幻覚、それともリアル?!

メヒス・ヘインサー  [エストニア] 短編小説集

旅人のシアワセ | The Traveller’s Happiness

メヒス・ヘインサー | Mehis Heinsaar

だいこくかずえ訳

Photo by Alan(CC BY-NC 2.0)

旅人のシアワセはラトビアからやってきた。それがやってきたとき、あるいは送り込まれてきたとき、どのような機嫌だったのかはわからない。しかし何でれ、それは南からの強い風に乗ってやってきた。夏の終りの雲とともに、光輝く風のように、水蒸気のように、大きな森や伐採地を超え、とうとうと流れる川や小さな村大きな村の上を通りすぎていった。音もなく、色も、匂いも発することなく、はるか遠くのエストニアに向かって流れていった。ルーヒア、ウングリニと過ぎ、リリー、カルクシを通り、スコールの強い風で、家の庭であくびをしていたハイリステ中部に住む男の口の中へと運び込まれた。シアワセは男の気管を滑っていき、いろいろ食べたり飲んだりで疲れ気味の腹の中へとまっすぐ進み、そこで酸や体液と混ざり、長々とした神経の川を通って脳へ魂へと行き、そこでイメージや思想を目と耳で受けとった。最終的に、現在の自分の名前はアープ・アンデルソンであると理解した。そして喜びとともにこう思った。

 

「そう、そうだよ、わたしはもう50歳の男だ、人生ずっと懸命に働いてきた、3人の健康で丈夫な子どもたちがいて、4つの銀行口座があり、2つの家をもち、愛してはいないが愛されてはいる妻が一人いて、ハープサルには若さを取り戻してくれる恋人もいる。これ以上のことを人生に望めまい!」 そして旅人のシアワセは部屋に入り、暖炉に火をつけ、パイプにタバコを詰め、50グラムほど吸った。これが生きるってことだ!

 

コニャックを飲んで、パイプに火をつけ、シアワセは若かった頃のことや初恋のこと(美しく貧しい女の子で、もっといい生活をしたいと思ってその娘を捨てた)、あちこちの農園で終わりのない厳しい年月を過ごしたこと、釣りをしたり山に行って友だちと過ごした楽しい日々、そんなことを思い出して、懐かしさから目に涙をためた。

 

「そう、そうだよ、生きることに苦労したけど、いい人生だったよな」 彼はそう考えた。「働き、貧しさを知り、富を蓄え、尊敬も受けた。潰瘍と腎臓結石はあるが、生活はよくなってきてるしな」

 

ところが急にシアワセは、この疲れ切ってゼーゼーいっているからだが嫌になった。それでパイプの煙とアープ・アンデルソンの吐く息に乗って、開いている窓から外へ飛びだした。そして南風とともに、はるかヴィリャンディ市へと向かった。

 

黄金色のトウモロコシ畑を、緑のモミの木立ちを、背の低いハンノキの上を運ばれていった。匂いも色もないプランクトンのように、チラチラとした揺らめきのように飛んでいると、ツバメが虫と間違えてうっかり噛みついて、飲み込んでしまった。旅人のシアワセは今やツバメとなった。虫を追いながら上へ下へと滑るように飛ぶ。前へ後ろへと光のような素早さで行き来し、身のまわりの温かな光に喜びを感じ、ハエの甘い肉を味わった。しかしムストラ村の上で、ツバメが尻の穴から追い出したので、シアワセは鳥の糞となって、草の上に寝転んでいた男の目の中に飛び込んだ。男はびっくりして飛び起き、目をこすった。それでシアワセは頭蓋骨の奥深くに、腸や神経の中まで押し込まれ、最後にはその男と混じり合い、自分がヴェンジャミンという金属工になった、とわかった。左手を失った男、酒の飲み過ぎで肝臓をやれた男、そんな不幸があっても、人生はまだ素晴らしく、価値あるものだった。流れる雲と、その中を飛ぶツバメたちを見ながら、シアワセはヴェンジャミンと少しでも一緒にいられたらと願った。草の上に置かれたウォッカをボトル半分飲み、それから笑みを浮かべ、ベルト通しから革ひもを抜き取り、口笛を吹いて部屋の中に入ると、男の妻をムチ打った。

 

キッチンでは、忙しく立ち働く妻が、夫は今日、かなり気分がいいのだろうととっさに見てとった。妻の大きな尻が、機嫌のいいヴェンジャミンの前にさらされるのにピッタリの日だった。そしてムチ打ちが始まると、激しい痛みと憎悪で声のかぎりヒーヒーと泣いたが、この泣き声の中には性への渇望と喜びも混じっていた。

 

「そうだな、わたしには何の財産もない、雨が降れば屋根は漏るし、子どもたちは保護施設いきだ。うちには子どもを育てる金などないからな」 旅人のシアワセは思った。さらに「わたしの人生の大半は地獄だった。しかし愛する妻がいて、そいつは打たれることを喜んでる。わたしは国から年金を得ていて、寝たいだけ眠ることができる。何であれ、わたしのすることを止めるやつはいないし、管理したり命令する者もいない。つまり、、、人生は素晴らしいってことだ」

 

その喜びから、金属工のヴェンジャミンは屁をこいた。それによって旅人のシアワセは、この男の外へと再び放り出された。金属工の気分はなぜか風向きが変わり、もう妻を叩きたくなくなっていた。

 

しかし旅人のシアワセはそれ以上関係をもつことはなかった。南風に再び乗ってはるかヴィリャンディの方へ、キラキラと輝きながら飛んでいった。

 

雲が集ってきて、雨が降りはじめた。旅人のシアワセは幾千もの雨粒となって、一人の娘の肌の上に、ブロンドの髪の中に、輝く眉に、服に、落ちていった。その肌の中に染み込み、くちびるの間に入り込み、彼女の吐く息とその心に溶け込んだ。そしてマリ・アンといううら若き女になっていた。

 

雨の中、家に向い、シアワセはこの女性のほっそりしたからだや揺れる尻、たくましい胸に、特別な喜びを感じるのだった。金色に輝く長い髪、世界に対する大きな愛や尽きることのない好奇心に、心浮かれた。そして意味もなく、通り過ぎる人々ひとりひとりに笑顔を送るのだった。自分の輝く目、無邪気さ、単純明快な心のありようを、そして通りで男たちが、自分の色気に振り返るのを楽しんでいた。

 

これらのことを見、感じて、シアワセは楽しさからハミングをはじめた。そしてこの娘の赤いくちびるの間から再び滑りでると、暖かな空気に乗って空へと舞い上がり、遠くへ、もっともっと北の方へと進んでいった。

 

トゥラヴェレとコルツィの間で、旅人のシアワセは突然、白い雲になった。荒れた牧草地の上を飛んでいると、連なる丘と同じくらいの年齢の女性の目に一瞬捉えられたものの、また目に見えないキラキラする物質となって飛んでいった。

 

ラプラの街の一角で、風はとうとつに向きを変え、東南方向から吹きはじめた。旅人のシアワセは今度は海の方へと運ばれ、ロースレパの浜に行き着いた。そしてホコリと一緒に、金髪の少年の食べているサンドイッチにひっついた。食道をとおって腹まで運ばれ、そうこうするうちに少年のからだ全体に散らばった。そして自分の名前はイルマリで、まだ8歳の男の子だと気づいた。シアワセは当惑しつつ、海風に揺れる曲がった松の木に目をとめ、砂嵐のとどろきに耳を澄ませ、遠くの水平線がキラキラ輝くのを見つめた。シアワセははるか遠くからのワクワクするような予兆(横隔膜が震えうずくような、何かが始まるという匂い)が、自分の中から湧いてくるのを感じた。

 

めくるめくソワソワ感をともなって、このような感覚がシアワセな少年の魂を満たした。長い土手をつらぬく叫び声をあげること、それ以外何ひとつできなかった。この叫び声によって、シアワセは再び、少年のからだから飛び出し、空中高くに舞い上がり、はるか北西の方角に向けて、光り輝く海の上を運ばれていった。

 

ヒーウマー島の中心地、ピヒラ・カイバルティの森の真ん中で、シアワセはとつぜん、松の枝に張ったクモの巣にひっかかり、誰かの泡だらけの口の中に真っ逆さまに落ちてしまった。誰かというのは自分の名前も知らぬ者で、何かを追いかけていた。そして旅人のシアワセは、ノドを滑り落ちていき、その者の体液に溶けこみ、目を飢えた血の色に染めた。自分の狙っている獲物を猛烈な勢いで追いかけ、それをなんとしても捉えなければならなかった。目の前を走るものを素早く捉えようと、獲物になんとか近づいて、首根っこのところに飛びついて牙を沈ませた。歯の間にある獲物の食感、甘く汁けたっぷりで、温かな栄養豊富なものを、旅人のシアワセは感じていた。それは飢えて痩せたからだに力とエネルギーを取り戻させ、視覚を覚醒させ、邪悪さと活力を命に注ぎ込み、からだに欲望をもたらせた。獲物から分厚い肉の塊を食いちぎり、そのままゴクリと飲み込むと、殺した獲物を転がし、頭から尻を温かな血と糞で塗りたくった。その匂いで頭がおかしくなって欲望を感じたので、すぐにシアワセは一番近い木に匂いをマーキングした。シアワセは今までいた体内から尿と一緒に外に流れ出し、温かな放流とともに空中に舞い上がり、風の助けを借りて、はるか西の方へと運ばれていった。

 

シアワセは湖の上を、ティフの砂丘(色も匂いもなく、ただギラギラしている)に生える背の高い松の木の上を流れていき、半島の突端(カラーナの側)に滑りこみ、海のざわめきとカモメの鳴き声とともに、そこで耳を澄ませていた年老いた目がよく見えない男の耳に飛び込んだ。シアワセはからだの中に滑りこみ散り散りになった。そのからだは骨と皮のようになり、古代のヤーノス・レイトマーになった。その男は人生で何も覚えていることはなく、思い出したくもなかった。シアワセは老人とともに部屋に入り、かまどの開いた口の前にすわり、半ば見えない目で炎を見つめた。衰弱した目には、温かな光の兆ししか判別できなかった。

 

旅人のシアワセは、奇妙な記憶と言葉が互いになんの関連もなく、頭の中を巡っていると感じた。霧の中から動物の影が現れたような、そしてまた霧の中に消えていったような。その動物は何なのか、シアワセの見知らぬものだった。すると唐突に、何かが魂の中で起きるということがわかり、奇妙な喜びがシアワセにもたらされた。自分の魂については理解もしていなかったし、注意も払ってこなかった。こんな風に亡霊のようにしか存在していなかった古くて奇妙な記憶が、突然ジョークを放ちはじめた。それでシアワセは食べていた塩漬けの魚を口に入れたまま、クスクス笑いだした。そして自分の笑いに笑わされ、さらなる笑いに誘われて笑いころげ、それが爆笑となって、ついにはクスクスゲラゲラの笑いは、息もつけなくなるほどまでのものとなり、老いたヤーノス・レイトマーはノドを詰まらせた。かまどの前で倒れ込み、半分死にかけ、手に食べかけの魚をもったまま、笑いで顔を硬直させた。老いた男はやっとのことで息を吐き出し、そしてこの最後の息によって、旅人のシアワセはヤーノス・レイトマーのもとを離れ、煙突から空へと抜け出し、舞い上がっていった。そして冷たい東風に乗って、海へと連れ出された。

 

海、それは暖かな秋の海で、うねりとどろき、雲の間からこぼれる太陽光線が、暗い海面をところどころ光り輝かせていた。しかし旅人のシアワセは、雲の間を、鳥たちの間をぬけ、波の上を、小さな島々の上を、風が連れていくところどこへでも、さらに遠くへ遠くへと運ばれていった。シアワセにはありあまるほどの時間があった。