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シカゴのブロードキャスター、ブルース・ダフィーが聞く

This project is created by courtesy of Bruce Duffle.

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スティーヴ・ライヒ  * Steve Reich

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Steve Reich: photo by Ian Oliver, 2006(CC BY 2.0)

スティーヴ・ライヒ | Steve Reich

 

ミニマル・ミュージックの創始者の一人と言われているアメリカの作曲家。1936年10月3日、ニューヨーク生まれ。両親はともにユダヤ系。1988年作曲の『ディファレント・トレインズ』は、幼少期に離れて暮らす母親に会うため、たびたびニューヨークからロサンゼルスへ汽車の旅をしたことが発想のもとになっている(Wikipedia 日本語版)。ユダヤ人である自分が、当時もしヨーロッパにいたら、違う列車(強制収容所行きの)に乗っていたのではないか、そうライヒは考えた。今回のインタビューで話題の中心となった『The Cave』は、テーマとしても手法としても『ディファレント・トレインズ』につづく作品と見ることができる。

(the original text of the interview in English)

1985年のインタビューのちょうど10年後の1995年、ブルースはシカゴを訪問したライヒに再度インタビューを試みています。当時49歳だったライヒは、今回のインタビューでは1年後に60歳を迎えるというタイミングでした。60歳になることを喜んでいるかと聞かれ、「ここまでの道のりの運の良さを神に感謝しなくちゃと思う」と答えています。インタビューでは、新しい作品『The Cave』を中心に、ビデオ・アーティストのベリル・コロットとの共同作業について、熱を込めて語っています。(葉っぱの坑夫)

ここで話された話題 [ 初めてのオペラ作品/ビデオ・アーティストとの出会い/新作『The Cave』について/エルサレムへの旅/イ短調が響く場所/先人や非西洋から学んだもの ]

このインタビューはブルース・ダフィーのサイトからの翻訳です。

 

<1995年11月9日、シカゴにて>

 

このインタビューは、前回、1985年10月のものからちょうど10年後(正確には10年と1カ月後)に行なわれたものです。そのことをライヒに告げると、覚えているよと返してきました。(ブルース・ダフィー)

ブルース・ダフィー(以下BD):では新曲の『The Cave』のことから話しましょう。あれはどんな風にできた曲なのか、アイディアはどこからやってきたのでしょうか。どれくらいが視覚的で、どれくらいが音楽的なのか。

 

スティーヴ・ライヒ(以下SR):実際のところ、最初のきっかけは『Different Trains*』なんだ。1985年にベティ・フリーマンからクロノス・クァルテット*のために曲を書いてほしいと依頼を受けた。そうしたら1987年ごろに、ビデオ・アーティストのベリル・コロットが「クロノスの曲にサンプリング・キーボードをつかったら。彼らは気に入るだろうし、あなたも使い倒したくなるわよ」とね。それで人々の話し声と楽器がスピーチ・メロディを奏でるというアイディアを、この曲でやったんだ。オペラについては、1970年代の後半と1980年代初頭にホーランド・フェスティバルとフランクフルト・オペラから作品の依頼を受けたんだけど、断っていた。

*Different Trains:弦楽四重奏とテープ音楽による三楽章からなる楽曲(1988年)。クロノス・カルテットの演奏でリリースされ、翌年(1990年)グラミー賞最優秀作品賞を受賞。(Wikipedia 英語版)

*クロノス・クァルテット:現代音楽を専門とするアメリカの弦楽四重奏団。1973年に結成され、以来サンフランシスコを拠点に、メンバーを変えながら現在に至る活動を続けている。アルヴォ・ペルト、スティーヴ・ライヒなどの作曲家に、600曲を下らない新作委嘱をしている。(Wikipedia 日本語版)

 

BD:どうして?

 

SR:何であれ、オペラを書くことにまったく興味がなかったからね。舞台でベルカントで歌って、オーケストラはオーケストラピットで演奏するっていうやり方は笑っちゃうし、まったくよくないよ。グルーチョ・マルクスもそう言ってたと思うけど。

*グルーチョ・マルクス:アメリカのコメディ俳優。1890~1977年。マルクス兄弟の一人。

 

BD:で、作曲家として、ふさわしいものではないと。

 

SR:そう。

 

BD:いまオペラを見にいって楽しんでる人々にとっても、ふさわしいものではない?

 

SR:いいや、そうじゃない。わたしが楽しめないのに、人を楽しませるようなものを作れるだろうか、ということだけど。わたしは人を退屈させたくはない。で、頭をかきかき、こう言うわけだ。「おかしなことだな。あっちでもこっちでも、わたしに大きなチャンスを与えてくれる人たちがいて、何かアイディアがあるはずだと言う」 驚いたことに、『Defferent Trains』を進める中で、こう考えはじめた(特にこれを最初に提案してくれたのが、ビデオ・アーティストだったからね)。もしわたしが使用する声の主を視覚的に見せることができるなら、インタビューされる人は大きなスクリーン上に映されて、同時に音楽家たちが、人々が話している言葉を演奏するわけだ。舞台の上のミュージシャンとビデオで映されたインタビューの間で起きる相互作用を楽しむことができる。

 

それで、ああー、「開けゴマ!」ってね。これが音楽劇、オペラの世界への入場許可証になったんだな。さあ、それでオペラに戻って、いろいろ話したいというのであれば、わたしはクルト・ヴァイル*を見たり聴いたりすることで、たくさんのことを学んだと言いたいね。わたしのは彼のような音楽ではないけどね! ヴァイルはブゾーニの生徒だった。かれは政治的な関係から「the divas du jour(今日の歌姫)」をもつこともできた。ベルリン・ドイツ・オペラでも、何であれ欲しいものを手にできた。でも彼はこう言ったんだ。「いや、ちがうちがう、わたしのオーケストラはバンジョーとサックスとトラップドラムス*からなる。で、歌手についてはこの女性がいる。彼女はうまいわけじゃないけど、いい具合にハマると思うよ」

*クルト・ヴァイル:ドイツの作曲家。1900~1950年。ブレヒトが台本に協力した『三文オペラ』が有名。晩年はアメリカでも活躍。

*トラップドラムス:胴体部分のないドラムス。通常は音が小さいので練習用としてつかわれる。

 

BD:(笑)

 

SR:結果は最高、そのオーケストラと声による音楽は、ワイマール共和国*を包みこむ名作となった。だからその後の音楽劇やオペラの楽曲をやるなら、ここから学ぶことができるし、実際はそれより前からも学べる。モーツァルトの時代には、35人の楽器演奏者の中で聞こえる声が求められた。それは今、軽いオペラ歌唱と呼ばれるようなものだった。とはいえ、それなりにしっかりした歌声だった。ワーグナーはオーケストラにたくさんの金管楽器をつかって、オーケストラのサイズを増大させた。金管楽器に釣り合うように、もっとたくさんの弦楽器が必要になった。そして莫大な声による演奏もつくられる。音響を増大させる特製のホールが建てられた。当時は前電子増幅の時代だったからね。それによって莫大な音量の音楽が生まれた。そしてこの小さなもの(マイクロフォン)が発明されて、それによって歌のスタイルに大きな変化がもたらされた。中でもポピュラーミュージックの世界でね、ささやくような声で歌うことが可能になった。ビブラートなしで、ビッグバンドでも聞こえるような歌声だよ。

*ワイマール共和国:1919~1933年(二つの大戦の間)に存在したドイツの政体。クルト・ヴァイルは1920年ごろから、音楽家として活躍した。

幼い頃ニューヨークからロサンゼルスへの汽車の旅をしたライヒが、もし当時ヨーロッパで別の列車(ディファレント・トレインズ=収容所行き列車)に乗っていたらと想像したことから生まれた作品。

BD:音楽を聴く人たちが、それぞれ自分のヘッドフォンで聞くようになるという日が来ると、想像してましたか?

 

SR:そんなこと考えたこともなかったよ。それにわたしはテクノ・マニアじゃないからね。(両者、笑)

 

BD:つかえるテクノのすべてを使いたいと思います?

 

SR:いいや、全然。わたしの目的にかなうものだけ使うよ。テクノロジーにおける問題は、それが身のまわりにあるから使ってる、ということじゃないかな。それってうんざりだし、バカなことだよ。わたしのやり方を引用してほしいね。

 

BD:ではテクノがもっと使用可能になっても、あなたのやり方は変わらない?

 

SR:そうだな、イエスでありノーだ。わたしたちは一つのカルチャーに、一つの社会に生きている。バッハはハープシコードのための音楽を書いたけど、それは徐々に音量を上げたり下げたりできる楽器ではなかった。バロック時代の音楽はみんな、「階段状のダイナミクス*」と呼ばれるようなもので、その時代の楽器の傾向だね。ダイナミクスというものがないんだ。ピアノはロマン主義に傾いていく音楽にとって、理想的な音を出せるようになった。実際のところ、ピアノの構造の変化は、ロマン主義音楽の成長、盛況の反映なんだ。わたしにはロマン主義の骨といったものが、どこにもないけどね! わたしにとってヨーゼフ・ハイドンからワーグナーに至る音楽は、すべて興味の対象外だよ。もしそれが明日の朝、すべて消え去ったとしても、気づきもしないだろうね。わたしの音楽への興味は、シナゴーグの詠唱にはじまる。そしてヨハン・セバスチャン・バッハにいって、そこからドビュッシー、ジャズ、そして現在まで飛ぶわけだ。

*階段状のダイナミクス:グラデーションがなく、突然テンポや音量が変化すること。

 

BD:それ、大飛躍ですね。

 

SR:いや、そうじゃない、150年間を省いただけだ。要するに素晴らしき省略だよ。だけどこの社会では、音楽は1750年に始まって、1930年か40年に終わったように思われてる。それって少しおかしいんじゃないかなと。わたしは1200年かそれ以前から1750年までの音楽体系に興味があるんだ。たいした大きな塊があるんだ。そしてドビュッシーに始まる100年に渡る音楽体系の塊がある。思うに、今、作曲家が音楽劇やオペラを書こうとするなら、どんなオーケストラが必要か、一度自分に尋ねてみるのがいい。ヒューストンのオーケストラピットにあるものというのでなく、これから書こうとしているものに、どんなオーケストラが必要かってね。

 

ストラヴィンスキーが『放蕩児の遍歴』を書いたとき、そこにはモーツァルトのオペラについての注釈があった。彼にはそうする必要があった、そうわかったんだ。ジョン・ケージが『ユーロペラ』をやったとき、それは基本的にあらゆる文学作品のパロディーや寄せ集めの作品だったんだけど、ケージはオペラ歌手を集めなければならず、スコアを演奏できるオーケストラを必要とした。わたしはどっちもやらないね。よって、わたしは自分が必要とするものを決める必要があって、その選択は、音楽的なアイディアや物語の性格から生まれるべきものだ。

 

だから『The Cave』では、ヴォーカルのスタイルは、一つは、楽器によって補強される話し声(自然な抑揚によるメロディー)で、もう一つは、古楽と呼ばれている分野でずっと歌ってきた人々、ウェーバリー・コンソート*やポール・ヒリアー*のような音楽集団や音楽家のところで歌ってきた人たちの歌だ。指揮はポール・ヒリアーで、彼は古楽とアルヴォ・ペルト*の美しい音楽の卓越した演奏家の一人で、世界的に有名だけど、ペルトの中にも古楽を反映するものがあるんだ。わたしたちはグレゴリオ聖歌がポップ・ミュージックの店で売られている時代に生きてるんだよね! すごく嬉しいことだね。本物の音楽の真実を反映してるんじゃないかな。

*ウェーバリー・コンソート:マイケル&ケイ・ジャフィーが主宰する、中世やルネッサンスなど初期の音楽を歌うアメリカのグループ。

*ポール・ヒリアー:イギリスのバリトン歌手、指揮者。1949年~。バロック以前の音楽と現代音楽(スティーヴ・ライヒやアルヴォ・ペルトなど)を主なフィールドとして活躍。男声4人でヒリアード・アンサンブルを結成。

*アルヴォ・ペルト:エストニア出身の作曲家。1937年~。ティンティナブリ(鐘の音)様式による独自の楽曲スタイルで知られる。

 

BD:あなたの書く音楽はみんなのためのものでしょうか。

 

SR:みんなのための音楽っていうのはあるんだろうか。ベートーヴェンの音楽だって、みんなのためのものじゃないんだから、わたしがそういう風に書くこともないよ。わたしがやってることを好きな人たちのために書いている。おそらくバロックを好きな人、ジャズを好きな人、ロックを好きな人そういう人だと思う。もしシベリウスやマーラーやジョン・アダムスが心から好きなら、多分、わたしのやってることは好きじゃないと思うね。

 

BD:もし好きだったら?

 

SR:うん、結構なことだね!(両者、笑) だけどあなたの質問に対して、わたしは正直に答えようとしているんだ。話がそれたけど、『The Cave』について考える際の、一般的な背景説明をしていたんだよね。あの作品のオーケストラは、13人の演奏家と4人の歌い手で成り立っている。楽器は2人の木管楽器奏者で、その2人が木管楽器をいくつも担当する。ニューヨークからやって来たショーのプレイヤーなんだ。本当なら6人の木管楽器奏者がいる。フルートが2、オーボエが2、クラリネットが2とね。それに弦楽四重奏。さらに三つのキーボード、2台のピアノにサンプラーが1台。サンプラーはパフォーマンスのときに、主に弦楽器の音を担当する。

 

BD:あなたは演奏に参加してるんでしょうか?

 

SR:『The Cave』では演奏はしてない。わたしはミキシングをやっていて、どんな風に聴衆に音が届くか見極めている。

 

BD:それはパフォーマンスではない?

 

SR:そう言う意味では、確かにパフォーマンスに加わっているね。他に何か忘れている?

 

BD:パーカッション?

 

SR:パーカッション! ああ、わたしがパーカッションを忘れるとは。4人の打楽器奏者で、その内の2人はビブラフォンをずっとやってる。他の2人はバスドラム、クラベス*、手拍子、それにコンピューターのキーボードでタイピングもする。そういったことを担当してる。この作品はシカゴ・パフォーミング・アーツの招きで、シカゴのシューベルト・シアターで、来年4月にやることになってる。ここ(シカゴ)で演奏されることになって、すごく嬉しいよ。お金のかかるショーだから、あちこち回るのは難しいんだ。ヨーロッパ中をまわったし、あとニューヨークでも、BAM(ブルックリン・アカデミー・オブ・ミュージック)でやった。だけどあれは80年代末、大がかりなオペラが盛況だった頃に着想したもので、先細りになった経済のもと、90年代初期に、なんとか日の目を見たものなんだ。

 

今はやるのがとても難しい。シカゴでは少しサイズを落としたものでやることになっている。そのあとロサンゼルスでもね。ただし写真に見られるような多層的なセットではなくてね。とはいえ歌手も、演奏家も舞台に上がって、スクリーンもセットされて、ツアーができるようになっている。音楽とビデオの関係は、人間同士がやるのに近くなってる。インタビューの場面で、人々がしゃべっているのを見れば、演奏家たちがそれに楽器の音を重ねているのがわかるだろう。あらかじめ録音された弦楽器の演奏によってテンポが与えられて、演奏家はそれに従い、それによってビデオと同期できる。指揮者もそれに合わせて同期できるんだ。

*クラベス:アフリカ系キューバ音楽で用いられる2本の拍子木による楽器。

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From the video "The Cave" by ngncls
Festival Musica: music by Steve Reich, video by Beryl Korot

BD:パフォーマンスはいつも前と同じものになるということですか?

 

SR:テンポについてはそうだね、うん。でもニュアンスや音やフィーリングなどその他のものは、演奏に違いを生む。それぞれが互いに違っている。テープが関わる音楽のパフォーマンスはどれも、必然的にレコードをかけるみたいだというのはバカげてる。テープの部分は同じだけれど、話している声以外のテープの音声は、かろうじて聞こえるだけ。混ざりあっている。あらかじめ録音されている弦のトラックがあって舞台上で鳴る、だからそれを聞く。でも音響的に計れば、おそらく20%くらいの音量だろう。それ以上ではない。だから聞いている音のごく一部なわけ。『Different Trains』は『The Cave』に比べて、パフォーマンスでもっと事前録音がつかわれているけど、とてもうまくいっているように見える。そしてパフォーマンスごとに大きく変化している。

 

同様に増幅させた音は、音響スペースによってとても複雑になる。どんな曲であれ、二つと同じパフォーマンスはない。昨夜、サンフランシスコで、『Electric Counterpoint 』を15人のギター奏者とやった、すべてライブでね、素晴らしかったよ。だからいろいろな方法でやることができるんだ。

 

で、あなたのビデオについての質問にもどると、ベリル・コロットは実に素晴らしいアーティストで、彼女の仕事は1970年代、1980年代初期にニューヨークでたくさん見られた。しばらくの間、彼女は絵画をやっていたんだけど、またビデオにもどったんだ。『Dachau 1974』と『Text and Commentary』の二つが主要作品でね。最初の方は、ミュンヘン郊外の元強制収容所で撮られたもので、あとの方はリンネルで織った五つの布を撮っている。ニューヨークのレオ・カステリ・ギャラリーでの展覧会は、織った布、ドローイング、5チャンネルのビデオから成っていて、ビデオでは彼女が布を織っているところを、ほんの数センチのところから捉えていたりもする。

 

それ以外のビデオは、それぞれ独立してる。五つのTVモニターがすべてダン・ラザー*を捉えているようなやつじゃない。五つのデッキがあって、五つの別々の映像を流してる。この五つのモニターの関係性は、時間の流れとして対位法的*で、カノン*の関係性の中で、似た素材で行なわれる。第1番目と第5番目は似たもので、第2番目と第4番目はほんの少し違う。そして真ん中の一つは他の4台とまったく違ってる。場面転換のタイミングはビデオの中身によっていて、先へ先へと進み、それが一種の語りになっていく。織った布の映像は、少し離れたところから始まって、どのようにして織物が仕上がるのかを見せていく。そして最後は、1本1本の織り糸がまるで墓跡の列みたいにたくさん並ぶのを見る。 

*ダン・ラザー:CBSのアナウンサー。

*対位法:二つ以上の旋律が、それぞれ独立性を保ちながら、並行して進んでいく音楽。カノンはその方法の中で、輪唱のように出発時点がずれて演奏されるもの。

 

BD:どうやったら、このすべてを一度に受けとることができるんでしょう。

 

SR:これは『The Cave』とは全く関係ないものだよ。いま話したのは、彼女が以前にやった作品のことだ。『The Cave』はそこからアイディアをとって、大きなスクリーン上で展開して、全く違うマテリアル(アメリカ人、イスラエル人、パレスティナ人)を劇場に持ち込んだ。少なくとも二つのスクリーンでは人が話している顔が見えている。何かを話している顔のショットだ。それ以外のスクリーンでは、背景の一部が見えている。

 

(CDに付いている印刷物の中身を見せながら)で、ここにはテキサスのオースティンで撮ったホピ・インディアンの子の場面があって、五線譜が書かれた黒板の前にすわってる。ベリルがやったのは、その他の三つのスクリーン上で、その子がしゃべっていることを、五線譜上に(コンピューター 用マウスで)そのとおり書いていくのを撮ることだった。「自分がインディアンであることを知って育ちました。ぼくはホピです。でもアブラハムが誰なのかわかりません」 このようにビデオと音楽(音声)の関係は、すべてドキュメンタリーの中身と関係している。誰かが話すと、二つのスクリーン上にその人の顔が現れる。その他の三つのスクリーンには、その人の着ているものの一部が映される。画家というのは常に、背景にあるものの一部を使うことがとても好きだね。人物の顔が映ってるスクリーンの中の一部が取り上げられて、そのディテールが話している人物の「ミザンセーヌ(演出)」となるわけだ。

 

見ている人はそれがイヤリングであるとか、壁紙の一部であるとか、話し手の隣りにある花瓶の花であるとか、ということにすぐには気づかない。しかし少ししてこう言う。「ああ、あれは◯◯なのね」 場面が進んでいくと、ベリルはもっと 抽象的なやり方をつかっていく。第1幕ではとてもシンプルで、第2幕になると少し抽象的になる。そして第3幕ではかなり抽象的な見せ方だ。しかし彼女が扱っているのは、元の録画の映像からのものなんだ。その録画はサウンドトラックでもあって、わたしは音楽の中で、登場人物たちの話し声をつかっている。だからこれを見るとシームレスで、すべて一元化されている。ジョン・ケージのパタパタしたマルチメディア的なものではないよ! まったく正反対のものなんだ!  一極に集中したもので、五つのスクリーンを一つの形態として問題なく捉えることができる。それは聴衆のことが想定されているからだ。スクリーンのレイアウトはそうなってるし、聴衆のところから見て、充分に離れているからね。

 

BD:あなたの中にそのアイディアが生まれたときというのは、最初に音楽が浮かんでそれからビジュアルなのか、それともビジュアルが来て音楽が来るのか、それともすべて一緒に出てくるものなのか。

 

SR:音楽は言葉から生まれてくる。『Different Trains』でやったのと同じようにね。まず最初にわたしたちがやったのは、第1幕のために、西エルサレムまで行ってイスラエルのユダヤ人の録画をすることだった。それから第2幕のために、東エルサレムとヘブロン(ヨルダン川西岸の街)に行って、パレスチナ人のムスリムを撮り、そのあとニューヨーク市とテキサスまで行って、第3幕のためにアメリカ人を撮った。

 

音楽は登場する人たちのスピーチから取っているので、そして文字通り、彼らの話したことをそのまま使っているから、わたしは楽譜を書くことがなかった。冒頭のパーカッションの部分以外はね。そこはわたしが書いた。

 

6ヶ月のあいだ、わたしはただ座って、うずうずしながら、中東に行って撮影できるだけのお金がたまるのを待っていた。それで家にもどってきて、録ってきたものを隅々まで聴いて、使える部分を探し出し、語りのメロディーがどこにあるか何度も聴いて見つけ、それをピアノで弾いて、楽譜帳に書き出した。そしてやっとのことで、作曲するところまでいったんだ! 起源に関する説明がいくらかあるけど、話し手の言ってることのすべては、スピーチメロディーをとおして受け取る。わたしはそれを書き出して、どんなハーモニーと楽器が可能か、どんな音符になるか、といったことを探り出すわけだ。

 

BD:それがあなたの台本なのでしょうか。

 

SR:そう、正にそれが台本だよ! 台本は基本的に作品が進んでいく中で培養されていく。わたしたちがやっていることの性格上、すべて書き出すことは不可能なんだ。それは書いたものから出てくるんじゃなくて、すべてスピーチ(しゃべり)から来るものだからね。それと関係なくわたしたちが選んだものは、物語を伝える起源の説明だけだね。

 

BD:あなたの音楽的アイディアは、どのスピーチを、あるいはスピーチのどの部分を使うかに影響したんでしょうか。

 

SR:確かにそうだね。スピーチの切れ端を選ぶときに、二つのことをする必要があった。物語を伝えることと同時に、人々の語りを、彼らがしゃべっていることに見合うよう、音楽的な声として、どこに入れ込むべきかを見つけなければならなかった。ある人たちは素晴らしく知性溢れる話をして、とても面白い考えを語るけど、聴くには退屈だった。音楽的な声のトーンじゃなかった。平板で単調なわけだ。その部分はすぐさまゴミ箱行きになったね。prima musica、まずはいい音楽である必要があるからだ。拘束衣*でやる作曲と言えるね。アブラハム、サラ、ハガルといった人の物語を伝えるものを見つける必要があったけど、その内容を伝える声は音楽的でなければならなかった。その上、最初の二つの楽章がイ短調になっているのを見つけたものだから、イ短調になる素材を見つけなければならなくなってしまった。それでいくつもの拘束衣を着て、作曲することになった。だけどそれは、ストラヴィンスキーが言ったように、非常に役立つやり方でもあったんだ。限定的であればあるほど、制限がかかればかかるほど、自由になれる。これにわたしは100%同意するよ。

*拘束衣:他人あるいは自分自身に危害を加える恐れのある者に着用させる、手の指を覆うような長い袖の衣服。(Wikipedia 日本語版、英語版)

The Cave, Steve Reich and Beryl Korot filmd by ngncls 

Festival Musica in Strasbourg, France

ビデオのスピーカーのしゃべりが、音楽で追走されているのがわかる

BD:これはいつ初演されたんでしょうか。

 

SR:1993年の5月に、ウィーン芸術週間*で初演された。

*ウィーン芸術週間:毎年5月、6月、ウィーンで数週間にわたって催される世界各国からの舞台芸術祭。1951年に始まった。

 

BD:先週イスラエルで起きた事件*のせいで、聴衆への影響力が変わっていくんじゃないかと。

*事件:1995年11月4日に起きた和平反対派のユダヤ人青年によるラビン首相の銃殺。

 

SR:いや、作品は作品だ。『魔笛』はドイツの状況が変わったからといって、変わるだろうか。作品は作品として終わってる。完成している。出来上がったものだ。

 

BD:でもあなたの作品は、この対立を扱っていますよね。

 

SR:イツハク・ラビン*の死を扱っているわけじゃない。どんな意味でも形でもね。あれは恐ろしい悲劇だったね。ニュースを見て、中でもラビンの孫娘が語っているのを聞いて、涙が出たよ。『The Cave』がラビンの死に関係しているのは、ビル・クリントンが彼を褒め称えたところだけだ。彼はこう言った。「シャローム、ヘーバー(さようなら、友よ)」 ヘーバー(haver)はヘブライ語でHevronと三つの文字を共有している。ヘブロン*はHebronじゃなくてHevronなんだ。よってヘーバーとヘブロンはどちらも友好のルーツということになる。アラビア語ではハイール(halil)、El Halilになる。街の名前であり、また友を意味する。アラビア語では、アブラハムはハイール・アッラーと呼ばれている。非常に困難で多難な、敵意がうずまく街で、この地域における衝突の場所になっているけど、本当は友好の街なんだ。

*イツハク・ラビン:イスラエルの第11代首相、オスロ合意に調印した功績でノーベル平和賞受賞。和平反対派のユダヤ人青年に銃殺される。1922~1995年。

*ヘブロン:エルサレムの南に位置するユダヤ教・キリスト教・イスラム教の聖地の一つ。パレスチナ自治区ヨルダン川西岸地区南端のヘブロン県の県都。(Wikipedia 日本語版)

 

BD:最終的には友好の街にならないのでしょうか。

 

SR:わたしは預言者じゃないからね。ただのしがない作曲家だよ。だからそれについてはわからない。

 

BD:あなたがしがない作曲家以上であることを願いますけどね。(笑)

 

SR:いや、預言者と比べてということだけど。

 

BD:すべてがうまくいったとき、あなたはこの曲をつくったという役割に満足するでしょうか。あるいはもっと何かしたい? もっと何かできたならと願いますか? あるいはもっとコントロールできていたらと。

 

SR:わたしはどんな人間もがやってきたように、できる限りのコントロールをしてきたよ。あなたの質問の意味がわからないな。

 

BD:きつい制御の中で、あなたがさっき言ったように、さまざまな拘束衣を着て?

 

SR:わたしはそれを選ぶね! それを選ぶよ。誰も『The Cave』をやるように言わなかった。実際のところ、誰もが別のことをわたしに頼んできた。わたしは自分が何をすべきかを正確に選んだし、どのようにやるかを選んだ。わたしは自分が負っている規律に従ってそれをやった。作曲家になることを自分が負っているのと同じだね。自分に課していないこと、規律にないことはわたしはやっていない。運のいいことに、わたしはどこの会社にも新聞社にも、そういったところに勤めていない。だから問題になることはない。

 

BD:そうですか。自分で自分に負わせていることに腹はたたない。

 

SR:たたないよ。

 

BD:この作品に対してよい反応はありましたか?

 

SR:報道資料をあなたは手にしたと思うから、自分でそれを見てほしいし、自分で評価してほしいね。

 

BD:だけどあなたは違った印象を聴衆から得ているのでは? 翌朝に批評家や新聞が読者を誘導するものとはまた違ったものを。

 

SR:この作品はおそらく、30回くらい舞台で見てきたと思う。ヨーロッパ全土で、その後ニューヨークでね。いつも不満げに会場を出ていく人々がいくらかはいる。彼らが期待していたのが『ヴォツェック*』なのか、何を思って来たのかわからない。だけど基本的には、とても肯定的な反応を得たんだ。若い世代の聴衆からは、多くの肯定的な反応があった。それがわたし自身が気づいたことだね。

*ヴォツェック:オーストリアの作曲家アルバン・ベルクによる最初のオペラ作品で、3幕もの。

 

BD:CDで、純粋に音だけで提供されるのはがっかりでしょうか? いつも映像でみるべきものでしょうか。

 

SR:この作品はビデオで見たいと思うし、この先5、6年のうちに、ベリル・コロットが設備を向上させ、この作品をシングルチャネルにして、もっと安価に演奏することができるようにすると思う。いまあるような経済危機がこれ以上広がらなかったら、『The Cave』はいまよりもっと世界中を旅するだろうし、将来については楽観的に考えているね。あらゆる劇場作品、現代作家による多くのオペラは、制作について厳しい締めつけがあることから、下降現象をたどっている。だからビデオに何が起きるかとても心配なんだ。でもあらゆる音楽劇の作品は、音楽の強度によって生死が決まる、ビデオ以上にね。もし音楽がよくなかったら、わたしにとって失敗だ。この作品がそうだとはちっとも思っていないけど、ただわたしよりあなたのような聴き手こそが判断するものだと思うよ。

 

BD:あなたは財政上の制約について何度も指摘しています。少し根本的な質問をさせてください。もし財政上の制約がなかったら、あなたの作品はもっと違うものになるのでしょうか。

 

SR:いや、ちがう、そうじゃない。わたしの言ったことをあなたは誤解してる。わたしのつくる音楽に関して、なんであれ制約はない。わたしの言った制約というのは、劇場で『The Cave』を上演することについてなんだ。

 

BD:それはわかりますけど、もしやる際に、何も問題がないとわかっていたら、、、

 

SR:(言葉をさえぎって)わたしが手をつけたとき、1989年だったんだけど、こういうことが起きるとは思わなかった。何も制約はなかったんだ。わたしたちは驚くようなパフォーマンスをたくさん手にしていた。ウィーン芸術週間でやったし、ホーランド・フェスティバルでもやったし、ベルリンのヘッベル劇場でも、パリのオータムフェスティバルでも、ブリュッセルのモネ劇場でも、ロンドンのサウスバンク・センターでも、ブルックリン・アカデミー・オブ・ミュージックでもやった。欧米のもっとも良い劇場でやったわけだ。作品がしなびることはなかった。わたしには期待があったし、40箇所くらいの海外でのパフォーマンスでは注目を集めた。イタリアでもツアーをやったし、これからシカゴでもやるし、ロサンゼルスにも行くことになってる。そうであっても、もし一つのスクリーンでできるなら、トピーカ(カンサス州の州都)にだって行けるよ。トピーカに持っていきたいね、わたしは欲張りかな。(両者、笑)

 

BD:できるだけ多くの人と作品を分かち合いたい、ということなんですね。

 

SR:その通り! わたしはそうしているよ。他の作品はもっと簡単にそうできるからね。これまで音楽劇を作ったことがなかった。オペラをやろうとする作曲家はみんな、あなたが言うように思ってる。誰もが、自分のオペラ的作品が弦楽四重奏のように簡単に制作できればと思うわけだけど、もちろんそうはいかない、難しいからね。わたしは他の人々がわたしの作品をできるだけ演奏してくれるのを望むよ。他の作曲家もそうだろうけどね!

 

BD:広く流通することは、あなたの未来の作品に、大きく影響しましたか?

 

SR:確かに、そのとおり! わたしは実際的な音楽家で、いつもそうだった。ご存知のように、わたしはパフォーマンス・グループの一員で、この録音にも入っている。わたしは他のアンサンブルのグループともたくさん仕事をしてきたし、ツアーをするときの現実にとても注意をはらってきた。木管楽器の演奏者たちは、一人で重複して楽器を扱うんだ。そうすればツアーのとき、4人とか6人とかではなく、2人で済む。

 

さらにこう言える、18世紀に戻ってヘンデルの『メサイア』を一部始終見るなら、その時代には多くの人が全く同じ認識をもっていた(誰が街にいて、誰が病気で、誰が誰をもう好んでいないなどいった)。こういったことが音楽の発生以来、音楽に影響するわけだ。それは音楽というのは、人々が集まって、一緒に演奏することだからだ。

 

それはさておいて、ベリルとわたしは1997年にやる新しい作品に取り掛かろうとしている。ボン市とケルン市から委託されたもので、一つのスクリーンでやるつもりなんだけど、それは旅をするのに都合よく、永続性があるからなんだ。二つ以上ではそのどっちもない。だから制約は彼女の方にあって、一つのスクリーンで対位法的なビデオをつくることを、彼女はしなければならない。運良く、いま彼女は多くのビデオをコンピューターで、つまりデジタルでやっているから、複数のレイヤーや複数の事象を一つのスクリーン内で処理することができる。増大させたものをフィルムに変換することができる。一つのスクリーンに収めた上で、彼女の仕事とわたしの仕事の間の基軸になる関係をたもてる。つまり対位法的な映像と、対位法的な音楽がそのままかみ合うわけだ。新たな作品は、何が主題になるかまだわからないけれど、6ヶ月後にはわかると思うよ。それが開始の時期だからさ!(笑)

 

BD:アイディアはやってくると、自信があるんですね。

 

SR:そうだね。『The Cave』は、まさにそんな風だったから。形式上のアイディアが決まって、何についてやったらいいのか、アイディアがなかった。それでミーティングを持って、5分のうちに、「マクペラの洞穴だな! 他にある?」って言ったよ。

Beryl Korot.jpg

スティーヴ・ライヒとベリル・コロット

BD:『The Cave』を書いているときに、木管五重奏であるとか、その他の楽曲のアイディアが浮かぶなんてことはあったんでしょうか。

 

SR:いや、ない、そういう風に仕事をしない。一度に二つも三つもいっぺんいやる作曲家はいるね。わたしはそういうことができたためしがない。わたしは一つの作品を、黙々と、執拗に、ただただやるよ。そしてそれが終わったら、次に取りかかるね。

 

BD:予期しない感じで、ちょっとしたアイディアがパッと浮かぶなんてこともない?

 

SR:いや、ないない。そういう風ではないね。目を閉じるだろ、何も見えないよ。イマジネーションが空っぽだ! (笑)

 

BD:(異を唱えるように)言い出したのはあなた、わたしじゃないですからね! では、つくっている曲を見ているとき、あなたは全体を見ているんでしょうか? それともやっている部分だけを見ているのか。

 

SR:『The Cave』については、そうすることが必要になったし、非常に面白い発見があった。長くて、増長していく曲を書いているときは、ハーモニーに対する耳をつかって作ることになる。わたしは十二音技法やセリエルの作曲家ではない。どのように和声的に統一するかは非常に重要な問題だ。ここでは他の作品にあるような、あらかじめ存在する和声的構造をもつことができなかった。

 

『18人の音楽家のための音楽』は連なるコードで出来ていて、『六重奏曲』と『砂漠の音楽』では和声的骨組みがあった。いわば古典やバロックの楽曲と同じようなやり方だ。パッサカリアなどで使われているね。いずれにしても、ここでは使えなかった。それでわたしは、どこで和声的に進めばいいか、考え始めた。その問いを解決するものは、ドキュメンタリー素材の中にあった。

 

わたしたちがフィールドワークに行ったとき、最終的にエルサレムからヘブロンに行き着いた。簡単ではなかったよ。非常に難しい場所なんだ、そこに行くのは。旅そのものがではなく、イスラエル軍といい関係をもたねばならず、同時にムスリムの聖職者ともそうする必要があった。それをやるのはとても難しいことだったよ!(両者、笑) 

 

最終的にヘブロンに入り、そこで1時間半過ごした。実際に洞窟の真上にあるモスクに入ることが許された。歴史的にいうと、洞窟は4000年前にアブラハムが、妻のサラを埋めるために、ヒッタイト人から買った土地であると言われている。最後にはアブラハム自身もそこに埋められ、息子のイサク、その妻のリベカ、そして孫息子のヤコブ、その最初の妻リアも埋められた。

 

ユダヤ人の神話では、そこはエデンの園への入り口の一つと言われている。またアダムとイヴもそこに埋められているとね。わたしは神話や宗教的な背景をもつ場所についての神秘的な話をたくさん知っている。アブラハムの時代から2000年後、キリストの時代に、ヘロデがすでに著名だったこの史跡のまわりに、巨大な石の壁をつくった。その壁は今もある。唯一のヘロデ朝の建造物だ。エルサレムの西の壁はただ一つ残された壁なんだ。この外壁は四方が無傷のまま残っている。8世紀になって*、十字軍がやって来てビザンチン教会をヘロデの壁の上に建てた。12世紀にはイスラム教徒がやって来て、洞穴の上の、ヘロデの上にある十字軍のものの上にモスクを建てた。それは中東の建築物の典型といえるものだった! この石の中には歴史の重層が見えると思う。

*8世紀になって:「第1回十字軍は、1095年にローマ教皇ウルバヌス2世の呼びかけにより、キリスト教の聖地エルサレムの回復のために始められた軍事行動」(Wikipedia 日本語版)とされているので、「11世紀になって」の間違いと思われる。

 

そしてついにその空間にたどり着くわけだ。わたしたちは洞窟の上に建つ大きなモスクの中にいた。大きなカテドラルと同じように、あるいはその他の宗教的な場と同じように、あるいは列車の駅のように、固く非常に大きな壁面のため、反響がすごいんだ。そこは音調に満ちる場所。音調は、ユダヤの正統派が祈るつぶやきから来ている。ムスリムたちは床にすわって、コーランを読んでいる。イスラエル兵がその間で、おしゃべりをしている。この音の波のすべてに注目すると、このつぶやきの声は、部屋の共鳴によって増幅されているのがわかる。そしてこれがイ短調であるとわかった。それでわたしは自分に言い聞かせた。第一幕はこの部屋の場面で終わるとね。CDで聞くと、この美しいつぶやき声はイ短調だとわかるだろう。わたしはこれを弦楽器とバスクラリネットで増強している。

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Muslims pray, in January 2014
Photo by بدارين (CC BY-SA 3.0)

​​モスクで祈るムスリムたち(イスラム教の区画)

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Jewish bride praying at the site before her wedding, 2010

Photo by אני (CC BY-SA 3.0)

​結婚式の前に祈るユダヤ人女性(ユダヤ教の区画)

SR:第二幕はまたこの場で始まる。ここはユダヤ人とムスリムが大きなあつれきを共にもつ地上で唯一の場所、それでもなお、同じ屋根の下でともに祈りを捧げている。だからストーリーにおいて、この場所に行くのは正しかった。この部屋には両者のつぶやき声がある。そしてアル=アクサー・モスクのムクリ(弟子の前でコーランを詠む人)を録画した。第二幕は彼のコーラン朗唱ではじまる。わたしたちは仲介者をとおしてこれをアレンジした。そして彼が物語を語れるよう、スーラ(コーランの中身)のリストをつくった。彼は朗唱をはじめた。聞けばわかるけど、驚くべき声の持ち主だ。そしてなんとそれはイ短調だったんだ。こう思ったよ、わたしはここで何かお告げを受けている、とね。(笑)

 

で、わたしは物語を告げるスピーチの断片を見つけることになった。それはメロディーとして生き生きしていて、イ短調へと向かうか、イ短調で語られるものだ。第一幕ではこれがはっきりと聞き取れる。イスラエルの学者ノウリ・サイモンのスピーチで、イ短調でイシュマエル*について話している。素晴らしい話ぶりで、また音調的にも美しく、アーチを描くものだ。イシュマエルは作品の冒頭で紹介され、もう一度そこに戻り、そしてアブラハムの死の朗唱へとイ短調で導かれる。このイ短調のつぶやきは長いトニック(主和音)のカデンツ(終止形)を生み出す。この長い楽曲の終わりにこれが必要になる。

*イシュマエル(アラビア語ではイスマーイール):アブラハムの長男。

 

だからあなたの質問への答えは、イエスだ。わたしがいつもやっている方法とは違うものを見つけなければならなかった。いつもは何かする前にピアノにすわってこう言う、「そうだな、ここから始めよう、それであっちに行って、それからここに戻ってくると」 わたしは通常、アーチの連続をつくるのが好きで、それは和声的に構成される。だけど『The Cave』ではドキュメンタリーの素材が、わたしにこう告げるわけだ。「いいかな、いまイ短調にいるだろ」 第3幕に入れば、アメリカにはCave(洞窟)はない。洞窟はあの恐ろしい虐殺*が起きるまで、知られていなかった。わたしたちが行った1年あとに起きた事件なんだ。アメリカでは誰もあの洞窟のことは聞いたことがなかった。だから第3幕をイ短調で終わらせるのは、不適当だった。スピーチの多くのカデンツが、ハ短調に向かっていた。この関係性は面白いものだ。曲はハ短調に行ったんだ、そして『The Cave』の終わりはハ短調で終わった。

*あの恐ろしい虐殺:1994年にマクペラの洞穴で起きた大量殺人事件。ユダヤ教徒とイスラム教徒の祭日が重なった時期に、入植地に住むアメリカ出身の極右思想の医師により、パレスチナ人のイスラム教徒が29名殺害された。

 

BD:あの場所のすべての響きがイ短調だったとは!

 

SR:あー、それは場所のせいだよ。間違いなく場所なんだ。建築物によるもので、ある空間でホコリをたてて音波を見ると、音波はまっすぐ進んで壁に当たる、そして次の壁に跳ね返る。壁と壁の距離によって、そして床に対する天井の形によるもので、すべて建築的な原理なんだ。その音響特性が、ある周波数を促進する。均等に当たって増強されることで、音波はあるべき長さになる。もし均一に当たらなかったら減衰して、反響しない。

 

BD:場所だけのことなんでしょうか。

 

SR:何か神秘性を感じたいなら、それも結構、わたしはそういう思いも演出したいね。ただわたしは音響を提供しているだけだ。物理的な実体を提供しているわけで。実際のところ、物理的構造によって、マクペラの洞穴、ヘブロンのあの場所の上にあるモスクの共鳴振動数はイ短調になっている。誰もがあの場所で何か話したり、言ったりすることができて、それはイ短調にいつもなるんだ。永遠にね、あの建物が崩れ落ちるまでは。それは壁であり、空間であり、建物の物理構造によるものだからだ。

BD:音楽の目的とはなんでしょう。

 

SR:そういう質問には答えられないよ。あなたがわからないのなら、自分の今いる業界にいるべきじゃないよ!(笑)

 

BD:自分にとって何かはわかってますよ。ただあなたにとってどうなのか、興味があるんです。

 

SR:わたしはそういう風に考えたりしない。こんな風に考えてみよう、もしわたしが作曲家でなかったら、何をしていいいかわからないよ。生きることにおいて、作曲が意味するのと同じようなことは、他にないんだ。J.S.バッハの言葉に置き換えてみよう。彼は音楽の目的は神の栄光のため、そして音楽を愛する人々の精神を活気づけるもの、と言った。とてもいいと思うね。わたしもそう思うよ。

 

BD:すごくいい手本ですね、J.S.バッハとは。

 

SR:いや、それがわたしが好きな彼の発言だということ。

 

BD:他にバッハを手本にすることはあるんでしょうか。

 

SR:先人から学ぶことはできるし、バッハはそのリストのトップにいると思うよ。わたしの『テヒリーム』のとき、『キリストは死の縄目につながれたり』をたくさん聴いたし、その特質に注意を向けた。バッハはトロンバ(バロックの時代の木管ブラス楽器)を重ねて、曲に重厚感を与えている。それでわたしは『テヒリーム』の第一部でクラリネットを重ね、第二部に入ったところでオーボエのダブルに切り替え、さらにイングリッシュ・ホルンを声に重ねている。そうすることで声の性格が変わるんだ。同じ歌い手であってもね。アーチの形式、A-B-C-B-Aは、バルトークの第五と第六カルテットから引いてきた。バッハのカンタータの存在にも気づくだろうし、それより前の時代もだ。ペロタン*からバッハに至る時代のものからわたしが学んだことは、たくさんあるよ。それがわたしがああいった音楽に惹かれる理由だ。そこには技術がある。イソリズムモテット*で、全編がその原理で、声とオルガンによって増強される。それで先に進んでいく。わたしが研究をしている音楽史の時代であり、ペロタンの対位法は、わたしが繰り返し研究したり、学び直したりしているものだ。

*ペロタン:中世西欧の作曲家。12世紀末から13世紀はじめにかけてフランスで活躍した。(Wikipedia 日本語版)

*イソリズムモテット:中世、早期ルネッサンスのポリフォニーによる宗教曲(カトリックのミサ曲を除く)で、一つのまたは複数の声部に、反復するリズムパターンを置くもの。通常テノールがこれを担当する。(Wikipedia 日本語版)

 

いまわたしが書いている曲は、厚かましくも、ペロタンからいただいたものだ。『かしらたちは集いて』と『地上のすべての国々は』の二つの大きな4声のオルガヌム*にたくさんの時間を割いていて、どちらもわたしの知る中で、もっとも美しい音楽といえる、まちがいない。彼のオーバーラップするいくつもの声を調べていてね。彼の書く音調の質、素晴らしい才能だね。声と声が縫うように進む。技術的に、わたしがあの時代から学んだたくさんのことと深く関係している。だからイエスだね、わたしはバッハの音楽からもちろん、いろいろ学んだよ。これがなかったら最悪だね。

*オルガヌム:中世ヨーロッパで発達した合唱の技法。西洋音楽におけるポリフォニーの原点とされる。(Wikipedia 日本語版)

 

BD:音楽が一周するということでしょうか、音楽のスタートした地点へと。

 

SR:そうね、音楽はJ.S.バッハよりずっと前に始まっているよ、グレゴリオ聖歌よりずっと前、シナゴーグ聖歌よりずっと前にね。どこから始まったのか、わたしにはわからない。その時代にいなかったからね。でも西洋で音楽史に記録されている限りでは、信じられないくらい音楽の宝庫といえる。西洋の外においても同様にね。わたしは運よくアフリカで研究することができたし、アメリカでバリの音楽を学ぶこともできた。ヘブライの聖歌をニューヨークとエルサレムでもね。自らの研究をつづけ、自分の愛するものを追求することは、年を重ねていくのに素晴らしい道だと思うね。自分の仕事をうまく進めるにもいいことだと思うよ。

 

BD:年を重ねると言いましたが、今から1年後、あなたは60歳になるんでしょうか。

 

SR:60歳、その通り。

 

BD:60歳になろうとしていることを喜んでいますか?

 

SR:自分がとても幸運だと感じているよ。まわりを見まわして、ここまでの道のりの運の良さを神に感謝しなくちゃと思う。手にしたものに見合う価値が、自分にあることを願っているよ。そしてこのまま続けていければいいね。うん、わたしはとても恵まれていると思う。

 

BD:音楽の未来に対して、楽観的でしょうか。

 

SR:今わたしたちは、とても暗い時代に生きている。だからバカにでもならない限り、完璧に楽観的になるのは難しいね。でも音楽に関して言えば、わたしたちは今、世紀の終わりに立っている。多くの人々、そして多くの作曲家たち(わたしはそうじゃないけど)は、世紀末活動で忙しくしているね。音楽のすべてを学ぶのにとてもいい時期だけど、そこから引用したり、焼き直ししたりするのは、意味がないと思う。作曲家の中にはそれをうまくやっている人たちもいる。ストラヴィンスキーがジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ*の作品を取り上げたのは素晴らしい。でも他の者たちが取り上げた以前の作曲家の作品は、あまり面白くはないね。

*ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ:イタリアのオペラ作曲家。1710~1736年。オペラ『奥様女中』や聖歌『悲しみの聖母』などで知られる。(Wikipedia 日本語版)

 

BD:これからの若い作曲家に何かアドバイスはありますか。

 

SR:何を言うことができるかな。自分の音楽の演奏にかかわること。実質的にかかわることが大切だと思う。大変なことだけどね。彼らはわたしとはかなり違う時代を生きている。わたしが1950年代末から60年代にかけて学校に行っていたときは、音楽を書く方法として、一つのやり方があった。セリエル*による作曲法だ。わたしやわたしと同世代の者をとおって、今は良くも悪くも、とても多元的になっている。おそらくいい方じゃないかな。「新ロマン主義」と呼ばれるものをみんなはやっている。いくらかはセリエルの人も残ってるね。初期のミニマリスト的な人もたくさんいる。当然ながらロックンロールやジャズの影響を受けている人もいっぱいいるね。若い作曲家が、ポピュラー音楽に強い関心を寄せていないのを見つけるのは難しい。それは、非常に簡単に手に入るからだよ。だけどわたしから彼らに言えるアドバイスはないと思う。一対一で、面と向かっての方がいいんじゃないかな。

*セリエル:音列主義とも呼ばれ、戦後に十二音技法から発展した。一連の音高、リズム、ダイナミクス、音色、その他の音楽要素によって秩序づけられる作曲法。(Wikipedia 日本語版、英語版)

 

BD:一対一で、こうしてわたしとまた会っていただいて、ありがとうございます。

 

SR:ありがとう。

​​スティーヴ・ライヒのインタビュー Part 1 (1985年10月)を読む

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