少し前に2度、水面に上がってきた大きなマスを捉えようと、焚き火のそばでじっと静かに立っていたとき、後ろの藪でカサコソという小さな音を聞いた。すぐに振り向くと、二つの輝くもの、1匹のシカの目が見え、暗い森の中で光を放っていた。素早い動きで、もう二つ光るものがその下にあらわれ、不思議な色でチカチカと火花を放った。そしてさらにもう二つ。それでわたしは雌ジカと子ジカたちがそこにいるとわかった。水を飲みにきて、焚き火の灯りと踊る影に驚き、心を捉えられ、足をとめたのだ。踊る影はまるで脅しているみたいに、臆病なシカたちを追いたてたが、飛びかかってきたと思うと引きさがり、シカたちを沈黙の遊びに誘っているように見えた。
Jeremy Wilburn (CC BY-NC-ND 2.0)
わたしは静かに火のそばにひざまづき、大きなカバノキの皮を身にまとった。カバノキの皮は明るく火を照り返し、森を光で満たした。トウヒの下、そこはほんの少し前まで影におおわれていたところで、母ジカが光に反応し、目を輝かせて立っていた。そして次に、焚き火の方をじっと見つめた。不安そうに火を見つめ、鼻を小さく鳴らして疑問を呈している。子ジカたちは影がケンケンパをしているように寄ってくるのを、母ジカの両脇に立って見ていた。
少しの間それがつづいた。そして片方の子ジカ(焚き火の灯りの中でも、その顔と明るい斑点模様で、無鉄砲な方とわかった)が、わたしの方にまっすぐにやって来た。火が向かってくると立ち止まってそれを見つめ、恐くなんかないぞと、小さな足を影に向かって踏み鳴らすのだった。
母ジカは心配げにこの子を呼び戻す。しかしこの子は可愛らしく足を踏み鳴らしながら、前に進んだ。母ジカは落ち着きをなくして、半円を描いて行ったり来たりし、子ジカに警告を発し、戻るよう訴える。そして子ジカが母ジカと焚き火の中間まで達し、小さな影が母ジカのいた斜面のところまで伸びていったとき、母ジカはこの子が自分からいかに遠く、火から近いところにいるかを感じ、子ジカを呼び戻そうと、カァーーー、カァーーー!と荒々しい声を発した。それは銃弾が放たれたかのように、森を震撼させた。母ジカは飛び跳ねて後退し、白旗を夜の闇の中で波頭のように輝かせ、子ジカたちを導こうとした。
もう一方の子ジカは即座に母ジカに従った。しかし無鉄砲な方の子ジカは、母親の方を見ようともせず、愚かな好奇心に導かれて、明かりの方へとやって来た。
しばらくの間、わたしはこの子の美しさ、たどたどしい動きに見とれていた。焚き火によって、柔らかな耳に卵型の明るい光が灯り、きれいな目が燃える虹のように輝やいていた。この子の背後では、斜面のところから、母ジカが子を呼ぶ声が行ったり来たりしていた。と、突然状況が変わった。危険な音が飛び込んできたのだ。そして再度、母ジカが呼ぶ声が聞こえ、そのあと藪の中を逃げていく音がした。わたしは丸太のところで起きた、オオヤマネコとの悲しい話を思い出した。わたしはこの愚かな子ジカを救おうと、素早く焚き火を蹴散らして、この子の方へと進んでいった。闇がつくった魔法が消え去り、湖からの風で人間の臭いが流れ、この小さな友は飛び跳ねて去っていった。ああ、なんということか、母親が少し前にとったコースに直交する道を、まっすぐに走っていった。
5分後、子ジカが去った方から母ジカの呼ぶ奇妙な声が聞こえてきた。わたしはシカの通り道を静かに探りに出ていった。深い藪におおわれた斜面が暗く細長い谷に落ちていく尾根の上で、下の木々の間から子ジカが母親に応える声が聞こえてきた。何か起きたにちがいないとすぐにわかった。何度も苦しげな声をあげ、暗いトウヒの木々の中から、悲しげに鳴きつづけた。母ジカは大きな円を描いて子ジカのまわりを走り、自分の方に来るよう呼びかけた。子ジカの方は同じ場所で力なく横たわり、動けないから来てほしいと伝えていた。それで2匹の声が、夜の闇の中を行ったり来たりした。「フーウー(こっちにきなさい)」「ブラーーー、ブラーー(いけないんだ、こっちにきて)」「カアーーー、カアアー(あぶない、こっちにきて)」 そして茂みをかきわける音がして母ジカが逃げ出すと、もう一匹の子ジカはそれに従った。そちらは救うことができそうだった。しかし無頓着な方は、夜の徘徊者たちの手に委ねられた。
Walker Wilson(BY-NC-ND 2.0)
何が起きたのかは明白だ。荒野での鳴き声は、それを解釈する仕方を知っていれば、どれも意味があることがわかる。暗い森を走り抜けるとき、子ジカの未熟な足は着地を誤る。それで風倒木に足をとられて怪我をしたのだ。今になってこの子は、ずっと無視してきた教えを思い出すことになった。
わたしは子ジカの声を追って、暗闇の中、木々の間をぬけ、一歩ごとに子ジカの声に耳を澄ませながら進んでいった。斜面を降りてくるガサゴソいう音がして、わたしのすぐ近くを通っていった。音からして(音をあまり立てずに歩く、からだの大きな、この森で考えられる唯一の生きもの)おそらくそうに違いなく、湿った空気の中のかすかな新たな臭いからも、わたしより鋭い耳をもつ生きものが鳴き声を聞いたに違いない。それはクマのムーウィーン(インディアンのクマの呼び名)がブルーベリーの住処からやって来て、無鉄砲な子ジカに忍び寄っているのだ。自分の耳で聞いて、子ジカが暗闇の中で、母親とはぐれてしまったことを知ったのだ。
わたしは道を音をたてないよう後戻りして、ライフルを取りにカヌーまで戻った。ムーウィーンが獲物を追っているとき、他の音を気にすることはない。通常、クマはウサギのように臆病だ。しかしわたしはこれまで、夜遅い時間にクマと出会ったことがなかった。また、わたしがクマの獲物を取り上げたら、どう振る舞うかもわからなかった。人が動物に近づくとき、そこではあらゆる感情が暴露されている。もし人がおどおどと自信なさげに近づけば、動物はそれに気づく。もし人が素早い動きでやって来て、毅然とし集中していれば、そして撃鉄を引き、指を軽く引き金にかけていれば、動物は人間がそれを当てにしていることがわかる。いずれにせよ、動物たちはいつも何でも知っているかのように振る舞う。恐れであれ、不安であれ、自信であれ、人は自分がどう感じていようと、大きくて危険な動物というのはこちらの状態にすぐに気づいて、その裏返しの行動をとるので、身を守るにはその掟に従うことになる。これはわたしが荒野にいると、いつも気づくことである。一度、森の中の狭い道でクマと出会ったことがある。そのときの話はまた別の機会にしよう。
子ジカの鳴き声は止んでいた。ライフルをとって戻ると、森は暗く静まり返っていた。自分のたてる音を気にすることなく、できるかぎりの速さでさっきの場所に戻った。わたしのたてる音をクマが聞いても、必死になって子ジカを探す母ジカにのせいにするだろう。そのあと、尾根の上の空に向かって大きく伸びる大きな木で自分の位置を計りながら、わたしは注意深く進んだ。ゆっくりゆっくり、大きな風倒木のこちら側を進んでいくと、わたしの足元で枝が鋭い音をたてた。すぐに唸り声と風倒木を飛び越えていく音が返ってきた。そしてクマが丘を登っていく音がし、藪の中を大きな音をたてながら、捕まえた何かを運んでいった。そして遠くの方でかすかな音になって消えた。森は再び静まり返った。
夜の間ずっと、大きな湖の入り江の反対側にあるわたしのテントには、母ジカが周期的に鳴く声が聞こえてきた。母ジカは悲劇が起きた斜面の上の尾根を行ったり来たりしているようだった。母ジカの鼻はクマとわたしの臭いを嗅ぎ取っていた。しかしその者たちが子ジカにどんな恐ろしいことをしたのか、まだ知らなかった。恐れと不安に満ちた鳴き声が、尾根を下り、湖を越えて、わたしのテントまで届いた。
昼の明かりの中、わたしは昨夜の場所に戻った。何の苦労もなく、子ジカがころんだ場所を見つけた。子ジカがそこでもがいたのが苔の跡からわかった。血の滴りが、どこでムーウィーンが子ジカを捕らえたかを告げていた。明らかな足跡、踏みつけられた苔、折れた草、血のついた葉っぱ、風倒木の節のギザギザしたところのあちこちに残された柔らかな毛の束。足跡は急ぎ足で丘を登っていき、野生の地へと消えていった。これ以上追っても無駄だった。
わたしが湖に戻るとき、尾根を登っていると、藪の中からカサコソいう音が聞こえ、シカが枝を踏む音がした。母ジカがわたしの臭いを嗅いだのだ。母ジカはその臭いを追って、いなくなった子ジカがわたしといるかどうか確かめようとしていた。まだ何がおきたのか知らなかったのだ。クマの脅威を感じて、母ジカはもう一方の子ジカの安全をはかった。しかしもう一方の子ジカは、沈黙する神秘の森の中へと消え去った。
シカの通り道が湖の方に降りていくところで、母ジカがからだ半分を藪に隠して、わたしのカヌーの方をじっと見ているのを目撃した。母ジカはパッとこちらを見ると、わたしのいる丘の方を探り、飛び跳ねていった。わたしが通ったばかりの常緑樹の藪の近くで、母ジカはカアーーー、カアーーーと荒い声を発し、白旗を掲げた。藪の中で音がして、鋭いカアーーの声がそれに応えた。するともう一匹の子ジカが、隠れていた藪から飛び出してきた。そして母ジカのあとを追って、尾根を走っていった。大きなアカギツネが岩から岩を跳ぶときのように、風倒木をタカが超えていくときのように、子ジカは母ジカの跡に従って地面を蹴り、白旗に従うという教えをしっかり守って走り去った。