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幻覚、それともリアル?!

メヒス・ヘインサー  [エストニア] 短編小説集

沈黙の16年 | Sixteen Years of Silence

メヒス・ヘインサー | Mehis Heinsaar

だいこくかずえ訳

Photo by Aivar Ruukel (CC BY-SA 2.0)

アートゥ・ヴァッセルは以前は街なかに住んでいた。タルトゥ大学で数学を学び、古楽合奏団でフルートを吹き、人生に大きな夢をもっていた。でもそれは恋に囚われた日までのこと。生まれて初めての、本物の、純粋で深く大きな愛。そのような愛は常に、突然の稲妻のようにやってきて人をとらえる。アートゥは3ヶ月間、愛する人とデートをつづけ、ある日、勇気を振りしぼって自分の想いを彼女に伝えた。が、その人は鼻で笑ってその言葉を拒否した。

 

傷ついたアートゥは、この世でもっとも美しい言葉を投げかけて、こんな風に踏みにじられるのだとしたら、この先はどんな言葉も口にすまい、そう誓った。そして本当に、その日から、アートゥ・ヴァッセルはどんな言葉も、だれに対しても発しなくなった。

 

人間にも生活にも、自分自身にも失望したアートゥは、エストニア南西部にあるソーマーのトゥフキア農園に移り住んだ。そこは平和で静かな土地で、人の噂もとどかない、新聞も電気もない、何ひとつないところだった。オオカミやクマがうろつく果ての地、森や湿地や牧草地に囲まれた場所だった。アートゥは家のまわりに庭をつくり、ラウナ川や近くの森や湿地でとれるものを食べ、一人孤独に新しい生活をはじめた。少しして、すべての会話を表情や身振りですることを了解してくれた近くの農園で、ときどき仕事するようになった。ソーマーの人々は無口だったから、そういうやりとりに何の問題もなかった。

 

最初の2、3年の間は、タルトゥの友人たちがやって来ることがあり、アートゥ・ヴァッセルは、相変わらず口はきかなかったものの、いつもそれを歓迎した。お茶をいれ、魚料理やオーブンで焼いたじゃがいもを供し、大きなオークの木の下で、焚き火を囲んでワインを飲み、陽気な音楽を奏でた。しかし1年2年とたつうちに、友人たちの生活は忙しくなり、アートゥは忘れられていった。日々手一杯の仕事、つぎつぎ生まれる子どもたち、正直なところ、遠くの森に住むアートゥを訪ねていくのは、面倒なことになっていった。

 

16年が過ぎた。

 

ある春の美しい日、大学のクラスメートだったマーレクは、森の中で孤独に暮らす旧友のことを思い出した。そして久々にアートゥのもとを訪れる決心をした。妻と子どもたちには、この上天気の休みに他にしたいことがあった。しかしマーレクは他のことに先んじて、もっとも大切なことをしようと家を出た。

 

東部にある学園都市タルトゥからヴィリャンディまで西に車を走らせ、更に西にあるクップへと向かった。マーレクは狭い森の中の道を行けるところまで走りつづけた。しかし16年前に走った道は、車で入ることができなくなっていた。イラクサやビショップボーフウ、ゴボウが胸の高さまで生える道を長い距離歩き、古い壊れかけた橋をわたり、シモツケソウやキンバイソウが咲き乱れる湿地の中を足をとられながら歩いていき、モミの木の森を抜けて、やっとのことでオークの木々の下にある、友人の古い家にたどり着いた。

 

あらゆるものが以前のままに佇んでいた。家の脇をラウナ川がゆっくりと流れ、その岸辺に懐かしい友がすわってお茶を飲み、タバコを吹かしていた。アートゥの服は古びてみすぼらしかった。沈んだ表情を伸び放題のヒゲが覆っていた。手にも顔にも、風雨にさられた生活の厳しさが表れていた。アートゥはマーレクの姿に気づくと、背後の草むらにあわてて逃げようとした。しかし旧友のマーレクだとわかると、その顔をほころばせた。長い別離ののちの再会に、二人は目をうるませた。

 

アートゥは誇らしげに、家のまわりのいろいろ手を入れたところを友人に案内した。また長い冬の夜をつかって、彫刻を施した精緻なテーブルや椅子も見せた。そして家の裏にある野菜畑に連れていった。そこでアートゥは野菜のほか、タバコを育てていた。また家で飼っているミックという名のクロウタドリを紹介した。その鳥はキッチンのテーブルの上に立って、お客を見ると頭を少しかしげた。

 

夜になって、二人は川辺で火を焚いた。アートゥは蕎麦の実*の鉢を置き、マーレクは持ってきたポルツァマー・ワイン*のボトルを3本、バッグから取り出した。そして二人はそれぞれフルートと太鼓を出して、音楽を奏ではじめた。クロウタドリのミックもあたりをピョンピョンと跳ねまわり、そこに参加した。真夜中が近づくと、二人の男はやかんを火にかけ、手を枕にして地面に横たわった。そして空高く伸びあがった樫の枝の間から、星を眺めた。考えていることはそれぞれ別のことだった。そしてついにマーレクが勇気を出して、森の中でのアートゥの孤独な日々について、この何年もの間、何をして何を考えていたかを尋ねると、アートゥは眉をひそめ顔をそむけ、川の向こう側の暗い森に(何か面白いものでもあるかのように)目をやった。この隠遁者は森や湿地のただ中で、たくさんのものを見たり、聞いたりしたはずだ。しかしアートゥが沈黙の誓いを解くことはなかった。

*蕎麦の実:炒ったり、茹でたりしたものだろうか。

*ポルツァマー・ワイン:エストニアではブドウではなく、リンゴやベリー類のワインが作られている。ポルツァマーでは1920年からこのようなワインが製造されている。

 

二人はさらに2日間ともに過ごし、川で釣りをしたり、お茶やワインを飲み、焼いたスズキを食べ、音楽を奏でた。

 

3日目の朝、マーレクはタルトゥまでドライブをしないかと誘った。街で2、3日過ごせばいいと。昔の仲間に会って、馴染みのパブにも行ける。もし必要があれば、マーレクが代わりにしゃべるから、口をきかなくてもいい、と。最初のうち、アートゥは手を振って断っていた。しかし飲んだワインのせいだったのか、若き日々を思い出して懐かしさを感じたからなのか、最後にはマーレクに説き伏せられた。行く行かないで揉めたその当日、二人はタルトゥへと向けて出発した。

 

マーレクの家に着いて、アートゥは子どもたちとはすぐに仲良くなったが、妻の方はアートゥのことを野蛮人か何かのように眉をひそめて見ていた。マーレクはアートゥと妻の間を取りもち、家で問題が起きないようにした。アートゥは風呂に入ってからだを洗い、髪をとかした。二人は服のサイズがほぼ同じだったので、マーレクのスーツを借りて着ると、アートゥもなかなかの見映だった。

 

翌朝、二人の男はタルトゥの街を散歩した。アートゥは自分がいない間に、街にはビルが立ちならびすっかり豊かになっているのを見て驚いた。昔いろいろ面白いことがあった場所を二人は訪ねた。夜にはイレガールというパブに行った。マーレクはそこに大学時代の同級生や知り合いを招いていた。

 

友人たちは長いこと姿を消していた隠遁者のようなアートゥ・ヴァッセルを見て大変驚き、気持ちを高ぶらせてその急な出現を迎えた。みんなはビールやワインを頼み、おしゃべりに興じ、大学時代を思い出して語り、互いに子どもは何人いるかなど報告しあい、サマーハウスを建てたこと、休暇には外国旅行をしたことなど誇らしげに語った。みんな揃って飲み、笑い、また会えたことを喜んだ。アートゥはといえば、静かにワインやビールを飲み、街のニュースに熱心に耳を傾け、しだいに酔っ払っていった。ところが友人たちはさらなる酒を(もっと強いものさえ)アートゥのために買って飲ませた。それは自分たちと比べて運に恵まれなかったように見える友だちを、このようにもてなすのが楽しく、気持ちのいいことだったからだ。アートゥは群衆の間に置かれた珍しい動物のようにそこに座り、みんなの話をびっくりして聞いていた。

 

そこにいた多くの者がアートゥ・ヴァッセルのことに興味津々だったが、誰かが勇気を出して何か聞くと、この隠遁者は首を振り、怯えたような素振りで視線をはずした。みんなはこの気の毒な友人が、口がきけるのかどうか、いぶかしんだ。あるいは長い年月の間に、言葉をすっかり忘れてしまったのかもしれないと。

 

少ししてみんなは乾杯をはじめた。一人ずつ立ち上がり、グラスをかかげて愛を祝い、互いの持てる力に、健康や長生きすることに、その他もろもろのいいことに乾杯をした。アートゥの番がまわってきたとき、立ち上がってグラスを手に昔の同級生や友だちを見わたしたが、笑顔はこわばっていた。沈黙と居心地の悪さがあたりをつつんだ。そこにいた者はみんな、この変人に早くすわってほしかった。そうすれば次の番の者が乾杯をして、この緊張をほぐすことができる。

 

しこたま酒を飲んだせいだったのか、長年ずっと自分の中にあらゆることを貯め込んでいたためだったのか、アートゥは突然ここで、強張った笑顔で自分を見つめている昔の友だちに、何か大切なことを、当時を懐かしむ気持ちを伝えたい様子を見せた。この場にいる全員に一人ずつ、何か言いたいように見えた。そして沈黙の誓いを何年にもわたって守ってきた男が、歌でも歌いはじめるかのように、あるいは大声で怒鳴りだすかのように、突然口を大きくひらいた。しかし、くちびるから言葉は出てこなかった。アートゥの緊張でゆがんだ顔を見つめ、野蛮な男が飲みすぎると、こんな愚かさを見せるものかとみんなは思った。

 

しかしグループの中で最も威勢のいい男が、緊迫した空気を救おうと立ち上がり、スプーンでグラスを叩いて注意を促したとき、アートゥの鼻孔、耳の穴、口から奇妙なものが溢れ出した。それはゆっくりとテーブルや椅子の上に立ち込める、夜の草原をつつむ霧だった。夜明けの新鮮で少し湿った空気がパブ全体をおおい、乳白色の光の中で驚く人々を包み込んだ。この男の孤独な長い日々を、森の匂いや音もなく流れる川の鼓動を吸い込んで、パブにいる人々の心はゆっくりと静けさと平和に満たされていった。突然、人々はアートゥが何を言っているのかを理解した。そして彼に向かってうなづいた。人々は10月の清らかな川の流れの上にどんぐりが落ちるのを聞いた。楽しげな夏の川の水音を、長い冬の日々のしんとした静けさを感じた。ある者は目を閉じ、4月の風に揺れるトウヒの頭のように、右へ左へとからだをゆっくり揺すった。また別の者は、スイレンが暗い川底からお日さまに向かって伸びあがるように、椅子からゆっくりと立ち上がった。人々は花が開花するように口をあけて、そこからいっせいに鳥を飛び立たせた。アオカワラヒ、ツメナガセキレイ、コマドリ、ズアオアトリが宙を舞っていた。他の者たちは、トンボやコフキコガネを解き放った。すぐにイレガールの店内は、春の草原のようになり、虫の鳴き声や鳥の歌につつまれた。マルハナバチ、トンボ、コフキコガネが低い声で鳴き、パブの壁や人々の頭にからだをぶつけながら飛びまわっていた。鳥たちはといえば、ワインボトルや椅子の背にとまったり、テーブルの上に立って歌っていた。森のシダ類や花々が、床の割れ目からいい匂いを漂わせて伸び上がり、アイビーやホップのつるがからだを揺らす人々に絡みつき、その夢見る目をおおうと、アートゥ・ヴァッセルは口をつぐんだ。アートゥは乾杯をし、心晴れやかにパブを出た。

 

ヴィリャンディに向かったこの男は、次の日の夜明けまでに、プーヒャの近くまでやって来ていた。1羽のクロウタドリがアートゥに挨拶をした。その鳥はアートゥの右肩にとまり、そこに立って日の出を見つめた。そしてアートゥの歩調に合わせて、からだを右へ左へと揺らすのだった。

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