トピック: 7-5 序章
そうして新しい春が来ってきた。
しあわせ色に彩られた吉田山は
もう狂い咲きじゃなかった。
桜色の街角の雪洞が春待ち人たちを甘く包んでいた。
そして、あたしは、
そんな春のある日の午後、
思いがけない言葉に山を降りることになった。
「おれの家にこのまま君がいたら、
おれは新しい人生を歩けない。
誰にも気兼ねなく自由でいたい。
おれをまた殺さないでくれ」
あたしとスティーヴンは、
けっきょく、友だちにはなれなかった。
おれ、おれ、おれ。
いつもおれがいちばん大切。
なんだ、スティーヴン、
あのシカゴの時と同じだよ。
燃え上がる炎にサヨナラしたのは、
「晶」もだったんだ?
「今ぼくが一番気になるのは君」だなんて、
お役目ご免で廃棄されたの?あたし。
真如堂の鐘つき堂から一年、
あたしがずっと願い続けたこと、
ちがう、あたしだけじゃない、
JJ、ロラン、
スティーヴンの生死のイベント、
彼が死ぬこと、生き続けること、
だからあたしたちはひとつだった。
なのに、
あたしがいること=死?
胸に突き刺さったナイフが抜けないまま、
だけどあたしはあの小雨の日とおなじように、
それからすぐに吉田山を下りた。
あたしたちの繋いだ指がぱらぱらと
嘘みたいにほどけて、
彼は生きることへと解き放された。
それからもあたしとは友だちでいたいなんてスティーヴンは言って、
ときどき土曜の午後を一緒に過ごしたりした。
吉田山の家でふたりで食事をして、
また前のようにこの家で暮らせるんじゃないか、
なんて、あたしが錯覚しそうになると
「わるいけど、もう帰ってくれないか?一人になりたいんだ」
あたしは溜まらなくなって泣きながら自転車で下りて行く。
そんなふうに歯車のずれたあたしたちは、
もうどうしようもなかった。
「don’t worry, let it be」
ロランはウィンクしただけで、
それ以上はなにも言わなかった。
そうしてあたしたち、
それぞれの道を歩き出した。
ロランがどうしてあたしたちと一緒にハワイまでやって来たのか、
スティーヴンがなにかを学んだのか、
あの時のあたしにはわからなかったし、
この先もずっとそれを彼らに尋ねることはないと思う。
あの年の春、
雪の上に咲いた桜に脚本家だか監督だかが集めた、
4人のキャスト。
黙ってそこにいる、ロラン。
スマートで誰もに好かれる、JJ。
いつだってオレ、なスティーヴン。
オンナノコと女のあいだ、のあたし。
なんにも特別じゃない、
どこにでもある、
どこにでもいる、あたしたちのちいさな物語。
この広い海の水泡たち。
これから生きてくための、
序章レッスン。
車窓から過ぎ去る景色のように
一瞬一瞬、あたしたちの時は過ぎ去っていく。
ぽんっとどこからか水泡が生まれて消えるように、
あたしたちも生まれた瞬間から
その終りが来るまで、
それが明日かもしれないし100年後かもしれない、
歩いてゆく。
一瞬はすぐに過ぎて、
すべては変わってゆくってこと、
あたしはあの年に、知った。
それからいくつかの季節が流れて、
あたしはアフリカに近い、
キラキラ輝く宇宙船みたいな
丸い沙山の上の街に引っ越した。
ラベンダーやローズマリーの香が漂うこの街は、
吉田山が赤い炎で燃えるころには
春がやって来て、
桜に似た白いアーモンドの花が満開を迎えるんだ。
Bauhausのアパートを囲むレバノン杉。
ベランダのエンジェルがチリーン、
朝の柔らかい風に舞う。
ベッドから抜け出しシャワーを終えると、
キッチンのFMラジオからはDancing Queenが流れてる。
古びたフランス製の冷蔵庫には
昨日のクスクスとなすびのオリーブオイル煮。
透明のガラスコップにお砂糖をたっぷり入れたネスカフェに、
かちゃかちゃ、ミルクを混ぜる。
ベランダから向いの家の庭を見下ろすと
「ボケルトーヴ!これ、取りにおいでよ」
おじさんがご自慢の庭に撓わに実ったレモンを指差す。
さあ、今日も暑い沙漠の一日が始まるよ。
コンピュータをONすると、
「Hi there!」ロランからのメールだ。
うん、彼とは今でも時々メールでチャットしたり、
お椀に帰ったときはお茶したりするんだ。
JJとはほんとうに数年に一度ぐらいメールをしたり、
思い出したように連絡がある。
スティーヴン?
よくは知らない。
ロランが時々教えてくれるけど、
ふーん、って感じかな。
それじゃあ、
あたし、
そろそろ、行かなくちゃ。
またね!