"Dialogue" by Lincoln Spaulding (CC BY-NC-ND 2.0)
1982年、ハンブルグに着いたわたしは、透き通るほどすり減った運動靴を履いていたことを今でも覚えている。卒論を提出した日に、高田馬場で五百円で買った白い運動靴が、インドを歩き、ユーゴスラビアを歩いているうちに擦り切れ、ドイツに着いた頃には足の皮膚のようになっていた。それに比べて、ドイツ人はみな、どっしりとした靴で足を守っていた。わたしは、不安な気持ちで生活を始めた。
18世紀の日本には、オランダ人にはかかとがない、などという噂を信じていた人がたくさんいたらしいが、ドイツに着いたわたしの関心を引いたのは、足という「中身」ではなくそれを包む靴という「外皮」だった。
ハンブルグに着いた翌日から、早速働き始めたのは、書籍の取り次ぎと輸出をしているドイツの会社だった。ドイツ人にとってはごく平凡な言い回しなどが、わたしの頭の中で次々と日本語に自動的に翻訳され、ナンセンスの世界を作り上げていった。「あの人、頭の中に鳥を飼っているんじゃないの。」「わたし、この仕事でもう鼻がいっぱい。」「あの町は、とにかく夜は死んだズボンだからね。」「駄目じゃない、借りた本にろばの耳を作ったら。」(意味は勝手に想像してください。)
日本語を全くしゃべらないうちに、半年が過ぎてしまった。日本語がわたしの生活から離れていってしまった感じだった。手に触れる物にも、自分の気分にも、ぴったりする日本語が見つからないのだった。外国語であるドイツ語は、ぴったりしなくて当然だろうが、母国語が離れていってしまうのは、なんだか霧の中で文字が見えなくなっていくようで恐ろしかった。わたしは、言葉無しで、ものを感じ、考え、決心するようになってきた。(そんなことは有り得ないと言う人がいるでしょうが、他に言いようがないので。)もちろん、小説を書くどころではない。日記でさえ、当時書いたものを今読むと、意味の分からない箇所がたくさんある。手紙にも、この症状は時々あらわれた。インドで撮った写真を一枚、家に送ったことがあったが、その解説に「野良犬」と書いたので、わたしの家族はとうとうわたしの意識が混乱したのではないかと心配したそうだ。なぜなら、その写真に写っていたのは、誰が見てもあきらかに、通りを歩く豚の姿であって、犬ではなかったのだ。「犬」と「豚」という漢字を取り違えたのか、「犬」という言葉の定義がずれてしまったのか(例えば、犬とは通りをうろつく動物のこと、という定義がいつの間にかできあがってしまったのか)、それとも犬のような豚という言い方の「のような」が思考から抜けてしまったのか、今では思い出せない。
そのうちわたしは、この言葉のない生活をドイツ語や日本語に「翻訳」するようになってきた。わたしが昔使っていた日本語は、一度死んで、別のからだで生まれかわってきたかのようだった。こんな日本語では、変に思われるだろうが、とにかく今わたしの目に見えている世界は、この日本語でないと書けない、と思って書いた『かかとを失くして』が、群像新人賞をもらうことになったのが去年のことだ。
『かかとを失くして』は、かかとのない人間なんていないという気持ちと、かかとなんてなくても立派に暮らせるという気持ちが前提になっている。かかとのない小説が、書きたかった。かかとのない小説とは、自分の関わっている伝統を無視して自由に放浪する文学のことではない。かかとのない文学とは、つまさきが地についているからこそ、絶えずころびそうになっている文学ではないかと思う。そして、ころびそうな人間というのはわたしにとっては、どっしり座りこんでいる人間よりも、ずっと面白い人種なのだ。
時々、駅などで日本人旅行者の会話を偶然耳にして、その話し方がひどく人工的に聞こえることがある。この感じをどう言ったら、うまく表現できるのか分からないが、まるで英会話教室でダイアローグを暗記して、会話の練習をしているように聞こえてくるのだ。みんな、こんな喋り方をして暮らしているのだろうか。ひょっとすると、「自然」「不自然」「うまい」「へた」という言葉は、差別用語ではないのか。これが自然な美しい日本語で、それ以外の日本語は駄目だという言い分には根拠がない。日本語はこれとは全く違った風に書かれたり話されたりしてもいいのではないのか。それが、日本語を使って生きる人達(日本に暮らす外国人や、外国に暮らす日本人も含めて)の生に、より近づくのならば。とにかく、わたしの書きたいものを表現するには、普通の日本語では無理だと感じた。その結果、かかとのない小説が生まれたのだとも言える。
日本人旅行者が話しているのを聞いていて、人工的だと感じるのは、ドイツに来たばかりの頃、ドイツ人の会話を人工的だと感じたのとも似ていた。商談も喧嘩も恋の話も、まるで、芝居の脚本でも読み上げているかのように聞こえることがよくあった。よそ者の目には時々、人の暮らしがフィクションであることが見えてしまう。そんなことを考えながら書いた第二作の『三人関係』も、舞台は東京「のような」町で、語り手は日本人「のような」人だけれども、実はよそ者の文学なのかも知れない。
1999年 青土社刊 多和田葉子著「カタコトのうわごと」より
Copyright 1999 by Yoko Tawada
多和田葉子、ドイツ語と日本語で創作をする作家。1960年東京生まれ。中野、国立で育ち、高校、大学時代は友人と同人誌をつくり小説をたくさん書く。21才のとき、大学(早稲田大学第一文学部)の卒業式にも出席しないで、インドに旅立つ。22才の誕生日には、 酷暑のパトナ駅でボンベイ行きの列車を待っていた。その後、イタリア、ユーゴスラビア(1982年当時の)を通って、最終目的地ハンブルグに到着。ハンブルグに来た目的、あるいは関心事は、母語と他の言語の溝に身を置いてみることだった。現地の書籍取り次ぎ会社で2年ほど働く予定が、ハンブルグ大学文学部に吸い寄せられていった結果、1986年にジークリット・ヴァイゲル教授に出会い、1990年2月に修士論文を書くに至る(ドイツ文学修士)。ドイツで暮らし始めて6年目の1988年、はじめてドイツ語で小説を書く(「ヨーロッパのはじまるところ」英語、フランス語、チェコ語にも翻訳される)。1991年、「かかとを失くして」で群像新人文学賞を受賞。以降、ドイツ語、日本語両方の言語で、それぞれ違う作品を発表しつづける。1993年、「犬婿入り」で芥川賞受賞。1996年、バイエルン芸術アカデミーの、ドイツ語が母語でない作家におくられる「シャミッソー賞」を受賞。ハンブルグに二十数年在住後、ベルリンに移転、現在ベルリン在住。
『カタコトのうわごと』『ヒナギクのお茶の場合』『容疑者の夜行列車』『エクソフォニー/母語の外へ出る旅」『旅をする裸の眼』『アメリカ 非道の大陸』『尼僧とキューピッドの弓』『雲をつかむ話』『献灯使』『穴あきエフの初恋祭り』など著書多数。