トピック: 3-2 あたらしい友だち

スティーヴンにはマクロビオティックがよいだろうと
以前からそれに少し馴染みのあったあたしが
毎日の食事を任されることになった。

「じゃあ、皿洗いはぼくが担当するよ」

長い京都生活から学んだ流暢な日本語と
その言語の持つ細やかな気づかいでJJが言った。

ランチのあと皿洗いを終えると、
JJはリビングから左手のベッドルームで、
ベッドに腰掛けながらラップトップを開き、
その隣でなにもしないようで、
実はなにもしないということをしているロラン。
スティーヴンは2階で独りの時間を過ごす。
あたしのdaily lifeのひとこまは、新しい友だちと話すことだった。
そのヤシの木にはまだ名前がなかった。
以前彼女に名前があったのかも、わからない。

 ドッ、
 ドッ、
 ドッ、
 ドッ、

壁のないこの家の庭で、
その新しい友だちはあたしを待っていてくれた。
フリルを重ねたその体を両腕で抱きかかえて耳を当てると、
シューシューシューシューッ!
 
 ・・・温かい。君は一生懸命、生きてるんだね。

上へ下へ右へ左へ、
まるであたしの体内を迸る濃く赤い血のように、
エナジーが彼女の全身を駆けめぐっているのが、
聴こえた。
彼女を抱くと、
そこに生命が走りめぐっているのを知った。
 
 わあ、雨!

島ではときどき夕方になるとスコールだった。
そんな時あたしはキッチンから飛び出して、
彼女をぎゅーっと抱えると、
雨の嫌いなあたしですらもスコールは気持ちよかった。
スコールの時も、青空の時も、
彼女はずっとそこにいて、あたしには彼女の言葉が聞こえた。
そしてこの家にいるあいだ、
彼女はこの地上の誰よりも、
あたしのはなしを真剣に聞いてくれた。
    
そうそう、
あたしがまだ小学生だった頃にも、
同じように大きな木の友だちがいたんだ。

クスノキ。

その頃あたしが住んでいた金沢という、
そう、マットな銀漆のお盆のような街の、
材木町という城下の小学校の校庭にその木は
父が子供の頃から住んでいた。
その根っこのそばで女の子たちがおままごとをしたり、
誰かが隠しものをしたり、
先生に怒られて泣いてる子がそっと寄り添ったり、
いつも子供たちに囲まれて笑っているおばあちゃんだった。

もう一本のクスノキの周りには、子供は誰もいなかった。
その材木町の学校からそう遠くない城には、
あの街が誇る大きくて立派な庭園があった。
子供が鬼ごっこをしたり、仕事場への抜け道通り道だったり、
今とちがって入園料なんてなく、
街の人たちの生活の一部だったその兼六園という庭園を
広坂へ降りる急な坂道へと抜けると、
ひっそりと、木々に囲まれた野鳥園があった。
クスノキはその木々で薄暗く覆われた野鳥園の
いちばん奥に、
そこの主のように住んでいた。
はじめて両親に連れられてその野鳥園に来た時、
あたしはたくさんの珍しい鳥たちを見たんだ。
檻には『だちょう』や『みみずく』なんてふしぎな、
図鑑でしか知らなかった名前がかかっていた。
その中でも『みみずく』のその大きな目と器用に前後する首が、
あたしにはもうたまらなくおもしろくて、
それからしばらくは家では『みみずく』になって家族を笑わせた。

その年の春から夏のあいだ、
あたしは毎日のようにひとりで坂の途中の野鳥園に遊びに行っては、
大きなクスノキに足をかけてよじ登って、
ずっと風や鳥の羽ばたきに耳に傾けたり、
彼女が枝でそよそよと風を扇いでくれたり、
クスノキとあたしはなんでもがくすくす、楽しかった。

ある日のことだった。
いつものようにクスノキと話をしてから、
あたしは鳥たちの宿舎へ行こうとして園内の、
金沢ではよくある古い西洋風の木造、
その建物の前を横切った。
昔は旧陸軍のオフィスだったと父が言ってたけど、
その時はもう野鳥園の事務所かなんかで、誰もが出入りできたんだ。
それであたしはなんとなく、そのがらんとした建物の中へと入って行った。

木の床の入口の広いホールにはなにもなくて、
ひとつだけ、
近所の八百屋さんとおなじアイスクリームの冷凍庫が
ぽつんと置かれていた。
 
 宝石キラキラのアイス!

あたしは駆け寄って、
冷凍庫の霜でガチガチになったガラス戸の中を覗き込んだ。
その日も日本海特有の湿気がねとねとした、
金沢らしくとても蒸す日だったから、
あたしはアイスクリームを思い浮かべて、
冷たいガラス戸をすーっと開けた。

 「・・・うわっ、うわっ、・・・うーわーっ!!」

すぐさま、あたしは向きを変えて、
運動会だったら一等賞の早さで駆け出した。
後から誰か追って来やしないかって、
もう怖くて怖くて、でも後ろなんて振り向けなかった。
10分ほど、ズックが脱げそうなほど勢いよく走って、
ガラガラーッ、家の玄関を開けた。

「おかーさん!おかーさん!殺人事件!」

ズックを脱ぎ捨てると、
台所できょとんとする母を見つめながら、

「それでね、それでね!
鳥の宿舎のあそこのね!
アイスクリームの冷たい箱に、
そう冷凍庫の中にね!
首が!首がねっ!
ちょん切られてガチガチに凍った、
にわとりの首がぎっしぎしの殺人事件!!」

そう聞いて母は、
なんだ、そういうこと、って、
きっとそれはみみずくだとか
肉食の鳥たちの餌なんじゃないかって。
だけどそれはそれで、またあたしはゾッ!として、
それ以来、あんなに好きだったみみずくのまねもぱったりとやめてしまった。
今でもあの時の、
凍った鶏たちのピンク色の鶏冠と
半透明のまぶたの奥に透けた黒い豆つぶのような、
たくさんの抜け殻みたいに虚ろな目を憶えている。

そうしてあの年の夏は終わりを迎え、
あたしはあれっきりあの誰もいない公園を忘れてしまった。
それから随分と月日が流れ、
あの野鳥園はなくなってしまい、
アイスクリームの箱のあった洋館も森も明るく整備され
広坂の美術館の一部となったそうだから、
友だち、あのクスノキが今もあそこにいるのかは、
あたしにはわからない。
  
    ドクドクドクドク、
    生きなさい生きなさい
    すべては廻る
    生きなさい生きなさい
 
 えっ?
 すべては、廻る・・・?
 ねえ、だけどあたし、
 本当は今とっても辛いの。
 どうしていいのかわからない。
 死ぬってなに?
 生きるってなに?

ヤシの木は言った。
   
    ドクドクドクドク、
    木も人もみな血が流れてる
    ただ最期の瞬間まで生きるのよ
    それだけよ
    辛いことなんてなにもないわ
    痛みなんてすべて通りすぎてゆくの
    よろこびも悲しみもただすぎゆくのよ
    ドクドクドクドク、
 
 みんな通り過ぎてゆくもの・・・?
 だけど、友だちが、家族が、
 大切な人が、
 目の前から消えてしまうなんて、
 悲しみも歓びも過ぎ去るって?
 こんなに辛いのに?!
  
    ドクドクドクドク、
    ほら、大きく深呼吸をしてごらん
    鼻から息を吸って
    鼻から息を吐いて
    ほら、もうなんでもないわ
    みんな生きて、みんな死ぬのよ
    雲のように水のようにどこからか流れて来て
    そしてまたみんな流れて行くのよ
 
    さあ、もう一度、大きく息をして
    吸って吐いて、鼻からもう一度
    ほら、もうこの瞬間は過ぎたの
    ほら、もうなんでもないわ
    ドクドクドクドク、

ロランはベッドの上で、
開いた本の文字の向こうに
まるで母親に抱きつく子供のように
ヤシの木を抱え込んでいるスコールの晶をそっと見つめていた。