ウィリアム・J・ロング著 「森で、子ジカたちと」 だいこくかずえ訳
夜の森に鳴き声がひびく I
これは小川のそばの苔におおわれた丸太の下で見つけた子ジカの話のつづきである。子ジカは2匹いた、ということを覚えていると思う。パッと見たところ、この2匹はとてもよく似ているけれど、人間がそうであるように、実はとても違っていることにすぐ気づいた。その目、顔つき、気質、性格と、お話の主人公がみんな違うように、すべてが違っている。一方の子ジカは賢く、もう一方はとても愚かだった。片方は学び、それに従う者。二つ目の教え、白旗に従うことを決して忘れなかった。もう片方は最初から気ままに自分の頭と足で行動し、従うことが命につながるとは知らなかった。従順さなどというのは、弱くてものを知らない者のためにあり、母親たちはみんな、自分の子が自由気ままにふるまわないよう管理するけれど、支配されるなんてまっぴら。クマに見つかるまで、この子が愚かな考えに囚われていたのは明らかだ。
賢いシカの母親は、わたしが子ジカたちを見つけたと気づいて、この2匹を連れ去り、深い森の奥にある秘密の場所に隠した。そこは湖の近くで、食料のある草地からすぐ子ジカたちのもとに戻れる場所だった。隠れ場所を見つけてから何日間か、わたしは朝早くか夕方にそこに行った。母親が水辺にそって遠くまで餌をさがしに行っている間、わたしは子ジカたちを見つけようと渓谷の端から端を探しまわり、また彼らの信頼を得ようとした。しかし子ジカたちは見つからなかった。それで木の根っこの巣穴に住んでいるミンクの家族や、いつも同じアメリカツガで寝ている大きなフクロウを観察していた。するとある日、ヤマウズラの群れがベリーの茂みから出てきて、焼け野にある涼し気な緑地へとわたしを導いた。そこでわたしは、母ジカと子どもたちが揃って寝そべっているのに出会ったのだ。倒木のこずえの下で、日中の暑さを避けてうたた寝していた。
Maine wood and lake: photo by Sam T(CC BY-NC-ND 2.0)
シカたちからわたしの姿は見えなかったはずだが、枝の音で驚かせてしまった。その枝の上に立ってヤマウズラの姿を追っていたとき、足元でそれが折れ、大きな音をたてて倒木のところに落ちたのだ。枝の上からはシカたちがよく見え、クークースクース(アメリカワシミミズクのインディアンの呼び名)からはわたしが見えない場所だった。最初にたてた音で、そこにいた者全員がびっくり箱を開けたときのように飛び上がった。母ジカは尻尾をあげて真っ白な白旗をかかげ、昼も夜も照らす灯台のような見映えで、カァァァァッーという警告のしわがれ声をあげながら跳んで逃げた。
子ジカの一方はすぐに母親に従った。あとにつづく者のために、自分の小さな白旗をもちあげて、母親のすぐ跡を追って跳んでいった。ところがもう一匹の子ジカは、それに続かず、好奇心と反抗心の入り混じった態度で、一瞬立ち止まって目を見開き、声をあげ、小さな足を踏み鳴らした。母ジカは方向転換し、その子がなんとかついてくるまで、2度ほど後戻りしなければならなかった。戻るたび、母ジカは尾を下げて不安げに動かしていた。それは明らかな印、わたしの臭いが森の中に流れて、シカの鋭い鼻孔に警告を送っている証拠だ。一方、母ジカが白旗をかかげて、愚かな子ジカの目の前を走っていくときは、どんな言葉より明らかな、ついてきなさいという合図で、もし危険を逃れ、藪で足を折ったりしたくなければ従わなくてはいけない。
たくさんの子ジカを目にしてきたが、この合図がいかに重要かということを、ずいぶん後まで理解できなかった。びっくりしたシカが猛烈な速さで逃げていくのを追えば、不安定な岩や倒れた木、絡まった茂みの上をどうやって超えていくか見ることになる。着地するまで反対側に何があるか知らずに、風倒木のこちら側から、向こうへと飛び越えていく。カタツムリのように進まねばならない場所を、足をねじったり、足首を折ったりせずに、矢のように飛び越えていけるのはなぜか。そこには雪のない季節、どうやって足を折らずに森で生きていけるかの答えがある。
また夜にシカを追っているとき、暗闇の中を昼と変わらぬスピードで走っていくのを耳にする。倒れた木を超えていくが、おそらく昼の明かりの元でも、人間には無理だろう。そしてハタと理解する。それはシカの学びの最も素晴らしい部分だ。鋭い目でも鋭敏な耳でもなく、よく訓練された鼻でもなく、どんな指標より百倍も敏感な、しかし思い起こさせることのない足にこそ、(鋭敏な感覚があるとは見られていない)固い蹄の中にこそ目があり、神経があり、頭脳があるのではないか。
Photo by Will-travel(CC BY-NC 2.0)
背後にものを知らない子ジカをしたがえて、母ジカが飛び跳ねていくのを見てみよう。この母ジカは子のことしか考えていない。母ジカが足先の力を抜いているのが見てとれる。大きな風倒木を超えるとき、足首の関節から足先を垂らし、手を引き抜いたあとの手袋のようにダラリとさせ、それを保つ。片方のひづめが小枝に当たると、稲妻のような速さで、一瞬のうちに力を緩めるべきか入れるべきか、跳びあがるか落ちるかを障害物によって判断する。そして着地して地面を打つ直前に、有能な後ろのひづめが前方に引き寄せられ、ほんのわずかな瞬間なので目では追いきれないが、足の下の衝撃、それが岩なのか腐った丸太なのか柔らかな苔なのか、触れることで地面の状態を測定する。前足は前方を素早く捉える視力に従って突き出され、着地を確実なものにする。しかし後ろのひづめは、着地の際、降りる場所を自身で見つけなければならない。それを見つける寸前に、また強力な筋力の押しあげの準備をする。
以前にまだ未熟な子ジカが、足を折ったのを見たことがある。また猟犬に追われて足を折り、起き上がれなくなった雄シカの話を聞いたことがある。これは珍しい例だ。驚くべきは、荒野で恐怖に陥ったシカのすべてが、そうはならないことだ。
これは子ジカが自分の頭ではなく、もっと賢い者に従わなければならないもう一つの理由だ。子ジカの小さな足が充分に訓練されるまでは、母ジカが子どもたちが走る道を選ぶ。賢い子ジカは、母親の行った通りに走り、跳ぶ。このことは何故、充分に大きくなってからも、シカたちが一列になって歩くかの理由にもつながる。6頭くらいのシカが、賢いリーダーの進路を踏襲してあとにつづき、足跡を残すとき1本の線となることがある。そうするのは、おそらく一つには、昔ながらの敵であるオオカミ、そして新たな敵である人間をだますため、大きな雄ジカの力強い歩幅やひづめの跡によって、弱者の足跡を隠すことにある。とはいえこれは古くからの習慣で、また子ジカが最初に学ぶ白旗に従う訓練にもなる。
今回の発見のあと、午後になると、子ジカたちの隠れ場所がある湖によく行った。そして母ジカが出てきて、どこに子ジカたちを残してきたか教えてくれるのをカヌーの中で待った。子ジカたちが大きくなり、乳をやる量が増えると、母ジカはいつも腹をすかせているように見えた。カヌーで待っていると、母ジカが湖のところまでそそくさと降りてきて、藪木をカサコソと鳴らす。そして水際の藪木の端から、顔を出す。岸辺が安全かどうかほとんど見もせず、臭いをかぐこともせず、スイレンの葉に飛びつく。ときにわたしのカヌーが丸見えのときもあったが、母ジカは汁気たっぷりの芽に食いつくとき、何の注意も払わず、腹ペコのオオカミのような食欲で夢中になって食べていた。それを見て、わたしはカヌーを出し、母ジカが来た道をたどり、子ジカたちを見つけようと探索に励む。