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幻覚、それともリアル?!

メヒス・ヘインサー  [エストニア] 短編小説集

氷山に死す

Death among the Icebergs

メヒス・ヘインサー | Mehis Heinsaar

だいこくかずえ訳

Photo by Kazimierz Popławski(CC BY-NC 2.0), Kassari, Hiiumaa, Estonia

コンチータ・スアレスは、エストニア語とエストニアの歴史を学ぶため、チリからタルトゥ(エストニア南東部の学園都市)にやって来た。コンチータのエストニア行きは、まったくの偶然というわけではなかった。実のところ、彼女の祖父は子どもの頃(1944年)に、両親とともにエストニアを追われてドイツに渡り、そこから南アメリカに移住した。つまりコンチータの四分の一は、エストニアの血が流れていることになる。

 

エストニアに来て、すでに2年のときがたっていた。地元の言葉を驚くほど早く習得し(言語習得能力が高かった)、遠い親戚すじを探したり、自分と同世代の友だちをたくさんつくり、最後にヒーウマー島までやってきた。「巨人の地」と言われる島だ。カッサリ*にある歴史博物館で、夏の間の2、3ヶ月間アルバイトを見つけたのだ。

*カッサリ島:ヒーウマー島南東部にある陸続きの島

 

コンチータはアルバイトが決まると、すぐさま風すさぶこの島にやって来た。そしてちょっとした驚きで島を観察した。島の人々は立ち居振るまいだけでなく、エストニア本土の人たちとはかなり違うところがあった。人々の容姿にはスペイン人を思わせるものがあり、ただものの考え方や青い目は決定的に北部の人間の特徴を見せていた。

 

島の人々は奇妙な物言いをし、コンチータには彼らのユーモアがよくわからなかったものの、島の人たちが好きになった。中でも、ここで生まれ育ったというカッサリ島出身のアーレ・ハッグブロムに、そそられるものを感じた。大きな男で、少し禿げかかっており、でも明るい色のチリチリした頭髪をもち、大きな鼻、透き通った青い目をしていた。コンチータは毎日、博物館の手入れをするアーレと顔を合わせた。アーレは博物館で配線工事からぬいぐるみの動物の修理まで何でもやっていた。

 

大きな図体に頭の回転の鈍いこの男は、からだが小さくてお天気屋のコンチータを楽しませてくれた。コンチータは、アーレがブツブツと悪態をついたり、天井の配線を直したり、オオカミやマツテンのホコリを払ったり、黄色い建物のまわりの道路をほうきで掃いたりするのを(その間ずっとブツブツ言っていた)こっそり覗き見ていた。

 

ところが、こっそり冷笑しながら覗き見ていたものが、あるとき違うものに変わっていた。ひどい悪夢の中でもありえないような激しい衝撃に、コンチータは身を震わせた。

 

ある暖かな風のない夜のこと、突然、耐え難いほどの甘い感情が湧き上がり、その感情はまっすぐに、あー、なんということか、40男のアーレ・ハッグブロムに向かっていた。

 

最初、何が起きたのか、コンチータにはわからなかった。真夜中に目を覚ますと、喉もとで悲鳴が起きた。風邪でもひいたのかと、熱を計ったり、枕をあちこち動かしたり、燃えるからだに毛布を重ねてみたが、何一つ効果がなかった。次の日になって、愕然とした。コンチータはアーレに恋をしているとわかったのだ。そしてその考えに恐怖をおぼえた。可愛そうなチリからやって来た女の子は、地獄に落ちた。

 

ほんの2、3日前には、単なる手慰みの道具だった年配のおかしな独身男が、突然、その視線とぎくしゃくした体躯に不思議な力を隠しもつ、神話の中の巨人のように見えてきた。畏敬の念をもって、遠く離れたところから、くちびるを震わせながら、コンチータは彼を見つめた。しかしアーレ・ハッグブロムが彼女のもとにやって来て、とどろくような声で何か聞いてきたとき、コンチータは何一つ答えることができず、ヌマヒノキのところに走っていき、その陰で泣くばかりだった。可愛そうな娘、コンチータ、、、

 

コンチータは恋に落ちてしまった。突然のモンスーンの雨に心かき乱されたような興奮状態、暴れまわる悪魔がコンチータの下半身や華奢な腕、小さな胸、首のまわりで渦巻いているみたいな、千羽の鳥が頭の中で、胸の内でざわめいているような、暖かな雨に魂も子宮も浸されているみたいな、まるで生理痛で腹部が締めつけられているような感覚だった。ジャガーやオオツチグモや毒蛇が徘徊する、ジットリと暑く、薄暗い、身の毛もよだつジャングルにいるようだった。コンチータは自分自身が恐くなった。家に戻ることも、逃げ出すこともかなわなかった。

 

心乱されて、夜になるとコンチータはアーレ・ハッグブロムの海辺の家のまわりを歩きまわり、夜が明けるまでその窓の下で座って過ごした。そして男の穏やかないびきを腹をたてながら聞いていた。そのいびきにコンチータはがまんならなくなり、しまいには男の家の壁を蹴りはじめた。

 

[ ブタヤロウガ! ジンセイサイアクノ ジタイ!] 哀しみと怒りの中、彼女はスペイン語でうめいた。

 

1週間たったが、事態は変わらなかった。7月のある朝、アーレはいつもより早く博物館に現れた。そして運命の巡り合わせか、彼はすぐに仕事に取り掛からず、コンチータの方にやってきて、あれやこれやとおしゃべりをはじめた。会話の最中、唐突に、なんの前触れもなく、コンチータは叫び声をあげた。それは彼女が恋に落ちた晩以来、ノドにつかえている叫びに他ならなかった。ファルコンのような金切り声がコンチータの胸で破裂し、手で口元を抑えたときには遅かった。アーレのびっくりした眼差しにさらされ、コンチータは小さな子どものように泣き叫びながら、彼の足元に崩れ落ちた。困惑した巨人のアーレは、不器用にコンチータの頭をなでるばかり。

 

「どこか痛いのかい、医者かなにか呼んでこようか?」 心配してそう尋ねる男に、コンチータはさらなる大声で泣き叫んだ。

 

「ノーーーーーーーーーーッ!」 コンチータは泣きながら金切り声をあげた。[ アンタハ アノスミニアル フルクテムシニクワレタ オオカミノヌイグルミ。ナニモワカッテナイ、ナニモワカルハズガナイ!]

 

こんなにも愚かに恋に落ちてしまった自分への嫌悪感で、コンチータは小さな褐色の拳で力のかぎり、アーレを叩きはじめた。アーレは不器用に腕をまわして自分の身を守り、コンチータをカウンターの上に抱き上げようとした。冷たい水を飲ませようと思ったのだ。しかしコンチータはアーレを離さなかった。もてる力の10倍の威力で、コンチータは中年のハンサムな独身男の髭づらに、日に焼けた鼻や口に、自分のくちびるを押しつけた。アーレの方は、何が起きているのかわからず、完全に面食らって何もできないでいた。

 

夏の静寂と、ホコリをかぶったぬいぐるみの動物や古い地図のまっただ中で、どこから見ても穏健な巨体の男は、そのからだの内に長いこと眠っていた狩りの感覚が目覚めるのを感じ、顔をあげた。これまで見せたことのない野生のきらめきが目に灯った。波一つない貯水池が突然の洪水でダムを氾濫させるように、アーレはコンチータを腕に抱えると、巨人の大股歩きで奥の小部屋と向かった。そこは何千年も昔のヒーウマー島の起源を描写した地図、シルリア紀やデボン紀の石が詰まったガラスの戸棚に囲まれた博物館の裏部屋だった。コンチータは男の首にしっかりつかまり、胸をときめかせながら、男のなすがままにさせた。

 

博物館の古びたオーク材の床に倒れ込み、不器用にせかせかと互いの服を剥ぎ取ると、二人はくぐもった歓喜の声をあげ、熱い興奮の波にからだを預けて浮き沈みしながら、さらなる広い大洋へと運ばれていった。喜びの頂点に二人が到達しようとしたとき、コンチータは白く鋭い歯を巨人の肩に深く沈ませ、赤い傷跡を4つ残した。アーレはうめき声をあげたが痛みからではなかった。それは沼地や巨大なトクサの中を歩きまわったあと、ようやくこのような喜びにたどり着いた、孤独な太古の生きものの叫びだった。情熱が噴火し、溶け合いたい混じり合いたいという強い衝動に突き動かされ、興奮の素粒子となって熱く溶けていく二人。その朝、博物館を訪れた唯一の入場者(オランダ人の夫婦)は、恐ろしい叫び声を耳にして、大急ぎで乗ってきた車に取って返した。何であれ、よその国の内部事情に関わりたくないと思ったのだ。その間に、小部屋の二人は頂上に登りつめ、溢れ出た温かな体液と蒼く透明な精液を互いの脚の間に流しながら、消耗と喜びの混ざりあった表情で、床の上に抱き合って崩れおちた。

 

コンチータもアーレも、しばらく互いを離さなかった。二人はそれからというもの、毎晩ともに過ごし、心たぎらせる熱い日々を送った。流れ星が夜空を横切る8月の夜また夜に、もてる望みや願いのすべてをそこで放出し尽くした。二人は互いの肩に腕をまわし、カッサリ島を取り囲むように生えるジュニパーの木が茂る道を歩いた。左右両側から波がうち寄せ二人の足を濡らす、島の突端の岬まで行き、背後で地元の人や通りがかりの人が何を言ってもまったく気にしなかった。

 

1ヶ月後に、チリからやって来た小娘に気まぐれが起きなければ、この恋物語は永遠につづいたかもしれない。実のところ、この気まぐれは、恋に落ちたことと同じくらい、コンチータを驚かせた。巨人に惹きつけられたときの10倍の威力で、たった 1日のうちに、何の断わりもなく、コンチータの情熱はあっけなく追いやられた。この自分が突然の変容を起こした人間ではなく、誰かほかの人にからだも精神も乗っ取られたかのようだった。そのことにコンチータは恐ろしさを感じた。

 

コンチータ・スアレスは鏡に自分の心を映し、他人の目で自分を見返してくるその顔に尋ねた。「あたしは彼をどう思ってるの、どう感じてたの? あれは何だったの? 何か悪いことをした?」 しかし鏡に映る自分は答えてくれなかった。静かに微笑み、ウィンクを返すのみ。

 

アーレの方も、もちろん、コンチータの中で起きた変化を感じていた。その身の引き方、自分に抱かれているときの不自然な態度、そのことでアーレは力を落とした。コンチータの前に立ち、愚かな犬のようにただただじっと愛するものに目をあてる。朝、昼、晩と、アーレはコンチータのために、ジュニパーの草原から花を摘んできた。ママコナ、オオムギ、ヤグルマソウ、スイートピーの花束。あまりにたくさんで、置く場所が見つからないほどの量だった。ついにはいまの気持ちを表す方法がわからなくなり、アーレはコンチータの足元にひざまずき、その黄金色の脚に自分の頭をきつく押しあてた。その行為は二人を傷つけた。自分を女神のように崇拝して足元にかしずく巨人を見て、コンチータはこの男にもう何も感じていないとわかり、悲しみに襲われた。そればかりでなく、コンチータにとってヒーウマー島の人々も、ひどく愚鈍で滑稽に見えてきた。この島そのものが愚鈍で滑稽であるように。そうなのだ、コンチータはこの島にいることにすっかり飽きてしまったのだ。この地の自然もみじめな捧げものにしか見えなかった。エストニアにとことん飽きていた。

 

コンチータは期待していたものはすべて手にした、この島からも、島の人々からも、と強く感じ、もう家に帰りたいと思った。母親、父親、兄弟、友だちに会いたくなり、山の頂上にある故郷の白い教会や心優しく厳粛な年老いた司祭が懐かしかった。故郷の海が、山の反対側から吹いてくる西風に乗って聞こえるとどろきが、ここと変わらぬ親しみのある雨の音、森の匂いが懐かしくてしかたなかった。コンチータは家に帰りたかった。そしてちょっとした良心の痛みを感じつつ、それでも決然と、巨人アーレがおずおずと抱き寄せようとするのを、もう遅いから寝なくてはと言って追い返した。

 

3日後、コンチータ・スアレスは島を離れた。よく晴れた暖かな午後、アーレはコンチータを車でヘルテルマーの港まで送っていった。埠頭では風が四方八方から吹きつけ、砂ぼこりと秋を告げる黄色くなったカバノキの葉が舞っていた。コンチータがフェリーに乗る前、二人は最後の抱擁を交わした。コンチータは男を見て微笑み、衝動にかられて、男の頭を抱え、くちびるに熱く激しいキスをした。そして振り返ることなく、船内へと駆け込んだ。

 

アーレは立ち尽くし、フェリーが埠頭から遠ざかっていくのを、じっと見つめていた。1時間後、アーレはまだ同じ場所に立っていた。フェリーが遠ざかり、小さな点になるまで、乳白色の靄の中に溶けて見えなくなるまでそこにいた。そして何も見えなくなったとき、アーレは自分の中で純粋な、真実の愛が生じるのを感じた。遠くの見知らぬ場所からやって来て、永遠にここから去っていった彼女のことを思った。

 

その日から、地獄のように激しい恋の痛みがアーレ・ハッグブロムを襲った。愛とはそれが報われ、恋人同士が思い合っているときでさえ、耐えがたい痛みがある。しかし燃えさかる花を自分一人の心のうちに抱えなければならなくなったとき、ずっと過ごしてきた故郷の島は、見知らぬ土地となり、男は難民となった。

 

半眼の彫像のように、不眠の目を見開いて、アーレは自分の家を、ジュニパーに縁どられたカッサリの岸辺を歩きまわった。心痛と不眠を癒やすただ一つの方法、それが歩くことだった。アーレは消耗し、一歩も動けなくなるまで、崩れ落ちるまで歩いた。そしてハエが腐肉を見つけるように、本性をあらわにした悪魔がアーレ・ハッグブロムの魂を貪ろうと、着々と日々の仕事にとりかかった。

 

「わたしに何をしようとしている? どこに連れていこうというのか?」 半分意識をなくしたアーレは悪魔に尋ねた。「地球の果てに、そのずっと向こうまで連れていくのか? 向こうで生きることは、息をすることはできるのか? もしできるのなら、行こう、連れていってくれ。ここにはわたしの人生はもうないのだから」

 

しかし悪魔たちが計画を告げることはなかった。悪魔たちは、すでに苦しみで熱くたぎるアーレの魂を、眠っているからだの中から出ていくまであぶった。悪魔たちは魂を追い出し、長い旅へと連れ出した。背後から鉤ざおでつつかれ、魂は海を森をツンドラをわたり、ついに何一つ存在しない沈黙だけの世界、果てのない氷原に行き着いた。そこでアーレの魂は、氷にとざされた船を目にした。2本マストのフリゲート艦で、二つの氷山の間で船体を傾けて座礁しており、その側板には赤い文字で「愛」と書かれていた。アーレの魂はいま、この船の上にあった。薄っぺらな服で身をおおった魂は、歯をガチガチ言わせながら船の上を走り、船橋まで行って停止した。両手を上着の内につっこみ、震えながら水平線を眺めた。本当はそこには何も見るものなどなく、凍る霧と北極の大洋に輝く氷山しかなかった。この船ではもう、どこの海であろうと出ていくことはできない。過ぎ去りし日の栄光の中にのみ存在する、呪われた無用の船だった。

 

悪魔たちは、寒さに耐えられず、船に乗ったアーレの魂を追わなかった。仕事をうまくやり遂げて喜び、大声で歌をうたい、暖かな土地へ舞い戻っていった。

 

同じ年の秋、アーレ・ハッグブロムの姉が、ケイナにある自分の農場で家族の親睦会を開いた。エストニア各地から集まった離れて住む仲の良い親戚は、何十年も会うことがなく、再会を喜びあい、アーレもそこに混じっていた。思いがけず暖かな陽気の中で、アーレの青白い顔、冷えきった視線、魂を失った様子はみんなを驚かせたものの、すぐさま別の興味に取って代わられた。そこにいた人々は話したいことでいっぱいだったからだ。みんなは誰が生まれて誰が死んだか、最後に会ったときから変わったことは何か、食べたり飲んだりしながら話した。そして強いビールを手に、以前の親睦会でうたったお気に入りの歌を声をそろえてうたった。

 

アーレ・ハッグブロムはひとり歌をうたわなかった。りんごの木の下のテーブルにすわり、遠くをぼんやりと見ていたが、その表情は凍りついており、白さがどんどん増していった。ほお、まゆげ、まつげがじょじょに氷の粒でおおわれていき、髪には霜がおりていた。すると突然、アーレの表情が変わった。果てしない氷山の向こうに、その果てに何か美しく魅力的なものを見つけたように、目に輝きが灯った。そう、何か旗のようなもの、炎の色の旗が彼の目を捉えた。ついにアーレは目的地に着いたのだろうか? やっと心の平安を取り戻したのだろうか? その顔に久々に笑顔が浮かび、アーレは立ち上がるとそちらに向かおうとした。しかしテーブルの端につまづき、ジェリーで固めた肉料理の上に顔をつっこんだ。

 

心優しい遠くからやってきた親戚たちがびっくりして飛び上がった。彼らの真ん中にいるのは、氷に覆われた男だった。髪には霜が降り、スーツには氷粒が張りついていた。この暖かな光あふれる陽気な日のさなか、ニシンとジャガイモ料理、コーヒーとウォッカがいっぱいに並べられたテーブルの真ん中で! お湯が急いで運ばれ、人々はアーレを草の上に寝かせると、青くなった手や足をこすり、心臓をマッサージした。しかしすべては無駄に終わった。アーレ・ハッグブロムは死んでいた。もう何も打つ手はなかった。

 

3日後、島のカルトラ病院から診断書がとどいた。静脈瘤氷河作用の結果による心拍停止。首都タリンからやって来た高名な医者たちでさえ、困惑し途方にくれた。このような症例はこれまでに見たことがなかったのだ。あれこれ不愉快な議論がつづくのを警戒し、この件に終止符をうとうと、埋葬後、アーレ・ハッグブロムの診断書は、七重の鍵でロックされしまい込まれた。以降、この話題に触れられることは一切なかった。

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