トピック: 7-4 ゴムの木の島—春’97
冷凍庫みたいにクーラーの冷えたタクシーに乗ると
そこは熱帯の国だった。
スティーヴンのremissionを祝って、
2月終わりのカオサンロード。
巨大な蜘蛛の巣のようなバンコックの
ほんの一本の細い短い異空間へと、
「また王様気取りの白人か」
と溜め息まじりの運転手は
新しい高速の料金は別払いだと、
ちょっと気弱げに、
バックミラー越しにスティーヴンに告げる。
「サワディカーッ」
朝の小鳥のようにリズミカルな声が響く。
冷たいマンゴシェイク、
蜜のような露天のパイナップル、
薄暗い安宿、質素なベッド。
ピカピカに磨かれた黒いダイヤル式電話。
天井の大きな羽が重く熱い風をかき混ぜる。
B級ムーヴィーのヒロインになって、
南へ北へ、西へと未知の世界が広がっていたのは
欧州やイスラエルからの旅人の寄せ集めだった
バンコックのこの路地裏、80ズ。
だけど今ではあの頃には見かけなかった
タオル頭のナイーヴな日本の男子学生たちの
すっかり小さなディズニーランド。
あれほどあった安宿もエアコン、お湯シャワー、
インターネットなちょっと成金ペンションに様変わり。
飛び交う言葉はコニチハ、ヤスイヨ。
שלום,שלום
あのポロポロ転がるような中東の言葉も
その文字で掲げられた食堂のサインももう見つからない。
カオサンロードのB旅行会社の前から5時間、
ぎゅぎゅっと詰め込まれたミニバンに揺られ、
ロラン、スティーヴン、あたしは
カンボジアに近い小さな島、
住人は100人ぐらい、
みんな親類だっていったっけ、
マック島で時計も鏡もないひと月過ごすことにした。
島での食事はこんなの。
海で一泳ぎしたあと、バンガローでブランチ。
胡麻が香ばしいバナナフリッター、
なぜだか時々ガーリック味がしたシロップたっぷりのパンケーキ、
タイランドの島々ではぜったいに食べたくなるポリッジ。
甘いジャンクっぽさがたまらないビタミルク。
夕食は、チキンやTofu、レモンバームがふんわり、
ココナッツミルクのタイカリー。
懐中電灯で道を照らしながらヤシの林を抜け、
島にたったひとつのローカル食堂で、
ラジエーターのエンジン音をBGMに、
赤や黄色、原色カラフル、
村祭りみたいな裸電球の下で
辛さに汗を流しながら、
吉田山のいつもの食卓からのブレイクを楽しんだ。
あたしたちのバンガロー村はサンセットビーチにあった。
電気が通わないこのビーチの夜は、
静かだった。
夕暮れに空を見上げれば一筋の紫の光が見えた。
海の上に輝く星は赤や黄色、青やピンクだった。
ヤシの葉のバンガローの蚊帳の中で、
繭のように、
月の明かりに降り止まぬ雨のような波音を枕に眠った。
まばゆい朝の太陽が水面を照らすと、
あたしはすでに汗ばみ出したからだを起こして、
目の前の海のシャワーに飛び込んだ。
大きくゆっくりとスウィングするリズムの、
丸い海。
それは大きなひとつの生命体で、
あたしたちと同じように、たしかに生き物だった。
ロランとあたしは一日中、
泳いだり昼寝をしたり、
若いヤシの木たちがいつもとても楽しそうに
葉っぱと葉っぱでキスしあったり、
風とくすくす、いつも囁きあうのを眺めたりした。
スティーヴン?
カヤックをだったり
ハンモックで本だったり、
壁のない家の時のように自分のことをしていた。
あたしたちは次の日も
そのまた次の日もその次の日も、
同じように太陽と月の傾き、波の満ち引きに合わせて、
とにかく自然のまま、好きなことをした。
サンセットビーチには、
ノースショアと同じようにビーチドッグが3匹いた。
近所のオジさんみたいな顔の柴犬っぽいオトーサン、
片目のオカーサン、
そして彼らのブチのムスメちゃん。
オトーサンはなぜか初めて会ったときからあたしだけだった。
一日中あたしの行くところにはどこでもついて来たし、
毎晩バンガローのバルコニーでしっかり番犬してくれるのも、
オトーサンだった。
その日の午後、
あたしはオトーサンとふたり、
島の反対側のビーチまで出かけようってことになった。
村には一軒のちいさな商店と学校、郵便局、食堂、
それだけだったんだけど、
その向こうへと広大なゴム林の中を一本の赤土の道が延びていた。
ベトナム戦争映画とか
あんなふうなジャングルっぽくて、
どこかにやせ細って目を血走らせた日本兵が隠れていそうで
誰もいないその林の横を歩いていくのはあたし、ちょっと怖かった。
幹の切り込みからだらだら流れる粘りある樹液が
胴を切られて血を流す人のようだったもの。
だけどオトーサンが一緒だったから、
昼過ぎに出かけることにした。
ふたりで水も持たずに歩きはじめると、
風のないゴム林の道は暑くて暑くて、
汗がねっとりと皮膚に絡まって、
咽はヒリヒリ、焼けこげそうだった。
一時間ほど歩くと、ビーチに着いた。
遠浅の、
誰もいないビーチ。
ほんとうに誰もいなくて、
どこまでも浅い青い海と空と、
あたしとオトーサン、ただそれだけ。
あたしは身につけていたもの、
すべて柔らかい砂の上に落とすと、
浅瀬の水の上に横たわった。
焼けた腕にすーっと海が染み込んで、
シルクみたい。
ビロードみたい。
おしりもぷかぷか、
ふたつの胸もぷかぷか、
髪もゆらゆら、からだ中に光を注いで海のマッサージ。
舞い上がった水しぶきが宝石みたいに散らばって、
よーし、
両手を天に向けてジャンプ!
ワオっ!
岸で笑ってるヤシの木たちに手を振る。
オトーサンもおいでよ!
空がオレンジ色に染まり始めて、
そろそろ帰ろうよって、
オトーサンと来た赤い土の道を歩き出した。
歩く度に土ぼこりが舞って、
頭からそれを被ったみたいに煙たかった。
薄暗いゴム林には影がザワザワ騒いでいて、
空には星がいくつも光り始めた。
ようやく遠くに食堂の裸電球の明かりと
ラジエーターの音が聴こえて来たときは、
正直言ってほっとしたんだ。
だって、まるでトワイライトゾーンみたいで、
このままどこかへ彷徨い込んでしまいそうだったから。
ココナッツとカリーの匂いが
たまらなくあたしを刺激した。
裸電球の下で楽しそうな旅行客たちに
「ハーイ」軽く手を降って右に折れて、
ヤシの林の雑草を掻き分けてサンセットビーチの入口まで来ると、
サロンを巻いただけのまるで島の人のロランがいた。
「Ah!
Here you are!
ヤットカエッテキタネ」
その笑い声にスティーヴンがやって来た。
なんだか怖い顔をして。
「Where have you been!!! ドコッ!」
やだなあ、なに怒ってるんだろう?
「あっちのビーチまで、オトーサンとって、
didn’t I say so???」
「バウバウ(言ったぞ言ったぞ)!」
それからロウソクの匂いの彼のバンガローの蚊帳の中で、
オトーサンは入れてもらえずバルコニーで寝そべっていた、
とても怒られたんだ。
ひとりでこんな時間まで!
だけどそれはなんだか一方的で、
くどくど先生に怒られてる生徒みたいで、
あたしは眉毛が繋がるんじゃないかと思うほど、
しかめっ面になった。
「All righty, アキラサン」
病気になる前のスティーヴンみたいに、
ちょっと戯けた顔をした。
「ワタシ マダ ノーゲンキ、アナタ、シンパイ」
あたしは子供じゃないよ?
去年一緒にサメット島に行ったでしょ?
JJは一日中帰って来なかったよね?
あの時、ぜんぜん怒ってなかったじゃない?
「アナタ、JJ,オナジ、アリマセン!
He is a boy, you are a young beautiful girl!
I was worried!
Something could have happened to you!
ワカリマスカ?!」
スティーヴンは溜め息と一緒にあたしの手を取った。
しん、とロウが燃える。
細い雨みたいな波。
夜の島に響く姿の見えない鳥の鳴き声。
黒いゴム林。
サワサワ揺れるヤシ。
誰かがなにかが、熱に浮かされたように歩き回る。
「キミハ、ワタシノ、イチバンノキョウミ、デス」
「あらヘンテコな日本語」
ぷっ、と吹き出したあたしを
スティーヴンの細い長い汗ばんだ2本の腕が包んだ。
決して温かい腕じゃないけれど、
それからあたしたちは、キスをした。
そんな日々がとても馴染んだハンモックみたいになった頃、
月がまた細くなって、
カレンダーの写真が変わって、
ジープで波止場へ向かうあたしを
オトーサンは彼のテリトリーのギリギリまで追いかけて、
八の字に歪んだ眉毛のサヨナラだった。
「これでお別れなんて、いやだよ」
ほんとうに行かないでくれって、オトーサンは悲しくすがった。
オトーサンが犬になる前、
きっとあたしたちはどこかで会ってたんだね。
「きっとまた、いつか会えるよ!」
赤い砂ぼこりの中に小さくなっていく涙目のオトーサンに
あたしも泣きながらありったけのサヨナラを送ると、
島にたったひとつの小さな波止場からマック島をあとにした。


