムギールトは、窒息しないように、サーカスの長である男の背中を何度もたたかねばならなかった。なんとか気持ちを落ち着けたボルスロースキーは、舞台にいる蝶の群れの中に入っていこうとした。そして手を伸ばし、アンセルムがいるだろうと思われるところを探った。しかし手にすることができたのは、ドクドクという人間の心臓のみだった。そしてそれさえも、手の中で暴れまわる蝶に変わっていった。

 

その瞬間、ボルスロースキー(この男はかつて世界的な人気マジシャンの一人で、主たる出し物は太古の魚、ラティメリア(シーラカンス唯一の現生属)に変わることだったが、後に自信をなくし、その慰めとして現在のサーカスを始めた)は、ひどい混乱に陥り、また同時に嫉妬の炎を燃え上がらせた。というのも、目の前に、自分の変態特技を大きく超えるスーパーな男が現れたからだ。

 

その間、サーカスの付添人たちは平静を保ちつづけ、すべての入り口出口、窓を開放し、蝶も人間も息詰まる建物の外へ逃れ、早朝の街へと出ていった。

 

蝶の大群はすぐに街の空全部を覆い尽くし、サーカスから出てきた人々が通りを埋め、職場へ向かうまだ眠気の覚めない市民を驚かせた。

 

そんな中、アミルガルディ教授とともに、何人かの人が、中でも熱心な昆虫学者たちがサーカス会場に残った。教授は椅子の列の間を走りまわって、珍しい蝶(いまだ発見されたことのない蝶も含まれていた)を捕らえようとしていた。

 

1時間前にアンセルムがすわっていた椅子には、脱ぎ捨てられた燕尾服とトンガリ帽子があるだけだった。サーカスの団長ボルスロースキーはその椅子のところに立ちつくし、悲しげなラティメリアの目で、最後の一匹を目で追っていた。それは「アマンダの青」と呼ばれる蝶で、サーカス会場の中で円を描いて飛んでいたが、窓のそばに立っているイルムギールトの肩にとまった。この大女は玉虫色に光る青い羽を見て、これがアンセルムの本当の姿なのかもしれないと思った。ついに人間が生み出すややこしい感情のしがらみから自由になり、マジシャン100万番目の姿となったのだ。いまアンセルムは、イルムギールトに何か大切なことを言いに来たのかもしれない。以前にはどのように告げたらいいのかわからなかった何かを、、、

 

しかしそのとき、窓から入ってきた朝の風がその蝶を外に連れ出し、イルムギールトは一瞬のうちにその姿を見失った。