トピック: 7-2 うたかたのこと

カーン、カーン、カーン、
庭の芝も林の木々も冷たい朝靄に濡れた朝、4時半。
向こうの方から響いて来る「おきなさーい」の小さな鐘の音。

あたしはその半時間ほど前、
まだ寝ている名も知らない人たちを起こさないように
そろりそろり、泥棒足で部屋を抜け出して、
浴室のちいさなお風呂のひとつにお湯をはると、
静けさが聴こえてくる丹波の林で、
ふーっ、ゆっくりとお湯に体を浸した。
鐘の音を合図に、
寒い浴室で素早く服を着て、帽子をきゅっとひっぱる。
部屋に戻って布団を片付けると2階へ上がって、
男性はあちらの階段から、
そしてあたしたちはこちらの階段、
男女がうっかり接触しないようにね、
その大きな大きなホールの座布団の上で
6時半の朝食までだるまさんになった。

もぞっ、もぞっ、
しばらくして足がじんじん、
暗がりの中で痺れから痛みに変わったそのセンセーションは
折れ線グラフのようにじわじわ、ぎゅーん、
上ったかと思うとすーーーっ、
どこかへと消えてしまう。
そしてまた痒かったり痛かったり眠たかったり、
いろんな感覚が生まれては消えてゆく。
あたしのからだの中はそんなことのくり返しで、
それを見つめているのはとてもおもしろかった。
だってほんとうにそんなこと、
ふつうは気がつきもしないじゃない。
痒かったら掻いちゃうじゃない、
しびれた足はそれから解放されたくて、
往生際悪く動かしてみたりするじゃない。
だけどほんとうはそんなことしなくたって、
自然に変わっていくんだって、
あたしはそれまで知らなかった。

「見る」だけの日の2日目の朝には
夜逃げみたいにこっそりと何人かが消えていた。
いつものことなんだって。
あたしはというと、
こんなふうにずっと黙っているのは平気だった。
むしろこんな楽なことはなかった。
くだらないうわさ話を聴くこともなければ、
うっかりこっちが口走ることもない。
だけど決して孤独なんかじゃないし、
こんなすてきな「話さないディ」が毎月やってくれば
世界もちょっとはましになるんじゃないかってね。

あたしはこの日もあぐらをかいて目を閉じて、
じっとあたしの中を巡る小さなこと、大きなこと、
可能な限り感じられることをじっと追いかけていた。
すると突然、

ぐぃぃぃぃーーーーーっ、

・・・ぽーんっ、

ぐぃぃぃぃーーーーーっ、

眠りへ落ちるところなのか、
それとももう夢の中なのか、
奇妙にもなにかがあたしのあたまを
後ろへ引っ張る。
ぐーん、ぐーん、
あたしはなんども後ろへ引っ張られて、
ハッ!
倒れないように踏ん張った。

ぐぃぃぃぃーーーーーっ、

ネテナイゾ、
ネテナイゾ、
夢ジャナイゾ、

ぽーんっ、

闇。

そこはなにもない真っ暗な世界だった。

上も下も右も左もない空間。
空でも海でもない、
ましてやこの世界でもないところ。
ふわふわふわふわ、
ちいさな無数の細胞たちが、
ミジンコみたいにちいさな細胞のあたしが、
流れているのか浮いているのか、
停まっているのか、
生まれる前みたいな、
いくつものそんな生き物たちが流れて、
裸ん坊の肉体を持たない「意識=あたし」。
そう、そこは宇宙だった。

そして柔らかなひとつの光があった。

ぽーんっ。

あたしはまた肉体といっしょ、ひとつになった。

それからはなにかが開けて、
シンディーとのことも、
スティーヴンのことも、
誰でもなく「あたし」が勝手に思ってることなんだってね、
そしてすべてはそういうことなんだって、
これまでのたくさんのことが浮かんでは流れて行った。

毎日のお昼休みや布団に入る前には、
△△帽子であたしは庭へ出た。
林に囲まれた秋から冬にうつろう庭には
背の低いもみじやちいさな丘、
そして月と太陽と風と水とがあった。
星なしの黒い夜は透き通った月だけが氷のように輝いて、
吐く息も冷たい丹波の夜、
毎晩あたしはその満ち欠けを見上げてた。

JJにもらった白いうさぎみたいな
柔らかいパシミナのショールをぐるぐる巻いて、
あたしは小さな川の、そう、
ひとまたぎほどのその淵にしゃがみ込むと、
ずーっと、
流れ来る水を固まった岩のようになって、
ほんとうにただそれだけをひたすら眺めてた。
子供のころ裏の小川でそうしていたように。

どこからか流れて来て、また流れて、
水は次から次へと途切れることなく、
ただ流れ続け、
ちいさなよどみの渦にくるくるくるくる巻き込まれ、
無数の泡となって、
水の底から浮かんで来てはプチン、
また新しい泡が浮かんで来る。
ぽこぽこ、
きらきらぽこぽこ、きらきら、
ちいさな水の珠。
絡んで絡まって、浮いて沈んで、生まれて流れて消える、
いのちのミルキーウェイ。
いのちの生産工場。

ひとつの泡沫として生まれて、
出口に向かって流れていくだけ。
あたしも生まれて、流れて流れて、
その先の大海へと流れついたなら、
月の明かりがそのすべてを教えてくれるだろう。
だからただ、その時まで泳いでゆくだけ。

「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。
よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。
世の中にある人とすみかと、またかくの如し。(中略)
あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。」
鴨長明(1155-1216)