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Elephant Stories

サンクチュアリに住むゾウたちの物語

<コラム>

 

ホーソーンのサーカスからやって来た8頭のゾウたち [1]

デビー、クィーニー、ロティ、ミニー(2006年)

2006年、サンクチュアリーは、ホーソーン・コーポレーションから8頭の雌のゾウを新たに迎え入れました。ホーソーン・コーポレーションとは、サーカスに動物をリースするアメリカ合衆国の会社で、ゾウの訓練もしている機関です。サンクチュアリーにとって、ホーソーンからのゾウはこれが初めてではありません。デリーが2003年に、ミスティとロタが2004年にやって来ています。このゾウたちがやって来たのは、USDA(アメリカ合衆国農務省)の長期にわたる調査の結果でした。動物福祉法の違反行為があったからです。何年にもわたるサーカスでの芸の展示と施設への監禁をへて、サンクチュアリーにやって来たゾウたちは見知らぬ環境に接することになりました。広々とした空が頭上に広がり、緑の草原、森に囲まれた丘、いくつもの池が点在する敷地、そして暖房完備のゾウ舎もあります。なかでも重要なことは、ここでは、ゾウたちに1日をどう過ごすかの選択の機会が与えられたことです。

 

ことの背景

 

サーカスのゾウたちの環境や扱いについては、動物福祉団体からずっと疑問をもたれていました。そして1994年、悲劇的な出来事が起き、社会の注目を浴びることになります。ホーソーンが所有する雌のアフリカゾウ、タイクがホノルルのサーカスで芸をしていたとき、ゾウ使いを攻撃しそのままサーカスの外へと逃げ出しました。30分の間タイクは街の中を暴走し、7ブロック先で発見されます。最終的に地元警察の手で取り押さえられ、ホノルル動物園のスタッフによって、タイクは安楽死させられました。事故の全容が映像に収められ、アメリカのテレビ番組で放映されました。なぜ訓練されたゾウが暴れ出すのだろうか、と多くの人が疑問に思い、動物福祉への関心が高まりました。

 

それに加えて、ホーソーンのゾウたちが結核にかかっていることが発見されました。1996年、アジアゾウのジョイスとハッティが死亡、結核菌がその原因とみられました。それに続く調査で、ホーソーンのゾウたちに、結核菌が蔓延していることがわかりました。ゾウたちの相次ぐ結核菌保有の診断は、北米の飼育環境において最初のものとなりました。USDAの指令により、ホーソーンのすべてのゾウが隔離され、治療を受けることになりました。またゾウたちは1年間、路上に出ることを禁止されました。その後の1997年から2002年の間、ホーソーンのゾウたちはアメリカ中を旅してまわりました。しかしホーソーン・コーポレーションは、適切な獣医の検診や健康管理に著しく欠けていることで、たびたび召喚されることになります。

芸をするホーソーン・ファイブ

2003年4月9日、USDAは47件の動物福祉法の違反があることで、ホーソーンを召喚します。ジャーナリストのキャロル・ブラッドリーは著書『Last Chain on Billie: How One Extraordinary Elephant Escaped the Big Top(ビリー最後の鎖:個性ある1頭のゾウがサーカスからどうやって逃げ出したか)』で次のように記述しています。

 

動物の世話について最低限の規則しかない法に対して、長い間批判があった。USDAは、ホーソーンはこの規則にさえ準じていないと発言している。ホーソーンのオーナー、ジョン・クーネオの所有する多くのゾウは、違反の対象である。ゾウ使いたちは、芸を仕込む際に体罰を行使するよう言われていた。ゾウたちはそれに不快感をもったり身体的に傷を負ったりしていた。衰弱しているゾウに医療行為を施さず(ロタ)、深刻な化学やけどを被って細菌感染を起こしているゾウ(デリー)を放置し、何頭もの治療を必要とする(致命的な脚の病気をかかえるビリーを含めた)ゾウたちに手をかけなかった。そして安全性に問題があるのに、一般公開をしていた。

 

2003年のUSDAによる告訴は、長期にわたる捜査の結果で、次の訴訟手続きは長い時間がかかると思われました。デリーは身の安全を守るため、即座の行動が求められ、USDAに没収されました。デリーには深刻な病気がいくつかあり、たとえば長期にわたって固い床で暮らすことで起きると考えられる足皮膚炎、骨関節炎(脚や関節を襲う炎症性の病気)があげられますた。また片方の脚は、ホルムアルデヒドの純液に浸けられたことで、ひどい薬物性の火傷を負っていました。申し出によれば、誤った脚の治療をしようとして起きたことだ、ということになっています。デリーの名前は、USDAの起訴申し立ての中で何度もあげられていました。サンクチュアリーはデリーの受け入れを承認しました。

左:サンクチュアリー到着後すぐのデリー(2003年)  右:竹を食べるデリー(2004年初め)

デリーはUSDAによって初めて没収されたゾウで、2003年11月23日にサンクチュアリーに到着しました。Q エリア(隔離エリア)で必要とされる期間過ごしたのち、翌年にはアジアゾウ居住区に移ります。2、3ヶ月かけて自分のペースで居住区を探索し、他のアジアゾウたちといっしょに過ごすようになりました。ライブカメラがデリーが池で泳ぐ様子や、 タラやシャーリー、ウィンキー、シシー、ジェニー、バニーたちとともに草を食んでいるところを捉えています。

タラ、デリー、ウィンキー、シシー(2004年)

2004年3月、ホーソーン・コーポレーションはUSDAとの合意に達しました。ホーソーンは残りのゾウをの権利を放棄し、USDAが認める適切な施設に送ることになります。またホーソーンは20万(約2000万円)ドルの罰金を支払うことになりました。16頭に及ぶアフリカゾウ、アジアゾウの雄雌の行き先を見つけ出すのは、容易な仕事ではありません。サンクチュアリーには雌のゾウ2頭を受け入れる余裕がありました。2004年11月、デリー到着から1年後、ロタとミスティがサンクチュアリーにやって来ました。両者とも結核菌の陽性反応がありました。2頭は隔離エリアに送られます。虐待に抵抗するゾウのシンボルだったロタは、到着したときから健康状態が非常に悪く、2ヶ月半後に死亡しました。検死結果で、結核が死因であることがわかりました。

ロタとミスティ(2004年)

サンクチュアリーは必要とされるゾウ舎がまだ整っていませんでしたが、残りの11頭の雌のゾウの受け入れを申し出ました。現在のゾウたちのために、新たなゾウ舎を建てる計画が進み、それによりホーソーンのゾウたちは、隔離エリアで適切な期間を過ごしたのち、古い方のゾウ舎に入れるようになります。新しいゾウ舎の建設は、サンクチュアリーの支援者たちや動物保護団体の寄付によって賄われました。2005年末、ゾウ舎は完成しました。

 

この間、サンクチュアリー、USDA、ホーソーンの3者間契約はまだ進行中でした。時期を経て、ホーソーンは9頭の雌のアジアゾウをサンクチュアリーに送ることに合意しました。スー、ミニー、ロティ、クィーニー、リズ、デビー、ロニー、フリーダ、ビリーの9頭です。ジョイはオクラホマの絶滅種避難所へ、1993年生まれのロニーの子ども、雄の子ゾウのニコラスはカリフォルニアの演芸動物福祉救済組織に送られました。雌のアジアゾウ、ジプシーはニコラスといっしょにカリフォルニアに行くことになりました。スーは、残念なことに、サンクチュアリーに輸送される前に死亡しました。

 

デリーも含めた「アジアゾウの当初からのメンバー」は、ホーソーンからのゾウたちを迎え入れるために、2006年1月、新しく建設されたアジアゾウ舎のある敷地へと移動しました。

デリーとミスティ(2006年)

ミスティは隔離エリアでの結核菌治療を終えたあと、新しいアジアゾウ居住区に合流しました。サンクチュアリーの片端からトレイラーに乗ってやって来たミスティは、車両から降りるとすぐにデリーの方に歩み寄りました。鼻と鼻をからみ合わせ、臭いを嗅ぎ合い、旧交を温めました。

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